第148話 単于の牙
冒頓の騎兵が突き入った場所は、秦軍中央と右軍の継ぎ目だった。
前へ出た盾兵と弩兵を戻そうとしても、すでに後続の槍兵が進んでいる。そこへ横から数千騎が入り込み、命令を伝える兵まで馬蹄の中へ呑まれると、整然としていた隊列がたちまち幾つもの塊に割れ始めた。
「右を閉じろ! 王旗へ寄せろ!」
俺も声を張り上げたが、返ってくるのは味方の怒号と馬の嘶きばかりだった。
張良が王旗を移そうと振り返ったところへ、匈奴兵が一騎飛び込んでくる。護衛が間に合わず、張良は自ら剣を抜いて斬撃を受け、二度目をかわして相手の馬へ刃を突き立てた。
「張良!」
「私より前を!」
言われて振り向くと、もう別の騎兵が来ていた。
俺も剣を振るう。
馬上から落ちてくる刃を受け、腕に痺れが走る。隣の近衛が相手を槍で突き落としてくれたが、その近衛も次の矢を肩に受け、こちらへ倒れ込んできた。
前を見るたび、敵が近くなっている。
その中心を冒頓が駆けていた。
本陣に残っているはずだった男が、自ら剣を振るい、秦兵の間を縫って真っ直ぐ王旗へ迫ってくる。俺の中にも、匈奴の単于である以前に希少な男なのだから、本人がここまで前へ出ることはないという思い込みがあったらしい。
「扶蘇!」
冒頓の声が聞こえた。
だが、その姿を追う余裕はない。
目の前へ槍を持った騎兵が入り、俺は身を横へずらしながら剣を叩きつける。倒し切れないところへ張良が横から斬り込み、二人でようやく一騎を退けた。
「客卿にここまで剣を使わせるつもりはなかったんだけどな!」
「私もその予定ではありませんでした!」
張良の呼吸も乱れている。
その向こうで金属が激しく鳴った。
何か巨大なものが振り抜かれ、冒頓の馬が大きく横へ逸れる。
「扶蘇様、こちらは私が!」
聞き慣れた声だった。
深い兜を被った王離が、大剣を手に冒頓の前へ入っている。
「無理するな、王離!」
「お任せください!」
そこまでしか見えなかった。
匈奴騎兵がまた近衛へ突っ込み、王旗の周囲そのものが戦場になる。俺は王離から視線を切り、張良と背中を近づけながら次の敵を迎えた。
◆
最初の一撃で、王離は相手の速さを悟った。
大剣を正面から受けようとはしない。
冒頓は刃の届く直前まで迫りながら、馬首を外へ振って軌道から消える。追って身体を返した時には逆側へ回り込み、短い斬撃だけを残してまた距離を取っていた。
王離の腕に浅い傷が走る。
「ちょこまかと!」
大剣を横薙ぎに振るう。
冒頓は馬上で身体を沈め、頭上を通り過ぎた刃を見送ると、そのまま内側へ入った。肩口にもう一筋熱が走り、王離はすぐに柄を返して相手の胸を狙う。
今度は冒頓も完全には逃げ切れない。
剣で受けた瞬間、腕ごと押され、馬が数歩横へ流れた。
「……凄い力だな」
「次は馬ごと斬ります」
「それも悪くない」
冒頓は笑っている。
王離は苛立ち、大剣をもう一度振るった。
まともに当たれば終わる。
だが冒頓は、その瞬間だけは決して力を競わない。振り始めを見て間合いの外へ抜け、刃が最も重くなったところではすでに別の場所にいる。
王離が馬を寄せる。
冒頓も逃げ切らず、互いの馬が擦れそうなところまで入ってくる。
一合。
二合。
刃を弾き合った直後、王離の脇腹へ浅く剣が入った。
「くっ!」
大剣を振り返すと、冒頓はすでに数歩先にいる。
腕、肩、脇腹。
どれも浅い。
それでも少しずつ傷だけが増えていた。
「強い女は良い」
冒頓が不意に言った。
王離は大剣を構えたまま眉を寄せる。
「何です?」
「俺の妻になれ」
刃を交えている最中とは思えない言葉だった。
王離の動きが一瞬だけ止まる。
「……は?」
「これほど強い女なら歓迎する。俺の子を産むにも申し分ない」
「お断りします!」
大剣が風を裂いた。
冒頓が笑いながら馬を外へ逃がす。
「夫がおります!」
「なら、俺がその男より強ければ問題ない」
「大ありです!」
王離がさらに踏み込み、今度は斜め下から刃を跳ね上げる。冒頓は剣で受けたものの、衝撃を殺し切れず、鞍の上で身体を大きく揺らした。
「お前たちの理屈を私たちに押しつけるな!」
「そう怒るな。気が変われば来ればいい」
