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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第153話 王旗、進む

 楼煩(ろうはん)が落馬すると、秦軍本陣へ突入しようとしていた匈奴騎兵は一気に勢いを失った。先頭の馬群は伏兵の槍に止められ、後続は急には止まれず左右へ散り、そこへ外側へ開いていた黥布(げいふ)と楊端和(ようたんわ)の部隊が戻ってくると、先ほどまで王旗へ続いていた道は、そのまま匈奴騎兵を押し包む形へ変わっていった。


「外へ逃がすな! 押し戻せ!」


 楊端和(ようたんわ)が騎兵を外側から回し、黥布(げいふ)も正面から兵を押し上げる。楼煩(ろうはん)の周囲へ戻ろうとする騎兵もいたが、すでに秦兵が間へ入り込んでおり、何騎かが強引に突破を試みても届かなかった。


 やがて匈奴側も救出を諦め、残った兵を本陣へ下げ始めた。普段なら退きながらでもすぐ隊列を組み直す騎兵たちの動きが今日は鈍く、前線を自在に動かしていた楼煩(ろうはん)を失った影響は、思っていた以上に大きいらしい。


 俺はその様子を見ながらも、何度も東へ目を向けていた。


 羌瘣(きょうかい)から送り出された伝令は、すでに戻っている。冒頓(ぼくとつ)が千ほどの騎兵を率いて秦軍の後方へ回っていることまでは分かったが、その伝令を逃がした後に何があったのかは、誰にも分からなかった。


◆


 昼を過ぎた頃、南東の低い丘を越えて騎兵の一団が現れた。


 最初に見つけた兵の声が上がり、周囲の視線が一斉にそちらへ向く。数は千よりかなり減っており、長く走り続けたらしく馬も人も疲れ、何人かの騎兵は傷を負っていたが、その中央を進む男だけは遠くからでも見間違えようがなかった。


 冒頓(ぼくとつ)だった。


 俺は反射的にその後ろを探したが、捕虜らしい姿はなく、羌瘣(きょうかい)もいない。ただ、冒頓(ぼくとつ)自身も無傷ではなく、肩口の衣は裂け、左腕には血が滲み、脇腹にも乾き始めた赤黒い染みが残っていた。


 あれを羌瘣(きょうかい)がつけた傷なのかは分からない。それでも、何事もなく別れて戻ってきた姿ではなかった。


 冒頓(ぼくとつ)が本陣へ入ると、後退してきた騎兵たちがすぐに集まった。


「単于」


「何があった」


「秦軍に中央へ誘い込まれました。楼煩(ろうはん)将軍が秦王を狙って突入し、そのまま包囲されました」


 冒頓(ぼくとつ)は戦場へ目を向けた。


「楼煩(ろうはん)は?」


「討たれました」


 その答えを聞いた冒頓(ぼくとつ)は、しばらく楼煩(ろうはん)が倒れた辺りを見ていた。


「……何故だ。あれは、届かないと見れば退く女だったはずだ」


 報告した兵は答えられなかった。


 楼煩(ろうはん)が何を求め、何を証明しようとしていたのか、冒頓(ぼくとつ)自身が知らないのだから、周囲の兵に分かるはずもない。やがて冒頓(ぼくとつ)はそれ以上尋ねるのをやめ、散った騎兵を戻し、北へ抜ける道を確保するよう矢継ぎ早に命じ始めた。


