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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第149話 動かぬ単于

 前日の敗北を受け、秦軍は陣形そのものを組み替えた。


 十万の中央には黥布(げいふ)を置き、その左右へ歩兵の主力を厚く並べる。右翼を楊端和(ようたんわ)、左翼を羌瘣(きょうかい)の騎兵に任せ、両翼を大きく前へ張り出させれば、正面から見た陣は巨大な鶴が翼を広げた形になる。


 前日のように、一方へ兵を寄せたところへ冒頓(ぼくとつ)が飛び込んでくる余地を作らない。そのうえで楼煩(ろうはん)がどちらかの翼へ出てくれば、中央の黥布(げいふ)を加えて挟み込むというのが、俺と張良(ちょうりょう)の考えだった。


「今度は俺を荷駄の横へ置くなよ」


 軍議を終えた後も念を押してきた黥布(げいふ)に、俺は頷いた。


「今日は中央だよ。冒頓(ぼくとつ)が昨日と同じことをするなら、真っ先にぶつかる場所だ」


「最初からそうしてりゃよかったんだ」


「昨日の話はもう勘弁してくれ」


「俺は一日中待ってたんだぞ」


 張良(ちょうりょう)が横から口を挟む。


「昨日の配置を決めたのは私ですから、文句でしたら私にもどうぞ。ただし今日は、中央を勝手に空けないでください」


「客卿、お前は俺を何だと思ってる」


「強い方だとは思っております」


「それ以外は?」


「今は申しません」


「今は、って何だ」


 黥布(げいふ)が不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は続けず、前方へ戻っていった。


 昨日は俺も張良(ちょうりょう)も剣を振るう羽目になった。だからこそ今日の陣は、王旗の周囲だけを固めるのではなく、冒頓(ぼくとつ)本人がどこから現れても軍全体で受け止められる形にしている。


 問題は、その冒頓(ぼくとつ)がどこにいるかだった。


 匈奴軍七万の後方には、今日も単于の旗が立っている。


 もちろん、もう旗だけを信じるつもりはなかった。


◆


 戦端を開いたのは楼煩(ろうはん)だった。


 匈奴騎兵の一角が大きく右へ流れ、秦軍の左翼へ向かう。昨日までと同じく、正面から強引にぶつかるのではなく、数百騎ずつが伸びたり縮んだりしながら距離を詰めてくる。


 その先にいるのは羌瘣(きょうかい)。


「今日は私か」


 羌瘣(きょうかい)が馬首をわずかに外へ向ける。


 楼煩(ろうはん)も同じように進路を変えた。


 互いの騎兵が矢を放ち、距離が縮まる。


「左はそのまま! 右だけ寄せろ!」


 羌瘣(きょうかい)の指示で秦騎兵が傾く。


 そこへ楼煩(ろうはん)が入る。


 馬がすれ違い、刃が交わる。


 羌瘣(きょうかい)が一撃を受け流し、そのまま馬首を返すが、楼煩(ろうはん)はすでに数十歩先へ抜けている。周囲の匈奴騎兵も一緒に流れ、今度は秦軍左翼のさらに外へ広がろうとした。