「変わるものですか!」
王離が追う。
その背後では、まだ秦王旗の周囲へ匈奴騎兵が殺到していた。
◆
羌瘣は、遠くで秦王旗が揺れるのを見た。
前方では楼煩が散った騎兵を集め直し、こちらとの間合いを測っている。まだ離れれば押し込めるところまで来ていたが、王旗の周囲に立つ砂煙は、そこへ留まることを許してくれなかった。
「楊端和!」
「見えてる!」
楊端和も同じ方向へ目を向ける。
巨大な大剣が上下し、その周囲を一騎が回っている。
「戻る!」
「行け! 楼煩は私が引き受ける!」
羌瘣が馬首を返した。
楼煩もすぐに反応し、騎兵を秦王旗の方向へ寄せようとするが、その前へ楊端和が走り込む。
「そっちは行かせん!」
刃がぶつかり、二人の馬がすれ違う。
楼煩が外へ離れれば、楊端和も向きを変えて追い、さらに秦騎兵を横へ広げて道を塞いでいく。
羌瘣は振り返らなかった。
近づくほど、秦軍の乱れが大きく見える。
前から戻ろうとする兵と、王旗へ集まろうとする兵がぶつかり、その隙間へ匈奴騎兵が入り込んでいる。歩兵の槍は揃わず、弩兵も味方が邪魔で射線を取れない。
「道を空けろ!」
羌瘣が馬を飛ばす。
目の前を横切った匈奴兵を斬り払い、さらに奥へ入った。
王離がいる。
その相手も、もう見間違えない。
匈奴にいた頃、戦場であれほど剣を振るう姿は見たことがなかった。
「冒頓!」
声を張った。
かつて夫だった男の顔がこちらを向く。
◆
冒頓の視線が僅かに逸れた。
王離はその隙へ大剣を叩き込む。
正面から受けた冒頓の馬が大きく流れ、さらに二撃目が迫るところで、ようやく距離を取った。
そこへ羌瘣が近づいてくる。
冒頓は秦王旗を見る。
近衛はかなり削られているが、まだ扶蘇へ届いていない。王離を抜くには時間がかかり、そこへ羌瘣まで加われば、今度はこちらが秦軍の中へ取り残される。
「退く」
判断は早かった。
周囲の騎兵へ合図が走ると、秦軍の奥へ入り込んでいた匈奴兵が次々に向きを変える。
王離が追おうとしたところへ、羌瘣が横から来た。
「行くな。追えば広いところへ誘われる」
王離は不満そうに大剣を下げた。
冒頓は離れていく途中で、一度だけ羌瘣を振り返った。
「秦へ戻ったか、羌瘣」
「自分で戻った」
「そうか」
声はそこで途切れた。
冒頓は何も言い残さず、騎兵の中へ消えていく。
羌瘣は追わなかった。
代わりに、なお王旗の周囲に残る匈奴兵へ馬を向ける。
「先にこっちを片づける!」
王離も大剣を握り直した。
◆
俺が冒頓の姿を次に見た時には、すでに匈奴騎兵は離れ始めていた。
こちらは追える状態ではない。
剣を握る右手は痺れ、息を吸うたび喉が焼けるように痛んだ。すぐ横では張良も剣を下げようとして、途中で腕が震えたのか、一度持ち直している。
「無事?」
「何とか。ですが、もう一度来られたら剣ではお役に立てそうにありません」
「俺も似たようなものだよ」
俺の剣にも血がついている。
王になってから自分でこれほど長く戦うことになるとは思わなかった。
周囲を見渡せば、前へ出していた中央は乱れ、右軍との間には倒れた兵や馬が散らばっている。羌瘣が戻ってきたことで王旗の周囲はようやく落ち着き始めたが、前方ではまだ楊端和と楼煩が戦っている。
「退きましょう」
張良が、今度は迷わず言った。
「……まだ十万いる」
「十万を十万として動かせません」
張良は荒い息を整えながら前方を見た。
「中央を前へ出すよう進言したのは私です。そこへ冒頓が入った以上、この乱れには私にも責があります。今は取り返そうとして、さらに崩す方が危険です」
俺も反論はしなかった。
「決めたのは俺だ。責任なら半分ずつでいい」
「半分では少々、私に甘い気もいたしますが」
「じゃあ後で軍議で揉めよう。今は下がる」
「賛成です」
撤退の太鼓を鳴らした。
前へ出ていた歩兵を一度に返せば、そこへ匈奴騎兵が入る。盾兵を残しながら弩兵、槍兵の順に距離を取り、戻ってきた羌瘣の騎兵を左右へ散らして追撃を牽制する。
楊端和へも伝令を走らせた。
ほどなく、土まみれになった楊端和が戻ってくる。
「退くんですね」
「ああ。殿を頼める?」
