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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第150話 消えた単于

 鍾離眜(しょうりばつ)が深手を負ったという報せに続き、翌朝にはさらに悪い知らせが届いた。夜襲の混乱から立て直せないまま楚軍は臧荼(ぞうと)の燕軍に押され、それまで押さえていた武陽(ぶよう)へ後退し、城門を閉ざして籠城に入ったという。


 鍾離眜(しょうりばつ)は馬にも乗れず、軍議へ出られる状態でもない。代わって副将の季布(きふ)が指揮を引き継ぎ、崩れかけた兵をまとめて城壁へ上げたものの、追ってきた臧荼(ぞうと)はすでに城を囲み始めていた。


「季布(きふ)将軍は抗戦を続けております。ただ、退却が急であったため、城内へ運び込めた兵糧は多くございません」


 使者の報告を聞きながら、俺は地図上の武陽(ぶよう)へ目を落とした。堅い城ではあるが、長期の籠城を準備して入ったわけではなく、しかも負傷した鍾離眜(しょうりばつ)まで抱えている。


「鍾離眜(しょうりばつ)を別の場所へ移すのは?」


「傷が深く、医師も今は動かすべきではないと申しております」


 そこで黥布(げいふ)が腕を組み、使者へ顔を向けた。


「で、冒頓(ぼくとつ)はどこへ行った」


「分かりませぬ。夜襲の際には確かに姿を確認しておりますが、その後は見失っております」


 陣幕の中の視線が、自然と地図へ集まった。


 正面には今も七万ほどの匈奴軍が残り、武陽(ぶよう)では臧荼(ぞうと)が楚軍を囲んでいる。その二つの間にも、その外にも、冒頓(ぼくとつ)本人の位置だけは置けなかった。


◆


「探す部隊を出すべきです」


 使者を下がらせた後、張良(ちょうりょう)が地図の上へ指を置いた。


「このまま武陽(ぶよう)へ向かえば、行軍中に横か後ろを突かれる恐れがあります。正面の匈奴軍も残っておりますから、まず冒頓(ぼくとつ)本人の所在を掴まなければ、十万を動かすほど危険が増します」


「斥候はもう増やしてるよ」


「数ではなく、見る者を変えた方がよろしいかと」


 張良(ちょうりょう)がそう言い終える前に、羌瘣(きょうかい)が口を開いた。


「私が行く」


 予想していたような気もしたが、俺はすぐには頷けなかった。羌瘣(きょうかい)は匈奴の馬の使い方も野営の跡も知り、冒頓(ぼくとつ)本人の癖まで、この場の誰より理解している可能性が高い。


 だから適任であることは分かる。


 それでも、ようやく秦へ戻ってきた羌瘣(きょうかい)を、よりによって冒頓(ぼくとつ)を探す任務へ出すことには、どうしてもためらいが残った。


「羌瘣(きょうかい)じゃなくても、探すだけならできるだろ」


「痕跡を見るだけならな。でも、それが本隊なのか斥候なのか、わざと残したものなのかまでは、慣れていない者には分からない」


「見つけた時には、向こうの近くにいることになる」


「それも分かっている」


 羌瘣(きょうかい)の返事は淡々としていた。


「大人数で探せば先に気づかれる。数百で十分だ」


 横から楊端和(ようたんわ)も口を挟んだ。


「扶蘇(ふそ)様、私も羌瘣(きょうかい)が適任だと思います。匈奴の騎兵がどこを見るか、どこを避けるかまで知っている者の方が、少数で動くなら生き残れるでしょう」


「二人してそう言うか」


「はい」


 俺は羌瘣(きょうかい)を見る。


「見つけても、無理に戦うなよ」


「状況による」


「そこは頷いてほしかったな」


「見つけた瞬間に向こうから来るかもしれない。絶対とは言えない」


「……それもそうか」


 結局、羌瘣(きょうかい)には数百騎だけを持たせることにした。匈奴の動きを知る者と、北方で長く戦ってきた騎兵を選び、正面の戦場から外れて冒頓(ぼくとつ)の痕跡を追わせる。


