第161話 咸陽へ
燕を離れると決めても、すぐに全軍を南へ向けるわけにはいかなかった。
臧荼が秦へ降ったことで大きな戦は収まりつつあったが、冒頓は北へ退いただけで生きており、匈奴の軍そのものが消えたわけでもない。主要な城と街道には秦兵を残し、北辺の守りを燕軍へ引き継がせながら、何かあれば邯鄲へ報せが届く形を整える必要があった。
そのため、俺が先に南へ戻る一方、楊端和と黥布には当面こちらの軍を任せることにした。
そしてもう一人、燕に残る者がいる。
羌瘣だった。
◆
「本当に置いていくのか」
寝台へ身体を預けたまま、羌瘣は不満そうに俺を見た。
傷は塞がり始めているとはいえ、失った血は多く、少し長く起きているだけでも顔色が悪くなる。軍医からも長距離の移動は止められており、まして馬に乗せるなど論外だと言われていた。
「その身体で邯鄲まで来る方がおかしいだろ。急いで戻る必要もないんだから、しばらくここで治してくれ」
「荷車なら乗れる」
「揺られて傷が開いたら、助けた意味がなくなる」
「過保護だな」
「野犬に囲まれて倒れてた人に言われたくないよ」
羌瘣は露骨に顔をしかめた。
「それ、いつまで言うつもりだ」
「少なくとも、また同じことをする気がなくなるまでは」
「二度もやるか」
返事はいつもの羌瘣らしかったが、無理に起き上がろうとはしなかった。本人も今の身体では剣どころか馬すら満足に扱えないことくらい分かっているのだろう。
「秦兵も残すし、臧荼にも話してある。治るまでは大人しくしててくれ」
「分かったよ。そこまで言われて逃げ出すほど子供じゃない」
そう言ったあと、羌瘣は少しだけ間を置いた。
「北から何か来たら、私にも知らせてくれ」
何を指しているのかは聞く必要もなかった。
「冒頓のこと?」
「あいつに限らない。匈奴がまた動けば知っておきたい」
羌瘣はそれ以上説明せず、掛け布の上へ置いた自分の手を見ていた。
俺も無理に聞かなかった。
「分かった。ただし報せを聞いたからって、自分で北へ行こうとはするなよ」
「まだ歩くのも面倒なのに、どこへ行けるんだ」
「治った後の話をしてる」
羌瘣は俺を見たが、返ってきたのは小さな鼻息だけだった。
その時は、それで十分だと思っていた。
◆
邯鄲へ戻ると、張耳はすでに南の情勢についてかなり詳しい報告を集めていた。
「広武は、まだ動いておりません」
旧趙王宮で地図を広げると、張耳は広武の辺りを指した。
「楚軍は何度か攻め口を変えたようですが、漢軍は高地を守ったままです。漢側からも大きく谷を越える動きはなく、今のところ両軍とも決め手を欠いているようです」
「やっぱり長くなりそうだな」
「少なくとも、明日明後日に決着するようには見えませんね」
張耳の言葉に、隣で地図を見ていた楊端和も頷いた。
「私も同意見です。劉邦が高地を下りない限り、項羽も簡単には崩せないでしょう。楚側にも補給が届いておりますから、どちらかがすぐに飢えて退く状況でもありません」
広武が動かない一方で、斉では田横が匈奴の支援を失い、北からは臧荼、南からは龍且に圧迫されている。九江では韓信の五万を曹咎が四万で抑え、こちらもまだ大きな戦にはなっていなかった。
いくつもの戦線が、互いに相手の出方を待って止まっている。
そんな中、咸陽から一通の文が届いた。
◆
差出人は蒙凛だった。
開いてみると、最初には関中の様子でも軍の話でもなく、娘のことが書かれていた。
『いつまで外にいるつもり? こっちは元気だから心配しなくていいけど、娘の顔くらい見に帰ってきなよ。生まれてからどれだけ大きくなったと思ってるの』
そこまで読んだところで、思わず手が止まった。
続きには、最近は抱けばよく笑うようになったことや、寝返りを打とうとして失敗したことまで細かく書かれている。最後には『戦が動いたなら仕方ないけど、動いてないなら一度くらい帰ってきて』とあった。
「……怒ってるな」
「当然ではありませんか」
横から文を覗いていた楊端和が、何でもないことのように言った。
「扶蘇様は戻られた方がよろしいでしょう」
「でも、南が動いたら」
「その時は我々がおります」
楊端和は地図へ視線を戻した。
「広武は簡単には動きません。斉も九江も、今のところ均衡しております。何か変化が起きてから咸陽を出ても、ここへ戻る時間はあります」
「随分簡単に言うな」
「娘御に顔を忘れられてから戻るよりはよろしいかと」
それを言われると弱かった。
俺が考えている横で、張耳も穏やかに口を挟んだ。
「私も、楊端和将軍の意見に賛成です。趙のことは私に任せていただいて構いませんし、南に異変があればすぐ秦へ知らせます。秦王がすべての戦場へ御自身で立たなければならない状態ではないはずです」
