第146話 燕への進軍
項羽からの使者が邯鄲へ入ったのは、趙の官吏を入れ替え、各地の兵を整理し始めて間もない頃だった。
届いた書状には井陘での勝利を祝う言葉とともに、燕へ進んで匈奴を討ってほしいと記されていた。南から戦っている鍾離眜と合流し、冒頓を燕から追い出してほしいという、頼みというより軍令に近い簡潔さだった。
「いつから俺たちは項羽の手下になったんだ?」
読み終えた黥布が、露骨に嫌そうな顔をした。
「趙を片づけろと言われて片づけたら、次は燕か。あいつ、自分の軍を動かしてるつもりじゃねえだろうな」
「少なくとも、そう思われても仕方ありませんね」
張良も書状を見ながら苦笑したが、俺はそれほど腹を立てていなかった。
「元を辿れば、俺は項羽に王として封じられた身だからな」
「今は秦王だろうが」
「それでも、関中の王として認めたのは項羽だよ。あいつから見れば、ある意味では自分が封じた王の一人なんだろう」
もちろん、今の秦が楚の臣下として命令一つで動くつもりはない。俺が秦王を名乗った時も項羽はそれを認めたし、こちらも独自に外交や軍事を行っている。
ただ、項羽がその違いをどこまで深く考えているかは怪しかった。
「それに、今のところ項羽がこちらを敵だと思っていないのは都合がいい」
卓上の地図へ目を落とした。
趙は一つになったとはいえ、まだ完全に落ち着いたわけではない。陳余に従っていた官吏や兵の中には、張耳を王として受け入れきれない者も残っており、地方によっては新しい命令が届くだけで混乱が起きている。
そんな時期に楚まで敵に回れば、秦は東西で軍を割かなければならなくなる。
「項羽が漢と戦ってくれている間、こっちは趙を整えられる。それに燕の匈奴を放っておけば、今度は趙の北東がずっと脅かされる。頼まれなくても、いつかはどうにかしないといけない相手だ」
「だから行くと?」
楊端和が地図の北東へ視線を向けた。
「ああ。ただし項羽のためじゃない。秦と趙のために行く」
黥布はまだ納得しきれない顔をしていたが、反対はしなかった。
「まあ、匈奴とやるのは構わねえ。前みたいに王様を囮にして川っ縁へ立たせるよりは、よっぽど俺向きだ」
「今回は普通に戦うつもりだよ」
「その言葉、信用していいんだろうな?」
「たぶん」
「おい」
羌瘣が横で小さく笑った。
◆
燕へ向かう軍は十万とした。
井陘を戦った兵だけをそのまま連れていくのではなく、後方から送られてきた秦兵を加え、損耗の大きな部隊は邯鄲や西側へ残した。趙兵についても、ようやく一つになったばかりの国から無理に大軍を引き抜けば別の火種になるため、必要以上には動員しなかった。
張耳には邯鄲へ残ってもらう。
統一された趙を、趙人の王自身が治めているという形を崩したくなかったからだ。
俺とともに燕へ向かうのは、張良、黥布、楊端和、そして羌瘣。
出発前、羌瘣だけは北東へ伸びる街道を長く眺めていた。
「また、冒頓と戦うことになるな」
俺が声をかけると、羌瘣は視線を逸らさなかった。
「そうだな」
「大丈夫か?」
「大丈夫かどうかで決める話ではない。私は秦へ戻ると決めた」
言葉は静かだった。
羌瘣が冒頓に何を思っているのか、俺には全部は分からない。匈奴で過ごした日々まで嘘だったわけではないし、夫婦だった時間を一度の決断で消せるとも思っていない。
「無理に冒頓本人と戦わせるつもりはないよ」
「気遣いは無用だ」
羌瘣はこちらを見た。
「今度は、自分で選んだ側で戦う」
それ以上は何も言わなかった。
俺も頷くだけにした。
◆
十万の軍が趙を東へ抜け、燕へ入ると、戦の痕跡はすぐに増えていった。
焼かれた邑もあれば、逆にほとんど傷ついていない土地もある。匈奴はすべてを焼き払って去る略奪軍ではなく、この地に残って支配することを選んでいるため、抵抗した場所には厳しく、従った土地には税と兵を求める形へ変わっていた。
「以前の匈奴とは違いますね」
馬上で張良が言った。
「ああ。奪って北へ帰るだけなら、ここまで厄介じゃなかった」
