第145話 楚王の頼み
陳余が死に、趙が一つになったという報せが彭城へ届いた時、項羽は久しぶりに機嫌よく笑った。
「そうか。扶蘇が勝ったか」
使者から差し出された書簡には、井陘で秦軍が倍する趙軍を破り、陳余が死亡したこと、その後は張耳が唯一の趙王として邯鄲へ入ったことまで記されている。
項羽は一通り目を通すと、その書簡を卓上へ置いた。
「これで北西を気にする必要はなくなったな。陳余は妙な時に楚の兵を追い出し、話も聞こうとしなかった。あいつを残しておけば、漢か匈奴のどちらかと結びかねん」
そもそも扶蘇へ陳余の討伐を頼んだのは項羽自身である。
頼んだ相手が期待以上の結果を出したのだから、喜ぶのも当然だった。
ただ、その隣で地図を見ていた虞は、同じ気持ちにはなれなかった。
「項羽様。東の趙も、張耳殿が治めることになったのですね」
「ああ。それがどうした」
「張耳殿は、すでに秦王へ臣従しております」
「知っている」
項羽は気にした様子もなく答えた。
地図の上では、関中から北地、上郡を抱える秦の東に趙が広がっている。秦が直接趙を併合したわけではなく、趙王はあくまで張耳だが、その張耳が秦王に従っている以上、この一帯で扶蘇の意向を無視できる者はいない。
少し前まで、西方へ追い詰められた残党に近かった秦が、いつの間にか中華でもっとも広い影響圏を持とうとしていた。
「秦王は、思っていた以上に大きくなっております」
虞が言うと、項羽は地図へ目を向けた。
「大きくなったな」
「それだけでございますか?」
「他に何がある」
本気で尋ねられ、虞は返す言葉を選ばなければならなかった。
「いずれ、楚と争うことになるかもしれません」
「扶蘇と?」
項羽は一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、すぐに首を振った。
「あいつがこちらへ攻めてくる理由がない。私も今、秦と争うつもりはない。それで十分だろう」
「今は、そうでしょう」
「先のことなら、先になってから考えればいい」
項羽にとっては、本当にそれだけだった。
扶蘇は敵ではない。咸陽以来、敵対しかけたことは何度もあったが、結局は互いに利害を調整し、困った時には助け合ってきた。
まして今回は、自分が討ってほしいと頼んだ陳余を倒してくれたのである。
「それより、北の方が問題だ」
項羽は趙のさらに東、燕へ指を動かした。
そこでは冒頓の匈奴が広い地域を押さえ、燕王臧荼もその下へ入っている。南からは鍾離眜が圧力をかけているものの、匈奴は正面から決戦せず、騎馬の速さを使って燕の各地へ勢力を伸ばし続けていた。
「鍾離眜だけでは、時間がかかる」
「兵を増やされますか?」
「いや。楚からは出せん」
項羽の指が今度は西へ動く。
漢がいる。
彭城では一度叩き潰したはずの劉邦が、襄陽を足場に再び兵を集め、楚の西側を脅かしている。しかも韓信は劉邦と別に動き、九江方面へ圧力をかけ続けていた。
斉では田横が抵抗を続け、そこには龍且を置いている。
燕には鍾離眜。
西には劉邦。
項羽自身がどこか一つへ出れば、別の場所が薄くなる状態だった。
「扶蘇に頼む」
虞は思わず顔を上げた。
「さらに、秦王へ?」
「趙まで取ったのなら、燕はすぐ隣だ。扶蘇が東から出て、鍾離眜と合わせて匈奴を叩けばいい」
「それでは秦軍が、燕へ入ることになります」
「当然だろう。入らなければ匈奴を討てん」
「そういう意味ではございません」
虞は地図へ手を伸ばした。
「関中から趙まで、すでに秦王の影響下です。その秦軍が燕へ入り、匈奴を退ければ、燕の者たちは誰のおかげで助かったと考えるでしょう」
項羽は少し考えた。
「扶蘇だろうな」
「それを危ういとは思われませんか?」
「何故だ?」