「外は渡さない!」


 羌瘣(きょうかい)も追う。


 ただし全軍ではない。


 半数を元の位置へ残し、自ら率いる隊だけで楼煩(ろうはん)の進路へ回り込む。


 楼煩(ろうはん)が振り返る。


 矢が飛ぶ。


 羌瘣(きょうかい)が馬上で身体を倒し、頬のすぐ横を矢が抜けた。


 そのまま距離を詰める。


 今度は楼煩(ろうはん)が中央へ切った。


 そこには黥布(げいふ)がいる。


◆


「来たな」


 黥布(げいふ)は剣を抜いた。


 後方から太鼓が鳴る。


 前へ出ろという合図だった。


「待ってたぞ!」


 黥布(げいふ)が部隊を動かす。


 中央全体ではない。黥布(げいふ)自身の兵だけが前へ突き出し、左から戻ってくる羌瘣(きょうかい)とともに、楼煩(ろうはん)の騎兵を挟みにかかる。


 楼煩(ろうはん)の前には黥布(げいふ)。


 後ろから羌瘣(きょうかい)。


「散れ!」


 匈奴騎兵が二つに割れた。


「逃がすか!」


 黥布(げいふ)はその中央へ入る。


 向かってきた騎兵の槍を弾き、すれ違いざまに一人を斬り落とす。さらに次の兵を押し退けると、その向こうを走る楼煩(ろうはん)の背が見えた。


「お前が楼煩(ろうはん)か!」


 初めて直接ぶつかる相手へ声を飛ばす。


 楼煩(ろうはん)は振り向いただけだった。


「待て!」


 もちろん待たない。


 黥布(げいふ)が速度を上げる。


 あと少しで剣が届くところまで近づくたび、横から匈奴騎兵が入り、矢を射ながら進路を邪魔する。黥布(げいふ)がそれを斬れば、その数呼吸の間に楼煩(ろうはん)はまた距離を取っていた。


