↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

152/177

第151話 引かれる先

 羌瘣(きょうかい)は二百騎を連れ、本隊から東へ大きく離れていた。


 冒頓(ぼくとつ)を探すと言っても、行き先が分かっているわけではない。正面の匈奴軍から離れた騎兵の跡を拾い、途中で消えれば別の水場へ向かい、そこでまた馬蹄の跡を探すという地味な作業が続いていた。


「こっちは違う」


 浅い川辺で馬を降りた羌瘣(きょうかい)は、湿った土へ残った蹄の跡を確かめた。


 数は多いが、進んだ時間が古い。しかも足跡の大半は北から南へ来たもので、再び戻っていった形跡がなかった。


「昨日より前だ。追わなくていい」


 兵たちはすぐに馬へ戻る。


 その判断を、自分でもほとんど意識せずにしていることに羌瘣(きょうかい)は気づいた。


 匈奴にいた頃は、こんなことを考える必要さえなかった。どこに水があり、どの程度の騎兵なら一晩でどこまで進み、馬を休ませるならどの地形を選ぶのか、周囲の者と同じように覚えていっただけだった。


 あの頃は、それが自分の暮らしだった。


 そして、その暮らしの中心には冒頓(ぼくとつ)がいた。


◆


 日が高くなる頃には、本隊の姿はもう見えなくなっていた。


 羌瘣(きょうかい)は小高い丘へ馬を上げ、周囲を見渡した。遠くに細い煙が見えるものの、村の炊事か、軍の野営跡なのか、この距離では判断できない。


「将軍、北へ向かった跡があります」


 兵の一人が呼んだ。


 丘を降りると、草の倒れ方が細く続いている。大軍ではないが、数十騎程度でもなく、何度か隊列を崩して痕跡を散らしているところを見ると、見つかることを警戒している一団らしい。


「いつ頃だ」


「昨夜か、今朝早くかと」


 羌瘣(きょうかい)は馬上から跡を追い、その先にある二本の道を見た。


 一方は北へ抜ける。


 もう一方は西へ回り、秦軍の補給路へ近づく。


 兵が尋ねる。


「どちらへ?」


 すぐには答えなかった。


 扶蘇(ふそ)なら、冒頓(ぼくとつ)が再び後方へ回る可能性も考えているだろう。だからこそ、今回は補給路を厚く見るはずだし、冒頓(ぼくとつ)自身もそれくらいは読む。


 では北へ戻ったのか。


 匈奴本陣へ帰り、こちらが探し回っている間に正面で仕掛けるのか。


 どちらもあり得る。


「……西だ」


 口から出た言葉に、羌瘣(きょうかい)自身が少し引っかかった。


「西へ?」


「ああ」


「何か見つけたのですか」


「いや」


 兵が不思議そうな顔をする。


 羌瘣(きょうかい)も、自分で説明できなかった。


 北へ行った方が自然な気がする。正面の軍へ戻るなら、余計な遠回りをする必要はない。


 それなのに、西へ向かったような気がした。


「こっちだと思う」


 それだけ言って馬を進めた。


◆


 冒頓(ぼくとつ)に抱かれていた時のことを、羌瘣(きょうかい)は思い出さないようにしていた。


 忘れたわけではない。


 忘れられるとも思っていない。


 夜に二人きりになった時の声も、腕の重さも、自分の名を呼ぶ時の低い響きも残っている。妻になった頃の自分は、それを得られたことが嬉しくて、他の女より選ばれているのだと何度も確かめていた。


 それがなくなるのが怖かった。


 楼煩(ろうはん)が近くにいるだけで苛立ったのも、冒頓(ぼくとつ)の視線が別の女へ向くたび胸の奥が冷えたのも、自分が選ばれなくなれば何も残らないと思っていたからだった。


