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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第145話 楚王の頼み

 陳余(ちんよ)が死に、趙が一つになったという報せが彭城(ほうじょう)へ届いた時、項羽(こうう)は久しぶりに機嫌よく笑った。


「そうか。扶蘇(ふそ)が勝ったか」


 使者から差し出された書簡には、井陘(せいけい)で秦軍が倍する趙軍を破り、陳余(ちんよ)が死亡したこと、その後は張耳(ちょうじ)が唯一の趙王として邯鄲(かんたん)へ入ったことまで記されている。


 項羽(こうう)は一通り目を通すと、その書簡を卓上へ置いた。


「これで北西を気にする必要はなくなったな。陳余(ちんよ)は妙な時に楚の兵を追い出し、話も聞こうとしなかった。あいつを残しておけば、漢か匈奴のどちらかと結びかねん」


 そもそも扶蘇(ふそ)へ陳余(ちんよ)の討伐を頼んだのは項羽(こうう)自身である。


 頼んだ相手が期待以上の結果を出したのだから、喜ぶのも当然だった。


 ただ、その隣で地図を見ていた虞(ぐ)は、同じ気持ちにはなれなかった。


「項羽(こうう)様。東の趙も、張耳(ちょうじ)殿が治めることになったのですね」


「ああ。それがどうした」


「張耳(ちょうじ)殿は、すでに秦王へ臣従しております」


「知っている」


 項羽(こうう)は気にした様子もなく答えた。


 地図の上では、関中から北地、上郡を抱える秦の東に趙が広がっている。秦が直接趙を併合したわけではなく、趙王はあくまで張耳(ちょうじ)だが、その張耳(ちょうじ)が秦王に従っている以上、この一帯で扶蘇(ふそ)の意向を無視できる者はいない。


 少し前まで、西方へ追い詰められた残党に近かった秦が、いつの間にか中華でもっとも広い影響圏を持とうとしていた。


「秦王は、思っていた以上に大きくなっております」


 虞(ぐ)が言うと、項羽(こうう)は地図へ目を向けた。


「大きくなったな」


「それだけでございますか?」


「他に何がある」


 本気で尋ねられ、虞(ぐ)は返す言葉を選ばなければならなかった。


「いずれ、楚と争うことになるかもしれません」


「扶蘇(ふそ)と?」


 項羽(こうう)は一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、すぐに首を振った。


「あいつがこちらへ攻めてくる理由がない。私も今、秦と争うつもりはない。それで十分だろう」


「今は、そうでしょう」


「先のことなら、先になってから考えればいい」


 項羽(こうう)にとっては、本当にそれだけだった。


 扶蘇(ふそ)は敵ではない。咸陽(かんよう)以来、敵対しかけたことは何度もあったが、結局は互いに利害を調整し、困った時には助け合ってきた。


 まして今回は、自分が討ってほしいと頼んだ陳余(ちんよ)を倒してくれたのである。


「それより、北の方が問題だ」


 項羽(こうう)は趙のさらに東、燕へ指を動かした。


 そこでは冒頓(ぼくとつ)の匈奴が広い地域を押さえ、燕王臧荼(ぞうと)もその下へ入っている。南からは鍾離眜(しょうりばつ)が圧力をかけているものの、匈奴は正面から決戦せず、騎馬の速さを使って燕の各地へ勢力を伸ばし続けていた。


「鍾離眜(しょうりばつ)だけでは、時間がかかる」


「兵を増やされますか?」


「いや。楚からは出せん」


 項羽(こうう)の指が今度は西へ動く。


 漢がいる。


 彭城(ほうじょう)では一度叩き潰したはずの劉邦(りゅうほう)が、襄陽(じょうよう)を足場に再び兵を集め、楚の西側を脅かしている。しかも韓信(かんしん)は劉邦(りゅうほう)と別に動き、九江方面へ圧力をかけ続けていた。


 斉では田横(でんおう)が抵抗を続け、そこには龍且(りゅうしょ)を置いている。


 燕には鍾離眜(しょうりばつ)。


 西には劉邦(りゅうほう)。


 項羽(こうう)自身がどこか一つへ出れば、別の場所が薄くなる状態だった。


「扶蘇(ふそ)に頼む」


 虞(ぐ)は思わず顔を上げた。


「さらに、秦王へ?」


「趙まで取ったのなら、燕はすぐ隣だ。扶蘇(ふそ)が東から出て、鍾離眜(しょうりばつ)と合わせて匈奴を叩けばいい」


「それでは秦軍が、燕へ入ることになります」


「当然だろう。入らなければ匈奴を討てん」


「そういう意味ではございません」


 虞(ぐ)は地図へ手を伸ばした。


「関中から趙まで、すでに秦王の影響下です。その秦軍が燕へ入り、匈奴を退ければ、燕の者たちは誰のおかげで助かったと考えるでしょう」


 項羽(こうう)は少し考えた。


「扶蘇(ふそ)だろうな」


「それを危ういとは思われませんか?」


「何故だ?」


 虞(ぐ)は返事に詰まりかけた。


 分かっていないわけではない。


 ただ項羽(こうう)にとって、領土や従属関係は敵味方ほど明瞭なものではなかった。昨日まで味方だった者でも裏切れば斬り、敵だった者でも信用できると思えば使う。土地を塗り分け、その十年後まで考えるより、今ここで誰を倒すべきかを決める方が、彼女には遥かに自然だった。


