第159話 広武
滎陽を抜けた劉邦たちは、夜が明けても馬を止めなかった。
東門の策が露見した後、楚軍の騎兵はすぐに追撃へ移り、その中には項羽自身の旗まで見えていた。数十騎しか連れていない劉邦に迎え撃つ余裕はなく、夏侯嬰は街道を避け、畑や林の間を抜け、時には馬一頭がようやく通れるほどの細道へ入りながら西へ進み続けた。
「まだ来てるか?」
振り返ろうとした劉邦へ、先を行く夏侯嬰が声を飛ばした。
「見る暇があるなら馬を走らせな。転んでも拾ってる余裕はないよ」
「王に対する扱いじゃないだろ、それ」
「王なら自分で落ちないようにしな」
夜通し走った馬は汗に濡れ、息も荒くなっていた。それでも速度を落とせば追手に距離を詰められるため、夏侯嬰は平地を嫌い、丘の間へ入り込んだ道や谷筋を選んで進んだ。
朝になってから、一度だけ追手の姿がはっきり見えた。
遠くの丘を越えた楚騎兵の先頭近くに、長身の女がいる。
「本当に項羽じゃねえか」
「見れば分かるよ」
「紀信があれだけ時間を作ってくれたのに、何で本人がもういるんだよ」
「文句なら捕まってから言いな」
「絶対に嫌だ」
夏侯嬰は広い道を捨て、両側から土壁が迫る細い道へ馬首を向けた。数の多い追手ほど横へ広がれず、先頭しか動けない場所を選びながら進むうち、楚軍との距離は少しずつ開いていった。
昼を過ぎる頃には、背後の馬蹄も聞こえなくなっていた。
「振り切ったか?」
「今のところはね。ただ、ここで休みすぎるのは駄目だよ。項羽なら、あんたが次にどこへ行くかくらい考える」
「分かってる」
劉邦は水を飲み、疲れ切った馬の首を撫でた。
目指す先は広武だった。
◆
広武へ近づくにつれ、土地の姿が変わっていった。
平地は次第に途切れ、黄土の高地へ大小の谷が深く食い込み、その間を細長い尾根が繋いでいる。一つの高みから隣の高みがすぐ近くに見えても、間に谷が入れば真っ直ぐ進むことはできず、大軍が通れる道は限られていた。
その高地の一角へ登った時、劉邦は眼下に並ぶ倉を見つけた。
「……何だ、これ」
敖倉だった。
もともと大量の穀物を蓄えるための倉群だったが、漢がこの一帯を押さえてからは、蕭何が西から送らせた兵糧まで集められている。倉には穀物だけでなく、兵へ配るための人員や荷車まで残されており、軍が戻ってくればすぐに使える状態になっていた。
「蕭何、怖いな」
「何が?」
夏侯嬰が聞き返す。
「俺が負けるところまで考えてたってことだろ、これ」
「あんたが勝つことしか考えないから、蕭何が負けた後まで考えてるんだよ」
「本人がいないところで二人して酷くない?」
「この兵糧見てから言いな」
劉邦は倉から視線を外し、高地の縁へ馬を進めた。
足元の斜面は途中から急に落ち込み、その下へ細い谷が走っている。大軍が正面から押し寄せようとしても、登ってこられる場所は限られ、上から弓や槍を浴びせれば守る側が圧倒的に有利だった。
「ここを守るぞ」
夏侯嬰も崖下を覗き込んだ。
「平地で項羽を待つよりは、ずっとましだね」
「やっと逃げる以外の話になったな」
「ここを作ったのはあんたじゃないけどね」
「少しくらい褒めろよ」
◆
最初に到着した大軍は、灌嬰の三万だった。
成皋にいた楚王が偽物だと見抜いた後、灌嬰は滎陽へ無理に近づかず、劉邦脱出の知らせを受けると、軍を崩さないまま広武へ進路を変えていた。
「生きていましたか」
陣へ入るなり、灌嬰は劉邦を上から下まで見た。
「第一声がそれか?」
「項羽に追われたと聞いたので」
「あと少し心配してた感じを出してくれよ」
「心配したから三万を連れてきたんです」
灌嬰は到着すると、すぐに騎兵を周囲の尾根と谷筋へ散らし、大軍が通れる道を押さえた。残った兵も登り口や高地の縁へ配置され、西広武の防備は一気に厚くなっていった。
遅れて曹参も二万を率いて到着した。
桓楚との睨み合いから兵を大きく損なうことなく抜き、長い行軍で疲れてはいたものの、隊列そのものは崩れていない。
