第141話 死地
趙軍の先頭が背水の陣へぶつかった瞬間、前列に並んでいた盾が一斉に軋んだ。
こちらはすでに正面の戦いで消耗している。川際で待っていた一万にはまだ余力が残っていたものの、そこへ後退してきた本隊三万八千が流れ込み、隊列を組み直しきるより早く趙軍が追いついたため、最初から整った陣形で迎え撃つことはできなかった。
「押し返せ! 後ろを詰まらせるな!」
俺の声と各所の号令が重なり、秦兵が盾を押し戻す。最前列では槍の穂先が入り乱れ、退却の途中で息を切らしていた兵まで身体をぶつけるようにして趙軍を押し止めたが、前の兵を倒してもすぐ後ろから新しい列が入ってくる。
こちらが一人欠ければ、その分だけ戦列は薄くなる。一方の趙軍は十万という兵力を使って前列を入れ替えながら圧力を維持できるため、最初の激突を受け止めても楽になる気配はなかった。
「右からも来ます!」
伝令に言われて視線を向けると、正面へ殺到していた趙兵の一部が川沿いへ回り始めている。単純に数で押し潰すつもりではないらしく、その動きを見た時には、すでに嫌な予感がしていた。
◆
李左車は、背水の陣へ入った秦軍を正面から押し続けるだけでは足りないと見ていた。
「中央は今のままで構いません。無理に押し切ろうとせず、敵をその場へ縛りつけてください。右軍は上流側、左軍は下流側へ回し、川沿いから圧力を加えます」
命令を受けた伝令が次々と走り、趙軍の各隊が少しずつ進路を変える。
秦兵と張耳の西趙兵は同じ陣へ入ったとはいえ、つい先ほど合流したばかりで、もともとの指揮系統も違う。李左車は正面の厚い場所を崩そうとせず、兵の並びや旗の位置を見ながら、その継ぎ目を探していた。
「趙王旗の左側、秦兵と西趙兵が接しているところへ盾兵を入れてください。狭く深く押し込み、両軍を切り離せば、崩れた側へ互いの兵を回しにくくなります」
「そんな細いところを狙う必要があるのか。十万で押せば、いずれ全部潰れるだろう」
陳余はそう言いながらも、視線の大半を張耳の趙王旗へ向けていた。
「潰すのであれば、抵抗しにくい形にしてからの方が早うございます。それと、張耳の一万へ圧力を加えてください。あそこが先に崩れれば、秦兵だけでこの陣を支えるのは難しくなります」
それには陳余も異論がなかった。
「あの旗を倒せ。張耳を討った者には、約束どおり重賞を与える」
命令が伝わると、趙軍の一部が正面中央から離れ、張耳のいる一角へ向かって厚みを増していった。
◆
「左が割られます!」
知らせを受けて見ると、趙軍の盾兵が横へ広がるのではなく、狭く深い隊形を作ってこちらへ食い込んでいた。
狙われているのは秦兵が厚く並ぶ場所ではなく、西趙兵との境である。そこへ予備を回そうとしたところへ、今度は川沿いを回ってきた趙兵が楊端和の側面へ迫っているという報告まで届いた。
「境目へ予備を回せ! 右は今いる兵で持たせろ!」
「ですが、右もかなり押されております!」
「分かってる。だから全部は送れない!」
残っている予備は多くなく、一方を厚くすれば別の場所に穴が開く。
俺が考えていた背水の陣は、追ってきた趙軍を川際まで引きつけ、退路のない兵が踏みとどまって正面から受けるというものだった。もちろん敵が横へ回ることくらい考えていたが、李左車は合流した直後の軍を一目見るなり、秦兵と西趙兵の継ぎ目まで見つけ、そこへ兵を打ち込んできた。
陳余が感情に任せて全軍を追わせるところまでは読めていた。
だが、その十万を実際に動かす者まで侮っていた。
前方で盾列の一部が崩れ、そこから趙兵が数人入り込んでくる。護衛が俺の前へ出ようとしたが、こちらもすでに兵を出し切りつつあり、王だからと後ろで見ている余裕はなくなっていた。
「そこを塞ぐ!」
俺は槍を払って相手の懐へ入り、肩口へ剣を叩きつけた。倒れた兵の横から別の槍が伸び、護衛が盾で受けたところへ剣を返すと、そのさらに後ろにも新しい敵兵が見える。
自分で剣を振るうような状況になるとは考えていなかった。
背水の策は成功しているはずなのに、今のところ追い詰められているのはこちらだった。
◆
中でも、張耳の一角は凄まじい圧力を受けていた。