 指揮官を失って乱れていた軍が、単于の帰還だけで少しずつ形を取り戻していく。


 ここで時間を与えれば、また逃げられる。


 それでも俺には、その前に聞かなければならないことがあった。


◆


「冒頓(ぼくとつ)!」


 声を張ると、向こうもこちらを見た。


「羌瘣(きょうかい)はどうした!」


 冒頓(ぼくとつ)はすぐには答えず、わずかに目を細めた。


「置いてきた」


 俺は手綱を握る手に力を込めた。


「何?」


「もう立てる状態ではなかった。あの辺りには狼も野犬もいる」


 冒頓(ぼくとつ)は感情の見えない声のまま、こちらを見返した。


「今頃は、野犬の餌にでもなっているだろう」


 その言葉を聞いても、羌瘣(きょうかい)が死んだとは分からなかった。冒頓(ぼくとつ)自身も確かめておらず、深手を負わせたまま荒野へ置いてきただけなのだろう。


 それでも、腹の底に熱いものが溜まっていく。


「羌瘣(きょうかい)は、お前を嫌いになったから秦へ戻ったんじゃない」


「知っている」


 その返事が、余計に腹立たしかった。


「知っていて、それか」


「敵として来た。剣を向けた。だから俺も戦った。それだけだ」


 俺は冒頓(ぼくとつ)の向こうにある匈奴軍を見た。


 羌瘣(きょうかい)は自分の意思でこの男から離れ、楼煩(ろうはん)はその側に残った。片方は生死さえ分からず、もう片方は秦軍の陣中で倒れているのに、冒頓(ぼくとつ)はもう次の退却のために軍を動かしている。


「お前は女を不幸にする男だ」


 冒頓(ぼくとつ)の目が細くなった。


「女が自分で選んだ道まで、俺のせいにするのか」


 その言葉に理屈がないわけではなかった。


 羌瘣(きょうかい)は自分で秦へ戻り、楼煩(ろうはん)も自分で王旗へ向かった。それでも今は、そんな話を続ける気にはなれなかった。


 俺は剣を抜いた。


◆


 隣で戦場を見ていた張良(ちょうりょう)が、短く口を開いた。


「今です」


 それだけで十分だった。


 楼煩(ろうはん)を失った匈奴軍はまだ立て直しの途中で、冒頓(ぼくとつ)が連れ戻した騎兵も消耗している。北へ退くための隊列を組もうとしている今なら、一度崩せばそのまま敗走へ持ち込める。


 俺は王旗の前へ馬を出した。


「全軍、前進!」


 太鼓が鳴り、秦軍の前列が一斉に動き始めた。


 俺も剣を抜いたまま馬を進めると、王離(おうり)は何も言わず大剣を握ってすぐ横へ出た。前方では黥布(げいふ)がすでに兵を押し出し、楊端和(ようたんわ)も騎兵を率いて外側へ広がっている。


 誰も羌瘣(きょうかい)の名を叫ばなかった。


 今は前へ出れば、それでよかった。


◆


 最初に匈奴軍へぶつかったのは黥布(げいふ)だった。


 まだ隊列を整えている途中の正面へそのまま突入し、受け止めようとした騎兵を押し込みながら戦列に穴を開け、その後ろへ秦兵を次々と流し込んでいく。普段なら敵将を求めて突出しがちな黥布(げいふ)も、今日は周囲の兵を引き連れたまま前線そのものを押し下げていた。


 楊端和(ようたんわ)は正面のぶつかり合いには加わらず、騎兵を大きく北へ回した。


「退路を狭めろ! 逃げる兵を中へ押し戻せ!」


 匈奴騎兵が北へ抜けようとするたび、楊端和(ようたんわ)の部隊が先へ回り込み、進路を変えた先で別の秦軍へぶつからせる。正面からは黥布(げいふ)が押し続け、外側からは楊端和(ようたんわ)が逃げ道を削ることで、匈奴軍は次第に動ける場所を失っていった。


 俺も王旗とともに前へ出た。


 横には王離(おうり)がいる。


 匈奴兵が一騎、槍を構えてこちらへ飛び込んできたが、俺へ届くより早く王離(おうり)の大剣が槍を弾き、その勢いのまま相手を馬上から叩き落とした。王離(おうり)は俺を見ず、そのまま次の敵へ向かい、俺も何も言わず横で馬を進めた。


 今は後ろにいる気にはなれなかった。


◆


 匈奴軍は立て直す前に崩れ始めた。


 正面を黥布(げいふ)に押され、北への道を楊端和(ようたんわ)に狭められ、そこへ王旗まで前進してくる。後退しようとする騎兵と、冒頓(ぼくとつ)を守ろうと中央へ寄る兵が互いにぶつかり始めると、それまで辛うじて残っていた隊列も急速に形を失った。


