第142話 刎頸の果て
趙軍本営に残されていた兵は、羌瘣が予想していたよりも少なかった。
陳余が背水の陣を追って主力のほとんどを前へ出したため、本営にいるのは荷駄や兵糧を守る者、負傷して戦列へ加われない者、それに最低限の守備兵が中心だった。山中を迂回してきた二千の秦兵が姿を現すと、守兵は慌てて門へ集まったものの、戦うための隊形を整えるより先に羌瘣が兵を二つへ分けた。
「正面へ付き合うな。半分は右から回れ」
門へ集まった守兵には弓を浴びせ、その間にもう一隊を柵の薄い場所から侵入させる。ほどなく本営の内側で騒ぎが起こり、秦兵が門を開いたことで、正面に残っていた兵も一気に押し込んだ。
抵抗は長く続かなかった。
羌瘣は逃げる守兵まで追わせず、そのまま本営中央へ進むと、陳余の旗を引き下ろして秦旗と張耳の趙旗を掲げさせた。
「中央の天幕と空の荷車に火をつけろ。ただし兵糧には近づけるな」
「兵糧庫は焼かないのですか」
「勝った後に食べるものまで燃やしてどうする」
兵たちが松明を持って散り、乾いた天幕へ移った火は風を受けて一気に広がった。空の荷車や使われていない柵まで巻き込みながら黒煙を噴き上げる様子は、離れた戦場から見れば、本営全体が大軍に呑まれたようにも見える。
羌瘣は燃え上がる天幕を眺め、兵糧庫の守りを改めて確認してから川の方角へ目を向けた。
「これだけ見えれば十分だ」
◆
本営から上がる黒煙に気づいたのは、陳余だけではなかった。
後方にいた趙兵ほど早く異変を見つけ、本営が秦軍に奪われたという話が伝わるにつれ、煙の中に秦旗と張耳の趙旗が立ったという噂まで加わっていく。実際に何人の敵が入り込んだのか確かめる術はなくても、帰るはずだった場所が燃えていることだけは誰の目にも明らかだった。
「騒ぐな!」
陳余は馬上から兵へ怒鳴った。
「本営には大した兵を残していない! 小勢に後ろを荒らされたところで、この戦の勝敗は変わらん!」
その判断自体は間違っていなかった。
背後へ回った羌瘣は二千しかおらず、十万の趙軍を挟み撃ちにできる兵力ではない。ここで戦線を立て直し、川際の秦軍と西趙軍を先に潰してしまえば、本営を奪った小勢へ後から向き直ることもできる。
「張耳は目の前にいる! あの女さえ討てば、趙を争う者はいなくなる。本営の煙など見るな、前を見ろ!」
陳余の命令で太鼓が激しく鳴り響き、動揺していた兵の中から再び武器を構える者も現れた。李左車を失って細かな連携は乱れているとはいえ、兵数ではまだ趙軍が大きく上回っていた。
◆
俺のところからも、後方の黒煙ははっきり見えていた。
「あれは羌瘣だな」
本営の位置を考えれば、別働隊が目的を果たしたと見ていい。
ただ、陳余の太鼓はまだ止まっていなかった。前列では趙兵が押し返してきており、李左車がいた時ほど鋭くはなくても、数の差だけでこちらを苦しめる力は十分に残っている。
「扶蘇様、本営が落ちたことを敵にも知らせますか」
近くの兵に尋ねられ、俺は黒煙と趙軍の後列を見比べた。
「知らせる。ただし二千とは言うな。山を越えた秦の大軍が本営を落とし、そのまま背後へ回っていると触れ回れ。それと、武器を捨てる者には手を出さないとも言わせてくれ」
「大軍、でございますか」
「向こうから数は見えない。だったら、わざわざ本当のことを教える必要もないだろ」
伝令が走り、秦軍の前列から趙兵へ向けて次々と声が飛び始めた。
「趙兵に告げる! 本営はすでに落ちた!」
「秦の別働軍が背後から迫っている! 武器を捨てて降る者には手を出さぬ!」
「前には秦王、後ろには秦の大軍だ! 囲まれる前に武器を捨てろ!」
かなり膨らませた話ではある。
