第152話 届かぬもの
翌朝、正面の匈奴軍は日が十分に昇る前から動き始めた。
先頭に現れたのは、やはり楼煩だった。騎兵を左右へ広く散らしながら秦軍の前を横切り、ときには弓の届く寸前まで寄っては離れ、こちらが反応すればさらに外へ回り込むという動きを繰り返している。ただし昨日までとは違い、今日は楼煩本人が何度も前へ姿を見せ、後続の騎兵まで大きく振り回しながら、こちらの視線を自分へ集めようとしていた。
「今日は随分と目立ちたがっていますね」
隣で戦場を見ていた張良が言った。
「冒頓が戻ってきたからじゃないの?」
「私は逆だと思います。単于がこの戦場にいるのであれば、楼煩殿がここまで大きく動いて、こちらの注意を一身に集める必要はありません」
張良は正面を見たまま、騎兵の流れを目で追っていた。
「勝つために前へ出ているというより、こちらをこの場所へ留めておきたいのでしょう。そう考えるなら、単于はまた別の場所で動いている可能性が高いかと」
その言葉を聞いた瞬間、昨日送り出した二百騎のことが頭に浮かんだ。
羌瘣からの報告は、まだ戻ってきていない。もし冒頓がこの正面にいないのなら、探しに出た羌瘣の側にいる可能性もあるし、相手が千騎、二千騎と連れていれば、見つけた後に帰ってこられる保証もなかった。
「扶蘇様」
張良に呼ばれ、俺は正面へ意識を戻した。
「分かってる。今はこっちだな」
楼煩はちょうど秦軍左翼から中央へ向け、大きな弧を描きながら走っていた。
◆
楊端和が騎兵を動かした。
「正面から追うな。左へ回れ!」
秦騎兵が二手に分かれ、楼煩の進路を左右から狭めようとする。しかし楼煩は素直にその間へ入らず、右へ逃げるように見せて急に馬首を返し、今度は秦軍中央へ近づいた。
楊端和が距離を詰めれば、楼煩は馬上から後方へ矢を返し、秦騎兵が警戒して速度を落としたところで再び間を広げる。単純に馬が速いのではなく、相手がどこまで追ってくるかを確かめながら、追う側の動きそのものを利用していた。
「やっぱり捕まらねえな、あいつ」
前方にいた黥布が剣を肩へ担ぎながら、遠ざかる楼煩を睨んでいる。
前回より慎重になっているものの、楼煩が自分の近くを横切るたび、身体がわずかに前へ出るのは変わらない。それを見ていた張良は伝令を呼び、黥布へ前進の許可を伝えさせた。
「ただし、戻る合図を出したら必ず戻るようにとも伝えてください」
伝令が駆けていく。
「今度は追わせるの?」
「少しだけです。楼煩殿がこちらを動かしたいのであれば、望む形に近いところまで動いて差し上げましょう」
張良の口調は静かだった。
◆
黥布の部隊が前へ出たことで、秦軍中央がやや膨らんだ。
楼煩はすぐにそこへ寄り、今度は矢を射ちながら退くのではなく、黥布の外側を滑るように回ってさらに内側へ入り込もうとする。黥布も部隊を押し出したが、楼煩は正面から受けずに進路を変え、その動きに合わせるように楊端和も外側へ回った。
二つの部隊の間が少しずつ広がっていく。
その隙間の向こうには秦軍本陣があり、さらに奥には王旗が見えていた。
楼煩は馬上から、その道を見た。
扶蘇まで続いている。
あまりにも都合がいい以上、罠であることくらい分かっていた。
◆
それでも楼煩は、馬首を中央へ向けた。
秦軍が自分の速さを理解していないとは思っていない。楊端和も黥布も、何度追っても捕まえられないことを知ったうえで、今度はわざと入り口を開けている。
誘われている。
それでも抜けられるという自信があった。
これまでだって、秦軍が囲もうとすれば外へ抜け、追ってくれば射ち、止まればこちらから距離を詰めてきた。力の強い者が前へ出てきても、その力が届く場所へ自分から入らなければいいだけであり、それを誰より長くやってきたのが楼煩だった。
自分の馬なら、あの隙間を抜けられる。
抜けた先に扶蘇がいるなら、なおさら止まる理由はなかった。
◆
楼煩は、今の自分こそ冒頓に選ばれていると思っていた。
