第156話 項来来、再び
劉邦が滎陽を落としたという報せが届いた時、項羽はすでに動いていた。
手元に残した五万のうち、連れていくのは一万だけだった。馬の状態がよく、長い行軍にも耐えられる兵を選び、残る四万には後から滎陽方面へ進むよう命じると、自ら先頭に立って街道を西へ駆けた。
劉邦が滎陽に留まり続けるとは思っていない。
成皋に自分がいると信じたなら、次に狙うのは東への道であり、その先には彭城がある。城を取った勢いのまま進もうとするなら、漢軍は行軍隊形となり、戦うために並べた時よりも長く伸びる。
そこを叩く。
項羽には、それで十分だった。
朝から走り続けた末、前方に数騎の姿が見えた。
漢軍の斥候だった。
向こうも楚軍へ気づき、すぐに馬首を返す。
「敵です!」
項羽は答えず、馬腹を蹴った。
周囲の楚兵が追随しようとするより早く、一騎だけ前へ出る。逃げる斥候との距離をみるみる詰め、一人が振り返ったところで剣を抜き、そのまますれ違いざまに斬り伏せた。
残った斥候たちは散開した。
項羽は一人を追い続けず、そのまま進路を戻して軍の先頭へ入った。
「王、逃げた者がおります!」
追いついてきた将が叫んだ。
「このままでは劉邦に我らの接近を」
項羽が振り返った。
「我が軍は、あの斥候より遅いのか」
「いえ、しかし」
「ならば先に着けばよい」
声を張り上げる必要もなかった。
近くを走っていた兵たちがそれを聞き、さらに馬を急がせる。伝令によって軍全体へ命令が伝わると、一万の騎兵は逃げる数騎を追うのではなく、斥候が知らせようとしている漢軍そのものへ向かって速度を上げた。
目指す相手は、遠くに見え始めた砂煙だった。
漢軍五万。
項羽はその長い隊列を見て、剣を抜いた。
「止まるな。あの軍が並ぶ前に入るぞ」
前方を走っていた斥候の一騎が、ようやく漢軍の後方へ辿り着こうとしていた。
だが、その背後ではすでに一万の楚騎兵が地面を揺らしていた。
項羽は逃げる斥候を追い越した。
◆
「王! 楚軍です!」
息を切らした斥候が劉邦のもとへ駆け込んできた時、報告を聞くより先に後方から騒ぎが広がり始めていた。
「数は!」
「一万ほど! ですが、先頭に」
答えが終わる前に、遠くで漢兵の叫び声が上がった。
劉邦は馬上から後ろを振り返った。
街道の彼方に楚軍の旗が見える。
その先頭には、見間違えようのない女がいた。
「……項羽?」
隣にいた陳平も顔を強張らせた。
「陣形を!」
「斥候は何してたんだ!」
劉邦が怒鳴った。
「一万も来てて、なんで今まで分からない!」
「斥候は出しております!」
「じゃあ何で目の前にいる!」
陳平は、ようやく戻ってきた斥候と、そのすぐ後ろまで迫っている楚騎兵を見比べた。
「報せより先に来たのです」
「何?」
「斥候が戻るより、項羽の軍の方が速かった」
理解するより先に、漢軍の後方へ楚軍が突っ込んだ。
◆
漢軍五万は戦うために並んでいたのではない。
東へ進むために街道へ長く伸び、前後の間隔も広がっていた。そこへ項羽の一万が斜めから食い込み、まだ敵の位置すら把握していない部隊を次々と分断していく。
項羽は兵を止めなかった。
「旗を追うな! 前へ抜けろ!」
目の前の敵を一つずつ潰すのではなく、漢軍の深いところへ入り込む。後ろから続く楚騎兵も同じ方向へ突進し、街道上で身動きの取れない漢兵を左右へ押しのけながら、劉邦のいる中央へ近づいていった。
漢軍側もようやく反撃を始めた。
槍兵が街道脇へ並び、騎兵を止めようと前へ出る。
だが、その前に項羽自身が突っ込んだ。
突き出された槍を剣で弾き、馬を止めずに一人を斬り倒すと、そのまま次の列へ馬ごと飛び込む。楚兵が後ろから開いた隙間へ入り、漢軍が新しい戦列を作る前に再び押し崩した。