陳余が明確に趙王旗を狙わせたことで、東趙軍は正面だけでなく斜めからも兵を重ね、西趙兵を川岸へ押し込み始めている。もともと五千しかいない西趙兵は秦兵の支援を受けながら持ちこたえていたが、その秦兵との境には李左車の盾兵が食い込み、助けを送ることさえ難しくなっていた。
「旗を下げるな! 前を詰めろ!」
張耳は細かな部隊運用へ口を出さず、趙王旗の下から兵へ声を飛ばし続けた。
だが、声だけで敵の圧力が消えるわけではない。
盾を重ねていた前列がまとめて数歩押され、その勢いが後ろまで伝わった。最後列にいた兵の一人がぬかるんだ岸へ足を取られ、隣の兵が腕を掴んだものの、前方からさらに押されたため二人とも体勢を崩して川へ転げ落ちた。
「綱を投げろ!」
「前が持ちません! そっちを向けば入られます!」
水の中では甲冑を着た兵が必死に岸へ手を伸ばしているが、助けようと振り返れば趙兵の槍がその隙へ入ってくる。別の場所でも押し込まれた数人が岸から落ち、背水に置けば誰も逃げないという言葉が、どれほど都合のいいものだったのかを戦場そのものが突きつけていた。
「張耳を討て! 偽王の旗を倒せ!」
東趙軍から浴びせられる声は、西趙兵にとって刃とは別の意味を持っていた。
目の前にいるのも同じ趙人であり、中には以前同じ軍にいた者や、顔を知る者さえいる。自分たちは趙を取り戻すために戦っているのか、それとも秦に従って同胞を殺しているのか、その迷いにつけ込むように東趙軍がさらに押し込んだ。
旗手が矢を受け、趙王旗が大きく傾く。
「旗を寄越せ!」
張耳は倒れかけた旗竿を自分で掴み、兵と一緒になって立て直した。
「王よ! お下がりください!」
「どこへ下がれと言う!」
怒鳴り返された兵たちが一瞬後ろを見たが、そこには濁った川が流れているだけだった。
「ここまで来て、今さら東も西もあるか! 向こうも趙人、私たちも趙人だ。それでも向こうが私たちを偽物と呼ぶなら、答える方法は一つしかない!」
張耳は両手で旗を支え、再び高く掲げた。
「私は逃げない! 鉅鹿から逃げず、国を追われても生き延び、ここまで戻ってきた! 趙へ帰るために来た私が、今さら川を見て逃げると思うか!」
近くの兵が振り返り、さらにその後ろの者たちも趙王旗を見る。
「私を王と認めるかどうかは、戦が終わってから決めればいい! 生きて文句を言いたい奴は、まず目の前の敵を押し返せ!」
張り詰めていた兵の中から誰かの笑い声が漏れ、それをきっかけに槍を構え直す音が続いた。
「趙王を守れ!」
声が重なり、押され続けていた西趙兵が再び前へ身体をぶつける。
川へ落ちた者は戻ってこないし、傷ついた兵の数も減らない。それでも趙王旗の周囲で崩れかけていた列は踏みとどまり、わずかながら東趙軍を押し返し始めた。
◆
その変化を少し離れた場所から見ていた李左車は、張耳への攻撃を続けさせながら、別の場所へ視線を移した。
「張耳は後でよいでしょう。あれを今すぐ崩そうとすれば、こちらの兵まで余計に使います」
「では、どうする」
陳余が不満そうに問い返すと、李左車は秦王旗を示した。
「扶蘇を討ちます。この陣を組み立て、秦兵を動かしているのはあの男です。張耳が西趙兵を繋ぎ止める旗なら、扶蘇は秦軍の指揮そのものを繋いでいる。あちらを失わせた方が全軍の崩れは早いでしょう」
秦王旗の周囲では、すでに扶蘇本人まで剣を振るっている。
守りを固めるために他の部隊から兵を引けば、その場所が弱くなる。逆に今の兵だけで守らせれば、精鋭を集中させることで王まで届く可能性があると李左車は見た。
「盾兵を二つに分け、黥布と楊端和を押さえてください。討ち取ろうとする必要はありません。あの二人が秦王旗へ近づこうとするたび進路へ兵を入れ、救援だけを妨げれば十分です」
さらに李左車自身は麾下の精鋭を集め、秦王旗へ向かって前進を始めた。
◆
「邪魔だ!」
黥布が得物を叩きつけ、正面の盾兵を押し退ける。
だが一人を倒せば後ろから次の盾が入り、その兵を弾いてもさらに別の隊が穴を埋めてくる。敵は黥布とまともに力を競うつもりがなく、こちらが深く出れば少し退き、横から秦王旗へ抜けようとすると、その方向だけ盾を重ねて道を塞いだ。
「こいつら、さっきから俺と戦う気がねえぞ!」
苛立った黥布が何度目かの盾を弾き飛ばした頃には、敵の狙いも見え始めていた。
