第158話 偽王
滎陽の包囲が続くうち、城内の兵糧は目に見えて減り始めていた。
外では項羽の楚軍が街道と水路を押さえ、灌嬰や曹参も兵を残してはいるものの、救援のため不用意に近づけば、城へ辿り着く前に各個に叩かれかねない。籠城を続ければいずれ食糧が尽き、打って出れば城外で待つ項羽と正面から戦うことになる以上、日が経つほど漢軍の選択肢は失われていった。
「で、何かあるんだろ」
兵糧の帳面を閉じた劉邦は、向かいに座る陳平へ目を向けた。
「さっきから黙ってる時のお前、だいたい碌でもないことを考えてるからな」
「王も私のことがお分かりになってきましたね」
「嬉しくない」
陳平は僅かに口元を緩めると、机へ広げられた城図へ指を置いた。
「策は一つございます。ただ、その前に成皋で我々がどう欺かれたかを思い出していただきたい」
「よりによって今、それを思い出させるのか?」
「項羽は自分によく似た項声へ旗と兵を預け、我々に楚王の本隊が成皋にいると思わせました。その間に本人は別路を進み、王が空いていると判断した道へ先回りした。ならば、こちらも同じものを使えばよいのです」
陳平の指が東門へ移る。
劉邦はその動きを追ってから、嫌そうに眉を寄せた。
「影武者か」
「はい。楚軍へ降伏を申し入れ、漢王自ら東門から出ると伝えます。王らしい姿をした者を漢王の車へ乗せ、旗と近侍まで揃えれば、楚軍の目はそちらへ向くでしょう。その間に王は西門から少人数で抜けてください」
「俺は男だぞ。項羽と項声はどっちも女だったから誤魔化せたんじゃないのか」
「昼間に目の前を歩かせれば無理でしょう。しかし夜なら、最初に見えるのは旗、車、衣装、それに王が普段身につけている冠です。正体を確かめられるところまで近づいた頃には、王が包囲から離れていればよい」
劉邦は腕を組んだまま、しばらく城図を見つめていた。
「影武者になった奴はどうなる」
「捕らえられるでしょう。その後まで助かる見込みは、ほとんどありません」
陳平は曖昧にしなかった。
「誰を使う気だ」
「王と背丈が近く、車へ座らせれば夜目には体格を誤魔化せる者が一人おります」
そこで挙げられた名前を聞き、劉邦は露骨に顔をしかめた。
「紀信か。あいつが引き受けると思うか?」
「思いません」
「だったら何で名前を出した」
「条件に合うからです」
◆
「嫌だね」
呼び出された紀信は、策を最後まで聞いたうえで即答した。
背丈の高い女で、劉邦や夏侯嬰とは、王だの将だのと名乗る以前からの付き合いになる。劉邦が漢王となった後も態度はほとんど変わらず、目の前に本人がいても遠慮する様子はなかった。
「あたしが劉邦の格好をして東門から出て、その間に本人は西から逃げる。正体がばれた後は知らないって話だろ。だったら他を当たりな」
「俺もそう思う。別に紀信じゃなくても」
劉邦が口を挟むと、紀信はすぐにそちらを睨んだ。
「あんたは黙ってな。逃げる本人に言われると余計に腹が立つ」
「俺だって死んでくれって頼みたいわけじゃないぞ」
「でも、やったら死ぬんだろ」
今度は陳平へ顔を向ける。
「戻れる見込みは?」
「まずありません」
「なら嫌だね。男が少ないからって、女がみんな男のためなら喜んで命を投げ出すと思わないでくれ。あたしは劉邦を生かすためだけに、ここまで戦ってきたわけじゃない」
陳平は反論せず、静かに頷いた。
「無理に命じるつもりはありません」
「だったら話は終わりだ」
紀信が腰を上げかけたところで、それまで壁際にいた夏侯嬰が呼び止めた。
「紀信、少し待ちな」
「何だよ。夏侯嬰まで、王への忠義がどうとか言い出す気か?」
「そんな柄じゃないのは、あんたが一番知ってるだろ」
夏侯嬰は机の前へ来ると、城外に置かれた漢軍の駒を指先で示した。
「嫌なら断ればいいよ。ただ、ここで劉邦が捕まれば、外にいる灌嬰も曹参も、漢王の下に集まった軍としてまとまり続けるのは難しくなる。城内の兵だって、降るか散るかして、ここまで残した漢軍そのものが潰れるだろうね」
「だから、こいつを助けろってことじゃないか」