「そのつもりで戻ってきました。羌瘣、騎兵をいくらか置いていけ」
「もう選んである」
「なら早く寄越せ」
楊端和はそれだけ言うと、また前へ向かった。
楼煩は追ってくるが、深くは踏み込まない。秦軍が止まれば離れ、動き始めれば近づいて矢を浴びせるため、楊端和と羌瘣の騎兵も何度も向きを変えながら本隊を下がらせていった。
◆
数里退いて新しい陣を組み始めた頃、後方から黥布が戻ってきた。
敵を追い払った顔ではない。
剣も鎧もほとんど汚れておらず、そのこと自体が腹立たしいらしい。
「匈奴は一騎も来なかった」
開口一番、それだった。
「……そうみたいだな」
「そうみたいだな、じゃねえ。俺はずっと荷駄の横で待ってたんだぞ。前じゃ王様が殺されかけて、軍まで退いてきたっていうじゃねえか」
黥布の視線が俺から張良へ移る。
張良は剣を鞘へ戻そうとして、腕に力が入らず少し手間取っていた。
「私の策です」
先にそう言った。
「匈奴が後方へ入ると読み、黥布殿を残すよう進言しました。さらに前面で楼煩を囲うため、中央を進めるよう言ったのも私です」
「俺が許可した。張良一人の失敗じゃない」
黥布は二人を交互に見た。
怒鳴るかと思ったが、しばらく黙ったあと大きく息を吐く。
「次は俺を前に置け」
「相手の出方次第では」
「客卿」
黥布が張良を睨む。
「今度、俺を荷車の横で遊ばせたまま王様に剣を振らせたら、先にお前のところへ文句を言いに行く」
「覚えておきます」
「王様もだ」
「はい」
「何で素直なんだよ」
「今日は言い返せないから」
黥布もそれ以上は続けなかった。
自分が戦えなかったことへの苛立ちは消えていない。それでも敗走してきた兵の顔を見れば、今ここで怒鳴り散らしても仕方がないことくらい分かっている。
「飯食って寝る。次は呼べ」
それだけ言って去っていった。
張良はその背を見送り、自分の右腕を揉んだ。
「剣というものは、地図より随分重いですね」
「何人斬った?」
「数えておりません。もう二度と数えなくて済むことを願います」
「俺も」
だが、次もそうなる保証はなかった。
◆
日が落ちてから、王離の傷を見た。
腕と肩、脇腹に幾つか浅い裂傷がある。どれも致命傷には程遠いが、一本の深い傷ではなく、細かな傷をこれだけ重ねられたことの方が冒頓の厄介さを示していた。
「痛む?」
「多少は。ですが、この程度なら問題ございません」
「問題あるよ」
薬を塗ると、王離が少しだけ肩を縮めた。
「痛いんじゃないか」
「沁みただけでございます」
「それを痛いって言うんだ」
戦場で聞けなかった分、今になって気が抜けた。
王離も兜を外し、ようやく普段の顔へ戻っている。
「そういえば、扶蘇様」
「何?」
「先ほどの冒頓ですが、妙なことを申しておりました」
「妙なこと?」
王離が少し言いにくそうにこちらを見る。
「強い女は良いから、自分の妻になれ、と」
手が止まった。
「……何て?」
「自分の妻になれ、と」
「聞いてない」
「扶蘇様は別の匈奴兵と戦っておられましたから」
確かに聞いていない。
聞く余裕など欠片もなかった。
「それで?」
「もちろん断りました。夫がいるとも申しました」
「そしたら?」
「自分の方がその夫より強ければよい、と」
腹の奥から別の種類の苛立ちが湧いてきた。
昼間は殺されかけたことへの怒りだった。
今度はそれとは違う。
「……あいつ」
「扶蘇様?」
「次は絶対に負けたくない」
王離が目を瞬かせ、やがて口元を少し緩めた。
「戦の理由が増えておりませんか?」
「増えた」
「国のためでは?」
「それはそれ。これはこれ」
王離がとうとう笑った。
こちらは笑えない。
七万を相手に十万で臨み、後方への襲撃まで警戒し、楼煩の騎兵にも対応しかけていた。それでも冒頓は、その準備ごと外側から切り裂いてきた。
しかも俺を殺しかけた上に、妻まで口説いて帰った。
腹立たしいにもほどがある。
だが、その怒りだけで次を戦えばまた負ける。
明日になれば、張良と羌瘣、楊端和、そして今度こそ黥布も交えて、最初から組み直さなければならない。
単于の旗ではなく、冒頓本人がどこにいるのか。
次は、それを見誤るわけにはいかなかった。




