第143話 天下の三分の一
井陘での戦いから数日後、俺たちは邯鄲へ入った。
城門の外には張耳を迎える役人や豪族たちが集まっていたが、その中には以前から彼女に従っていた者だけでなく、つい先日まで陳余の側にいた者もかなり混じっている。戦場では最後まで二人の趙王を巡って争っていた者たちが、今では一人の王へ頭を下げなければならなくなったのだから、歓迎一色というわけにはいかなかった。
それでも張耳は、彼女たちを責めなかった。
「戦でどちらについたかを、一人ずつ蒸し返すつもりはありません。武器を置き、これから趙に従うというなら、それで十分です」
旧王宮で開かれた最初の会議でも、張耳は処罰より先に、止まっていた徴税や穀物の輸送を戻すよう命じた。兵を集めるために各地から引き抜かれていた人員を村へ返し、井陘方面へ送られていた荷駄も必要な分を除いて戻すという。
俺としても異論はなかった。
「東側の役人も、横領や略奪に関わった者以外はなるべく残した方がいいと思う。秦から全部入れ替えるようなことはしない」
「そうしていただけると助かります」
張耳はそう答えたものの、その顔にはまだ疲れが残っていた。
陳余を自分の手で斬ってから、それほど日が経っていない。趙を一つにした王として人前へ出ている間は気丈に振る舞っているが、一人になればどうなのかまでは、俺も聞けずにいた。
少なくとも今は、彼女に王として働いてもらうしかない。
「それと、確認しておきたいことがあります」
張耳が卓上の文書から顔を上げた。
「東の郡も、このまま趙へ戻していただけるのですね」
「ああ。秦の郡に変えるつもりはない」
周囲にいた旧東趙の役人たちが、わずかに顔を上げた。
「趙王は張耳。内政も基本的には趙王府でやってもらう。ただし、他国との同盟や大きな戦を勝手に始められると困るから、そこはこれまで通り秦と相談してほしい」
「承知しました」
張耳は深く頭を下げた。
これで秦が直接治める土地が増えたわけではない。
それでも、趙という国が秦の側に立つことになった事実は変わらなかった。
◆
趙の扱いを決めた後、俺はもう一つ用意していた文書を卓上へ出した。
「地方の方も、このままにはしておけないと思ってる」
張良が文書を受け取り、そこに書かれた文字へ目を走らせた。
「刺史、ですか」
「新しく置く」
最初に任命するのは二人だった。
関中には蒙恬。
西趙方面には王賁。
どちらも、俺が前線へ出ている間に事実上その地域を支えてきた者なので、仕事の内容自体が突然変わるわけではない。ただ、これまでは将軍や留守を預かる者として任せていた仕事を、官職としてはっきりさせておきたかった。
「郡守より上に置く。複数の郡を見て、行政と軍の両方をまとめさせるつもりだ」
説明すると、張良の眉が僅かに上がった。
「随分と強い権限をお与えになるのですね。徴税と行政に加えて軍まで握らせれば、地方では王に近い力を持つことになります」
「そこは俺も気になってる」
「気になっているのに、お置きになるのですか」
「中央から全部指示するのも無理があるからな」
関中だけを治めていた頃なら、ある程度は咸陽から見ていられた。
しかし北地や上郡があり、西には山地が広がり、今では趙までこちら側へ入っている。前線で何か起きるたび王の返事を待たせていたら、命令が届いた頃には状況そのものが変わってしまう。
「地方に判断できる人間は必要だ。ただ、土地ごと渡したら、そのうちその人間の国になる。だから刺史は中央から任命して、任期を決める。任期が終わったら留任させるか、別の土地へ移すか、中央へ戻す」
楊端和が腕を組んだ。
「本人が退きたくないと言った場合は?」
「それを許したら制度を作る意味がない。軍も土地も刺史個人のものにはしないし、子へ継がせることも認めない」
「それでも長く置けば、部下は人につきますよ」
「だから任期がいるんだと思う。何年がいいかまでは、まだ決め切れてないけど」
楊端和はしばらく考えたあと、それなら分かるというように頷いた。
隣では黥布が文書を覗き込んでいたが、途中で面倒そうに顔を上げた。
「俺には向かねえな、それ」
「頼む予定もないよ」
「ならいい」
即答されて、羌瘣が僅かに口元を緩めた。
「黥布に徴税を任せたら、三日で役人が逃げる」
「何でだよ。俺だって数くらい分かるぞ」
