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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第154話 空いた道

 身体の下へ広がった血は、もう乾き始めていた。


 羌瘣(きょうかい)は荒れた地面に横たわったまま、浅い呼吸を繰り返している。脇腹と腿に受けた傷から流れる血は少なくなっていたが、それは傷が塞がったからではなく、流せるだけの血をすでに失ってしまったからだと、自分でも分かっていた。


 冒頓(ぼくとつ)との戦いを終えた後、何度か立ち上がろうとはした。


 伝令は先に出した。


 自分まで秦軍へ戻れれば、それでよかった。


 けれど、逃げた馬を追うこともできず、何歩か進んだところで膝をつき、それから先は身体が言うことを聞かなかった。秦軍のいる方角だけは覚えていたはずなのに、今では顔をどちらへ向けているのかさえ曖昧になっている。


(伝令は……届いたかな)


 意識が遠のくたび、それだけが頭へ浮かんだ。


 冒頓(ぼくとつ)が千ほどの騎兵を率いて秦軍の後方へ向かっていることは伝えた。あの騎兵が無事に扶蘇(ふそ)のもとまで辿り着いたのなら、自分がここで動けなくなったとしても、少なくとも役目だけは果たしたことになる。


 風が草を揺らした。


 その音に混じって、低い唸り声が聞こえた。


 羌瘣(きょうかい)は重い瞼を開いた。


 滲んだ視界の向こうに、痩せた獣が立っている。少し離れたところにも一頭、そのさらに向こうにも影が動いており、血の匂いに引かれてきた野犬たちは、まだ警戒しながらも少しずつ距離を詰めていた。


 地面には剣が落ちていた。


 手を伸ばせば届きそうだったので、羌瘣(きょうかい)は腕を動かそうとしたが、指先が土を僅かに掻いただけで止まった。もう一度力を入れてみても、肩から先が鉛になったように動かない。


 野犬の一頭が、また近づいた。


(最後は……野犬の餌か)


 秦の将として戦い、匈奴へ渡り、冒頓(ぼくとつ)の妻になった。


 その暮らしを捨てて秦へ戻り、今度こそ誰かに選ばれるためではなく、自分で選んだ場所で生きようと思った。その末に誰にも見つからない荒野へ倒れ、獣に食われて終わるのだと考えると、情けないような、妙に自分らしいような、よく分からない気持ちになった。


 死ぬことは怖かった。


 それでも、それ以上に怖かったのは、ここで自分が消えてしまうことだった。


 誰にも見つけてもらえず、どこで死んだのかさえ分からず、やがて骨まで散らされてしまう。その光景を思い浮かべると、今まで堪えていたものが崩れ、目尻から涙が流れた。


「……嫌だな」


 声になったかどうかも分からなかった。


 野犬がさらに一歩近づき、別の一頭もその動きに合わせる。


 もう剣には手が届かない。


 抵抗する力も残っていない。


 羌瘣(きょうかい)はゆっくり目を閉じた。


 せめて、あまり痛くなければいい。


 そんなことを考えた時、遠くから何かが聞こえた。


「……瘣!」


 最初は風の音だと思った。


 聞き覚えのある声に似ていたが、死にかけた頭が都合のいいものを聞かせているのだろうと思った。


「羌瘣(きょうかい)!」


 今度は、はっきり聞こえた。


 楊端和(ようたんわ)だった。


 遠くから馬蹄が重なって近づき、野犬たちが一斉に顔を上げる。人の声も増え、草を踏み分ける音とともに、何騎もの馬がこちらへ向かってくるのが分かった。


「血の跡がある! この先だ!」


「羌瘣(きょうかい)!」


 もう一つ、声がした。


 扶蘇(ふそ)だった。


 これまで何度も聞いた声だった。


 敵だった頃にも聞き、秦へ戻ってからも聞いている。けれど、その声がこれほど嬉しいと思ったことは一度もなかった。


 野犬たちが散っていく音がした。


 馬から誰かが飛び降り、地面を駆ける足音が近づいてくる。


「羌瘣(きょうかい)!」


 楊端和(ようたんわ)がすぐ横へ膝をついた。


 肩へ手が触れる。


「聞こえるか。羌瘣(きょうかい)、目を開けろ」


 羌瘣(きょうかい)は重い瞼を僅かに持ち上げた。


 滲んだ視界の中に、楊端和(ようたんわ)の顔がある。


 その向こうには扶蘇(ふそ)もいた。


 羌瘣(きょうかい)は何か言おうとして、乾いた唇をゆっくり動かした。


「……遅い」


◆


 その頃、楚王項羽(こうう)は十五万の兵を率いて西へ進んでいた。


 狙いは劉邦(りゅうほう)だった。


 彭城(ほうじょう)を奪い返して以降、劉邦(りゅうほう)は襄陽(じょうよう)を足場に軍を立て直し、再び十万を集めて東へ動き始めている。ここで放置すれば、楚の支配がまだ固まっていない土地へ入り込み、いずれまた東への道を脅かしてくるのは目に見えていた。