「今の漢が、この馬鹿を中心に集まってるのは事実だからね」
「誰が馬鹿だ」
「今は黙ってな、劉邦」
昔からの調子で押さえつけられ、劉邦は不満そうに口を閉じた。
「男だから守れなんて言ってないよ。王のためなら女が死んで当然だとも思わない。ただ、あんたが一晩だけ時間を買えば、劉邦だけじゃなく、城の外に残った兵まで生き延びる道ができる。それでも嫌なら、私は止めない」
紀信はしばらく夏侯嬰を見つめていたが、やがて椅子へ腰を戻した。
「……ずるい言い方するな」
「昔から知ってるだろ」
「知ってるから腹が立つんだよ」
城図へ視線を落とし、東西の門を見比べる。
「こんな策を考えた陳平にも、ここまで追い込んだ項羽にも、騙されて城まで逃げ戻ってきた劉邦にも腹が立つ」
「俺だけ扱いが悪くない?」
「一番悪いよ」
劉邦が黙ると、紀信は陳平へ手を伸ばした。
「城図を寄越せ。やるなら、一刻でも長く楚軍を騙せるようにする」
誰も喜びの声を上げなかった。
「勘違いするなよ、劉邦。あんたのためじゃない。ここで漢が潰れるのが気に入らないから残るんだ」
「分かってる」
「その顔は分かってないな」
「こういう顔なんだよ」
「昔から馬鹿そうだったもんな」
「こんな時まで言うか?」
「まだ死んでないよ」
◆
夕刻、漢から楚軍へ降伏の使者が出された。
兵糧が尽きかけ、これ以上の抵抗は難しいため、夜半に東門を開き、漢王劉邦自らが降伏するという申し出である。項羽も無条件に信じたわけではなく、他の門への警戒を残したまま東門の正面へ兵を厚く置かせたが、漢王本人が現れるとなれば、どうしても視線はそちらへ集まった。
夜が深まる頃、紀信は劉邦の衣へ着替えていた。
最後に渡されたのは、劉邦が昔から気に入って身につけている竹の冠だった。
紀信は手に取って何度か返し、その軽さに少し眉を上げる。それから内側の空洞を覗き込むと、すぐ横にいる持ち主へ目を向けた。
「軽いな。中も空っぽだし、お前の頭の中みたいだな」
「これから死ぬかもしれない奴が、人の冠を見て最初に言うことがそれか?」
「似てるんだから仕方ないだろ」
紀信は竹の冠を頭へつけ、外套を整えながら磨いた銅板へ自分の姿を映した。
「……思ったよりそれっぽいな。嫌だ」
「俺の方が嫌だぞ。お前が俺に見えるの、何か腹立つ」
「安心しろ。中身まで真似する気はない」
「さっきから俺の頭に厳しすぎないか?」
「今さら気づいたのか」
軽口を交わしながらも、紀信の手は止まらなかった。車へ乗り込む前、劉邦が名前を呼ぶと、ようやく振り返る。
「何だよ」
「……ありがとう」
紀信は露骨に嫌そうな顔をした。
「そういうのやめろ。急に死ぬ奴みたいになるだろ」
「危ない役を頼んでるのは事実だろ」
「分かってるから言うな」
車へ片足をかけたところで、紀信はもう一度振り返った。
「生きて逃げたなら、次はちゃんと勝てよ。こんな格好までして時間を作ったのに、また一万の項羽に追い回されたら許さないからな」
「努力する」
「そこは勝つって言えよ」
呆れた顔を残し、紀信は車の奥へ座った。
◆
夜半、滎陽の東門がゆっくり開いた。
白旗を掲げた兵を先頭に、漢王の旗と車が城外へ進んでいく。紀信は車の奥へ深く腰を下ろし、竹の冠をつけた顔を僅かに伏せ、左右には近侍役と護衛の漢兵が付き従っていた。
同じ頃、西門では、粗末な兵の衣へ着替えた劉邦が僅かな供を連れ、夏侯嬰とともに出立を待っていた。
「陳平は?」
「残った兵をまとめて別に抜けるよ。あんたと一緒じゃ目立ちすぎる」
馬上の夏侯嬰に促されても、劉邦は一度だけ東の方角へ顔を向けた。
「紀信は今頃」
「見るなよ。あの子が作った時間を、あんたがここで潰してどうするんだい」
西門が人と馬を通せるだけ開くと、数十騎が闇の中へ滑り出した。楚兵の見張りは残っていたものの、東側へ兵の意識が寄ったことで包囲には僅かな薄みが生まれており、夏侯嬰は街道を外して畑と林の間へ入り、追手が動く前に城壁から距離を取っていった。
◆
東門から出た車は、楚軍の前で止められた。