楊端和の側でも似た動きが続き、進路を変えるたびに趙軍の盾兵が追随してくる。彼女は何度か突破を試みたあと、遠くで急に厚くなった秦王旗の周囲を見て敵の意図を悟った。
「私たちを倒すためではありません! 扶蘇様から引き離すのが狙いです!」
楊端和は前の兵へ槍を突き込みながら、周囲の秦兵へ声を飛ばした。
「無理に追うな! 列を崩せば、かえって敵の思う壺になります。前を保ちながら道を開きなさい!」
しかし、李左車が送り込んだ盾兵は崩れず、黥布も楊端和もすぐには秦王旗まで辿り着けなかった。
◆
「右から来る!」
護衛の声に反応して振り向くと、盾の脇から槍が伸びてきた。
剣で穂先を逸らし、踏み込んできた兵へ刃を返す。その間にも次の盾が前へ出て、俺の近衛兵と激しくぶつかった。
先ほどまでの趙兵とは、明らかに動きが違う。
一人一人が突出せず、前の盾が相手を止めれば後ろから槍が伸び、誰かが倒れても穴が開く前に次の兵が入ってくる。精鋭をまとめて投入しているらしく、近衛も簡単には押し返せず、俺の周囲は少しずつ狭くなっていた。
「扶蘇様を狙っています!」
「見れば分かる!」
敵を斬りながら周囲を探したが、楊端和の旗は盾兵の向こうにあり、黥布もこちらへ抜けようとしては押し戻されている。
この動きが偶然であるはずはない。
俺を孤立させるため、こちらの強い将を先に別の兵で縛っている。
なら、それを動かしている者がいるはずだった。
精鋭の後ろへ目をやると、兵たちへ次々と指示を出しながらこちらへ進んでくる女が見えた。
李左車だ。
どうやら向こうも、俺の首を取るために自分から近づいてきたらしい。
それなら、こちらから狙えない距離でもない。
俺は近くで戦っていた、深く兜を被った王氏の兵へ視線を送った。普通の兵には似つかわしくない大剣を持ちながら、ここまで近衛の中に紛れて俺の側を離れていない女である。
「王離」
戦場の喧騒に消えるほどの声で名を呼ぶと、兜の奥からこちらを見る目だけが動いた。
「はい、扶蘇様」
「あの女を討て」
剣先で李左車を示す。
王離は一度だけ頷いた。
「承知いたしました」
次の瞬間には、俺の前を守っていた近衛兵の間から巨大な剣が突き出された。
◆
李左車の精鋭が崩れたのは、一度の突撃で全員が退いたからではない。
王離が正面の盾へ大剣を叩きつけると、一枚目が持ち主ごと大きく後ろへ押され、後列の足が止まった。そこへ近衛兵が左右から食い込み、王離自身は開いた隙間へさらに踏み込んで、二枚目の盾まで横から弾いた。
「何だ、あれは……」
李左車は思わず目を細めた。
秦王の近衛に腕の立つ兵が混じっていること自体は不思議ではない。しかし、目の前の女が使う大剣と、それを正面から盾ごと押し切る力には見覚えのある何かがあった。
「前へ出すな! 三人で受けず、槍を左右から入れろ!」
李左車の号令で精鋭が隊形を変え、一人が真正面から止めるのではなく、距離を取って槍を重ね始めた。
王離も力任せに振り回すだけではなく、大剣の腹で穂先を払い、近衛兵が作った隙間へ身体を滑り込ませる。横から来た兵へ肩をぶつけて押し退けると、次の一振りでまた一つ盾列が開いた。
兜は深く、顔までは見えない。
それでも李左車は、迫ってくる姿から目を離せなくなっていた。
王氏の若い将で、常人では扱えぬほどの大剣を振るい、鉅鹿で死んだと聞いている女。
そこまで思い至った時、李左車の表情が初めて変わった。
「まさか……」
あり得ないと思っている間にも、最後に残った盾兵が大剣を受けて横へ弾かれた。
「止めろ! その女を私の前へ通すな!」
周囲の兵が再び王離へ集まる。
しかし、その命令を出したことで李左車自身の位置も完全に露わになった。
王離は何も答えず、近衛兵とともにさらに一歩前へ出る。横から突き込まれた槍を払い落とし、別の兵を柄で押し退けたところで、ついに李左車との間に遮る者がいなくなった。
李左車も剣を抜いた。
軍を率いる者だからといって、武器を扱えないわけではない。真正面から大剣と力比べをする愚は避け、王離が踏み込んだ瞬間に腕を狙って斬りつけ、その脇を抜けようとする。
だが王離は大剣を無理に振らず、柄でその一撃を受けた。
