第162話 束の間の帰還
邯鄲を離れて西へ向かってから数日、隣を進む王離の様子が少しずつおかしくなった。
馬上ではいつも通り背筋を伸ばし、行軍の速さについてこられないわけでもない。しかし休憩に入るたび食事へ手を伸ばすのが遅くなり、肉を炙る匂いが流れてくると、何気ないふりをしながら口元を押さえることが増えていた。
「王離、具合が悪いんじゃないか?」
「大丈夫です、扶蘇様。少し胃が疲れているだけだと思います」
「昨日もそう言ってたよ」
「昨日よりは良くなっておりますから」
そう答えた直後、近くで兵が干し肉を火へかけた。
煙に混じった匂いがこちらまで届くと、王離は露骨に顔をしかめて馬から降り、少し離れたところで口元を押さえた。
「……全然良くなってないだろ」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいから、今日は早めに止まろう。医師にも診てもらう」
王離はまだ大丈夫だと言いたそうだったが、自分でもこれ以上は隠せないと思ったらしい。その日は予定より早く宿営し、同行していた医師を呼んだ。
診察は思ったより長く、幕舎へ呼ばれて入った時には、王離は寝台へ腰掛けたまま、体調が悪い時とは少し違う顔をしていた。
「何かあった?」
俺が尋ねると、医師は穏やかに首を横へ振った。
「病ではないと思われます。まだ時期が浅いため断定はできませぬが、御懐妊の可能性が高いかと存じます」
意味を理解するまで、一瞬だけ時間がかかった。
「……懐妊?」
「はい。月のものも遅れておられるとのことですし、今の吐き気や食べ物への反応とも合います。しばらく無理を避け、日を置いて改めて診るのがよろしいでしょう」
医師が退出した後、王離は自分の腹へそっと手を置いていた。
外から見れば何の変化もない。それでも、あの夜から生まれた命がそこにいるのかもしれないと思うと、自然と頬が緩んだ。
「王離」
「はい、扶蘇様」
「嬉しいな」
もっと気の利いたことを言えればよかったのだろうが、出てきたのはそれだけだった。
王離は少し驚いたように俺を見た後、腹へ添えた手をそのままにして微笑んだ。
「私もです。まだ、本当にここにいるのか不思議な感じがいたしますけれど」
「戦場であんな大剣を振り回してた人が、今は子供を守る側になるのか」
「そう言われると急に怖くなります」
「じゃあ、しばらく大剣は禁止だな」
「そこまでですか?」
「そこまでです」
王離は不満そうに俺を見たものの、さすがに本気で反対はしなかった。
◆
このまま咸陽まで馬で行かせるのはやめ、途中の閼与へ寄ることにした。
西趙を預かる王賁がいるうえ、世間では王離は鉅鹿で死んだことになっている。大勢の前へ姿を見せることはできないが、王賁の身近な者だけが出入りする場所なら、身を隠しながら身体を休めることもできた。
事情を聞いた王賁は、娘の顔をしばらく見つめた後、その腹へ視線を落とした。
「そうか」
「はい、母上」
「よかったな」
短く言って王離の肩を叩いた後、今度は俺へ目を向ける。
「扶蘇、こいつはここへ置いていけ」
「そのつもりで寄ったよ」
「なら話は早い。こいつは我慢する場所を間違えるからな。吐き気を隠して馬に乗っていたんだろ」
「母上、そこまで酷くは」
「酷いかどうかを決めるのはお前じゃない」
王離が黙る。
戦場ではあれだけ強い娘が、母親の前では妙に弱い。
「しばらく閼与で休んでくれ。落ち着いたら俺もまた来るから」
俺がそう言うと、王離は少し寂しそうにしたものの、最後には素直に頷いた。
「分かりました。ただ、あまり長く放っておかないでくださいね、扶蘇様」
「約束する」
翌朝、王離を王賁へ預け、俺は少数の護衛だけを連れて咸陽へ向かった。
◆
久しぶりに見る咸陽は、記憶の中より静かだった。
以前は戦の報せが届くたび兵が城門を出入りし、いつ敵が関中へ迫るか分からない緊張が都の中にも残っていた。それが今では商人の荷車や人々の往来の方が目につき、天下の戦が終わっていないことを忘れそうになるほどだった。
宮へ戻ると、最初に出迎えたのは蒙凛だった。
「遅い」
「帰ってきて最初にそれ?」
「だって、本当に遅いんだもの」
口ではそう言いながら、蒙凛は笑っている。
その腕の中には、小さな女の子が抱かれていた。
「蘭、父様が帰ってきたよ」
蘭はすぐには手を伸ばさず、知らない男でも見るように俺の顔をじっと眺めている。
「……忘れられてない?」