「随分ひどい負け方したらしいね」
曹参は挨拶より先にそう言った。
「会う奴みんなそれ言うな」
「五万連れて出て、一万八千しか城に戻れなかったんだろ。言われても仕方ないよ」
「もう少し王を労れ」
「倉があれだけあるんだから元気だろ」
曹参は敖倉の方へ目をやり、そのまま南側の道を確認するため部下を連れて離れていった。
滎陽で散った兵が戻るわけではない。
それでも、灌嬰と曹参が別働隊を崩さず残していたことで、劉邦の手元には再び軍らしい数が揃い始めていた。
◆
陳平が到着したのは、さらに後だった。
衣は泥と血で汚れ、連れてきた兵にも負傷者が多かったが、滎陽に残っていた兵の一部をまとめ、楚軍の包囲が薄くなったところへ兵を集中させて突破してきたらしい。
「何人連れてきた?」
「正確な数は後で。途中で散った者もおりますし、こちらへ向かっている部隊もあります」
「お前まで無事でよかったよ」
「それはどうも」
馬から降りた陳平を見て、劉邦は少し迷った末に尋ねた。
「紀信は?」
陳平の表情が僅かに変わる。
「東門で戦いになったところまでは確認しております。その後、楚軍が遺体を丁重に扱ったという話が、逃げてきた者から入っています」
「そうか」
劉邦はそれ以上聞かなかった。
今ここに集まった兵を残すことが、紀信が買った時間を無駄にしない一番の方法だった。
「陳平、休んだら働いてくれ」
「もう働かせるのですか?」
「生きて帰ってきたからな」
陳平は疲れた顔のまま僅かに笑った。
「なら、休む前に一つ。楚軍もこちらへ向かっています」
「やっぱり来るか」
「項羽が諦めると思っていたのですか?」
「少しくらい期待してもいいだろ」
「相手を間違えております」
◆
数日を待たず、東の高地に楚軍の旗が見え始めた。
項声が成皋で率いていた兵も、桓楚の部隊も順次合流し、項羽は兵をまとめながら広武へ進んできた。
だが、楚軍は劉邦のいる高地へそのまま押し寄せることはできなかった。
西広武と東側の高地の間には、大地を深く抉った広武澗が走っていた。
対岸そのものは遠くない。場所によっては人の姿も旗もはっきり見え、大声なら届きそうなほどだったが、その間には急な斜面が落ち込み、谷底へ下りた後には同じだけ険しい登りが待っている。
軍がまとまって越えられる場所も多くない。
そこで項羽は無理に谷へ兵を下ろさず、東側の高地へ陣を置いた。
東広武だった。
漢軍が西、楚軍が東。
互いの陣は見えるほど近いまま、深い広武澗を挟んで向かい合う形になった。
劉邦は灌嬰、曹参、陳平とともに高地の縁まで出た。
谷底から風が吹き上がり、漢の旗を大きく揺らしている。
対岸には楚軍の陣が広がり、その中央から大きな旗が前へ出てきた。
その下にいる女を見て、劉邦は嫌そうに口を曲げた。
「いた」
「見れば分かります」
灌嬰が答える。
「今度は偽物じゃないよな?」
曹参が目を細めた。
「本人でしょう」
陳平も否定しなかった。
項羽は馬に乗ったまま崖際近くまで出て、西広武を見ていた。
成皋の影武者とは違い、後ろへ引く気配がない。それだけで劉邦には十分だった。
「……本人だな」
背後には敖倉があり、蕭何が集めさせた兵糧が眠っている。
左右には灌嬰と曹参の軍があり、陳平が連れ出した兵や、敗走後に戻ってきた者も加わり始めていた。
劉邦は対岸を見たまま口を開いた。
「ここなら、あいつが目の前にいても逃げなくて済むな」
「向こうから来るなら、谷を越えてもらうことになります」
灌嬰が答える。
「こっちから渡る必要は?」
「ない」
劉邦は即答した。
「食い物はある。兵も戻ってきた。項羽が向こうにいるなら、しばらく付き合ってもらおう」
対岸の項羽も、西広武に立つ漢王の旗を見ていた。
追い続けてきた劉邦は、今度は逃げずにそこにいる。
その姿は見える。
だが、その間には深い広武澗が横たわっていた。




