第150話 消えた単于
鍾離眜が深手を負ったという報せに続き、翌朝にはさらに悪い知らせが届いた。夜襲の混乱から立て直せないまま楚軍は臧荼の燕軍に押され、それまで押さえていた武陽へ後退し、城門を閉ざして籠城に入ったという。
鍾離眜は馬にも乗れず、軍議へ出られる状態でもない。代わって副将の季布が指揮を引き継ぎ、崩れかけた兵をまとめて城壁へ上げたものの、追ってきた臧荼はすでに城を囲み始めていた。
「季布将軍は抗戦を続けております。ただ、退却が急であったため、城内へ運び込めた兵糧は多くございません」
使者の報告を聞きながら、俺は地図上の武陽へ目を落とした。堅い城ではあるが、長期の籠城を準備して入ったわけではなく、しかも負傷した鍾離眜まで抱えている。
「鍾離眜を別の場所へ移すのは?」
「傷が深く、医師も今は動かすべきではないと申しております」
そこで黥布が腕を組み、使者へ顔を向けた。
「で、冒頓はどこへ行った」
「分かりませぬ。夜襲の際には確かに姿を確認しておりますが、その後は見失っております」
陣幕の中の視線が、自然と地図へ集まった。
正面には今も七万ほどの匈奴軍が残り、武陽では臧荼が楚軍を囲んでいる。その二つの間にも、その外にも、冒頓本人の位置だけは置けなかった。
◆
「探す部隊を出すべきです」
使者を下がらせた後、張良が地図の上へ指を置いた。
「このまま武陽へ向かえば、行軍中に横か後ろを突かれる恐れがあります。正面の匈奴軍も残っておりますから、まず冒頓本人の所在を掴まなければ、十万を動かすほど危険が増します」
「斥候はもう増やしてるよ」
「数ではなく、見る者を変えた方がよろしいかと」
張良がそう言い終える前に、羌瘣が口を開いた。
「私が行く」
予想していたような気もしたが、俺はすぐには頷けなかった。羌瘣は匈奴の馬の使い方も野営の跡も知り、冒頓本人の癖まで、この場の誰より理解している可能性が高い。
だから適任であることは分かる。
それでも、ようやく秦へ戻ってきた羌瘣を、よりによって冒頓を探す任務へ出すことには、どうしてもためらいが残った。
「羌瘣じゃなくても、探すだけならできるだろ」
「痕跡を見るだけならな。でも、それが本隊なのか斥候なのか、わざと残したものなのかまでは、慣れていない者には分からない」
「見つけた時には、向こうの近くにいることになる」
「それも分かっている」
羌瘣の返事は淡々としていた。
「大人数で探せば先に気づかれる。数百で十分だ」
横から楊端和も口を挟んだ。
「扶蘇様、私も羌瘣が適任だと思います。匈奴の騎兵がどこを見るか、どこを避けるかまで知っている者の方が、少数で動くなら生き残れるでしょう」
「二人してそう言うか」
「はい」
俺は羌瘣を見る。
「見つけても、無理に戦うなよ」
「状況による」
「そこは頷いてほしかったな」
「見つけた瞬間に向こうから来るかもしれない。絶対とは言えない」
「……それもそうか」
結局、羌瘣には数百騎だけを持たせることにした。匈奴の動きを知る者と、北方で長く戦ってきた騎兵を選び、正面の戦場から外れて冒頓の痕跡を追わせる。
出発の直前、羌瘣は余計なことを何も言わず馬へ乗った。
「気をつけて」
「そっちもな」
それだけ交わし、羌瘣は騎兵を率いて陣を離れていった。
◆
羌瘣が抜けたことで、前日まで使っていた鶴翼は崩すことになった。
「広げるのはやめましょう」
張良は地面へ新しい配置を描き、前方に黥布の部隊を厚く置き、その後ろへ楊端和の騎兵を左右に動かせるよう構え、さらに内側へ俺の本隊を置く形を示した。完全な円陣ではないが、三つの弧を重ねるように側面まで厚くすれば、どこか一方へ兵を寄せなくても互いに支えられる。
「今度は俺が一番前か」
黥布が地図を覗き込む。
「昨日よりは向いてるだろ?」
「最初からこうしとけばよかったんじゃねえか」
「まだ言うのか、それ」
「俺は兜まで飛ばされてるんだぞ」
すぐ横で楊端和が口を挟んだ。
「それは自分で追いすぎたからだ」
「お前まで蒸し返すな」
「事実だ」
黥布が嫌そうな顔をしたが、張良は二人を放って先へ進めた。
「楼煩が来ても深く追わないでください。受けるだけで十分です」
「また待つのか?」
「冒頓の場所が分からない間は、こちらから大きく動きません」
今度は黥布もすぐには言い返さなかった。
「武陽では季布が囲まれてる」
「承知しております」
「十万もいて、助けに行かねえのか」
「十万いるからこそ、今は動かせません」
張良は地図の道を指でなぞった。
「武陽へ向かえば、軍は長く伸びます。正面の匈奴軍を残したまま、その途中で冒頓に側面か後方を突かれれば、前日のように一部を乱されるだけでは済みません」
黥布は地図を見下ろしたまま黙った。
兵力そのものはある。
だが、今のままではその兵力を安全に運べない。
「季布には耐えてもらうしかないか」
俺が言うと、張良は頷いた。
「今すぐ救援へ向かうより、冒頓の位置を掴んでから動く方が、結果として武陽へ届く可能性は高くなります」
理屈は分かる。
それでも、助けに行ける兵を抱えたまま待つという判断は、どうにも気分が悪かった。
◆
昼前になると、匈奴軍もこちらの陣形が変わったことに気づいたらしい。
楼煩の騎兵が一度だけ距離を詰め、前面の黥布を誘うように右へ流れる。黥布も少しだけ兵を押し出したが、今度は深く追わず、相手が離れるとそのまま元の位置へ戻った。
「行かねえぞ」
誰に聞かせるでもなく呟いている。
楼煩は左右へ大きく回り、こちらの陣の厚みを測るように動いた後、それ以上は仕掛けず匈奴軍へ戻った。
そこからは、妙に静かな時間が続いた。
昼を過ぎても匈奴軍は攻めてこず、こちらも動かない。数万の兵が互いの姿を見ながら、矢の届かない距離を保ったまま向き合い、時折斥候だけがその間を走っていく。
「これでいいのかな」
思わず口にすると、張良はすぐには答えなかった。
「良いとは申しません」
「やっぱり?」
「ですが、今はこれ以上の手がありません。所在の分からない冒頓を追って軍を割るより、羌瘣殿の報告を待つ方がまだ危険は少ないでしょう」
張良自身も、この待ち方を気に入っているわけではないらしい。
俺たちの前には七万の匈奴軍がいる。
武陽では季布が包囲に耐えている。
その二つの間で、十万を率いている俺たちはどちらにも仕掛けられず、冒頓一人の所在を待っていた。
夕刻が近づいても、羌瘣からの報告はまだ来ない。
正面の匈奴陣では、今日も単于の旗が風に揺れている。
だが、もうあの旗を見ても何も分からなかった。
冒頓がどこにいるのか。
その答えを掴むまでは、こちらから動くわけにはいかなかった。




