第160話 広武の先
広武で楚漢両軍が向かい合ってから数日が過ぎても、戦線はほとんど動かなかった。
項羽は東広武の高地から何度も地形を見直し、正面だけでなく南北へ回り込める道まで斥候に探らせていた。しかし、広武澗から枝分かれした谷や崩れた斜面が周囲の高地へ深く食い込み、大軍を動かそうとすれば、結局は限られた登り口へ兵を集めるしかない。
その中でも比較的斜面の緩い場所が見つかると、項羽は桓楚を呼び寄せた。
「五千を持て。ここから上がれ」
桓楚は谷底から続く斜面を眺めた。正面の崖ほど切り立っておらず、途中までは馬でも進めそうに見えるが、高地へ近づくにつれて傾斜がきつくなり、上から攻撃を受ければ身を隠す場所も少ない。
「高地まで取りますか?」
「無理なら戻れ。どこまで進めるか確かめればいい」
翌朝、桓楚は盾を持たせた兵を先頭に谷へ下ろした。
楚兵は狭い谷底を進み、やがて斜面へ取りついた。足場は悪いものの登れないほどではなく、半ばまでは大きく隊列を乱さず進めたが、高地の縁に漢兵の姿が並んだところで状況が変わった。
「盾を上げろ!」
桓楚の声とほぼ同時に、頭上から矢が降り始めた。
楚兵も斜面から射返したものの、下から放った矢は高所へ届く頃には勢いを失い、柵や盾の陰にいる漢兵へ十分な損害を与えられない。反対に、上から放たれる矢は斜面へ密集した楚兵へ次々と落ち、さらに石まで転がされ始めると、倒れた者が後続の足場を塞いで隊列そのものが詰まり始めた。
高地までは、目で見ればあと僅かだった。
だが、その僅かな距離を登るために失う兵が多すぎる。
「退け。盾を残しながら下がれ」
桓楚は無理をせず兵を退かせ、漢軍も高地を下りて追撃してくることはなかった。
項羽は一度の失敗で諦めず、翌日には別の斜面を試し、その次には北側へ兵を迂回させ、さらに夜陰に紛れて少数の兵を登らせた。しかし、灌嬰と曹参は軍が通れそうな道へ兵を置き、見張りを絶やしていなかったため、どこから仕掛けても高地へ届く前に足を止められた。
逆に漢軍も、谷を越えて東広武へ攻め込もうとはしなかった。
両軍が互いの陣へ向かって矢を射かけることはあったが、谷を挟んだ距離では届いたところで威力が乏しく、時折負傷者を出す程度で戦況を変えるほどのものにはならない。目の前に敵がいるにもかかわらず、楚も漢も決定的な一撃を加えられないまま時間だけが過ぎていった。
項羽は崖際から対岸を睨んだ。
楚軍にも兵糧は届いており、東から続く補給路はまだ生きているため、今すぐ退かなければならない理由はない。それでも、追い続けてようやく捕らえかけた劉邦が、深い谷の向こうに陣を構えたまま動かないという状況は、勝敗とは別のところで項羽を苛立たせていた。
「一年か、二年か。それとも、あの男はここで何年でも私と向かい合うつもりなのか」
傍らにいた桓楚は答えず、対岸へ目を向けた。
漢王の旗は、今日も同じ場所にはためいていた。
◆
劉邦と項羽が広武で向かい合っている。
その報告が燕へ届いた時、俺は地図の上に置いた指をしばらく動かせなかった。
臧荼が秦へ降ったことで燕の大半は落ち着き始め、匈奴も北へ退いている。羌瘣はまだ療養を続けているものの一命は取り留め、北で続いていた戦いにもようやく終わりが見え始めていた。
その間に南では、妙に見覚えのある出来事が重なっている。
劉邦は滎陽で包囲され、影武者を使って脱出し、そのまま広武へ入った。今は深い谷を挟み、項羽と互いに攻めきれないまま睨み合っているという。
細かく見れば、俺の知っている流れとはかなり違っていた。
本来ならこの時期まで生きていた者がすでに死に、逆にもっと早く消えていたはずの者が別の立場で残っている。本来とは異なる戦場にいる者もいれば、そもそも俺の知る時代には存在しなかった勢力まであり、楚と漢のどちらにも、いるはずの者といないはずの者が入り混じっていた。
それでも、滎陽から広武へ至る大きな流れだけを見ると、不気味なほど似ている。
俺は地図へ指を置き、滎陽から広武へ辿った。
俺が知っている歴史では、この先から項羽の状況が少しずつ苦しくなっていく。
背後を荒らしたのは彭越だった。楚の補給路を繰り返し脅かし、前線へ兵糧を送り続けることを難しくしたことで長い対陣を支えきれなくなり、やがて項羽と劉邦は天下を分ける形で講和へ向かう。
その後、劉邦は退く項羽を追った。
韓信らの軍も加わり、最後に楚軍が包囲された場所へ指を動かす。
垓下。
項羽と劉邦の、最後の決戦の地だった。
