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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第155話 成皋の王旗

 劉邦(りゅうほう)が十万の軍を率いて襄陽(じょうよう)を出た頃には、楚軍が西へ動いたという報せも次々と届き始めていた。


 十五万を率いる項羽(こうう)が自ら出陣したことはすぐに分かったが、その軍は一つにまとまったまま進んではいない。南では四万ほどが九江(きゅうこう)方面へ向かい、別の二万も本隊から離れたため、劉邦(りゅうほう)の幕舎へ集められた地図には、楚軍の動きを示す駒がいくつにも分かれて置かれていた。


「韓信(かんしん)のところへ向かったのは?」


 劉邦(りゅうほう)が尋ねると、陳平(ちんぺい)が南の駒へ指を置いた。


「曹咎(そうきゅう)です。兵はおよそ四万。九江(きゅうこう)から北へ出る道を塞ぐように布陣しております」


「四万で韓信(かんしん)の五万を止める気か」


「勝つつもりがなければ、可能でしょう」


 陳平(ちんぺい)は地図を見たまま答えた。


「曹咎(そうきゅう)は功を急ぐ将ではありません。韓信(かんしん)が誘っても追わず、ただ道だけを塞ぐよう命じられているなら厄介です」


 劉邦(りゅうほう)は眉を寄せた。


 自分が東へ進む間に韓信(かんしん)も北上し、どこかで合流できれば大きい。しかし項羽(こうう)もそこを見逃しておらず、派手さより持久に向いた将を置いてきたらしい。


「じゃあ、韓信(かんしん)は当てにしない方がいいな」


「少なくとも、すぐには」


 陳平(ちんぺい)が答えると、劉邦(りゅうほう)は今度は地図の中央へ目を移した。


 そこには成皋(せいこう)がある。


 斥候から届く報告によれば、城の周囲には多数の楚旗が並び、炊煙も広い範囲から上がっていた。時折、城壁や陣の前へ姿を見せる長身の女将も項羽(こうう)によく似ており、遠目に確認した斥候たちは、楚王の本陣がそこにあると報告してきている。


「結局、あいつは成皋(せいこう)か」


 劉邦(りゅうほう)は椅子へ背を預けた。


「十五万全部じゃないにしても、主力はそこだろ」


「その可能性が高いかと」


「正面からやる気はないぞ」


「存じております」


 返事が早すぎて、劉邦(りゅうほう)は嫌そうに陳平(ちんぺい)を見た。


「少しくらい、王なら勝てますとか言えないのか」


「言ってほしいのでしたら言いますが、それで項羽(こうう)に勝てるわけではありません」


「お前、本当に俺への敬意が薄いよな」


「今さらでしょう」


 近くで話を聞いていた夏侯嬰(かこうえい)が、小さく笑った。


 軽口を言っている間にも、劉邦(りゅうほう)の目は地図から離れなかった。


 項羽(こうう)が成皋(せいこう)にいるなら、そこへ十万をぶつける必要はない。城を攻めても時間を食うだけであり、野戦になれば項羽(こうう)が喜ぶだけだ。


「桓楚(かんそ)の二万は?」


「北寄りの街道を押さえながら進んでおります。本隊との距離はあります」


 陳平(ちんぺい)の答えを聞き、劉邦(りゅうほう)は一つの駒を取った。


「なら、こっちも分ける」


◆


 翌朝、漢軍十万は三つに分かれた。


 曹参(そうしん)には二万が与えられ、北寄りを進む桓楚(かんそ)への対応を命じた。楚軍を破る必要はなく、劉邦(りゅうほう)の進路へ兵を回させないことだけが役目だった。


「無理に勝たなくていい。押せそうでも追うな」


 劉邦(りゅうほう)が念を押すと、曹参(そうしん)は少し呆れたような顔をした。


「それくらい分かってる。あんたが東へ抜けるまで、桓楚(かんそ)をこっちへ向かせなきゃいいんだろ」


「そう。俺みたいに欲張るなよ」


「自分で言うなら直しな」


 曹参(そうしん)はそれだけ言い、二万を率いて先に離れていった。


 次に呼ばれた灌嬰(かんえい)には三万が与えられた。


 向かう先は成皋(せいこう)。


「攻め落とす必要はない。項羽(こうう)が出てきたら、まともに受けるな」


「分かっています」


 灌嬰(かんえい)は地図上の城と周辺の道を確認した。


「騎兵を散らして、出てくる楚軍を引き回します。こちらを追わせられれば、その分だけ本隊から兵を剥がせます」


「頼む。お前なら無茶はしないだろ」


「それは褒めていますか?」


「俺の軍じゃ最高級の褒め言葉だ」


 灌嬰(かんえい)は苦笑したが、それ以上は言わず、自分の部隊へ戻っていった。


 残る五万を劉邦(りゅうほう)自身が率いる。


 狙うのは滎陽(けいよう)だった。


◆


「成皋(せいこう)に項羽(こうう)を縛って、滎陽(けいよう)を取る」


 行軍を再開してから、劉邦(りゅうほう)は馬上で陳平(ちんぺい)へ話した。


「そのまま東へ抜ける。彭城(ほうじょう)の方へ俺が出れば、あいつも成皋(せいこう)に座ってはいられない」


「彭城(ほうじょう)まで取るおつもりですか?」


「取れれば取る。でも、そこまで欲張らなくてもいい」


 劉邦(りゅうほう)は前方へ続く街道を見た。


「項羽(こうう)が西へ来たせいで、東の兵は薄くなってる。俺が後ろへ出たって分かれば、あいつは必ず戻る。その間に灌嬰(かんえい)も曹参(そうしん)も動きやすくなる」


