第151話 引かれる先
羌瘣は二百騎を連れ、本隊から東へ大きく離れていた。
冒頓を探すと言っても、行き先が分かっているわけではない。正面の匈奴軍から離れた騎兵の跡を拾い、途中で消えれば別の水場へ向かい、そこでまた馬蹄の跡を探すという地味な作業が続いていた。
「こっちは違う」
浅い川辺で馬を降りた羌瘣は、湿った土へ残った蹄の跡を確かめた。
数は多いが、進んだ時間が古い。しかも足跡の大半は北から南へ来たもので、再び戻っていった形跡がなかった。
「昨日より前だ。追わなくていい」
兵たちはすぐに馬へ戻る。
その判断を、自分でもほとんど意識せずにしていることに羌瘣は気づいた。
匈奴にいた頃は、こんなことを考える必要さえなかった。どこに水があり、どの程度の騎兵なら一晩でどこまで進み、馬を休ませるならどの地形を選ぶのか、周囲の者と同じように覚えていっただけだった。
あの頃は、それが自分の暮らしだった。
そして、その暮らしの中心には冒頓がいた。
◆
日が高くなる頃には、本隊の姿はもう見えなくなっていた。
羌瘣は小高い丘へ馬を上げ、周囲を見渡した。遠くに細い煙が見えるものの、村の炊事か、軍の野営跡なのか、この距離では判断できない。
「将軍、北へ向かった跡があります」
兵の一人が呼んだ。
丘を降りると、草の倒れ方が細く続いている。大軍ではないが、数十騎程度でもなく、何度か隊列を崩して痕跡を散らしているところを見ると、見つかることを警戒している一団らしい。
「いつ頃だ」
「昨夜か、今朝早くかと」
羌瘣は馬上から跡を追い、その先にある二本の道を見た。
一方は北へ抜ける。
もう一方は西へ回り、秦軍の補給路へ近づく。
兵が尋ねる。
「どちらへ?」
すぐには答えなかった。
扶蘇なら、冒頓が再び後方へ回る可能性も考えているだろう。だからこそ、今回は補給路を厚く見るはずだし、冒頓自身もそれくらいは読む。
では北へ戻ったのか。
匈奴本陣へ帰り、こちらが探し回っている間に正面で仕掛けるのか。
どちらもあり得る。
「……西だ」
口から出た言葉に、羌瘣自身が少し引っかかった。
「西へ?」
「ああ」
「何か見つけたのですか」
「いや」
兵が不思議そうな顔をする。
羌瘣も、自分で説明できなかった。
北へ行った方が自然な気がする。正面の軍へ戻るなら、余計な遠回りをする必要はない。
それなのに、西へ向かったような気がした。
「こっちだと思う」
それだけ言って馬を進めた。
◆
冒頓に抱かれていた時のことを、羌瘣は思い出さないようにしていた。
忘れたわけではない。
忘れられるとも思っていない。
夜に二人きりになった時の声も、腕の重さも、自分の名を呼ぶ時の低い響きも残っている。妻になった頃の自分は、それを得られたことが嬉しくて、他の女より選ばれているのだと何度も確かめていた。
それがなくなるのが怖かった。
楼煩が近くにいるだけで苛立ったのも、冒頓の視線が別の女へ向くたび胸の奥が冷えたのも、自分が選ばれなくなれば何も残らないと思っていたからだった。
秦へ戻ると決めた時、その考えには区切りをつけた。
冒頓の側にいるかどうかで、自分の居場所を決めるのはやめた。
そのはずだった。
それでも名前を思い浮かべれば、胸の奥にまだ小さな痛みが残っている。
嫌いになったわけではない。
むしろ、それが面倒だった。
「……まだ残ってるのか」
誰にも聞こえない声で呟く。
馬はそのまま西へ進んでいる。
討てるなら討つ。
敵将なのだから、それでいい。
そう思っているのに、実際に冒頓の顔を見た時、自分がどう感じるのかだけは分からなかった。
◆
昼を過ぎた頃、先行していた騎兵が戻ってきた。
「将軍。前方に馬の跡があります。かなり新しいです」
羌瘣はすぐに速度を落とした。
地面へ残った蹄跡は多い。千まではいかないかもしれないが、数百よりは明らかに多く、しかも全軍が同じ場所を通ったわけではなく、左右へ散らしながら進んでいる。
草の折れ方を見る。
まだ戻っていない。
「どこへ向かってる?」
「南西です。このままなら秦軍の後方へ回れます」
羌瘣は周囲を見た。
ここからなら、補給隊へ向かう道はいくつかある。その中でも森と低い丘の間を抜ければ、正面からは見つからずにかなり近くまで入れる。
以前、冒頓と一緒に遠征した時、似た地形を使ったことがあった。
大軍を隠す必要はない。
見つかる直前まで位置を悟らせなければいい。
「……いた」