「お前に使われる役人の身にもなってみろ」
「随分と失礼なことを言うな。まぁ、それもそうだが」
戦の後では初めて、会議の空気が少しだけ緩んだ。
張良はそんなやり取りには加わらず、もう一度文書へ目を落としている。
「西趙の刺史は、趙王府とはどう分けるおつもりでしょう」
「王賁には西側に残っている秦の駐屯地と、秦が直接管理してきた道や兵站拠点を見てもらう。趙王府の内政へ勝手に口を出す役にはしない」
俺が答えると、張耳も頷いた。
「その方が私も助かります。東を戻したばかりで、西の守りまで一度に組み直す余裕はありませんから」
「当面はそれでいこう。上手くいかなかったら変える」
俺がそう言うと、張良が顔を上げた。
「ずいぶん簡単に仰いますね」
「最初から全部正しい制度を作れると思ってないからな」
その答えに、張良は何も言わなかった。
ただ、手元の刺史という二文字を、もう一度見直していた。
◆
その日の夜、俺は旧趙王宮の一室で地図を広げていた。
戦後の報告を整理するためだったが、張良が各地の情報を書き込んでいくうちに、思った以上に地図の様子が変わっていることに気づいた。
関中は秦。
北地と上郡も秦の支配下にある。
その東には、これまで秦側だった西趙があり、さらに井陘を越えた先まで張耳の趙となった。
色を塗ってみれば、かなり大きい。
「……こんなに広かったか?」
思わず口にすると、向かいにいた張良が俺を見た。
「秦の直轄領だけなら、そこまでではありません」
「そうだよな」
「ですが、秦王の意向に逆らえない地域まで含めるのであれば、話は変わります」
張良は地図の上で関中から趙まで指を動かした。
「趙は独立した王国とはいえ、対外戦争も外交も秦と協議する。西趙の軍事拠点も秦が握り、北地と上郡もございます。おおまかに見れば、中華の三分の一ほどは秦王の影響下に入ったと考えてよろしいでしょう」
「三分の一……」
数字にすると、急に重く聞こえた。
王離が隣から地図を覗き込み、少し楽しそうに言った。
「扶蘇様、随分と大きな王になられましたね」
「そんなつもりで増やしてきたわけじゃないんだけどな」
「皆、そう申すのではありませんか。最初から欲しかったと言うより聞こえはよろしいですから」
「王離、俺のこと疑ってる?」
「少しだけです」
兜を被っていない時の王離は、戦場で大剣を振っていた女と同じとは思えないほど柔らかい顔をする。
俺は苦笑しながら、もう一度地図へ目を戻した。
最初は、生き残りたかっただけだった。
偽の詔で死ねと言われ、北から逃げ、何とか兵を集めて関中へ戻ろうとした。そこから秦を立て直し、関中を守るために周囲へ手を伸ばしているうちに、気づけば趙までこちらへついている。
「秦王」
張良が呼んだ。
「どこまで行かれるおつもりですか」
「どこまでって?」
「天下を、です」
地図の上には、まだ秦の色ではない土地の方が広く残っている。
楚があり、漢があり、燕には匈奴が入り込み、斉も不安定なままだ。
以前なら、秦を守るためにどこまで戦うかと聞かれても、その時にならなければ分からないと答えていたと思う。
けれど今は、それだけでは足りなかった。
「……まだ、天下全部を秦にするつもりはない」
張良が少しだけ目を細めた。
「まだ、ですか」
「言い方が悪かった」
「いえ。興味深いと思っただけです」
相変わらず、この女は時々嫌なところを拾う。
「少なくとも、趙まで郡に変えて秦が直接治めようとは思ってない。今日だって、やろうと思えば張耳から東趙を取り上げて秦領にすることはできた。でも、それを続けたら、結局は母上の時と同じになる」
始皇帝が六国を滅ぼし、天下を郡県へ組み込んだことで得られたものは多い。
道も、度量衡も、役人の仕組みも、一つの国として動かすために作られたものの中には、捨てる理由のないものがいくらでもある。
それでも秦は滅びた。
統一したはずの土地から、次々と反乱が起きた。
「母上が全部間違っていたとは思わない。ただ、全部を秦のやり方に変えなければ国が保てないとも思わなくなった。秦が直接治めた方がいい場所もあれば、張耳みたいに王を残した方がまとまる土地もある」
「郡県と封建を併せる、と」
「たぶん、そうなる」
自分で答えながらも、まだ曖昧だった。
何を中央が握り、どこまで各国へ任せるのか。趙では上手くいったとしても、別の国でも同じようにできるとは限らない。
