第144話 邯鄲の月
翌日、俺は王離を連れて邯鄲の城外へ出た。
供の兵は坂の下で待たせ、最後の道だけを二人で歩く。昔は人目を避けて夜中に訪れた場所だったが、今ではそこへ向かうことを咎める者もいない。
「この辺りだったと思うんだけど」
「もう少し先でございます。あちらの木は覚えております」
「よく覚えてるな」
「扶蘇様と初めてお会いした場所ですので」
王離が当たり前のように答えた。
俺にとって当時の彼女は、王賁の隣で大人しく頭を下げていた少女という記憶しかない。それを口にすると、王離は露骨に不満そうな顔をした。
「私はかなり緊張していたのでございますよ。秦の公子、それも同じ年頃の殿方とお話しすることなどございませんでしたから」
「ほとんど話してないだろ」
「話せなかったのでございます」
そんなことを言っているうちに、小さな墓が見えてきた。
李牧の墓だった。
俺と蒙恬が密かに遺骸を葬った時から長い年月が経っている。それでも墓は崩れておらず、周囲の草も時折刈られているらしい。名を刻んだ大きな墓ではないが、この下に誰が眠っているのか知る者は残っているのだろう。
俺は持ってきた酒を供え、その一部を墓石の前へ注いだ。
「久しぶりです、李牧将軍」
彼女を殺した直接の命令を出したのは趙王遷だった。しかし、戦場では破れない李牧を宮中の讒言で失脚させる策を母上へ進言したのは俺であり、そこから先に起きたことと無関係な顔をするつもりはない。
「昔ここへ来た時は、あなたを殺す策を出したことばかり考えていました」
墓の前へしゃがみ、土に指を触れる。
「今は、それだけじゃない」
国を守り続けた女が、最後には守るべき王に疑われて殺された。愛する司馬尚と生きたいという願いも、将として積み上げた功績も、王の一言の前では何の盾にもならなかった。
昨日、張良と話したことが頭に残っていた。
「遷が男だったから、あなたが死んだとは思いません。王だったことも、郭開の讒言も、秦が金を出したこともある。でも、この国では男のすることが許されすぎるところがある。それも、少しくらいは関係していたんじゃないかと思うようになりました」
隣にいた王離は、黙って聞いている。
「男が少ない以上、守る仕組みまでなくすつもりはない。でも、守るのと甘やかすのは違う。王だから、男だから、それだけで法の外へ出られるようにはしたくない」
「扶蘇様御自身も、ですか?」
「ああ。俺だけ例外だったら意味がないだろ」
王離は少し考え、墓へ視線を向けた。
「随分と不便な王になられるのですね」
「昨日も似たようなこと言われた気がする」
「ですが、私は嫌いではございません」
そう言って、王離は墓石の端についた土を払った。
「何を変えるにしても、最初から全部決める必要はないのでしょう。扶蘇様は昨日、駄目なら変えると仰っておりました。そのくらいでよいのではございませんか」
「随分気楽に言うな」
「戦の前に全ての動きを決めておいて、その通りになったことなどございませんから」
将らしい答えだった。
俺は思わず笑い、もう一度墓へ頭を下げた。
「次に来る時には、もう少しましな答えを持ってきます」
立ち上がると、王離も隣へ並んだ。
この墓の前で初めて会った少女が、今では俺の妻になっている。そのことを考えると妙な気分になり、俺が横を見ると、王離もこちらを見ていた。
「何で笑ってる?」
「同じことを考えておりました。あの時は、まさかこのようになるとは思っておりませんでしたので」
「俺もだよ」
「ですが私は、再会した頃には少し期待しておりました」
「……それ初耳なんだけど」
「今、初めて申し上げましたから」
王離はそう言って、少しだけ早足で坂を下り始めた。
◆
その夜、部屋へ戻ると、王離が待っていた。
鎧も深い兜もなく、長い髪を下ろし、薄い衣だけを身につけている。戦場で大剣を振るう姿を見慣れているせいか、こうしている時の彼女には何度見ても調子を狂わされる。
「今日はありがとう、王離」
「墓参りのことでございますか?」
「それもある」
俺が腰を下ろすと、王離は向かいではなく、すぐ隣へ座った。
「では、もう一つは?」
「話を聞いてくれたこと」
「妻ですので、それくらいはいたします」
そう答えながら、肩が触れるほど近づいてくる。
俺が何となくその顔を見ていると、王離は目を細めた。
「ただし、今夜はもう国のお話はなさいませぬよう」
「分かった」
「本当に?」
「しないって」
「では結構でございます」
次の瞬間、腰へ腕を回され、身体がそのまま持ち上がった。
「待て、王離!」
「はい」
「返事じゃなくて下ろせ!」
「寝台まででございます」
「歩けるから!」
まるで荷物のように運ばれ、寝台へ下ろされる。