確信ではなかった。
だが今度は、先ほどより強かった。
自分でも嫌になるほど、考え方を知っている。
「この先だ。列を細くする。旗は伏せろ」
二百騎が速度を落とし、間隔を開けながら進んだ。
森を抜ける。
その先の地面には、さらに新しい馬糞が落ちていた。
湯気まではない。
だが、乾いてもいない。
「近いな」
羌瘣は馬の手綱を握り直した。
心臓が速くなっている。
敵将を見つけたからなのか。
それとも。
そこまでは考えなかった。
◆
小さな尾根へ上がったところで、先頭の兵が急に止まった。
「将軍」
低い声だった。
羌瘣も馬を止め、尾根の向こうを覗く。
いた。
千ほどの騎兵が谷間を進んでいる。
旗はない。
目立つ装飾も外している。
それでも、中央を走る一人だけは見間違えなかった。
冒頓。
あれほど探していたのに、実際に姿を見つけた瞬間、羌瘣の中から言葉が消えた。
以前より痩せたようにも見える。
いや、そんなはずはない。
離れてからそれほど時間は経っていない。
ただ、自分が長く会っていなかったように感じているだけだ。
「将軍?」
兵の声で我に返る。
「一騎、戻れ」
「はっ」
「扶蘇様へ伝えろ。冒頓を見つけた。千騎ほどを率いて秦軍後方へ向かっている」
「将軍は?」
「もう少し動きを見る」
伝令役が馬首を返す。
その音が、思ったより大きく谷へ響いた。
羌瘣が振り返った時には、向こうの騎兵の一部がこちらを見ていた。
「見つかった」
二百騎が一斉に武器へ手をかける。
羌瘣は舌打ちし、伝令へ叫んだ。
「行け! 振り返るな!」
伝令が駆け出す。
それと同時に、谷底の千騎が止まった。
逃げるなら今しかない。
二百で千と戦う理由などない。
羌瘣は馬首を返そうとした。
その時、中央にいた冒頓が一騎だけ前へ出た。
「羌瘣!」
遠くても分かる声だった。
手綱を引く指が、一瞬だけ止まる。
「……相変わらず、よく通る声だな」
自分でも、そんなことを考えるとは思わなかった。
冒頓はさらに近づいてくる。
周囲の匈奴騎兵も動いたが、すぐに襲いかかってはこない。
「来るなら、お前だと思っていた」
羌瘣は剣へ手をかけた。
「私が来ると?」
「俺を探せる奴がいるとすれば、お前だ」
「買いかぶりだ。私はお前がここにいると読んだわけじゃない」
「では、何故ここへ来た」
問われて、羌瘣は少し困った。
蹄跡を見た。
馬の使い方を見た。
地形も見た。
それだけでは説明できない。
「分からない」
正直に答えた。
「何となく、こっちにいると思った」
冒頓はしばらく黙っていたが、やがて僅かに口元を緩めた。
「なら、やはりお前だ」
その顔を見た瞬間、胸の奥が疼いた。
腹が立った。
まだこんなものが残っている自分にも、そんな顔をする冒頓にも。
「扶蘇は、俺が何をすると思っている」
「お前の居場所が分からない以上、簡単には動かない」
「だろうな」
冒頓は何でもないことのように言った。
「一度後ろを突けば、次はまた後ろを警戒する。だが扶蘇は、俺が同じ手を続けるほど単純ではないとも考えるだろう」
「だから本陣へ戻ったと思わせる」
「その方が、後ろへ行きやすい」
羌瘣は小さく息を吐いた。
「面倒な男だ」
「今さらか」
その返し方まで覚えていた。
二人の間にあった距離が、一瞬だけ昔と変わらなくなったような錯覚がした。
だが周囲には、千の匈奴騎兵と二百の秦騎兵がいる。
もう同じ場所には立っていない。
「戻れ、羌瘣」
冒頓が言った。
「何?」
「秦へではない。俺のところへだ」
羌瘣は、その言葉を聞いても驚かなかった。
以前なら、それだけで心が揺れただろう。
今も何も感じないわけではない。
それでも答えは決まっていた。
「嫌だ」
冒頓の顔から、僅かな笑みが消える。
「まだ俺を嫌いにはなっていないだろう」
「そうだな」
否定する必要もないと思った。
「嫌いじゃない」
周囲の兵が僅かにざわめく。
羌瘣は構わず続けた。
「それでも戻らない」
「何故だ」
「それを今から説明する気はない」
冒頓が剣を抜いた。
羌瘣も抜く。
「なら、力ずくでもか」
「やってみろ」
二人の馬が、ほとんど同時に動いた。
土が跳ねる。
千騎と二百騎の間を、二人だけが先に駆ける。
冒頓の剣が上がり、羌瘣も身体を低くした。
近づく。
昔なら、馬を並べて走っていた距離まで。
羌瘣は剣を振った。
冒頓の刃が迎える。
二人の刃が、激しくぶつかった。