羌瘣は妻だったが、秦へ戻った。冒頓の側を離れた以上、それは捨てられたのと同じであり、その後も側に残って戦い続けている自分の方が、今では単于に近い存在なのだと考えていた。
夜に呼ばれることもある。
その腕に抱かれたことも、一度や二度ではない。
身体を重ねるたび、自分はいずれ冒頓の子を宿すのだろうと思っていた。強い女に子を産ませ、単于の血を残すことは彼らの間では珍しい話ではなく、自分ほど戦える女ならば、そう扱われるのが当然だとすら考えていた。
だが、そうはならなかった。
冒頓は楼煩を抱いても、子を宿させるための交わりはしない。
情を交わす女としては求められているのに、その血を残す相手としては選ばれていない。その違いだけが、何度抱かれても埋まらなかった。
ならば、自分には何が足りないのか。
羌瘣より弱いのか。
そんなはずはないと考えるほど、胸の奥に澱のようなものが積もっていった。
そして数日前、冒頓が秦王のそばにいた大剣の女へ興味を示したと聞いた。
強い女は良い。
妻になれ。
その言葉を聞いた時、楼煩は何も言わなかったが、自分でも気づかないところで何かが引っかかったまま残った。
自分はまだ足りないらしい。
それならば戦場で示せばいい。
誰より強い女だと分からせればいい。
◆
秦軍の王旗が近づいてくるにつれ、その横に大きな剣を持つ兵の姿まで見えるようになった。
楼煩はすぐに気づいた。
あの女だ。
冒頓が目を留めた女。
名前までは知らないが、あれほど大きな剣を持つ兵など他にいない。深く兜を被って顔を隠していても、その得物だけは異様に目立っていた。
先にあの女を射る。
そのまま扶蘇まで突き抜ける。
二人を討てば、もう誰にも自分が足りないなどとは言わせない。
「速めろ!」
楼煩の声に、後続の匈奴騎兵も一斉に速度を上げた。
前方には秦兵がいるが、その数は薄く、しかも左右へ退き始めている。罠なのは分かっていたが、露骨に開かれた道の向こうへ王旗が見える以上、楼煩にはもう引き返す気がなかった。
◆
「来ました」
俺の横で張良が言った。
真正面から楼煩が突っ込んでくる。
遠くから見ているだけでも、その速度は他の騎兵とは明らかに違う。馬群の先頭にいる楼煩だけが少しずつ前へ抜け、こちらへ向かって一直線に距離を縮めていた。
「黥布を戻す?」
「まだです。もう少し引きつけます」
王離が大剣を構えて一歩前へ出た。
「扶蘇様、私が前へ出ます」
「待って。まだ動かないで」
「ですが、このままでは」
「張良に任せる」
王離は不満そうにこちらを見たものの、それ以上は前へ出なかった。
張良は楼煩の騎兵だけを見ている。
距離がさらに縮まり、馬上の姿まで見分けられるようになったところで、楼煩が弓を持ち上げた。狙いは俺ではなく、その少し横に立つ王離へ向いている。
「王離!」
俺が声を上げたのと、楼煩が矢をつがえたのはほとんど同時だった。
その瞬間、張良が手を下ろした。
◆
平らに見えていた草地の中で、突然、人影が起き上がった。
実際には地面そのものが動いたわけではない。緩やかな窪みに身を伏せていた秦兵が、楼煩の騎兵が十分に近づくまで待ち、一斉に立ち上がったのだ。
長い槍が前へ突き出される。
先頭の馬が避けきれず、槍列へ突っ込んだ。後続も急に止まることはできず、左右へ逃げようとしたところへ別の兵が槍を向け、狭くなった道の中で馬同士がぶつかり始める。
「止まれ!」
楼煩が手綱を引いた。
だが、全速で走っていた馬はすぐには止まらない。
正面から来た槍を一本かわし、続く穂先も馬首を振って外したところで、別の槍が低い位置から伸びてきた。
それは楼煩ではなく、馬の胸を捉えた。
勢いのまま前脚が崩れ、馬体が大きく沈む。
楼煩の身体は鞍から放り出され、握っていた弓だけが先に宙を舞った。
視界が反転し、空と地面が入れ替わる。
そして次の瞬間、楼煩の身体は激しく地面へ叩きつけられた。




