第154話 空いた道
身体の下へ広がった血は、もう乾き始めていた。
羌瘣は荒れた地面に横たわったまま、浅い呼吸を繰り返している。脇腹と腿に受けた傷から流れる血は少なくなっていたが、それは傷が塞がったからではなく、流せるだけの血をすでに失ってしまったからだと、自分でも分かっていた。
冒頓との戦いを終えた後、何度か立ち上がろうとはした。
伝令は先に出した。
自分まで秦軍へ戻れれば、それでよかった。
けれど、逃げた馬を追うこともできず、何歩か進んだところで膝をつき、それから先は身体が言うことを聞かなかった。秦軍のいる方角だけは覚えていたはずなのに、今では顔をどちらへ向けているのかさえ曖昧になっている。
(伝令は……届いたかな)
意識が遠のくたび、それだけが頭へ浮かんだ。
冒頓が千ほどの騎兵を率いて秦軍の後方へ向かっていることは伝えた。あの騎兵が無事に扶蘇のもとまで辿り着いたのなら、自分がここで動けなくなったとしても、少なくとも役目だけは果たしたことになる。
風が草を揺らした。
その音に混じって、低い唸り声が聞こえた。
羌瘣は重い瞼を開いた。
滲んだ視界の向こうに、痩せた獣が立っている。少し離れたところにも一頭、そのさらに向こうにも影が動いており、血の匂いに引かれてきた野犬たちは、まだ警戒しながらも少しずつ距離を詰めていた。
地面には剣が落ちていた。
手を伸ばせば届きそうだったので、羌瘣は腕を動かそうとしたが、指先が土を僅かに掻いただけで止まった。もう一度力を入れてみても、肩から先が鉛になったように動かない。
野犬の一頭が、また近づいた。
(最後は……野犬の餌か)
秦の将として戦い、匈奴へ渡り、冒頓の妻になった。
その暮らしを捨てて秦へ戻り、今度こそ誰かに選ばれるためではなく、自分で選んだ場所で生きようと思った。その末に誰にも見つからない荒野へ倒れ、獣に食われて終わるのだと考えると、情けないような、妙に自分らしいような、よく分からない気持ちになった。
死ぬことは怖かった。
それでも、それ以上に怖かったのは、ここで自分が消えてしまうことだった。
誰にも見つけてもらえず、どこで死んだのかさえ分からず、やがて骨まで散らされてしまう。その光景を思い浮かべると、今まで堪えていたものが崩れ、目尻から涙が流れた。
「……嫌だな」
声になったかどうかも分からなかった。
野犬がさらに一歩近づき、別の一頭もその動きに合わせる。
もう剣には手が届かない。
抵抗する力も残っていない。
羌瘣はゆっくり目を閉じた。
せめて、あまり痛くなければいい。
そんなことを考えた時、遠くから何かが聞こえた。
「……瘣!」
最初は風の音だと思った。
聞き覚えのある声に似ていたが、死にかけた頭が都合のいいものを聞かせているのだろうと思った。
「羌瘣!」
今度は、はっきり聞こえた。
楊端和だった。
遠くから馬蹄が重なって近づき、野犬たちが一斉に顔を上げる。人の声も増え、草を踏み分ける音とともに、何騎もの馬がこちらへ向かってくるのが分かった。
「血の跡がある! この先だ!」
「羌瘣!」
もう一つ、声がした。
扶蘇だった。
これまで何度も聞いた声だった。
敵だった頃にも聞き、秦へ戻ってからも聞いている。けれど、その声がこれほど嬉しいと思ったことは一度もなかった。
野犬たちが散っていく音がした。
馬から誰かが飛び降り、地面を駆ける足音が近づいてくる。
「羌瘣!」
楊端和がすぐ横へ膝をついた。
肩へ手が触れる。
「聞こえるか。羌瘣、目を開けろ」
羌瘣は重い瞼を僅かに持ち上げた。
滲んだ視界の中に、楊端和の顔がある。
その向こうには扶蘇もいた。
羌瘣は何か言おうとして、乾いた唇をゆっくり動かした。
「……遅い」
◆
その頃、楚王項羽は十五万の兵を率いて西へ進んでいた。
狙いは劉邦だった。