それでも趙兵には、本営が燃えているという目に見える証拠があった。そこへ突然命令が噛み合わなくなった不安まで重なれば、事情を知らない兵ほど最悪の状況を想像する。
◆
最初に武器を捨てた者が誰だったのかは分からなかった。
後方のどこかで槍を放り出して両手を上げる兵が現れ、その姿を見た近くの者も剣を地面へ置いた。さらに本営へ戻ろうと後ろへ走る者が出ると、それを見た別の部隊が敗走の始まりだと思い込み、まだ命令を受けていない兵まで列から離れ始める。
「戻れ! まだ戦は終わっていない!」
趙の将たちが必死に声を張っても、一度広がった動揺は簡単には止まらない。
前線で秦兵と押し合っている者は離脱できなくても、その後ろでは逃げる者、武器を置く者、なお戦おうとする者が同じ場所へ入り混じり、それまで兵数によって保たれていた厚い戦列に次々と穴が生まれていった。
俺も、そこでようやく剣を握った腕を少し下げる余裕ができた。
ここまで来れば勝ち筋は見える。
ただし、最初からすべて予定どおりだったとは到底思えなかった。李左車には秦兵と西趙兵の継ぎ目を割られ、張耳の兵は実際に川へ押し落とされ、俺自身まで剣を振るっている。
もう少し李左車が生きて指揮を続けていれば、先に崩れていたのはこちらだったかもしれない。
そんなことを考えている間に、前方から大きな鬨の声が上がった。
◆
楊端和が動いていた。
趙軍の戦列に開いた隙を見つけると、麾下の騎兵を一か所へ集め、まだまとまっている部隊同士の間へ一気に踏み込ませた。
「逃げる兵は追うな! 列を割れ、旗を目指せ!」
敗残兵を討って数を稼ぐのではなく、正面の秦軍へ向いた部隊と、後退しようとする部隊の間を騎兵で切り裂いていく。一隊が騎兵へ向き直れば後続とぶつかり、そこへ秦兵が正面から押し込むことで、趙軍の混乱はさらに深くなった。
その先で、楊端和が狙っていたのは陳余の旗だった。
「陳余様! 敵騎兵がこちらへ来ます!」
「止めろ! 護衛を前へ出せ!」
陳余は退かず、なおも太鼓を鳴らさせた。
「張耳はまだそこにいる! あれを討てば勝ちだ。本営など後で取り返せばいい!」
だが、その命令に応じて前へ出る兵はもう少ない。
護衛が騎兵を止めようとしても、周囲では逃げる者と踏みとどまる者が入り乱れ、まとまった列を作る余裕さえなくなっていた。楊端和の騎兵はその隙を縫って護衛の外側を削り、やがて陳余の馬を取り囲んだ。
「武器を捨てろ」
楊端和が槍を向ける。
「断る!」
陳余は剣へ手をかけたが、抜ききる前に横から入った騎兵が腕を押さえ、別の兵が馬の手綱を奪った。
「なら殺せ!」
「扶蘇様から、その命令は受けていない。生け捕りにしろ、余計な傷はつけるな」
剣を奪われて馬から降ろされても、陳余は誰かに支えられることを拒んだ。
ほどなく彼女の旗が倒れたという報せまで戦場へ広がり、まだ抵抗を続けていた趙軍の多くも武器を置き始めた。
◆
戦が終わる頃には、川際の地面は折れた槍や盾で埋まっていた。
岸では水へ落ちた兵を探す者が歩き回り、負傷者を運ぶ声も絶えない。勝鬨を上げる兵はいたが、そのすぐ近くでは仲間の名を呼びながら川を覗き込む者もおり、俺には勝ったという実感より、よく全滅しなかったという思いの方が強かった。
降伏した趙兵の扱いを張耳と決めているところへ、楊端和が数人の騎兵を連れて戻ってきた。
「扶蘇様、張耳殿。陳余を捕らえました」
両手を縛られた陳余が、その中央を自分の足で歩いてくる。
張耳は彼女を見た途端、さっきまで兵をまとめていた時とは違う顔になった。
「陳余……」
陳余はすぐには答えず、張耳の後ろに立つ趙王旗を見た。
「とうとう勝ったな、張耳。これで私の兵も土地も、お前のものになる」