周囲を兵に囲まれても、紀信は顔を伏せたまま動かなかった。やがて項羽が馬を進め、車の前まで来ると、ようやくゆっくり顔を上げる。
項羽は一目見ただけで目を細めた。
「お前は劉邦ではないな」
「近くまで来れば、そりゃ分かるだろ」
周囲の楚兵が騒めく中、項羽は車上の女を見上げた。
「名は」
「紀信」
「劉邦はどこへ行った」
「教えると思うか?」
項羽はすぐに傍らの将へ視線を向けた。
「西へ騎兵を回せ。ただし深追いはするな。城から続けて出る者を見落とすな」
命令を受けた騎兵が動き始めても、紀信は表情を変えなかった。
項羽は再び彼女を見る。
「死ぬと分かっていて来たのか」
「そのつもりで来たよ」
「そこまでして、劉邦を逃がしたかったか」
紀信は鼻で笑い、自分で竹の冠を外して車の座へ置いた。
「勝手に忠臣にするな。あたしは男一人を助けたくて死ぬんじゃない。ここで漢が潰れるのが気に入らなかっただけだ」
本人はそう言う。
けれど、死ぬと承知で王の姿を借り、自ら敵陣へ出て主君と軍のために時間を買った女を、項羽には忠臣以外の何者とも思えなかった。
胸の内に、惜しいという感情が浮かんだ。
これほどの女を、ここで殺す必要があるのか。
「紀信」
「何だ」
「降れ」
紀信の眉が僅かに上がった。
「漢を捨て、私の配下になれ。命は助ける」
周囲の楚兵が互いに顔を見合わせたが、項羽は冗談を言っているわけではなかった。
「劉邦のためではないと言うのなら、あの男とともに死ぬ理由もあるまい。お前ほどの将なら、私のもとでも使える」
紀信はしばらく黙っていた。
やがて腰の剣へ手をかける。
楚兵が一斉に武器を構えたが、項羽は片手を上げて止めた。
「返事を聞こう」
紀信は口では答えなかった。
車から跳び降りると同時に剣を抜き、真正面から項羽へ斬りつけた。
普段なら、考えるまでもなく外せるはずの一撃だった。
だが、ほんの僅かに反応が遅れた。
助けようと思った相手が、迷いなく自分を斬ろうとした。その事実を呑み込む一瞬の間に刃が迫り、項羽は身を捻ったものの完全には避けきれなかった。
剣先が鎧の裾を掠め、腿を覆う布を裂いた。
露わになった白い肌に細い傷が走り、そこから赤い血が一筋伝う。
項羽の視線が、自分の腿へ落ちた。
その間にも紀信は止まらず、二撃目を首へ向けて振るう。
刃と刃が激しく噛み合った。
項羽はそこでようやく我に返り、押し込んできた剣を力任せに弾き返した。
車の周囲でも、護衛としてついてきた漢兵たちが一斉に剣を抜いていた。降伏するためについてきた者ではなく、最初から紀信とともにここで足止めをするつもりだったらしく、楚兵の中へ踏み込んで激しく斬り結び、たちまち双方から負傷者が出始める。
「最後まで付き合え!」
紀信の声に、漢兵たちが応じた。
紀信自身も退かなかった。膂力では及ばず、一合ごとに押し込まれながらも、弾かれれば角度を変えて斬り込み、足を払われかければ車輪を蹴って距離を取る。
項羽は二度、三度とその剣を受けた。
「まだやるか」
「聞くなよ」
呼吸を乱しながらも、紀信は口元を歪めた。
「あたしがここへ何しに来たと思ってる」
再び踏み込んでくる。
今度の項羽には迷いがなかった。
剣を正面から受け、そのまま強く押し返すと、紀信の腕が大きく外へ流れた。体勢を戻そうとしたところへ、項羽の刃が振り下ろされる。
その一撃が、紀信の身体を断った。
周囲ではまだ漢兵が暴れていたが、やがて一人、また一人と倒れ、東門前から剣戟の音が消えていった。楚軍にも少なくない死傷者が残り、車の周囲には倒れた双方の兵が入り混じっている。
項羽は血のついた剣を下ろし、倒れた紀信をしばらく見つめた。
「丁重に葬れ」
近くにいた将が顔を上げる。
「紀信だけではない。この者とともに戦った兵もだ。粗末に扱うな」
そう命じて剣を収めた後も、項羽はその場からすぐには動かなかった。
鎧の裾から覗く腿には、細い切り傷が残っている。
白い肌の上を伝う血はすでに止まりかけていたが、項羽の視線はいつまでも、その傷から離れなかった。