「完成してから始める余裕なんてないから、やりながら決めるしかないけどな」
「秦らしくない考え方ですね」
張良が言った。
「それは褒めてる?」
「まだ判断しておりません」
「相変わらずだな」
俺が笑うと、張良も僅かに口元を緩めた。
◆
地図を片づけようとしたところで、張良が別の文書を卓上へ置いた。
降伏した東趙で使われていた刑罰や税の記録だった。
「制度を変えるのであれば、こちらもいずれ手をつける必要がございます」
「ああ」
秦の法については、ずっと考えていた。
秩序を保つには法がいる。
けれど、母上の時代には法と罰が重くなりすぎた。役人が命令を恐れ、兵も民も失敗すれば罰せられることばかり気にするようになり、それでも最後には国そのものが持たなかった。
「秦の法を全部捨てる気はないよ」
「でしたら、どこを変えられますか」
「それをこれから考える」
張良は呆れたような顔をしたが、俺は続けた。
「ただ、罰を重くすれば皆が従うって考え方には戻したくない。法は必要だけど、法を守らせるために民を潰したら国まで持たないだろ」
「一方で刑を軽くしすぎれば、力のある者ほど法を恐れなくなります」
「分かってる」
そこが難しい。
法を弱くすればいいわけではないし、優しい王が全部決めればいいとも思わない。王が変われば、その優しさも一緒に消えるからだ。
「結局、王がいい人間かどうかに頼る国も危ないと思う」
そう口にすると、王離が少し不思議そうに俺を見た。
「扶蘇様御自身も、王でいらっしゃいますのに」
「だからだよ。俺が死んだ後まで俺の性格に頼るわけにはいかないだろ」
そこで、自分でも少し考えた。
「王だから許されることがあるのも、男だから許されることがあるのも、似てる気がする」
張良の視線がこちらへ向く。
「男についても変えられるおつもりですか」
「全部じゃない。男が少ない以上、守らないといけない部分はあると思う。でも、男だから誰を傷つけても仕方ないとか、男だから女より先に許されるとか、そこまで一緒にする必要はないだろ」
この世界に生まれてから、何度も見てきた。
男が少ないからという理由で、そのわがままが当然のものとして扱われる。本人が望んでいなくても子を残す役目を求められる一方で、男が女を粗末に扱うことには驚くほど甘い。
どちらも、男が一人の人間である前に希少な男として扱われている点では同じだった。
「それを変えるなら、かなり面倒ですよ」
張良は淡々と言った。
「法を数条直せば済む話ではございません。王侯から農村まで、男への考え方そのものに染みついておりますから」
「分かってるよ。だから明日から全部変えるなんて言ってない」
「では、目標として?」
「それくらいには考えてる」
自分で言ってみると、まだ随分遠い話だった。
秦を守るだけでも大変だったのに、その秦がどういう国になるのかまで考え始めている。少し前の自分に聞かせたら、まず目の前の戦を生き残ってから言えと笑われるだろう。
それでも、もう考えないわけにはいかなかった。
「秦は復興させたい。でも、昔と同じ秦には戻したくない。国を全部潰して郡にする必要もないし、重い刑だけで人を従わせるつもりもない。それに、王だろうが男だろうが、何をしても許されるような国にはしたくない」
そこまで言ってから、俺は自分で苦笑した。
「言うだけなら簡単なんだけどな」
「それを実現するために、天下の三分の一までお取りになったのでしょうか」
「そこは順番が逆だよ」
張良の言葉に返しながら、地図へ手を置いた。
関中を守ろうとして西へ手を伸ばし、西を守るために趙へ入り、今ではその趙までこちら側になった。
これから同じことを繰り返せば、どこまで広がるのかは俺にも分からない。
ただ一つ、以前とは違うことがある。
生き残るだけではなく、生き残った先にどんな国を残したいのかを、ようやく考え始めていた。
「明日、少し行きたい場所がある」
俺が地図の中の邯鄲へ指を置くと、王離がこちらを見た。
「どちらへ?」
「墓参りだよ。昔、この街へ来た時にも行った場所がある」
王離は何か思い出したらしく、すぐには尋ね返さなかった。
俺もその名前を口にはせず、地図を畳んだ。
今の俺なら、あの墓の前で以前とは違うものが見える気がしていた。