けれど、今の天下にはその道筋を同じ形で辿るための条件が揃っていない。
彭越はもういない。あいつは俺が殺した。
韓信も五万を率いて九江にいるものの、曹咎の四万に北への道を塞がれている。今のままなら、俺が知っているように大軍を率いて劉邦へ合流することはできない。
そして何より、俺自身がいる。
視線を地図の北へ移すと、秦があり、その傘下に趙があり、今では燕も加わっている。本来なら楚と漢が天下の大半を奪い合っていた時期に、その北側にはまったく別の大勢力が残り、俺自身が軍を率いてそこにいる。
それなのに、二人は広武まで来た。
俺はもう一度、指を広武へ戻した。
ここまで似たのなら、その先にも垓下が待っているのだろうか。
そう考えた時、初めて地名の先にあるものまで思い浮かんだ。
項羽の死。
地図の上に置いていた手が止まった。
俺は本当に、それを望んでいるのだろうか。
秦を滅ぼしたのは項羽たちであり、今後も秦と楚の利害が食い違う可能性はいくらでもある。軍を率いる者として見れば危険な相手で、敵になればこれほど厄介な存在も少ない。
けれど、これまで一度でも項羽に死んでほしいと思ったことがあったかと考えれば、答えはすぐに出た。
そんなことは一度もなかった。
項羽とは何度も話し、同じ敵を相手にし、互いの都合が重なる時には手を組んできた。項羽の方も俺を敵とは考えておらず、少なくとも今の関係を言葉にするなら、盟友と呼ぶのが一番近い。
その相手が、このまま俺の知っている結末へ向かうかもしれない。
そう考えた途端、何もしないまま燕に留まり続けることが、急にひどく落ち着かなくなった。
「南へ動かれるおつもりですか」
向かいから声を掛けられ、顔を上げると張良が立っていた。
俺は地図を閉じず、そのまま首を横へ振った。
「まだ、そこまでは決めてない。ただ、燕を離れようと思う」
張良はすぐに返事をせず、地図の北側へ目を向けた。
「冒頓は北へ退きましたが、生きています。匈奴の軍も消えたわけではありませんし、東では田横が斉で戦いを続けています。燕王臧荼も秦へ降ったばかりですので、この時期に王が離れることには危険もございます」
「分かってる。ただ、俺がここにいなければ全部崩れるような形にしたくないから、臧荼を燕王として残したんだ」
燕を完全な直轄地に変え、秦軍だけで支えなければ維持できない土地にしてしまえば、今後も何か起こるたびに俺自身が動かなければならない。王を残した以上、任せるべきところまで抱え込むつもりはなかった。
「どちらへ戻られますか。咸陽まで?」
「いや、邯鄲にする」
燕にも近く、南の楚漢にも今よりは近い。広武の情勢が大きく動けば、そこからさらに南へ向かうこともできる。
張良は俺の指先を追い、やがて静かに尋ねた。
「項羽を助けるためですか」
「そこまでは分からない」
そもそも助けるような状況になるとは限らない。
彭越がいない以上、楚の補給が俺の知る形で崩れるとは思えず、広武の対陣がそのまま講和へ向かう保証もない。項羽が先に劉邦を崩す可能性だって残っている。
それでも嫌な予感だけは消えなかった。
「ただ、もし本当に項羽が追い詰められた時、俺が燕にいたから間に合わなかった、というのは嫌なんだ」
張良は俺を見た。
「楚王は、秦を滅ぼした側の人間です。いずれ王と争う可能性もございます」
「知ってるよ。それでも、まだ敵でもない相手を、いつか敵になるかもしれないという理由だけで見捨てる気にはなれない」
項羽だって、俺が同じ状況に陥れば見捨てないのではないか。
確証があるわけではないが、少なくとも今までの項羽を見てきた俺には、そう思えた。
張良はそれ以上反対せず、燕に残す兵と移動の準備について話を切り替えた。
「羌瘣将軍はいかがされますか」
「まだ馬には乗せない。軍医と相談して、身体に負担をかけず邯鄲まで運べるなら一緒に戻す。無理なら、回復するまで安全な場所に残ってもらう」
「では、燕王臧荼にも北辺の警戒を改めて命じ、秦軍の一部を残します」
「頼む」
冒頓が戻ってくる危険も、田横の戦いが思わぬ形で燕へ波及する可能性も消えてはいない。それでも、北に残るすべての不安がなくなるまで待っていれば、南で何が起きても動けなくなる。
俺は最後にもう一度地図を見た。
広武から先に、本当に垓下があるのかは分からない。
ただ、その先にある項羽の死を思い浮かべてしまった以上、もう何も知らなかった時と同じようには燕に留まっていられなかった。
「邯鄲へ戻ろう」
そう告げて、俺は地図を畳んだ。