 秦へ戻ると決めた時、その考えには区切りをつけた。


 冒頓(ぼくとつ)の側にいるかどうかで、自分の居場所を決めるのはやめた。


 そのはずだった。


 それでも名前を思い浮かべれば、胸の奥にまだ小さな痛みが残っている。


 嫌いになったわけではない。


 むしろ、それが面倒だった。


「……まだ残ってるのか」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 馬はそのまま西へ進んでいる。


 討てるなら討つ。


 敵将なのだから、それでいい。


 そう思っているのに、実際に冒頓(ぼくとつ)の顔を見た時、自分がどう感じるのかだけは分からなかった。


◆


 昼を過ぎた頃、先行していた騎兵が戻ってきた。


「将軍。前方に馬の跡があります。かなり新しいです」


 羌瘣(きょうかい)はすぐに速度を落とした。


 地面へ残った蹄跡は多い。千まではいかないかもしれないが、数百よりは明らかに多く、しかも全軍が同じ場所を通ったわけではなく、左右へ散らしながら進んでいる。


 草の折れ方を見る。


 まだ戻っていない。


「どこへ向かってる?」


「南西です。このままなら秦軍の後方へ回れます」


 羌瘣(きょうかい)は周囲を見た。


 ここからなら、補給隊へ向かう道はいくつかある。その中でも森と低い丘の間を抜ければ、正面からは見つからずにかなり近くまで入れる。


 以前、冒頓(ぼくとつ)と一緒に遠征した時、似た地形を使ったことがあった。


 大軍を隠す必要はない。


 見つかる直前まで位置を悟らせなければいい。


「……いた」


 確信ではなかった。


 だが今度は、先ほどより強かった。


 自分でも嫌になるほど、考え方を知っている。


「この先だ。列を細くする。旗は伏せろ」


 二百騎が速度を落とし、間隔を開けながら進んだ。


 森を抜ける。


 その先の地面には、さらに新しい馬糞が落ちていた。


 湯気まではない。


 だが、乾いてもいない。


「近いな」


 羌瘣(きょうかい)は馬の手綱を握り直した。


 心臓が速くなっている。


 敵将を見つけたからなのか。


 それとも。


 そこまでは考えなかった。


◆


 小さな尾根へ上がったところで、先頭の兵が急に止まった。


「将軍」


 低い声だった。


 羌瘣(きょうかい)も馬を止め、尾根の向こうを覗く。


 いた。


 千ほどの騎兵が谷間を進んでいる。


 旗はない。


 目立つ装飾も外している。


 それでも、中央を走る一人だけは見間違えなかった。


 冒頓(ぼくとつ)。


 あれほど探していたのに、実際に姿を見つけた瞬間、羌瘣(きょうかい)の中から言葉が消えた。


 以前より痩せたようにも見える。


 いや、そんなはずはない。


 離れてからそれほど時間は経っていない。


 ただ、自分が長く会っていなかったように感じているだけだ。


「将軍?」


 兵の声で我に返る。


「一騎、戻れ」


「はっ」


「扶蘇(ふそ)様へ伝えろ。冒頓(ぼくとつ)を見つけた。千騎ほどを率いて秦軍後方へ向かっている」


「将軍は?」


「もう少し動きを見る」


 伝令役が馬首を返す。


 その音が、思ったより大きく谷へ響いた。


 羌瘣(きょうかい)が振り返った時には、向こうの騎兵の一部がこちらを見ていた。


「見つかった」


 二百騎が一斉に武器へ手をかける。


 羌瘣(きょうかい)は舌打ちし、伝令へ叫んだ。


「行け! 振り返るな!」


 伝令が駆け出す。


 それと同時に、谷底の千騎が止まった。


 逃げるなら今しかない。


 二百で千と戦う理由などない。


 羌瘣(きょうかい)は馬首を返そうとした。


 その時、中央にいた冒頓(ぼくとつ)が一騎だけ前へ出た。


「羌瘣(きょうかい)!」


 遠くても分かる声だった。


 手綱を引く指が、一瞬だけ止まる。


「……相変わらず、よく通る声だな」


 自分でも、そんなことを考えるとは思わなかった。


 冒頓(ぼくとつ)はさらに近づいてくる。


 周囲の匈奴騎兵も動いたが、すぐに襲いかかってはこない。


「来るなら、お前だと思っていた」


 羌瘣(きょうかい)は剣へ手をかけた。


「私が来ると?」


「俺を探せる奴がいるとすれば、お前だ」


「買いかぶりだ。私はお前がここにいると読んだわけじゃない」


「では、何故ここへ来た」


 問われて、羌瘣(きょうかい)は少し困った。


 蹄跡を見た。


 馬の使い方を見た。


 地形も見た。


 それだけでは説明できない。


「分からない」


 正直に答えた。


「何となく、こっちにいると思った」


 冒頓(ぼくとつ)はしばらく黙っていたが、やがて僅かに口元を緩めた。


「なら、やはりお前だ」


 その顔を見た瞬間、胸の奥が疼いた。


 腹が立った。


 まだこんなものが残っている自分にも、そんな顔をする冒頓(ぼくとつ)にも。


「扶蘇(ふそ)は、俺が何をすると思っている」


「お前の居場所が分からない以上、簡単には動かない」


「だろうな」


 冒頓(ぼくとつ)は何でもないことのように言った。


「一度後ろを突けば、次はまた後ろを警戒する。だが扶蘇(ふそ)は、俺が同じ手を続けるほど単純ではないとも考えるだろう」


「だから本陣へ戻ったと思わせる」


「その方が、後ろへ行きやすい」


 羌瘣(きょうかい)は小さく息を吐いた。


「面倒な男だ」


「今さらか」


 その返し方まで覚えていた。


 二人の間にあった距離が、一瞬だけ昔と変わらなくなったような錯覚がした。


 だが周囲には、千の匈奴騎兵と二百の秦騎兵がいる。


 もう同じ場所には立っていない。


「戻れ、羌瘣(きょうかい)」


 冒頓(ぼくとつ)が言った。


「何?」


「秦へではない。俺のところへだ」


 羌瘣(きょうかい)は、その言葉を聞いても驚かなかった。


 以前なら、それだけで心が揺れただろう。


 今も何も感じないわけではない。


 それでも答えは決まっていた。


「嫌だ」


 冒頓(ぼくとつ)の顔から、僅かな笑みが消える。


「まだ俺を嫌いにはなっていないだろう」


「そうだな」


 否定する必要もないと思った。


「嫌いじゃない」


 周囲の兵が僅かにざわめく。


 羌瘣(きょうかい)は構わず続けた。


「それでも戻らない」


「何故だ」


「それを今から説明する気はない」


 冒頓(ぼくとつ)が剣を抜いた。


 羌瘣(きょうかい)も抜く。


「なら、力ずくでもか」


「やってみろ」


 二人の馬が、ほとんど同時に動いた。


 土が跳ねる。


 千騎と二百騎の間を、二人だけが先に駆ける。


 冒頓(ぼくとつ)の剣が上がり、羌瘣(きょうかい)も身体を低くした。


 近づく。


 昔なら、馬を並べて走っていた距離まで。


 羌瘣(きょうかい)は剣を振った。


 冒頓(ぼくとつ)の刃が迎える。


 二人の刃が、激しくぶつかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。