虞は返事に詰まりかけた。
分かっていないわけではない。
ただ項羽にとって、領土や従属関係は敵味方ほど明瞭なものではなかった。昨日まで味方だった者でも裏切れば斬り、敵だった者でも信用できると思えば使う。土地を塗り分け、その十年後まで考えるより、今ここで誰を倒すべきかを決める方が、彼女には遥かに自然だった。
「匈奴を追い払った後、扶蘇が燕へ影響力を持つことになります」
「持てばいい」
あまりに簡単に返され、今度こそ虞は黙った。
「燕を匈奴に取られたままにするよりましだ。それに扶蘇なら、鍾離眜とも話はできる。二人で冒頓を北へ押し戻してくれれば、私は西に集中できる」
項羽は地図の中央へ置かれていた駒を取り、西へ移した。
楚王を示す駒だった。
「私は劉邦を討つ」
◆
項羽が席を外した後も、虞はしばらく地図の前に残っていた。
秦が大きくなること自体を、嫌う理由はないはずだった。
自分はかつて秦王だった。
短い間だったとはいえ、滅びようとする秦を預かり、最後には劉邦へ国を明け渡した。その秦を扶蘇が立て直し、今度は以前とは違う形で国を広げていると聞けば、本来なら喜んでもいい。
扶蘇が秦の民を粗末にしているとも思わない。
降伏した兵を救い、関中を守り、今では趙まで滅ぼさずに王を残した。かつて自分が守れなかったものを、扶蘇は一つずつ拾い直しているようにも見える。
それなのに、秦の領域が広がるほど胸の奥に不安が増していく。
理由は分かっていた。
地図の反対側に項羽がいるからだ。
斉に兵を出し、燕にも兵を置き、西では漢と戦う。
項羽自身は今でも強い。野で正面から戦えば、劉邦にも匈奴にも簡単には負けないだろう。
けれど項羽が一人で斉と燕と西方の全てに立つことはできない。
一つの戦場へ向かうたび、別の場所を誰かへ預ける。その相手が秦であれば、秦の力がさらに伸びていく。
しかも項羽自身が、その背中を押している。
「また、秦へ土地を渡すのですか」
誰にも聞こえない声で呟いた。
正確には違う。
趙も燕も、項羽が秦へ譲ったわけではない。扶蘇が戦って手に入れ、あるいは従属させているだけである。
それでも地図を遠くから眺めれば、楚が敵と戦っている間に秦だけが太っているように見えた。
かつての自分なら、秦の復興を願ったかもしれない。
今は違った。
秦が再び天下の中心へ戻ることよりも、項羽が敗れていく姿を見る方が怖い。
それを自覚した時、虞は少しだけ可笑しくなった。
秦の最後の王だった女が、秦の復興を恐れている。
理由が国ではなく、一人の女なのだからなおさらだった。
◆
翌朝、項羽は扶蘇へ送る書状を用意させた。
内容は簡潔だった。
趙を平定したことへの祝意と、燕の匈奴を討つために東進してほしいという要請。現地では鍾離眜と協力し、冒頓を燕から追い出してほしいと記されている。
「これでいい」
文面を確認した項羽が印を押した。
虞は隣から書状を眺めていたが、結局止めなかった。
匈奴を放置することもできない以上、代案があるわけではない。楚軍を燕へ増派すれば、今度は劉邦への兵が減る。
「項羽様は、いつ西へ?」
「準備が整い次第だ。劉邦は、私が近づけばまた逃げるだろうが、いつまでも付き合うつもりはない」
「お気をつけください」
「何を心配している。あいつには彭城で勝った」
「だからこそ、二度目は同じ戦いをしてこないでしょう」
項羽は少しだけ笑った。
「それなら、それごと破ればいい」
いつもの答えだった。
虞はそれ以上何も言わず、使者が秦へ向けて出ていくのを見送った。
西へ向かう項羽。
東へ進むよう求められた扶蘇。
その二人の間に広がる土地が、これからどう塗り替えられていくのか。
項羽はまだ、ほとんど気にしていない。
だからこそ虞には、それが恐ろしく思えた。