金属のぶつかる重い音が鳴り、李左車が二撃目へ移ろうとした時には、王離がさらに間合いを詰めていた。下から跳ね上がった大剣を李左車は身体を捻って避けたものの、鎧の端を強く打たれて体勢を崩す。
それでも倒れず、すぐに足を立て直して剣を構えた。
「その剣、その力……やはり王氏の」
最後まで言わせるつもりはなかったのだろう。
王離は一気に踏み込み、今度は真正面から大剣を振り下ろした。李左車も剣を合わせたが、受け止めきれずに刃を弾かれ、身体が開いたところへ返された一撃を受ける。
李左車はその場に崩れ落ちた。
周囲の趙兵が一瞬動きを止めたが、王離は倒れた相手を確かめることもなく、すぐ俺の方へ身体を向けた。
「扶蘇様、こちらへ。まだ囲まれております」
「ああ。戻るぞ!」
近衛兵が王離の後ろへ続き、開いた道を広げる。
その頃には、李左車から細かな指示を受けていた趙軍の各隊にも、命令が途切れ始めていた。
◆
最初に変化が現れたのは、黥布を押さえていた盾兵だった。
それまでなら黥布が横へ動けば合わせて厚みを変えていたのに、その動きがわずかに遅れた。前列は命令どおり踏みとどまろうとする一方、後ろの隊は次にどこへ入ればよいのか分からず、互いの間に隙間が生まれる。
「やっと鈍くなったな!」
黥布は理由を確かめるより先に、その隙間へ得物を叩き込んだ。
一枚目の盾を押し込み、体勢を崩した兵の横から秦兵が雪崩れ込む。先ほどまで何重にも重なっていた壁が割れると、黥布はそのまま前へ出て、後続まで呼び込んだ。
「ここを開けるぞ! ついてこい!」
楊端和の側でも、趙軍の動きは明らかに変わっていた。
川沿いへ回った部隊だけがそれまでの命令どおり進み続ける一方、正面の盾兵は留まり、さらに後ろから来た部隊がどちらへ合わせればよいか迷っている。その食い違いを見た楊端和は、敵の指揮に何か起きたことを察した。
「敵の動きが乱れています! 追いすぎず、前列を揃えたまま押し返しなさい!」
号令を受けた秦兵が盾を並べ直し、数歩ずつ前へ進む。
李左車が討たれたからといって、十万の兵が一度に崩れたわけではない。それでも、複数の場所へ兵を回しながらこちらの継ぎ目を狙っていた攻撃は、中心を失ったことで少しずつ噛み合わなくなり、その小さな乱れを黥布や楊端和が見逃すはずもなかった。
張耳の周囲でも、西趙兵が趙王旗を中心にもう一度前へ出た。
川際まで追い詰められていた兵たちは、先ほど失った数歩を取り戻し、境を割られていた秦兵も少しずつ合流し始めたことで、今にも崩れそうだった戦線がようやく形を取り戻していった。
◆
「何が起きている!」
陳余には、戦場の変化が理解できなかった。
つい先ほどまで、張耳の兵は川へ押し込まれ、秦王旗の周囲にも精鋭が食い込んでいた。それなのに突然、各所で進軍が鈍り、逆に秦軍が前へ出始めている。
「李左車を呼べ! あの女はどこにいる!」
伝令へ怒鳴ったが、すぐに返事は戻ってこなかった。
別の使者を走らせても、戦場では前へ出る部隊と足を止める部隊が混ざり、命令を確かめようとする伝令同士まで行き違っている。李左車が細かく組み立てていた攻撃を、事情も分からぬ別の将が途中からそのまま引き継げるはずもなかった。
「太鼓を鳴らせ! 押し続けろ! こちらにはまだ兵がいる!」
陳余自身の命令で前進を続けさせようとしたものの、十万という数は命令が乱れた時にはかえって扱いにくい。前の隊が止まった理由を知らない後続が詰まり、側面へ出ていた兵には中央の状況が届かず、それぞれが別の戦を続ける形になり始めていた。
それでも趙軍が崩壊したわけではない。
兵力ではまだ上回っている以上、立て直す時間さえあれば再び押せる。陳余はそう考え、まず張耳の旗を探そうと前方へ目を向けた。
その時、後ろから駆けてきた兵が、馬から落ちそうな勢いで叫んだ。
「陳余様! 後方をご覧ください!」
「今度は何だ!」
苛立ちながら振り返った陳余は、そのまま言葉を失った。
遠く後方、朝まで趙軍の本営が置かれていた場所から黒い煙が何本も立ち上っている。荷駄や天幕が密集していた辺りではすでに炎が広がり、風に煽られた煙の向こうで、見慣れた趙の旗が次々と消えていった。
前では背水の秦軍が押し返し始めている。
そして後ろでは、自分たちが帰るはずだった本営が燃えていた。