それは、俺自身が作ろうとしてきた形でもあった。
秦王がその場にいなければ動けない軍や国にするつもりはない。趙には張耳がおり、燕には臧荼を残し、関中は蒙恬へ任せている。
なのに、自分だけがいつまでも「何か起きるかもしれない」という理由で地図の前から離れなければ、任せた意味がない。
「……帰るか」
口にすると、楊端和が僅かに笑った。
「それがよろしいかと存じます」
◆
ただし、咸陽へ戻る前に一つだけ決めておきたかった。
俺は楊端和と黥布、それに張耳を改めて集め、南の地図を広げた。
「俺がいない間に、どこかが大きく崩れたら動いてほしい」
黥布が地図を覗き込む。
「どこかって、どこだよ」
「斉でも九江でも広武でもいい。ただし、楚が危なくなった時だ」
張耳がこちらを見た。
「楚を助けるのですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「今は劉邦に項羽を潰させたくない。逆に楚が漢を飲み込むようなら話は別だけど、どこかの戦線が崩れて楚全体が危なくなった時は、秦と趙の軍を動かして支えてくれ」
楊端和はすぐには答えず、地図上の広武から九江、さらに斉へ目を移した。
「どの程度まで介入いたしますか」
「楚の領土を取りに行く必要はない。崩れた戦線を支えて、漢に一気に吞み込ませないところまででいい。詳しい判断はその時の状況を見て任せる」
「随分と大きな裁量をお預けになりますね」
「だから三人に話してる。楊端和一人で決めず、黥布と張耳にも相談してくれ」
「俺までか?」
黥布が自分を指した。
「戦の話なら頼りにしてるよ。政の話まで任せる気はないけど」
「一言余計だ」
張耳が小さく笑った。
「承知しました。趙軍を動かす必要が生じた場合には、楊端和将軍と連絡を取ります。ただ、できれば秦王がお戻りになるまで何も起こらないことを願いたいですね」
「俺も同じ気持ちだよ」
韓信が動けば九江が崩れるかもしれず、田横が思い切った手を打てば斉も変わる。広武も今は止まっているだけで、項羽と劉邦がいつまでも谷を眺めている保証などない。
それでも、何かが起きるまで俺がここで待つ必要はなかった。
◆
咸陽へ戻ることを伝えると、王離も同行することになった。
もちろん、表向きには王離という名で帰ることはできない。
鉅鹿で死んだことになっている以上、今回も深く兜を被り、王氏の一兵として俺の護衛へ混じる。大剣だけはどう隠しても普通の兵には見えなかったが、今さらそれを言っても仕方がなかった。
「扶蘇様、本当に私までご一緒してよろしいのですか?」
「何で駄目なんだ?」
「いえ、私はこのままこちらに残るものと思っておりましたので」
「楊端和も黥布もいるし、しばらく大きな戦もなさそうだからね。それに、俺だけ帰ったら蒙凛に何を言われるか分からない」
王離は兜の奥で少し笑った。
「では、私も覚悟しておきます」
「何の?」
「蒙凛様に叱られる覚悟です」
「何で王離まで叱られるんだよ」
「扶蘇様を長く連れ回した共犯と思われるかもしれません」
「連れ回したのは俺の方だろ」
そう話しながら出発の準備を進めていると、少し離れたところに楊端和が立っていた。
兵の配置を確認しに来ただけなのだろうが、いつもより口数が少ない。
「じゃあ、後は頼む」
俺が声をかけると、楊端和はすぐに姿勢を正した。
「お任せください。何かございましたら、すぐに咸陽へ使者を送ります」
「無理に全部自分でやろうとするなよ。黥布もいるし、張耳にも頼んである」
「承知しております」
返事はいつも通りだった。
ただ、俺たちが馬へ向かって歩き始めても、楊端和はその場を動かなかった。
「何だよ、その顔」
横から黥布が声をかけた。
楊端和が眉を寄せる。
「何のことだ」
「王様が帰るのがそんなに寂しいなら、一緒に行けばよかったじゃねえか」
「誰が寂しいと言った」
「言ってねえから面白いんだろ」
黥布が笑うと、楊端和は冷たい目を向けた。
「お前を南の斥候に出してもいいんだぞ」
「急に権力使うなよ」
「戦の話なら頼りになるそうだからな。存分に働いてもらおう」
「おい、それを今使うのは卑怯だろ」
後ろから聞こえてくる二人の声に振り返ると、黥布はまだ何か言っており、楊端和は面倒そうに追い払っていた。
それでも一度だけ、こちらへ視線が向いた。
目が合うと、楊端和はいつものように軽く頭を下げた。
俺も片手を上げて返し、そのまま馬へ乗った。
咸陽へ帰るのは、考えてみれば随分久しぶりだった。
蒙凛が待っている。
娘もいる。
そして隣には、深い兜で顔を隠した王離が馬を並べている。
南の戦況を気にしながらではあったが、俺たちはひとまず邯鄲を離れ、関中へ向かう街道を西へ進み始めた。