「そんな言い方をしないで」
「なら、昔みたいに半分分けてくれるのか?」
張耳の表情が固まった。
王になった後、張耳は自分に与えられた土地や権限を陳余と分かとうとした。それは二人で趙を支えるつもりで差し出したものだったが、陳余には王から臣下への施しにしか見えなかった。
「今度は命を残してやる、とでも言うつもりか」
「私は、あなたに死んでほしくないだけ」
「だから嫌なんだよ。お前はいつも、自分が手にした側から私へ何かを渡そうとする。鉅鹿にいた頃は、そんな関係じゃなかった」
張耳が言葉を返すより先に、東趙の将や役人たちが捕虜として連れてこられた。
今後張耳の統治を受け入れるか確認するために集められた者たちだったが、その一人は陳余を見つけると、迷わず彼女の前へ膝をついた。
「王よ、御無事でございましたか」
張耳ではなく、捕らわれた陳余へ頭を下げている。
もう一人の将もそれに続き、周囲には何も言わず頷く者がいた。
「戦は終わった」
俺が声をかけると、最初に膝をついた将がこちらを見た。
「秦王にとっては、そうなのでしょう」
「俺が趙を直接治めるつもりはない。これからは張耳が趙王として治める。武器を置いて従う者を処罰する気もない」
「されど、我らにはすでに王がおられます」
その視線が、再び陳余へ向く。
張耳はしばらく何も言わず、それから静かに尋ねた。
「陳余が生きている限り、私には従わないということ?」
「少なくとも、私は」
その返答を聞き、陳余が乾いた笑いを漏らした。
「分かっただろう、張耳。私一人を助ければ終わる話じゃない」
◆
それでも、俺はすぐ処刑する気にはなれなかった。
「陳余、王号を捨てられないか」
陳余がこちらを見る。
「張耳へ仕えろとは言わない。趙を離れて暮らしてもいいし、秦で身柄を預かることもできる。二度と兵を集めず、趙王を名乗らないなら、生かしておける」
陳余は少し考えるような素振りさえ見せなかった。
「断る」
「即答か」
「二人が趙王を名乗って戦い、私が負けた。それで私だけ王号を捨てれば、お前の言う通り張耳の王位を認めたことになる。私はそれをするつもりはない」
「牢に入ることになっても?」
「場所など関係ない。私を王と呼ぶ者がいるなら、それを止めるつもりもない」
そこまで聞いて、張耳が目を閉じた。
陳余自身が何もせずとも、今ここにいる将たちが彼女を王と呼んでいる。秦で幽閉したところで救出を求める者が出るだろうし、遠くへ追放すれば帰還を待つ者が現れる。
本人が王であることを捨てない以上、東趙には敗れてなお王が残る。
「陳余」
張耳はゆっくり目を開いた。
「私に仕えなくていい。会わなくてもいい。だから王号だけ捨てて、もう兵を集めないと約束して」
「嫌だ」
「どうして、そこまで」
「それを受け入れられるなら、最初からお前と戦っていない」
陳余は張耳を正面から見た。
「お前が王になった時、私はお前の隣にいたかった。後から土地を分けてもらって、その下に立ちたかったわけじゃない。今度も同じだ。負けたからといって、お前に生きる場所まで決めてもらうつもりはない」
「そんなつもりじゃない」
「お前にそのつもりがなくても、私には同じなんだよ」
張耳は反論しなかった。
もう二人の間の感情だけで済む話ではなくなっていることを、目の前の東趙の将たちが示していた。
◆
俺は張耳の横へ寄った。
「秦へ連れていって、生涯監視することならできる」
「うん」
「ただ、それで終わるとは俺も言えない」
張耳は東趙の将たちへ目を向けた。
「一つだけ聞かせて。陳余が秦に囚われたままでも、この人を王と呼ぶ?」
最初に膝をついた将は、少しだけ迷ったあと頭を下げた。