燕を押さえたままにするなら、匈奴は北方の敵ではなく中華の一勢力になる。
それを冒頓自身が望んでいる。
数日後、先行していた斥候から楚軍の旗を確認したとの報告が入り、俺たちは進路をやや南へ変えた。
そこで待っていたのが鍾離眜だった。
「秦王。御足労をおかけします」
再会した鍾離眜は、疲れてはいても崩れてはいなかった。
派手に敵を追い回すような戦い方をせず、陣を固めながら少しずつ前へ進む将だけあって、長く匈奴と向き合っても兵の統制は保たれている。ただ、その分だけ進みは遅く、燕から匈奴を追い払うところまでは至っていなかった。
「こちらも北を放っておくわけにはいかないからな。項羽に言われたから来たというだけじゃない」
「その方が私としても安心いたします」
鍾離眜は地図を広げた。
「冒頓は私との正面決戦を避けています。こちらが前へ出れば退き、補給路を伸ばしたところで騎兵を回してくる。その繰り返しで、燕北部から完全に追い出せません」
「でも、南へも広がれていない」
「はい。こちらから見ても、向こうは思うようには進めていないはずです」
ならば、そこへ秦軍十万が加われば話は変わる。
鍾離眜が南から圧力をかけ、俺たちが西から入れば、冒頓はこれまでのように一方から退いて別の土地へ移るだけでは済まなくなる。
「挟むか」
「そのつもりです。ただし、相手も黙って待ってはくれないでしょう」
鍾離眜の指が、燕北部に置かれた匈奴の駒へ触れた。
「秦軍が来たことは、もう知られていると考えるべきです」
◆
実際、冒頓のもとにはすでに報告が届いていた。
「十万か」
秦軍の規模を聞いても、冒頓の表情は変わらなかった。
以前なら、危険になれば北へ戻ればよかった。
草原は広く、中華の軍が追ってこられる場所には限界がある。土地を奪うための戦ではなく、家畜や財貨を持ち帰るための戦なら、勝てない相手に付き合う必要などなかった。
だが今は違う。
燕を取り、中華の一角を支配すると決めた以上、敵が来るたび北へ逃げていては国にならない。
支配を続けたいなら、どこかで敵の軍を打ち砕かなければならなかった。
「鍾離眜だけでも面倒だったところに、秦王まで来たか」
地図の南には楚軍。
西には秦軍。
東や南東へ援軍を求めようにも、斉の田横は龍且と対峙しており、こちらへ兵を回せる余裕はない。
燕王臧荼も兵を持ってはいる。
無能ではない。
だが、自分の国を守るために匈奴へ従った王であり、戦局そのものを任せられるほどの将ではなかった。
「足りんな」
冒頓は誰に聞かせるでもなく言った。
兵ではない。
駒が足りなかった。
目の前には楼煩がいる。
若い女は黙って命令を待っていた。馬上の戦では強く、恐怖も知らず、言われたことは確実にやる。
だからこそ、今欲しいものとは少し違った。
「楼煩」
「はい」
「秦王が十万で来る。どうする?」
突然問われた楼煩は少し考えた。
「命じられた場所で戦います」
「そうか」
間違った答えではない。
だが、それ以上でもなかった。
その瞬間、冒頓は別の女を思い出した。
羌瘣。
もとは父の妻だった女であり、戦場を長く知り、中華の軍の動かし方も知っていた。命令すれば従うだけではなく、気に入らない策なら口を挟み、こちらが何も聞いていなくても別の案を出してくる。
面倒な女だった。
だが今のような時には、その面倒さが役に立った。
失ってから価値を思い出すのは、不愉快だった。
冒頓はその考えを切り捨て、楼煩へ命じた。
「騎兵を集めろ。燕軍にも動員をかける」
「全軍ですか?」
「ああ」
楼煩が初めて僅かに目を見開いた。
「北へは戻らない」
冒頓は地図の上に置かれた秦と楚の駒を見た。
「ここで逃げれば、燕を支配する資格がない。中華へ残ると決めた以上、来た敵を叩き潰して残る」
集められる兵は十万。
匈奴騎兵だけでなく、従属した燕の兵も加えた総力だった。
秦王扶蘇の十万と、楚将鍾離眜の軍。
それを相手に、冒頓もまた十万を率いて南へ動き始める。
燕を奪うための戦は、ここから燕を守るための戦へ変わろうとしていた。