「ちっ!」


 今度は右へ。


 楼煩(ろうはん)が秦軍の薄いところへ走る。


 黥布(げいふ)も追う。


「黥布(げいふ)! 出すぎるな!」


 後ろから羌瘣(きょうかい)の声が飛ぶ。


「分かってる!」


 答えながらも、黥布(げいふ)は速度を落とさない。


 もう一度距離が縮まる。


 今度こそ届く。


 楼煩(ろうはん)が振り返った。


 弓を持っている。


「またそれか!」


 黥布(げいふ)も警戒していた。


 馬上で身体を落とし、飛んできた一本をかわす。


 二本目。


 それも見える。


 頭を振った。


 乾いた音が耳元で弾けた。


「うおっ!」


 兜が飛んだ。


 黥布(げいふ)の頭から外れた兜が地面へ落ち、何度も転がっていく。


 馬を止める。


 反射的に額へ触れた。


 血はない。


 矢は兜の縁を掠めただけだ。


 それでも、一瞬遅ければ顔を貫かれていた。


「黥布(げいふ)!」


 羌瘣(きょうかい)が横から入ってくる。


 楼煩(ろうはん)はもう離れていた。


「無事?」


「ああ」


「なら下がる」


「まだいける!」


「兜がない」


「頭はある!」


「次はなくなるかもしれない」


 黥布(げいふ)が言い返そうとしたところで、遠くの楼煩(ろうはん)が再び弓を上げる。


「……あいつ、腹立つな」


「怒らせるためにやってる」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「うるせえ!」


 楼煩(ろうはん)はさらに外へ流れ、黥布(げいふ)と羌瘣(きょうかい)が追えば、その分だけ戦場全体を広げていく。


 捕まらない。


 近づけば離れ、こちらが止まれば寄ってくる。


 黥布(げいふ)の力を受ける気など最初からなく、剣の届かないところだけを選んで走り続けていた。


◆


 左翼が大きく動く間も、右翼の楊端和(ようたんわ)はほとんど位置を変えなかった。


 部下たちは何度も左へ目を向けている。


 楼煩(ろうはん)が羌瘣(きょうかい)と黥布(げいふ)を引きつけ、戦場の端から中央まで大きく走り回っている以上、右翼の兵を回せば挟み込めるようにも見える。


「将軍、左へ出ますか?」


「出ない」


 楊端和(ようたんわ)は遠くの匈奴本陣を見たまま答えた。


「しかし、楼煩(ろうはん)が」


「楼煩(ろうはん)は二人に任せる。私たちが左へ寄れば、ここが空く」


 単于の旗は動いていない。


 だが昨日もそうだった。


 旗の下に本人がいるとは限らない。


「昨日、冒頓(ぼくとつ)は私たちが前へ寄った瞬間に入ってきた。今日も同じことをするなら、狙うのはここだ」


 楊端和(ようたんわ)は右翼を動かさない。


 匈奴側の騎兵が少し前へ出れば、その分だけ自分の兵を寄せるが、左翼を助けるために大きく場所を変えることはなかった。


 時間だけが過ぎる。


 楼煩(ろうはん)はまだ走っている。


 羌瘣(きょうかい)と黥布(げいふ)も追い続けている。


 それでも冒頓(ぼくとつ)は現れなかった。


◆


 夕刻まで戦いは続いたものの、決着はつかなかった。


 楼煩(ろうはん)は最後まで捕まらず、黥布(げいふ)が押し込めば外へ逃れ、羌瘣(きょうかい)が回り込めば戦場の中央へ戻る。二人が深く追わなくなると、今度は向こうから近づいて矢を射ち、こちらをもう一度動かそうとしてくる。


 秦軍も鶴翼を崩さなかったため、昨日のように陣の奥まで抉られることはない。


 その代わり、こちらからも匈奴軍を崩し切れないまま日が暮れた。


 陣へ戻った黥布(げいふ)は、途中で兵に拾わせた兜を卓上へ置いた。


 縁に深い傷が入っている。


「誰も笑うなよ」


「まだ誰も笑ってないよ」


 俺が言うと、黥布(げいふ)は張良(ちょうりょう)を見る。


「客卿、お前もだ」


「私は笑っておりません」


「口元が怪しい」


「生きて戻られて安堵しております」


「絶対それだけじゃねえだろ」


 横で水を飲んでいた羌瘣(きょうかい)が口を開く。


「明日は兜を縛ればいい」


「お前まで言うのか」


「飛ばなくなる」


「首ごと持っていかれたらどうする」


「それは困る」


「他人事みたいに言うな!」


 黥布(げいふ)の声が陣幕へ響いた。


 冗談にできる程度で済んだだけで、危なかったのは間違いない。楼煩(ろうはん)に頭へ矢を向けられること自体は警戒していたのに、それでもあの速度で距離を変えられると、避け切れない一本が混じる。


「冒頓(ぼくとつ)は、結局出てこなかったな」


 俺が地図へ視線を落とすと、張良(ちょうりょう)も笑みを消した。


「楊端和(ようたんわ)殿が右翼を動かさなかった以上、昨日と同じ入り方はできません。こちらが警戒を解くのを待っているのか、それとも最初から今日は出るつもりがなかったのか、今のところは判断できません」