 項羽(こうう)は行軍の途中で軍議を開き、諸将を前に地図を広げた。


 十万を率いる劉邦(りゅうほう)だけなら、兵数はこちらが上回っている。


 だが、項羽(こうう)が気にしていたのは、その南にいるもう一人の男だった。


「韓信(かんしん)はまだ九江(きゅうこう)か」


「はい。五万ほどを率いたまま、大きくは動いておりません」


 報告を聞いた項羽(こうう)は、地図の南へ視線を落とした。


 動いていないからといって、安全なわけではない。


 韓信(かんしん)が北へ出て劉邦(りゅうほう)と合流すれば、十五万という数の優位は一気に消える。かといって自分が南へ向かえば、その間に劉邦(りゅうほう)が東へ入り込み、楚の中枢を脅かすだろう。


「曹咎(そうきゅう)を呼べ」


 しばらくして、一人の女将が幕舎へ入ってきた。


 曹咎(そうきゅう)は、龍且(りゅうしょ)のように先陣で名を上げる将でも、鍾離眜(しょうりばつ)のように大軍を預けられて目立つ将でもない。それでも挙兵の早い時期から項羽(こうう)に従い、無理に功を求めず、任された場所を崩さないことでは信頼されていた。


「四万を預ける」


 項羽(こうう)は九江(きゅうこう)を指した。


「韓信(かんしん)を抑えろ」


「討ちますか?」


「いや。勝とうとするな」


 即答だった。


 曹咎(そうきゅう)が僅かに眉を動かす。


「北へ出さなければいい。攻めてきても深追いするな。隙を見せても食いつくな。韓信(かんしん)が劉邦(りゅうほう)のところへ行かなければ、それで十分だ」


「四万で五万を止め続けろと?」


「そうだ」


 項羽(こうう)は迷わなかった。


「倒そうと考えるな。あの男は、こちらが勝ちに行けばその分だけ隙を使う。守って道だけ塞げ」


 曹咎(そうきゅう)は地図を見ながらしばらく考えた後、短く頷いた。


「分かりました。北へは通しません」


 項羽(こうう)はそれ以上何も言わず、次の配置へ移った。


 十五万から四万を割けば、残るのは十一万。


 その兵力だけでも劉邦(りゅうほう)の十万と戦うには足りる。


 だが、項羽(こうう)は十万と十万を正面からぶつけるつもりがなかった。


「劉邦(りゅうほう)は私とは戦わん」


 諸将が地図から顔を上げた。


「こちらが正面に十万並べれば、あの男は別の道を探す。薄いところへ入り、背後へ抜け、私が向かえばまた逃げる」


 これまでの戦いで、それは嫌というほど見てきた。


 正面から叩けば劉邦(りゅうほう)は崩れる。


 だが、崩れても逃げる。


 逃げた先で兵を集め、また別の場所へ現れる。


 ならば、追い続ける必要はなかった。


「桓楚(かんそ)」


「はい」


 古参の女将が進み出る。


「二万を持て。お前は別路から前へ出ろ。こちらが兵を散らしていることは隠さなくていい」


「囮ですか?」


「半分はな。ただし、敵が来れば普通に戦え。無理に追う必要はない」


「承知しました」


 残り九万。


 項羽(こうう)は、その中からさらに四万を切り離した。


「項声(こうせい)」


 呼ばれた女が前へ出る。


 項声(こうせい)は項氏(こうし)の中でも、遠目に見れば項羽(こうう)とよく似ていた。背丈も女としては高く、鎧を着けて馬上に立てば、旗越しに見分けるのは容易ではない。


「四万を率いて成皋(せいこう)へ入れ」


「私が、ですか」


「私の旗も持っていけ。炊煙は多く上げろ。斥候に見られる場所へ兵を出し、私がそこにいると思わせろ」


 項声(こうせい)はようやく意図を理解したらしく、僅かに口元を動かした。


「姿も見せろということですね」


「ああ。ただし近づかせるな。顔まで見せる必要はない」


 項羽(こうう)は地図上の成皋(せいこう)へ指を置いたまま、さらに西へ視線を動かした。


 劉邦(りゅうほう)が項羽(こうう)との正面決戦を避けるなら、成皋(せいこう)に大軍と楚王の旗を見れば、そこへ主力があると考えるだろう。


 その時、空いて見える道が生まれる。


 項羽(こうう)はそこへ指を滑らせた。


「逃げる場所を探すなら、こちらから作ってやればいい」


 幕舎の中が静かになった。


 范増(はんぞう)はもういない。


 だからこそ、項羽(こうう)自身が考えなければならなかった。


 劉邦(りゅうほう)が自分とは戦わないというのなら、その臆病さごと利用して引きずり出す。


 項羽(こうう)は地図から顔を上げた。


「五万は私が持つ。劉邦(りゅうほう)が動くまで、姿を消すぞ」


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