「単于を守れ!」


 冒頓(ぼくとつ)の周囲へ、匈奴騎兵が次々と集まった。


 若い女もいれば、年嵩の女もいる。秦兵へ馬ごとぶつかって進路を塞ぐ者も、槍を受けながら手綱を離さず、倒れた馬の脇からなお剣を振るう者もいた。


 冒頓(ぼくとつ)を逃がすためだった。


 一人倒れると、その後ろから別の女が前へ出る。


 黥布(げいふ)が押し込めば、そこへまた騎兵が入る。


 楊端和(ようたんわ)が北への道を削れば、自ら残って秦騎兵を引き止める者が現れる。


 その犠牲によって、冒頓(ぼくとつ)の後ろに細い退路が作られていった。


 俺は剣を振るいながら、その光景を見ていた。


 一人の男を逃がすため、これほど多くの女が命を投げ出すことまで当然にしていいのか。


 冒頓(ぼくとつ)は振り返っていた。


 だから、自分のために何人が倒れているのか見えていないはずはない。


 それでも戻らない。


(あの男は、何も感じないのか)


 そう思った瞬間、別の顔が頭に浮かんだ。


 蒙恬(もうてん)も、蒙凛(もうりん)も、王離(おうり)も、これまで何度俺の前へ立った。


 俺が頼んだわけではない時もあった。


 それでも、彼女たちが傷ついたことで自分が生き残ってきたという事実まで消えるわけではない。


 冒頓(ぼくとつ)を責めながら、自分だけはまったく違うと言い切れるのか。


 答えは出なかった。


 ただ、自分を守るために誰かが死ぬことを、いつか当然だと思うようにはなりたくなかった。


 その向こうで、冒頓(ぼくとつ)自身も剣を振るっていた。羌瘣(きょうかい)との戦いで受けたのだろう肩や左腕の傷が動きを鈍らせ、そこへ秦兵の槍が脇腹を掠め、さらに飛んできた矢が肩口へ刺さる。


 冒頓(ぼくとつ)の身体が馬上で大きく傾いた。


 俺が馬を進めると、王離(おうり)も同時に前へ出る。


 こちらへ気づいた冒頓(ぼくとつ)は剣を構えたが、その間へまた匈奴騎兵が割って入り、秦兵へ馬をぶつけることで道を塞いだ。その女が落馬すると、さらに別の騎兵が前へ出てくる。


 黥布(げいふ)も正面から追い、楊端和(ようたんわ)も外から北への道を狭めたが、残った匈奴兵は次々と自分たちを壁に変え、単于のために狭い道を作り続けた。


 その一団に押されるように、冒頓(ぼくとつ)の馬が北へ向く。


 傷口から血を流しながらも落馬はせず、冒頓(ぼくとつ)は何度かこちらを振り返った後、敗走する騎兵の中へ紛れ、そのまま北へ遠ざかっていった。


◆


 日が傾く頃には、正面に残っている匈奴兵はほとんどいなくなっていた。


 秦軍は追撃へ移り、北へ逃げる騎兵をなお押し続けている。俺は途中で馬を止め、血のついた剣を握ったまま、遠ざかる戦場と、その途中に倒れた多くの匈奴兵を見ていた。


 楼煩(ろうはん)の遺体は見つかった。


 冒頓(ぼくとつ)も傷を負いながら北へ逃げた。


 だが、羌瘣(きょうかい)だけはまだどこにもいない。


 冒頓(ぼくとつ)の言葉が本当なら、深手を負ったまま荒野へ置き去りにされている。それでも遺体を見たわけではなく、死んだという確かな報せもない以上、ここで諦める理由もなかった。


 俺は東の空へ目を向けた。


 まだ探していない場所がある。


 剣を鞘へ戻し、追撃から戻ってくる兵を待ちながら、羌瘣(きょうかい)が向かった方角を見続けていた。


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