その姿を見た兵の間から、声が広がった。
「項羽だ!」
「楚王がいる!」
その名が伝わった瞬間、劉邦は別の戦場を思い出した。
彭城。
十万の兵を持ちながら、わずかな項羽軍に突き崩され、何が起きているのか理解できないまま軍全体が逃げ始めた、あの戦いだった。
自分だけではなかった。
あの日を経験した兵は、今の軍にも残っている。
前方には楚兵など見えないのに、後ろから「項羽が来た」という声が近づいてくる。それだけで隊列から離れる者が現れ、荷を捨てて街道脇へ逃げる兵が増え始めた。
「待て! 相手は一万だ!」
劉邦が叫ぶ。
「こっちは五万いる! 並べば勝てる!」
言っていることは間違っていない。
だが、五万は一か所にはいなかった。
先頭はまだ東へ進み、後方ではすでに項羽が暴れ回っている。止まろうとする部隊と逃げようとする部隊が街道の上でぶつかり、命令が届く頃には別の場所から崩れ始めていた。
「劉邦様、ここでは立て直せません!」
陳平が馬を寄せた。
「滎陽へ戻ります!」
「せっかく取ったばかりだぞ!」
「だから城壁があります。ここで全軍を失うよりましです!」
さらに後方から悲鳴が近づいた。
劉邦は歯を食いしばり、東へ続く道と滎陽の方角を見比べた。
「……戻るぞ!」
王旗が反転した。
その動きを見て、周囲の兵も一斉に西へ向かい始めた。
◆
撤退の命令は、すぐに敗走へ変わった。
劉邦の近くにいた部隊はまだまとまっていたが、遠く離れた兵には命令そのものが届かず、王旗が西へ動くのを見て勝手に逃げ始める者も多かった。楚軍に追いつかれて斬られる者、街道を捨てて林や村へ逃げ込む者、武器まで投げ捨てて姿を消す者が相次ぎ、五万の軍は急速に数を減らしていった。
項羽は逃げる兵を片端から追い回そうとはしなかった。
狙うのは王旗だった。
「劉邦を逃がすな!」
楚騎兵が進路を寄せる。
劉邦の周囲に残った兵が何度も食い止め、崩されては別の部隊が後ろへ入る。そのたびに時間を稼ぎながら、劉邦と陳平は残った兵を連れて滎陽へ走った。
日が傾き始めた頃、ようやく城門が見えた。
「開けろ!」
先行した騎兵が叫び、門が開く。
劉邦は兵を城内へ押し込み、自分も最後まで外へ残るような真似はせず、陳平とともに門をくぐった。残った漢兵が次々と駆け込み、楚騎兵が迫ったところで城門が閉じられる。
壁の外から怒声が上がった。
その夜、兵数を数えさせた劉邦は、報告を聞いてしばらく言葉を失った。
「……もう一回言え」
「城内へ戻れた兵は、一万八千ほどです」
「五万いたんだぞ」
「戦死した者だけではありません。途中で隊列を離れ、そのまま逃げた者がかなりおります。周辺へ散った兵の正確な数は、まだ分かりません」
劉邦は壁へ拳を当てた。
一万に五万が破られた。
数字だけなら、また同じだった。
だが今度は自分にも、何が起きたのか分かっている。成皋にいると思い込んだ項羽に先回りされ、行軍中の腹を突かれた。
「……陳平」
「はい」
「何で項羽がここにいる」
怒鳴る声ではなかった。
それでも陳平は、少し間を置いて答えた。
「我々が、成皋にいると思わされたからです」
◆
翌朝には、滎陽の周囲へ楚軍の旗が増え始めた。
まず項羽の一万が城外の主要な道を塞ぎ、遅れていた四万が到着する。さらに東の各地に残っていた楚兵も集まり始め、前日まで漢軍が自由に出入りしていた城は、次第に外との連絡を失っていった。
項羽は城壁を見上げながら馬を止めた。
昨日の戦いで劉邦を仕留めることはできなかったが、逃げ込んだ場所は分かっている。
今度は追い回す必要もなかった。
「囲め」
その命令を受け、楚軍は滎陽を包み始めた。