「匈奴を追い払った後、扶蘇(ふそ)が燕へ影響力を持つことになります」


「持てばいい」


 あまりに簡単に返され、今度こそ虞(ぐ)は黙った。


「燕を匈奴に取られたままにするよりましだ。それに扶蘇(ふそ)なら、鍾離眜(しょうりばつ)とも話はできる。二人で冒頓(ぼくとつ)を北へ押し戻してくれれば、私は西に集中できる」


 項羽(こうう)は地図の中央へ置かれていた駒を取り、西へ移した。


 楚王を示す駒だった。


「私は劉邦(りゅうほう)を討つ」


◆


 項羽(こうう)が席を外した後も、虞(ぐ)はしばらく地図の前に残っていた。


 秦が大きくなること自体を、嫌う理由はないはずだった。


 自分はかつて秦王だった。


 短い間だったとはいえ、滅びようとする秦を預かり、最後には劉邦(りゅうほう)へ国を明け渡した。その秦を扶蘇(ふそ)が立て直し、今度は以前とは違う形で国を広げていると聞けば、本来なら喜んでもいい。


 扶蘇(ふそ)が秦の民を粗末にしているとも思わない。


 降伏した兵を救い、関中を守り、今では趙まで滅ぼさずに王を残した。かつて自分が守れなかったものを、扶蘇(ふそ)は一つずつ拾い直しているようにも見える。


 それなのに、秦の領域が広がるほど胸の奥に不安が増していく。


 理由は分かっていた。


 地図の反対側に項羽(こうう)がいるからだ。


 斉に兵を出し、燕にも兵を置き、西では漢と戦う。


 項羽(こうう)自身は今でも強い。野で正面から戦えば、劉邦(りゅうほう)にも匈奴にも簡単には負けないだろう。


 けれど項羽(こうう)が一人で斉と燕と西方の全てに立つことはできない。


 一つの戦場へ向かうたび、別の場所を誰かへ預ける。その相手が秦であれば、秦の力がさらに伸びていく。


 しかも項羽(こうう)自身が、その背中を押している。


「また、秦へ土地を渡すのですか」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 正確には違う。


 趙も燕も、項羽(こうう)が秦へ譲ったわけではない。扶蘇(ふそ)が戦って手に入れ、あるいは従属させているだけである。


 それでも地図を遠くから眺めれば、楚が敵と戦っている間に秦だけが太っているように見えた。


 かつての自分なら、秦の復興を願ったかもしれない。


 今は違った。


 秦が再び天下の中心へ戻ることよりも、項羽(こうう)が敗れていく姿を見る方が怖い。


 それを自覚した時、虞(ぐ)は少しだけ可笑しくなった。


 秦の最後の王だった女が、秦の復興を恐れている。


 理由が国ではなく、一人の女なのだからなおさらだった。


◆


 翌朝、項羽(こうう)は扶蘇(ふそ)へ送る書状を用意させた。


 内容は簡潔だった。


 趙を平定したことへの祝意と、燕の匈奴を討つために東進してほしいという要請。現地では鍾離眜(しょうりばつ)と協力し、冒頓(ぼくとつ)を燕から追い出してほしいと記されている。


「これでいい」


 文面を確認した項羽(こうう)が印を押した。


 虞(ぐ)は隣から書状を眺めていたが、結局止めなかった。


 匈奴を放置することもできない以上、代案があるわけではない。楚軍を燕へ増派すれば、今度は劉邦(りゅうほう)への兵が減る。


「項羽(こうう)様は、いつ西へ?」


「準備が整い次第だ。劉邦(りゅうほう)は、私が近づけばまた逃げるだろうが、いつまでも付き合うつもりはない」


「お気をつけください」


「何を心配している。あいつには彭城(ほうじょう)で勝った」


「だからこそ、二度目は同じ戦いをしてこないでしょう」


 項羽(こうう)は少しだけ笑った。


「それなら、それごと破ればいい」


 いつもの答えだった。


 虞(ぐ)はそれ以上何も言わず、使者が秦へ向けて出ていくのを見送った。


 西へ向かう項羽(こうう)。


 東へ進むよう求められた扶蘇(ふそ)。


 その二人の間に広がる土地が、これからどう塗り替えられていくのか。


 項羽(こうう)はまだ、ほとんど気にしていない。


 だからこそ虞(ぐ)には、それが恐ろしく思えた。


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