「明日も同じ陣で行く?」


「変える理由はないかと。少なくとも、今日はこちらの陣を崩されておりません」


 確かに敗れてはいない。


 それでも、勝ったとも言えなかった。


 地図の上の単于の駒が、妙に遠く感じられた。


◆


 翌日も、匈奴軍は同じように現れた。


 楼煩(ろうはん)が左翼へ寄る。


 羌瘣(きょうかい)が受ける。


 黥布(げいふ)が中央から前へ出て挟もうとする。


 ただし昨日のように黥布(げいふ)は深く追わず、楼煩(ろうはん)が外へ逃れれば一度戻り、こちらへ寄ってくればまた押し返した。


「今日は行かねえぞ!」


 遠ざかる楼煩(ろうはん)へ黥布(げいふ)が叫ぶ。


 当然、返事はない。


「聞いてんのか!」


 羌瘣(きょうかい)が横から言う。


「行かないなら黙ってればいい」


「こいつに分からせてんだよ」


「たぶん、お前が来ないならそれでいいと思ってる」


「余計腹立つな」


 それでも今度は追わなかった。


 右翼の楊端和(ようたんわ)も昨日と変わらず、単于の旗を監視したまま位置を保つ。


 昼を過ぎても、冒頓(ぼくとつ)は出てこない。


 夕方になっても変わらない。


 二日続けて、秦軍は冒頓(ぼくとつ)を警戒し続けたまま一日を終えた。


 こちらが動かないから、向こうも出られない。


 そう考えれば筋は通る。


 だが張良(ちょうりょう)は陣へ戻ってからも地図を見続けていた。


「何か気になる?」


「冒頓(ぼくとつ)が昨日の失敗だけで、自分から前へ出るのを完全に止めるでしょうか」


「失敗と言っても、俺を殺し損ねただけでこっちは負けたけどな」


「だからこそです。効果があった手を、こちらが備えただけで捨てるのかと」


 言われてみれば、そこは引っかかる。


 ただ、匈奴本陣には単于の旗があり、周囲にも相応の兵がいる。斥候から別の大軍が動いたという報告も入っていない。


「明日も見るしかないな」


「はい。ただし、旗ではなく周囲を」


 同じ失敗はしない。


 そう思っていた。


◆


 三日目も、平原には同じ光景が広がった。


 十万の秦軍が鶴翼を作り、七万の匈奴軍が正面へ出る。


 楼煩(ろうはん)が左へ動けば羌瘣(きょうかい)が受け、黥布(げいふ)が中央から寄る。楊端和(ようたんわ)は今日も右翼から動かず、いつ現れるか分からない冒頓(ぼくとつ)の騎兵を待ち続けた。


 ところが、その日も冒頓(ぼくとつ)は姿を見せなかった。


 夕方になると、両軍は大きな損害を出さないままそれぞれの陣へ戻った。


 三日間、こちらは同じように待った。


 冒頓(ぼくとつ)が再びどこかを突いてくるなら、今度こそ受け止めるつもりで。


 夜の軍議でも、その話が中心になった。


「明日は少し変えるべきかもしれません」


 張良(ちょうりょう)が地図の中央へ指を置く。


「このままでは、楼煩(ろうはん)殿の騎兵に付き合っているだけになります。こちらが陣を崩さないと分かれば、向こうも別の手を用意してくるでしょう」


「もう用意してるかもしれない」


 楊端和(ようたんわ)が言った。


 三日間、右翼で待ち続けた本人だけに、その声には苛立ちより警戒の方が強い。


「冒頓(ぼくとつ)は一度も見ていない。旗だけだ」


 羌瘣(きょうかい)も頷く。


「私も見ていない」


「じゃあ、どこにいる?」


 俺が尋ねても、答えは出ない。


 その時、陣幕の外から慌ただしい足音が近づいてきた。


「秦王!」


 幕が開き、楚軍の兵が転がり込むように入ってくる。


 鎧には乾いた血がこびりつき、馬を飛ばし続けてきたのか、膝をついたまま肩を大きく上下させていた。


「鍾離眜(しょうりばつ)将軍より急報にございます」


 張良(ちょうりょう)がすぐに地図の別の場所へ目を向けた。


「燕軍に動きがあったのですか」


「燕軍だけではございません」


 兵が息を整える。


「昨夜、我が陣が夜襲を受けました。臧荼(ぞうと)軍とともに突入してきた匈奴騎兵を率いていたのは、単于冒頓(ぼくとつ)本人にございます」


 陣幕の中から声が消えた。


 俺は反射的に楊端和(ようたんわ)を見る。


 三日間、冒頓(ぼくとつ)が来ることを警戒して右翼を動かなかった女も、今は地図の上の別戦場を見ている。


「鍾離眜(しょうりばつ)は?」


 俺が聞くと、楚兵は一度唇を噛んだ。


「夜襲の中で負傷されました。命はございますが傷が深く、現在は軍を指揮できる状態ではございません」


 黥布(げいふ)が卓へ身を寄せた。


「待て。あいつ、こっちにいなかったのか」


「少なくとも昨夜は、いなかったことになります」


 張良(ちょうりょう)の声が低くなる。


 匈奴本陣には毎日、単于の旗が立っていた。


 楼煩(ろうはん)は左翼を走り続け、こちらの目を引きつけた。


 俺たちは冒頓(ぼくとつ)が前日のように飛び込んでくることを警戒し、十万の一角を三日間ほとんど動かさなかった。


 その間に本人は、この戦場を離れていた。


「……やられたな」


 俺が漏らすと、張良(ちょうりょう)も否定しなかった。


 初日は、冒頓(ぼくとつ)が本陣から飛び出してきたことに驚かされた。


 今度は逆だった。


 出てくると思わせたまま、本人だけがいなくなっていた。


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