第157話 燕王の選択
冒頓が北へ退いたという報せは、燕の諸城へ思った以上の速さで広がった。
匈奴の騎兵が健在な間は、秦にも楚にも従わず様子を見ていた者が多かったが、単于自身が傷を負って敗走し、楼煩まで討たれたとなれば話は変わる。北から再び大軍が戻ってくる可能性が消えたわけではないものの、少なくとも目の前にいる十万近い秦軍を無視してまで匈奴へ賭け続けようとする者は急速に減っていった。
その中で最も早く動いたのが、燕王臧荼だった。
「降る?」
使者から話を聞いた俺は、思わず聞き返した。
「はい。燕王臧荼様は兵を退き、秦王に臣従する用意があると申しております」
隣にいた張良が使者を見る。
「楚王ではなく、秦王へ?」
「そのように承っております」
それは小さくない違いだった。
この燕で先に匈奴と戦っていたのは楚軍であり、鍾離眜が負傷した後も季布が武陽に残って戦っている。本来なら臧荼が降る相手として楚を選んでもおかしくなかったが、彼女は俺のところへ使者を送ってきた。
理由は、会ってみればすぐに分かった。
◆
数日後、臧荼は少数の供だけを連れて秦軍の陣へ入った。
「燕王の位を捨てろと仰るなら、それまでだ」
挨拶を終えた後、臧荼は遠回しな言葉を使わなかった。
「だが、秦王が趙でなさったことは聞いている。張耳は王のまま残ったそうだな」
「ああ」
「なら、燕にも同じ道があるのではないかと思った」
臧荼が匈奴についたことまで消えるわけではない。ただ、この女を処刑して燕をそのまま秦の郡県へ変えれば、今度は土地の豪族や残兵まで相手にしなければならなくなる。
俺は臧荼を見た。
「燕王の位は残す。ただし、今までと同じではない」
「聞こう」
「他国と勝手に同盟を結ぶことは認めない。大軍を動かす時には秦へ知らせてもらうし、主要な道と北辺には秦軍を置く。代わりに、燕の内政まで一つ一つ俺が決めるつもりはない」
臧荼は少し考えた後、確認するように尋ねた。
「燕そのものは残すのだな」
「残す。その方が俺にも都合がいい」
「随分と率直だ」
「綺麗な理由だけで王を残すわけじゃないからな」
燕を直接支配するには、人も兵も足りない。北では匈奴が消えたわけではなく、西にも南にも問題を抱えている以上、臧荼を王として残し、その上から軍事と外交を押さえる方が今は現実的だった。
臧荼はしばらく俺を見ていたが、やがて頭を下げた。
「ならば従おう。今日より燕は秦王に従う」
こうして燕王臧荼は、楚ではなく秦へ降った。
◆
当然、季布は面白くなかった。
武陽から使者として訪れた季布は、俺の前でも不満を隠そうとしなかった。
「我らは燕軍と戦うためにここまで来た。鍾離眜将軍も、その戦で重傷を負っている」
「分かってる」
「その燕王が、我らではなく秦へ降るのか」
「そうなった」
季布の眉間に皺が寄った。
「楚王は、秦王へ燕での共闘を求めたはずだ」
「共闘はした。でも、燕を楚へ渡す約束まではしていない」
季布はすぐには返さなかった。
こちらにはまだ大軍があり、匈奴を退けた直後でもある。一方、鍾離眜は傷が深く、季布自身も武陽を守りながら消耗していた。
ここで秦とまで戦う余裕がないことは、互いに分かっている。
「燕王臧荼は、この先も燕王として残すつもりか」
「ああ。ただし軍と外交は制限する。北から匈奴が戻ってきた時に、また勝手に手を結ばれても困るからな」
季布は俺から張良へ視線を移したが、張良は口を挟まなかった。
「……楚王へは私から報告する」
「頼む」
「喜ばれはしないぞ」
「それも分かってる」
季布はそれ以上何も言わず、席を立った。
燕の城々も、臧荼が秦へ従ったと知ると次々に態度を変えた。匈奴の駐屯兵が残る北部ではまだ小競り合いが続いていたが、燕王そのものが秦の傘下へ入ったことで、燕の大半は戦わずして俺たちの影響下へ組み込まれていった。
◆
羌瘣は生きていた。
軍医から一命は取り留めたと聞いた時は、それだけで十分だった。
まだ起き上がれる状態ではなく、失った血も多いため、しばらくは療養が必要だという。それでも荒野で野犬に囲まれていた時と比べれば、幕舎の中で眠っている姿を見られるだけでずいぶん違った。
「顔を見るだけにしてください」
軍医にそう言われ、俺は入口の近くから眠っている羌瘣を見た。
傷の処置をした布が脇腹に巻かれ、顔色もまだ悪い。
隣には楊端和がいた。
「まだ目を覚まさない?」
「何度か短く目を開けています。水も少し飲めるようになりました」
「なら良かった」
楊端和は頷き、眠る羌瘣の方へ視線を戻した。
「今度は、起きても無理に馬へ乗せません」
「そうしてくれ。絶対に自分で乗ろうとするから」
「私もそう思います」
それだけ話して、俺は幕舎を出た。
今は生きている。それ以上を急いで求める必要はなかった。
◆
燕の処理を進めている間にも、天下の西側では大軍が動いていた。
項羽が十五万を率いて西進し、劉邦も襄陽から十万を動かしたという報せは、すでにこちらへ届いている。その後、両軍がいくつにも分かれたところまでは分かっていたが、燕にいる俺たちへ届く情報にはどうしても遅れがあった。