王離は悪びれもせず、そのまま俺の前へ膝をついた。
「井陘では、かなり働いたと思うのでございますが」
「十分すぎるほど働いてくれたよ」
「それなのに戦が終われば、張耳殿と政務、張良殿と制度のお話ばかり。私は少々、不満でございます」
「昼間は普通だったじゃないか」
「昼間に拗ねるほど子供ではございません」
「今はいいの?」
「今は妻ですから」
便利な言葉である。
「それで、何が欲しい?」
聞いた途端、王離の目が少し嬉しそうに細くなった。
「本当にお分かりになりませんか?」
顔が近づき、唇が重なった。
戦場ではあれほど豪快な女なのに、口づけは意外なほど柔らかかった。最初は触れる程度だったものが、俺が頬へ手を添えると少しずつ長くなり、離れた時には吐息が頬にかかるほど近い。
「これでいい?」
「まだ、足りませぬ」
「随分欲張りになったな」
「今夜くらいはよろしいでしょう」
今度は首へ腕が回された。
俺も彼女の背へ手を回す。薄い衣越しでも身体の線ははっきり分かり、戦場で鍛えられた肩や背中には、いくつもの傷が残っていた。
指が肩の古傷へ触れると、王離が少しだけ身を震わせた。
「痛かった?」
「いいえ」
けれど、俺の手を取ったまま少し迷ってから、王離は小さな声で続けた。
「……あまり、綺麗ではございませんでしょう」
「何が?」
「身体です。傷も多うございますから」
王離の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
大剣を片手に敵陣へ飛び込み、血まみれになって帰ってきても平然としている女である。それでも、俺の前では自分の傷を気にするらしい。
「俺は好きだけど」
答えると、王離が固まった。
「……もう一度、お願いできますか」
「傷も含めて好きだよ」
「そうではなく」
「何が?」
「私を、と」
いつもの敬語なのに、声だけが妙に弱い。
俺は少し笑い、頬へ手を添えた。
「好きだよ、王離」
顔が一気に赤くなった。
「さっきまであんなに強引だったのに、そこは照れるんだな」
「急にそのようなことを仰るからです」
「要求したのは王離だろ」
「それでもでございます」
言い返しながら、また抱きついてくる。
今度は力を加減しているらしく痛くはなかったが、身体がぴたりと重なったまま離れない。
「私も好きでございます、扶蘇様」
「うん」
「もっと何かございませんか?」
「今ので足りないの?」
「私には足りないと仰ったではございませんか。扶蘇様にも同じくらいお願いしたく存じます」
「面倒な妻だな」
「存じております」
俺が笑うと、王離も笑った。
蒙凛といる時とは違う。
蒙凛とは長く一緒にいた時間が先にあって、夫婦になった後も昔の距離がそのまま続いているようなところがある。遠慮なく文句を言われ、こちらも遠慮なく返せる。
王離は今でも俺を「様」付きで呼ぶ。
それなのに二人になると妙に大胆で、平然と俺を抱き上げるくせに、こちらから触れると頬を赤くする。そのちぐはぐさが彼女らしくて、俺は嫌いではなかった。
「王離」
「はい」
今度はこちらから口づけた。
驚いたように開いた目が、すぐに閉じられる。
背中へ回った腕が少し強くなり、髪が俺の頬や首へ落ちてくる。唇を離して首筋へ触れると、王離は小さく息を漏らし、仕返しのように俺を寝台へ押し倒した。
「……やっぱり力で来るよな」
「嫌でございますか?」
「嫌ならとっくに逃げてる」
「逃がすつもりはございませんが」
「それを先に言うなよ」
笑いながら引き寄せると、今度は王離も抵抗しなかった。
衣越しに伝わる熱が、少しずつ境目を曖昧にしていく。
その後は、昼に考えていた法のことも、趙のことも、地図の三分の一も、しばらく頭から消えた。
◆
夜も随分遅くなってから、王離は俺の胸元へ頬を預けていた。
普段なら人前でこんな姿を見せる女ではない。今も外へ出れば深い兜を被り、死んだはずの王離ではなく、名もない王氏の兵として扱われる。
俺は彼女の髪を指で梳いた。
「いつか、隠れなくてもいいようにしたいな」
「私のことですか?」
「ああ。生きてるのに、ずっと死んだことにしておくのも嫌だから」
王離はしばらく考えたあと、俺の胸へ頬を擦り寄せた。
「では、それまでは二人の時に名前を呼んでくださいませ」
「それだけでいい?」
「外では誰であっても構いません。ですが、ここでは私は王離でいたいのでございます」
俺はその髪を撫でながら、何度か名前を呼んだ。
返事は毎回きちんと返ってきたが、三度目くらいから少しずつ眠そうになり、最後には腕だけを俺の腰へ回したまま静かになった。
昼に訪れた墓で始まった縁が、こんな形で隣にいる。
それだけは、昔の俺には決して分からなかった未来だった。