彭城を奪い返して以降、劉邦は襄陽を足場に軍を立て直し、再び十万を集めて東へ動き始めている。ここで放置すれば、楚の支配がまだ固まっていない土地へ入り込み、いずれまた東への道を脅かしてくるのは目に見えていた。
項羽は行軍の途中で軍議を開き、諸将を前に地図を広げた。
十万を率いる劉邦だけなら、兵数はこちらが上回っている。
だが、項羽が気にしていたのは、その南にいるもう一人の男だった。
「韓信はまだ九江か」
「はい。五万ほどを率いたまま、大きくは動いておりません」
報告を聞いた項羽は、地図の南へ視線を落とした。
動いていないからといって、安全なわけではない。
韓信が北へ出て劉邦と合流すれば、十五万という数の優位は一気に消える。かといって自分が南へ向かえば、その間に劉邦が東へ入り込み、楚の中枢を脅かすだろう。
「曹咎を呼べ」
しばらくして、一人の女将が幕舎へ入ってきた。
曹咎は、龍且のように先陣で名を上げる将でも、鍾離眜のように大軍を預けられて目立つ将でもない。それでも挙兵の早い時期から項羽に従い、無理に功を求めず、任された場所を崩さないことでは信頼されていた。
「四万を預ける」
項羽は九江を指した。
「韓信を抑えろ」
「討ちますか?」
「いや。勝とうとするな」
即答だった。
曹咎が僅かに眉を動かす。
「北へ出さなければいい。攻めてきても深追いするな。隙を見せても食いつくな。韓信が劉邦のところへ行かなければ、それで十分だ」
「四万で五万を止め続けろと?」
「そうだ」
項羽は迷わなかった。
「倒そうと考えるな。あの男は、こちらが勝ちに行けばその分だけ隙を使う。守って道だけ塞げ」
曹咎は地図を見ながらしばらく考えた後、短く頷いた。
「分かりました。北へは通しません」
項羽はそれ以上何も言わず、次の配置へ移った。
十五万から四万を割けば、残るのは十一万。
その兵力だけでも劉邦の十万と戦うには足りる。
だが、項羽は十万と十万を正面からぶつけるつもりがなかった。
「劉邦は私とは戦わん」
諸将が地図から顔を上げた。
「こちらが正面に十万並べれば、あの男は別の道を探す。薄いところへ入り、背後へ抜け、私が向かえばまた逃げる」
これまでの戦いで、それは嫌というほど見てきた。
正面から叩けば劉邦は崩れる。
だが、崩れても逃げる。
逃げた先で兵を集め、また別の場所へ現れる。
ならば、追い続ける必要はなかった。
「桓楚」
「はい」
古参の女将が進み出る。
「二万を持て。お前は別路から前へ出ろ。こちらが兵を散らしていることは隠さなくていい」
「囮ですか?」
「半分はな。ただし、敵が来れば普通に戦え。無理に追う必要はない」
「承知しました」
残り九万。
項羽は、その中からさらに四万を切り離した。
「項声」
呼ばれた女が前へ出る。
項声は項氏の中でも、遠目に見れば項羽とよく似ていた。背丈も女としては高く、鎧を着けて馬上に立てば、旗越しに見分けるのは容易ではない。
「四万を率いて成皋へ入れ」
「私が、ですか」
「私の旗も持っていけ。炊煙は多く上げろ。斥候に見られる場所へ兵を出し、私がそこにいると思わせろ」
項声はようやく意図を理解したらしく、僅かに口元を動かした。
「姿も見せろということですね」
「ああ。ただし近づかせるな。顔まで見せる必要はない」
項羽は地図上の成皋へ指を置いたまま、さらに西へ視線を動かした。
劉邦が項羽との正面決戦を避けるなら、成皋に大軍と楚王の旗を見れば、そこへ主力があると考えるだろう。
その時、空いて見える道が生まれる。
項羽はそこへ指を滑らせた。
「逃げる場所を探すなら、こちらから作ってやればいい」
幕舎の中が静かになった。
范増はもういない。
だからこそ、項羽自身が考えなければならなかった。
劉邦が自分とは戦わないというのなら、その臆病さごと利用して引きずり出す。
項羽は地図から顔を上げた。
「五万は私が持つ。劉邦が動くまで、姿を消すぞ」




