第149話 動かぬ単于
前日の敗北を受け、秦軍は陣形そのものを組み替えた。
十万の中央には黥布を置き、その左右へ歩兵の主力を厚く並べる。右翼を楊端和、左翼を羌瘣の騎兵に任せ、両翼を大きく前へ張り出させれば、正面から見た陣は巨大な鶴が翼を広げた形になる。
前日のように、一方へ兵を寄せたところへ冒頓が飛び込んでくる余地を作らない。そのうえで楼煩がどちらかの翼へ出てくれば、中央の黥布を加えて挟み込むというのが、俺と張良の考えだった。
「今度は俺を荷駄の横へ置くなよ」
軍議を終えた後も念を押してきた黥布に、俺は頷いた。
「今日は中央だよ。冒頓が昨日と同じことをするなら、真っ先にぶつかる場所だ」
「最初からそうしてりゃよかったんだ」
「昨日の話はもう勘弁してくれ」
「俺は一日中待ってたんだぞ」
張良が横から口を挟む。
「昨日の配置を決めたのは私ですから、文句でしたら私にもどうぞ。ただし今日は、中央を勝手に空けないでください」
「客卿、お前は俺を何だと思ってる」
「強い方だとは思っております」
「それ以外は?」
「今は申しません」
「今は、って何だ」
黥布が不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は続けず、前方へ戻っていった。
昨日は俺も張良も剣を振るう羽目になった。だからこそ今日の陣は、王旗の周囲だけを固めるのではなく、冒頓本人がどこから現れても軍全体で受け止められる形にしている。
問題は、その冒頓がどこにいるかだった。
匈奴軍七万の後方には、今日も単于の旗が立っている。
もちろん、もう旗だけを信じるつもりはなかった。
◆
戦端を開いたのは楼煩だった。
匈奴騎兵の一角が大きく右へ流れ、秦軍の左翼へ向かう。昨日までと同じく、正面から強引にぶつかるのではなく、数百騎ずつが伸びたり縮んだりしながら距離を詰めてくる。
その先にいるのは羌瘣。
「今日は私か」
羌瘣が馬首をわずかに外へ向ける。
楼煩も同じように進路を変えた。
互いの騎兵が矢を放ち、距離が縮まる。
「左はそのまま! 右だけ寄せろ!」
羌瘣の指示で秦騎兵が傾く。
そこへ楼煩が入る。
馬がすれ違い、刃が交わる。
羌瘣が一撃を受け流し、そのまま馬首を返すが、楼煩はすでに数十歩先へ抜けている。周囲の匈奴騎兵も一緒に流れ、今度は秦軍左翼のさらに外へ広がろうとした。
「外は渡さない!」
羌瘣も追う。
ただし全軍ではない。
半数を元の位置へ残し、自ら率いる隊だけで楼煩の進路へ回り込む。
楼煩が振り返る。
矢が飛ぶ。
羌瘣が馬上で身体を倒し、頬のすぐ横を矢が抜けた。
そのまま距離を詰める。
今度は楼煩が中央へ切った。
そこには黥布がいる。
◆
「来たな」
黥布は剣を抜いた。
後方から太鼓が鳴る。
前へ出ろという合図だった。
「待ってたぞ!」
黥布が部隊を動かす。
中央全体ではない。黥布自身の兵だけが前へ突き出し、左から戻ってくる羌瘣とともに、楼煩の騎兵を挟みにかかる。
楼煩の前には黥布。
後ろから羌瘣。
「散れ!」
匈奴騎兵が二つに割れた。
「逃がすか!」
黥布はその中央へ入る。
向かってきた騎兵の槍を弾き、すれ違いざまに一人を斬り落とす。さらに次の兵を押し退けると、その向こうを走る楼煩の背が見えた。
「お前が楼煩か!」
初めて直接ぶつかる相手へ声を飛ばす。
楼煩は振り向いただけだった。
「待て!」
もちろん待たない。
黥布が速度を上げる。
あと少しで剣が届くところまで近づくたび、横から匈奴騎兵が入り、矢を射ながら進路を邪魔する。黥布がそれを斬れば、その数呼吸の間に楼煩はまた距離を取っていた。
「ちっ!」
今度は右へ。
楼煩が秦軍の薄いところへ走る。
黥布も追う。
「黥布! 出すぎるな!」
後ろから羌瘣の声が飛ぶ。
「分かってる!」
答えながらも、黥布は速度を落とさない。
もう一度距離が縮まる。
今度こそ届く。
楼煩が振り返った。
弓を持っている。
「またそれか!」
黥布も警戒していた。
馬上で身体を落とし、飛んできた一本をかわす。
二本目。