「王は囚われたからといって、王でなくなるものではございませぬ」
その答えを聞いた張耳は、長く息を吐いた。
助けたいという気持ちは消えていない。それでも自分が趙王として国を一つにするなら、ここで二人の王を残すことはできないと、彼女自身が認めるしかなかった。
「陳余、最後に確認する。王号を捨てる気はないんだね」
「ない」
「私を趙王と認めることも?」
「ない」
張耳はそれ以上聞かなかった。
少しの間、陳余を見つめたあと、腰の剣へ手を置いた。
「私は趙王として、この国を一つにすると言ってここまで来た。今日ここであなたを助けて、また東と西に王を残せば、死んだ兵にも、これから私に従う人たちにも説明できない」
声は震えていたが、言葉は最後まで続いた。
「陳余を、趙王として処刑する」
周囲が静かになった。
陳余はしばらく張耳を見たあと、静かに頷いた。
「それでいい」
◆
決断したからといって、剣が簡単に抜けるわけではなかった。
張耳は柄へ手をかけたまま動かず、目の前の陳余を見ていた。
刎頸の交わりを結び、鉅鹿では同じ城に籠もり、どちらかが死ぬなら一緒だと思っていた相手である。あの頃には、二人がそれぞれ王を名乗り、一方がもう一方へ刑を下す日など想像もしなかっただろう。
「最後に一つだけ聞いていい?」
「何だ」
「生きたいとは思わない?」
陳余は少し困ったように眉を寄せた。
「生きたくないわけじゃない。でも、お前の王位を認めて生きる気もない。それを都合よく聞き間違えるな」
「本当に面倒な女」
「今さら気づいたのか」
張耳は涙を拭わないまま、ほんの少し笑った。
「私、まだあなたのこと好きなんだけど」
今度は陳余が返事に詰まった。
「そういうことを最後に言うな」
「最後だから言ってるの」
「卑怯だな、お前は」
「知ってる」
張耳はようやく剣を抜いた。
「他の人にはやらせない。私が斬る」
「ああ。お前がやれ」
「怖くないの?」
「怖いに決まってるだろ」
陳余は苦笑し、縛られたまま背を伸ばした。
「だが、最後まで自分で選んだことくらいは、自分で引き受ける」
張耳の顔がまた歪んだ。
「最後まで腹が立つ」
「私もだよ、張耳」
しばらく二人は互いを見ていた。
やがて陳余が、ほんの少し顎を上げた。
「私を好きだった女として斬るな。趙王として斬れ」
張耳は大きく息を吐き、剣を構え直した。
今度は振り下ろすまで迷わなかった。
◆
陳余の死が伝えられると、それまで態度を決めかねていた東趙の将たちも、次第に張耳の前へ膝をつき始めた。
最初に陳余へ頭を下げた将も、しばらくその場に立ち続けていたが、最後には武器を置いて頭を垂れた。
「……趙王に、お従いいたします」
張耳はすぐには答えられなかったものの、やがて小さく頷いた。
「分かった。今日降った者を、陳余に従っていたというだけで罰するつもりはない。武器を置いた兵も、家へ帰りたい者は帰して」
声はまだ掠れていたが、王として出すべき命令を止めることはなかった。
ほどなくして、羌瘣の二千も本営から戻ってきた。秦旗と張耳の趙旗を並べて進む兵の向こうには、まだ細い煙が残っている。
「扶蘇様、本営は確保しました。兵糧もほとんど無事です」
「助かった。あの煙もかなり効いたよ」
羌瘣は周囲を見回し、やがて張耳の様子にも気づいたようだったが、何も聞かなかった。
俺も声をかけなかった。
東趙の軍は崩れ、もう一人の趙王だった陳余もいなくなったことで、政治の上では趙を二つに分けていたものが消えた。
張耳は臣従する将たちへ一人ずつ言葉を返していた。
ただ、その合間に何度か、長い間そこに誰かがいたように、自分の隣へ目を向けていた。