 出発の直前、羌瘣(きょうかい)は余計なことを何も言わず馬へ乗った。


「気をつけて」


「そっちもな」


 それだけ交わし、羌瘣(きょうかい)は騎兵を率いて陣を離れていった。


◆


 羌瘣(きょうかい)が抜けたことで、前日まで使っていた鶴翼は崩すことになった。


「広げるのはやめましょう」


 張良(ちょうりょう)は地面へ新しい配置を描き、前方に黥布(げいふ)の部隊を厚く置き、その後ろへ楊端和(ようたんわ)の騎兵を左右に動かせるよう構え、さらに内側へ俺の本隊を置く形を示した。完全な円陣ではないが、三つの弧を重ねるように側面まで厚くすれば、どこか一方へ兵を寄せなくても互いに支えられる。


「今度は俺が一番前か」


 黥布(げいふ)が地図を覗き込む。


「昨日よりは向いてるだろ?」


「最初からこうしとけばよかったんじゃねえか」


「まだ言うのか、それ」


「俺は兜まで飛ばされてるんだぞ」


 すぐ横で楊端和(ようたんわ)が口を挟んだ。


「それは自分で追いすぎたからだ」


「お前まで蒸し返すな」


「事実だ」


 黥布(げいふ)が嫌そうな顔をしたが、張良(ちょうりょう)は二人を放って先へ進めた。


「楼煩(ろうはん)が来ても深く追わないでください。受けるだけで十分です」


「また待つのか?」


「冒頓(ぼくとつ)の場所が分からない間は、こちらから大きく動きません」


 今度は黥布(げいふ)もすぐには言い返さなかった。


「武陽(ぶよう)では季布(きふ)が囲まれてる」


「承知しております」


「十万もいて、助けに行かねえのか」


「十万いるからこそ、今は動かせません」


 張良(ちょうりょう)は地図の道を指でなぞった。


「武陽(ぶよう)へ向かえば、軍は長く伸びます。正面の匈奴軍を残したまま、その途中で冒頓(ぼくとつ)に側面か後方を突かれれば、前日のように一部を乱されるだけでは済みません」


 黥布(げいふ)は地図を見下ろしたまま黙った。


 兵力そのものはある。


 だが、今のままではその兵力を安全に運べない。


「季布(きふ)には耐えてもらうしかないか」


 俺が言うと、張良(ちょうりょう)は頷いた。


「今すぐ救援へ向かうより、冒頓(ぼくとつ)の位置を掴んでから動く方が、結果として武陽(ぶよう)へ届く可能性は高くなります」


 理屈は分かる。


 それでも、助けに行ける兵を抱えたまま待つという判断は、どうにも気分が悪かった。


◆


 昼前になると、匈奴軍もこちらの陣形が変わったことに気づいたらしい。


 楼煩(ろうはん)の騎兵が一度だけ距離を詰め、前面の黥布(げいふ)を誘うように右へ流れる。黥布(げいふ)も少しだけ兵を押し出したが、今度は深く追わず、相手が離れるとそのまま元の位置へ戻った。


「行かねえぞ」


 誰に聞かせるでもなく呟いている。


 楼煩(ろうはん)は左右へ大きく回り、こちらの陣の厚みを測るように動いた後、それ以上は仕掛けず匈奴軍へ戻った。


 そこからは、妙に静かな時間が続いた。


 昼を過ぎても匈奴軍は攻めてこず、こちらも動かない。数万の兵が互いの姿を見ながら、矢の届かない距離を保ったまま向き合い、時折斥候だけがその間を走っていく。


「これでいいのかな」


 思わず口にすると、張良(ちょうりょう)はすぐには答えなかった。


「良いとは申しません」


「やっぱり?」


「ですが、今はこれ以上の手がありません。所在の分からない冒頓(ぼくとつ)を追って軍を割るより、羌瘣(きょうかい)殿の報告を待つ方がまだ危険は少ないでしょう」


 張良(ちょうりょう)自身も、この待ち方を気に入っているわけではないらしい。


 俺たちの前には七万の匈奴軍がいる。


 武陽(ぶよう)では季布(きふ)が包囲に耐えている。


 その二つの間で、十万を率いている俺たちはどちらにも仕掛けられず、冒頓(ぼくとつ)一人の所在を待っていた。


 夕刻が近づいても、羌瘣(きょうかい)からの報告はまだ来ない。


 正面の匈奴陣では、今日も単于の旗が風に揺れている。


 だが、もうあの旗を見ても何も分からなかった。


 冒頓(ぼくとつ)がどこにいるのか。


 その答えを掴むまでは、こちらから動くわけにはいかなかった。


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