「どうだろうね。子供にとっては、かなり長くいなかったから」
「それは悪かったと思ってるよ」
恐る恐る手を伸ばすと、蘭は俺の指を握った。
しばらく指を確かめるように触った後、今度は身体ごとこちらへ傾いてきたので慌てて抱き取る。
「重くなったな、蘭」
「毎日見てれば分かったのに」
「今日は刺してくるなあ」
「今まで言えなかった分だから」
蒙凛はそう言って笑い、俺の腕の中へ収まった蘭の頭を撫でた。
しばらくすると蘭も俺の衣を掴み、胸元へ頬を寄せてくる。
それだけで、燕から戻ってきてよかったと思えた。
◆
蒙恬も、その日のうちに宮へ来た。
「お帰りなさいませ、扶蘇様。御無事で何よりでございます」
「ただいま、蒙恬。関中はどう?」
「大きな問題はございません。北も、かなり静かになっております」
蒙恬が近づいてくると、蘭は俺の腕の中からすぐに祖母へ向かって手を伸ばした。
「ちょっと待って。俺よりそっちがいいの?」
「母様はよく会いに来てるもの」
蒙凛が当然のように言う。
蒙恬は困ったように笑いながら孫を受け取り、そのまま慣れた手つきで抱き直した。
「北は、そんなに落ち着いたの?」
「はい。小規模な騎兵が遠くへ姿を見せることはございますが、大きな軍が南下する兆候はほとんどございません。冒頓が敗れて退いたこともございますが、以前に行った移住がかなり効いております」
蒙恬は北方の地図を広げた。
かつて北地や上郡に点在していた匈奴系の集落は、その多くを趙西部へ移している。以前なら匈奴軍が南へ出れば、同族の集落から食糧や馬、道案内まで得ることができたが、今ではそうした足場がほとんど残っていなかった。
「今の北地には、匈奴の集落はもうほとんどないの?」
「大きなものはございません。完全に人がいなくなったわけではありませんが、騎兵だけで南へ出て現地で補給しながら動くのは、以前より遥かに難しくなっております」
住み慣れた土地から人を動かしたのだから、軽い政策ではなかった。
それでも、少なくとも北辺を匈奴軍の通り道にさせないという目的には効果が出ている。
「今すぐ北へ大軍を出す必要はなさそうだな」
「現状では。もちろん異変があれば、すぐにお知らせいたします」
「ありがとう。しばらく任せるよ」
「お任せくださいませ」
軍事の話をしている間も、蘭は蒙恬の髪を掴もうとしていた。
北方の情勢を話すには、妙に平和な光景だった。
◆
それからしばらく、俺は咸陽で過ごした。
政務は毎日のようにあり、趙や燕、楚と漢の戦況も絶えず届く。それでも夜になれば蒙凛や蘭と食事をし、眠たくなった娘を抱く時間を取ることができた。
閼与からも王離の様子が定期的に届き、体調は安定しているという。本人からの文には、王賁が食事から睡眠まで何にでも口を出してくると丁寧な言葉で愚痴が並んでいたが、母のそばへ残ったことを後悔している様子はなかった。
その間も、南の戦は決着しなかった。
項羽と劉邦は広武で向かい合ったまま互いに決め手を欠き、小競り合いが起きても戦線そのものは動かない。楚も漢も大軍を抱えたまま時間だけを費やし、その状態が続くにつれ、最初は一時的な睨み合いだと思われていたものが、いつしか長い膠着として受け止められるようになっていった。
やがて、広武で両軍が対峙し始めてから一年近くが過ぎた。
その均衡が破れたという報せは、広武からではなく、南の九江から届いた。
◆
その日、俺は蒙恬と関中の兵糧について話していた。
宮の外から慌ただしい足音が近づき、ほどなく泥にまみれた伝令が通される。
「扶蘇様、南より急報でございます」
「広武で何かあった?」
「いいえ。九江にございます」
その地名を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
「韓信か」
「はい。漢将韓信、楚将曹咎の軍を破りました。曹咎は戦死し、楚軍は大きく崩れております」
俺はすぐに地図を引き寄せた。
曹咎は韓信を倒すために置かれた将ではない。四万を率いて道を塞ぎ、五万の韓信を九江へ縛りつけることこそが役目だった。
その曹咎が、動かされて負けた。
「どうやって?」
「詳しい経緯までは、まだ。ただ、韓信軍はすでに北へ向かっているとのことです」
地図の上で九江から北へ道を辿る。
その先には楚の後背地があり、さらに進めば彭城がある。
一年近く保たれていた均衡を最初に壊したのは、広武で向かい合う項羽でも劉邦でもなかった。
南で機会を待ち続けていた韓信が、ついに道を開いた。