「動きますか?」
張良が地図を見ながら尋ねた。
「今から?」
「楚王が敗れれば、漢の勢力は一気に広がります。逆に漢王が大敗すれば、楚王が再び西へ勢力を伸ばすでしょう」
「だからって、今すぐ十万を連れて南へ行くわけにはいかないよ」
臧荼が降ったばかりで、北にはまだ匈奴の残兵もいる。燕の諸城が今日従ったからといって、明日から完全に秦の土地として安定するわけでもなかった。
「今は見る。どちらかに味方する理由もない」
張良は静かに頷いた。
項羽とは敵対していない。
だが、項羽が勝ちすぎることまで俺にとって都合がいいわけではない。
劉邦については言うまでもなかった。
どちらが勝つにせよ、今回の戦いで天下の形はまた変わる。
俺は燕の地図から西へ視線を移した。
「まず、ここを固める。それから考える」
◆
滎陽では、劉邦が城壁の上から増え続ける楚軍の旗を眺めていた。
最初に現れたのは、五万の漢軍を粉砕した項羽の一万だった。その後から四万が合流し、さらに東に散っていた楚兵まで集まり始めたため、昨日とは比べものにならないほど城外の陣が広がっている。
「増えたな」
隣に立つ陳平が答える。
「はい。まだ増えるでしょう」
「嬉しくない予想だけはよく当たるな、お前」
「王がお嫌いでも、楚軍の数は減りません」
劉邦は城壁へ肘をつき、眼下を見た。
城へ逃げ戻れた兵は一万八千ほど。
散った者がすべて死んだわけではないが、少なくとも今ここで使える兵ではない。曹参と灌嬰の軍は外にいるものの、楚軍の包囲が完成すれば簡単には合流できなくなる。
「灌嬰からは?」
「先ほど使者が入りました」
「何て?」
「成皋にいるのは項羽ではない、と」
劉邦はしばらく黙った後、顔をしかめた。
「知ってるよ」
「使者も気まずそうでした」
「そりゃそうだろ。本人に一万で追い回された後に教えられても遅い」
陳平は口元を僅かに緩めた。
「ただ、灌嬰が成皋に残る必要はなくなりました。三万をこちらへ寄せられます」
「寄せられれば、だろ」
「はい」
城外には項羽がいる。
三万の灌嬰が近づけば、当然そちらへ兵を向けるだろう。曹参も桓楚の二万を抱えているため、すぐ救援へ回れるわけではない。
外に五万の味方がいるのに、城内の劉邦へ届かない。
それが今の状況だった。
◆
「兵糧は?」
城へ戻った劉邦が尋ねると、担当していた将が帳面を差し出した。
「節約すれば、しばらくは持ちます。ただ、当初はこの城を長く守る予定ではありませんでしたので、二万近い兵を籠城させ続けるとなれば余裕はございません」
劉邦は帳面を陳平へ渡した。
「外から運べないのか」
「楚軍が主要な道を押さえ始めています。小規模なら通せるかもしれませんが、軍全体を養う量は難しいでしょう」
「城は取れた。東にも出られた。あと少しだったんだけどな」
劉邦は椅子へ腰を落とした。
「そのあと少しを狙われました」
「分かってる。何度も言うな」
苛立ってはいたが、陳平を責め続けても城門が開くわけではない。
それよりも、外にいる兵とどう繋がるかを考える必要があった。
「灌嬰に、無理に入ろうとするなって伝えろ」
陳平が顔を上げた。
「よろしいので?」
「三万まで項羽に食われたら、本当に終わる。曹参も同じだ。二人とも軍を残すことを優先させろ」
「承知しました」
命令を書かせながら、劉邦は深く息を吐いた。
項羽とまともに戦わないために軍を分けた。
その判断そのものは、今でも間違っていたとは思わない。
ただ、項羽はその上からさらにこちらを読んできた。
「范増は死んだんだよな」
唐突な言葉に、陳平が視線を向けた。
「死んでおります」
「じゃあ、誰がこんなこと考えたんだ」
陳平は少しだけ間を置いた。
「項羽本人でしょう」
劉邦は嫌そうに天井を見た。
「腕だけでも面倒なのに、頭まで使い始めるなよ」
冗談めかした口調だったが、笑う者はいなかった。
◆
包囲は日を追うごとに厚くなった。
楚軍は無理に城壁へ兵をぶつけず、街道と水路を押さえ、漢軍が外へ出る機会を待っている。劉邦も夜襲を試みたが、項羽の陣を正面から崩せるほどの兵力はなく、多少の損害を与えただけで城へ戻るしかなかった。
それでも項羽は急がない。
城に籠もっている限り、兵糧は減る。
外の灌嬰や曹参が動けば、その時に迎え撃てばいい。
数日後、再び兵糧の帳面を見た劉邦は、以前より減りの速くなった数字へ指を置いた。
「これ、本当に合ってるのか」
「残念ながら」
陳平が答える。
「馬の飼料も不足し始めています。このまま包囲が続けば、兵より先に馬が使えなくなります」
「城を出たら項羽、残ったら飢えるか」
「そうなります」
劉邦は椅子へ深く座り直した。
「何かないのか」
陳平はすぐには答えなかった。
その沈黙を見て、劉邦は眉を寄せる。
「あるんだろ」
「一つだけ」
「その顔で言われると聞きたくなくなるな」
「王には、あまりお気に召さない策かと」
劉邦はしばらく陳平を見てから、諦めたように手を振った。
「ここまで追い込まれて、好き嫌いを言ってられるか。話せ」
陳平は帳面を閉じた。
「まず、劉邦様と背丈の近い者を一人探します」