それも見える。
頭を振った。
乾いた音が耳元で弾けた。
「うおっ!」
兜が飛んだ。
黥布の頭から外れた兜が地面へ落ち、何度も転がっていく。
馬を止める。
反射的に額へ触れた。
血はない。
矢は兜の縁を掠めただけだ。
それでも、一瞬遅ければ顔を貫かれていた。
「黥布!」
羌瘣が横から入ってくる。
楼煩はもう離れていた。
「無事?」
「ああ」
「なら下がる」
「まだいける!」
「兜がない」
「頭はある!」
「次はなくなるかもしれない」
黥布が言い返そうとしたところで、遠くの楼煩が再び弓を上げる。
「……あいつ、腹立つな」
「怒らせるためにやってる」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「うるせえ!」
楼煩はさらに外へ流れ、黥布と羌瘣が追えば、その分だけ戦場全体を広げていく。
捕まらない。
近づけば離れ、こちらが止まれば寄ってくる。
黥布の力を受ける気など最初からなく、剣の届かないところだけを選んで走り続けていた。
◆
左翼が大きく動く間も、右翼の楊端和はほとんど位置を変えなかった。
部下たちは何度も左へ目を向けている。
楼煩が羌瘣と黥布を引きつけ、戦場の端から中央まで大きく走り回っている以上、右翼の兵を回せば挟み込めるようにも見える。
「将軍、左へ出ますか?」
「出ない」
楊端和は遠くの匈奴本陣を見たまま答えた。
「しかし、楼煩が」
「楼煩は二人に任せる。私たちが左へ寄れば、ここが空く」
単于の旗は動いていない。
だが昨日もそうだった。
旗の下に本人がいるとは限らない。
「昨日、冒頓は私たちが前へ寄った瞬間に入ってきた。今日も同じことをするなら、狙うのはここだ」
楊端和は右翼を動かさない。
匈奴側の騎兵が少し前へ出れば、その分だけ自分の兵を寄せるが、左翼を助けるために大きく場所を変えることはなかった。
時間だけが過ぎる。
楼煩はまだ走っている。
羌瘣と黥布も追い続けている。
それでも冒頓は現れなかった。
◆
夕刻まで戦いは続いたものの、決着はつかなかった。
楼煩は最後まで捕まらず、黥布が押し込めば外へ逃れ、羌瘣が回り込めば戦場の中央へ戻る。二人が深く追わなくなると、今度は向こうから近づいて矢を射ち、こちらをもう一度動かそうとしてくる。
秦軍も鶴翼を崩さなかったため、昨日のように陣の奥まで抉られることはない。
その代わり、こちらからも匈奴軍を崩し切れないまま日が暮れた。
陣へ戻った黥布は、途中で兵に拾わせた兜を卓上へ置いた。
縁に深い傷が入っている。
「誰も笑うなよ」
「まだ誰も笑ってないよ」
俺が言うと、黥布は張良を見る。
「客卿、お前もだ」
「私は笑っておりません」
「口元が怪しい」
「生きて戻られて安堵しております」
「絶対それだけじゃねえだろ」
横で水を飲んでいた羌瘣が口を開く。
「明日は兜を縛ればいい」
「お前まで言うのか」
「飛ばなくなる」
「首ごと持っていかれたらどうする」
「それは困る」
「他人事みたいに言うな!」
黥布の声が陣幕へ響いた。
冗談にできる程度で済んだだけで、危なかったのは間違いない。楼煩に頭へ矢を向けられること自体は警戒していたのに、それでもあの速度で距離を変えられると、避け切れない一本が混じる。
「冒頓は、結局出てこなかったな」
俺が地図へ視線を落とすと、張良も笑みを消した。
「楊端和殿が右翼を動かさなかった以上、昨日と同じ入り方はできません。こちらが警戒を解くのを待っているのか、それとも最初から今日は出るつもりがなかったのか、今のところは判断できません」
「明日も同じ陣で行く?」
「変える理由はないかと。少なくとも、今日はこちらの陣を崩されておりません」
確かに敗れてはいない。
それでも、勝ったとも言えなかった。
地図の上の単于の駒が、妙に遠く感じられた。
◆
翌日も、匈奴軍は同じように現れた。
楼煩が左翼へ寄る。
羌瘣が受ける。
黥布が中央から前へ出て挟もうとする。
ただし昨日のように黥布は深く追わず、楼煩が外へ逃れれば一度戻り、こちらへ寄ってくればまた押し返した。