 陳平(ちんぺい)はすぐには答えなかった。


「何だよ」


「いえ。悪くないと思っております」


「その言い方、何か引っかかってるだろ」


「項羽(こうう)が、あまりにも素直に成皋(せいこう)へ入ったことだけです」


 劉邦(りゅうほう)も、それは考えていた。


 ただ、斥候は何度も出している。城の周囲には確かに多くの楚兵がおり、楚王の旗も立ち、項羽(こうう)らしい姿を見たという報告まで重なっていた。


「姿まで見えてるんだぞ」


「遠目に、ですが」


「じゃあ、お前は項羽(こうう)が二人いると思うのか」


「そこまでは申しません」


 陳平(ちんぺい)は苦笑した。


「ただ、少し気になるだけです」


「気になるなら斥候を増やせ。俺は滎陽(けいよう)へ行く」


 そこで話は終わった。


◆


 灌嬰(かんえい)は三万を率いて成皋(せいこう)の西へ進み、遠巻きに楚軍の様子を探っていた。


 城の周囲には確かに旗が多い。


 炊煙も広い範囲から上がっている。


 高台から眺めれば、十万近い大軍が集まっていると言われても疑わない程度には見えた。


「随分いるな」


 副将の一人が呟いた。


 灌嬰(かんえい)は返事をせず、しばらく城外の楚軍を眺めていた。


 こちらが騎兵を近づけると楚軍も兵を出してくるが、その数は多くても一万から二万ほどで、それ以上を一度に動かそうとはしない。灌嬰(かんえい)が少し下がれば楚軍も追撃を止め、また城の近くへ戻っていく。


 無理をしないこと自体は不自然ではない。


 ただ、気になった。


 遠くに項羽(こうう)らしい姿も見えた。


 長身で、同じような鎧を着け、楚王の旗の近くを馬で移動している。


 しかし、その女は前へ出てこない。


 灌嬰(かんえい)は何度か騎兵を城近くまで寄せてみたが、楚王らしき人物は後方にいるだけで、自ら先頭へ出てこちらを追おうとはしなかった。


「……変だな」


「何がです?」


「項羽(こうう)がいるなら、あたしたちがこんなところまで来て、まだ誰も叩き潰されてない」


 副将が黙った。


 冗談めいた言い方だったが、灌嬰(かんえい)自身は笑っていなかった。


 あの女なら、目の前に三万の敵がいるのを見て、いつまでも城の近くで旗を眺めているだろうか。


 まして、自分の騎兵が逃げるふりをして何度も誘っている。


 それを一度も追わない。


 灌嬰(かんえい)はもう一度、炊煙へ目を向けた。


 数は多い。


 だが、兵の動きが伴っていない。


「もう少し探る。深く入るなよ」


「はい」


 まだ確信はなかった。


 それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。


◆


 滎陽(けいよう)では、大きな戦いにならなかった。


 楚軍の主力が成皋(せいこう)にいるという情報は守備側にも届いており、五万の漢軍が迫ると城内は早い段階から動揺した。数度の攻防の後、内側から門を開く者まで現れ、劉邦(りゅうほう)は予想していたより早く城へ入ることができた。


「取れたな」


 城壁へ上がった劉邦(りゅうほう)は、東へ続く道を見ながら機嫌よく言った。


 隣の陳平(ちんぺい)は、まだ周囲を見ている。


「何だよ。勝ったのに暗い顔するな」


「勝ったことは喜んでおります」


「嘘つけ」


「では、少しだけ喜んでおります」


 劉邦(りゅうほう)は鼻を鳴らした。


 ここから東へ出れば、彭城(ほうじょう)へ通じる道へ入れる。


 項羽(こうう)が本当に成皋(せいこう)にいるなら、こちらが滎陽(けいよう)を取ったという報せを聞いた時点で動かざるを得ない。その時にはすでに、劉邦(りゅうほう)はさらに東へ進んでいるつもりだった。


「明日には出るぞ」


「早いですね」


「ここで待ってたら項羽(こうう)が来る。あいつが来る前に先へ行くんだよ」


 陳平(ちんぺい)は頷き、すぐに兵糧と行軍の準備を整えさせた。


◆


 翌朝、漢軍五万は滎陽(けいよう)を出た。


 先頭から後尾まで長く伸びた隊列が東へ向かい、斥候も前方と左右へ広く放たれている。楚軍のまとまった動きはまだ見つからず、成皋(せいこう)にいる項羽(こうう)がこちらへ向かったという報告もなかった。


 劉邦(りゅうほう)は馬上で振り返り、遠ざかる滎陽(けいよう)の城壁を見た。


「上手くいきすぎて気味が悪いな」


「ようやくお気づきになりましたか」


 隣から陳平(ちんぺい)が返す。


「お前は何でも嫌な言い方するな」


「王が楽観的ですので、誰かが嫌なことを言う必要があります」


 劉邦(りゅうほう)が何か言い返そうとした時、前方から斥候が一騎、馬を飛ばして戻ってきた。


 顔色が変わっている。


「王!」


 劉邦(りゅうほう)は手綱を引いた。


「どうした」


「前方に楚軍!」


 陳平(ちんぺい)の表情が変わる。


「数は?」


「およそ一万!」


 五万に対して一万なら、本来なら恐れる数ではなかった。


 それでも斥候の声は震えていた。


「誰が率いている」


 問いかけると、斥候は一度息を呑んだ。


「項羽(こうう)です」


 劉邦(りゅうほう)の顔から、さっきまでの軽い笑みが消えた。


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