「今日は行かねえぞ!」
遠ざかる楼煩へ黥布が叫ぶ。
当然、返事はない。
「聞いてんのか!」
羌瘣が横から言う。
「行かないなら黙ってればいい」
「こいつに分からせてんだよ」
「たぶん、お前が来ないならそれでいいと思ってる」
「余計腹立つな」
それでも今度は追わなかった。
右翼の楊端和も昨日と変わらず、単于の旗を監視したまま位置を保つ。
昼を過ぎても、冒頓は出てこない。
夕方になっても変わらない。
二日続けて、秦軍は冒頓を警戒し続けたまま一日を終えた。
こちらが動かないから、向こうも出られない。
そう考えれば筋は通る。
だが張良は陣へ戻ってからも地図を見続けていた。
「何か気になる?」
「冒頓が昨日の失敗だけで、自分から前へ出るのを完全に止めるでしょうか」
「失敗と言っても、俺を殺し損ねただけでこっちは負けたけどな」
「だからこそです。効果があった手を、こちらが備えただけで捨てるのかと」
言われてみれば、そこは引っかかる。
ただ、匈奴本陣には単于の旗があり、周囲にも相応の兵がいる。斥候から別の大軍が動いたという報告も入っていない。
「明日も見るしかないな」
「はい。ただし、旗ではなく周囲を」
同じ失敗はしない。
そう思っていた。
◆
三日目も、平原には同じ光景が広がった。
十万の秦軍が鶴翼を作り、七万の匈奴軍が正面へ出る。
楼煩が左へ動けば羌瘣が受け、黥布が中央から寄る。楊端和は今日も右翼から動かず、いつ現れるか分からない冒頓の騎兵を待ち続けた。
ところが、その日も冒頓は姿を見せなかった。
夕方になると、両軍は大きな損害を出さないままそれぞれの陣へ戻った。
三日間、こちらは同じように待った。
冒頓が再びどこかを突いてくるなら、今度こそ受け止めるつもりで。
夜の軍議でも、その話が中心になった。
「明日は少し変えるべきかもしれません」
張良が地図の中央へ指を置く。
「このままでは、楼煩殿の騎兵に付き合っているだけになります。こちらが陣を崩さないと分かれば、向こうも別の手を用意してくるでしょう」
「もう用意してるかもしれない」
楊端和が言った。
三日間、右翼で待ち続けた本人だけに、その声には苛立ちより警戒の方が強い。
「冒頓は一度も見ていない。旗だけだ」
羌瘣も頷く。
「私も見ていない」
「じゃあ、どこにいる?」
俺が尋ねても、答えは出ない。
その時、陣幕の外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「秦王!」
幕が開き、楚軍の兵が転がり込むように入ってくる。
鎧には乾いた血がこびりつき、馬を飛ばし続けてきたのか、膝をついたまま肩を大きく上下させていた。
「鍾離眜将軍より急報にございます」
張良がすぐに地図の別の場所へ目を向けた。
「燕軍に動きがあったのですか」
「燕軍だけではございません」
兵が息を整える。
「昨夜、我が陣が夜襲を受けました。臧荼軍とともに突入してきた匈奴騎兵を率いていたのは、単于冒頓本人にございます」
陣幕の中から声が消えた。
俺は反射的に楊端和を見る。
三日間、冒頓が来ることを警戒して右翼を動かなかった女も、今は地図の上の別戦場を見ている。
「鍾離眜は?」
俺が聞くと、楚兵は一度唇を噛んだ。
「夜襲の中で負傷されました。命はございますが傷が深く、現在は軍を指揮できる状態ではございません」
黥布が卓へ身を寄せた。
「待て。あいつ、こっちにいなかったのか」
「少なくとも昨夜は、いなかったことになります」
張良の声が低くなる。
匈奴本陣には毎日、単于の旗が立っていた。
楼煩は左翼を走り続け、こちらの目を引きつけた。
俺たちは冒頓が前日のように飛び込んでくることを警戒し、十万の一角を三日間ほとんど動かさなかった。
その間に本人は、この戦場を離れていた。
「……やられたな」
俺が漏らすと、張良も否定しなかった。
初日は、冒頓が本陣から飛び出してきたことに驚かされた。
今度は逆だった。
出てくると思わせたまま、本人だけがいなくなっていた。




