第140話 井陘の背水
閼与へ入った東征軍は、そこで兵を組み直した。
東へ向かうのは総勢五万。うち一万を張耳とともに先行させ、三万八千を俺の本隊とし、残る二千を羌瘣へ預ける。王賁は閼与に残り、西へ延びる補給路と後方を守ることになった。
対する陳余の兵は、およそ十万。
数で倍、しかもこちらは井陘の山道を抜けて東へ出なければならない。普通に戦えば、趙軍が有利なのは考えるまでもなかった。
「それで、そろそろ聞かせろ」
出陣前の軍議で、王賁は最初から不機嫌だった。
「お前はここへ来るまで、地図を見るたび川の位置ばかり確かめていた。五万で十万に殴りかかるだけなら、そんなことをする必要はないだろう」
「殴りかかるのは合ってるよ」
「帰るぞ」
「だから最後まで聞けって」
立ち上がりかけた王賁を座らせ、俺は地図の上に駒を置いた。
井陘を抜けた東側には大軍を展開できる土地があり、その一角を川が流れている。俺はその川際へ一万を示す駒を置き、さらに中央へ趙王の旗を示す小さな印を立てた。
「最初に一万を出す。ここへ陣を張ってもらう」
張耳が地図へ顔を寄せ、ほどなく俺を見た。
「川を背に?」
「そう」
「では、押された時の退路はどこに?」
「ない」
張耳が黙り、王賁も地図へ視線を戻した。少し離れていた楊端和と羌瘣も、口には出さないものの明らかに怪訝そうな顔をしている。
「確認するぞ」
王賁が川を指した。
「これが川。その向こうには渡って逃げられるような橋もない。敵はこっちから来る。それで、お前はその間に一万を置くのか?」
「その通り」
「負けたら川だぞ」
「だから負けない」
「お前な」
王賁は頭を抱えた。
「俺も長いこと戦をしてきたが、自分から逃げ道を捨てる軍なんて聞いたことがない。川を片側の守りに使うなら分かるが、これは自分たちを袋の中へ入れてるだけだ」
「私も同じです」
張耳も困惑を隠さなかった。
「追い詰められた末に川を背負うことはあっても、最初からそこへ陣を敷く理由が分かりません。兵が恐慌を起こせば、そのまま川へ落ちますよ」
「その危険はある」
「随分あっさり認めますね」
「危険に見えなきゃ、陳余も食いつかないからな」
俺は次に、本隊を示す駒を井陘の出口へ並べた。
「一万を先に置いた後、俺が三万八千を率いて正面から出る。楊端和と黥布もこっちだ。趙軍とある程度まともに戦ったあと、押されたように見せながら後退する」
「待て」
それまで黙っていた黥布が、そこで口を挟んだ。
「俺は逃げる芝居なんぞ嫌だぞ」
「最初から逃げるわけじゃない。本気で戦っていい」
「その後で逃げろって話だろ」
「合図したらな」
黥布は露骨に嫌そうな顔をしたが、俺が川際の陣を示すと、今度はそちらへ身を乗り出した。
「それで、追ってきた十万をこの川っ縁で受け止めるのか?」
「そこまで来てくれれば」
「お前、本気か。逃げ道を消せば必死に戦うって言っても、押し潰されたら終わりだろうが」
「それも分かってる」
「……まあいい。要するに俺は最初に本気で暴れて、合図が来たら川まで戻る。そこからは逃げるなってことだな」
「そういうこと」
「だったら最初からそう言え」
黥布は腕を組み直し、それ以上は文句を言わなかった。
俺はさらに二千を示す小さな駒を取り、趙軍の本営を大きく迂回させた。
「その間に羌瘣が山から敵本営へ回る。趙軍が十分に出払ったところで陣を奪い、陳余の旗を降ろして、秦旗と張耳の趙旗へ替えてくれ」
羌瘣は地図上の細い道を目で追った。
「敵が残っていれば?」
「必要なら戦っていい。ただ、首を集める必要はない。本営を取って旗を替えることが一番大事だ」
「分かった。私はそれだけやればいい」
返事は淡々としていたが、羌瘣も川際の一万へもう一度目をやった。自分の役目より、正面側の方がよほど危険だと思っているらしい。
楊端和も腕を組んだまま口を開いた。
「扶蘇様のお考えは理解しました。敵を引き出し、背後を奪って混乱させる。そこまでは分かりますが、川際で敵を受け止められることが前提になりますね」
「そうなる」
「それが一番難しいように思います。兵は逃げられなければ踏みとどまるかもしれませんが、恐慌を起こせば退路のないまま一気に崩れることもあります」
「俺もそこが一番怖い」
「承知の上なのですね」
「ああ」
楊端和はそれ以上反対しなかったものの、納得しきっているようにも見えなかった。
王賁は最後まで駒を睨んでいた。
「理屈は分かった。敵を本営から引き離し、二千で奪う。だが、そのために五万を川へ貼りつけるのは狂ってる。陳余が本気で十万全部をぶつけてきたら、羌瘣が旗を替える前に潰されるぞ」
「だから一万だけで受けるわけじゃない。本隊も最後には合流する」
「四万八千でも十万より少ない」
「知ってる」
「お前、本当に嫌な顔一つせず言うよな」
そこで王賁は、今度は張耳へ顔を向けた。
「名目とはいえ総大将はお前だ。止めるなら今しかないぞ」
張耳はすぐには答えなかった。
川際に置かれた一万。その中央に、自分の旗がある。
「一つだけ確認します」
やがて張耳が俺を見た。
「私の役目は、あの一万を細かく指揮することではありませんね?」
「それは秦の将にも補佐させる。あなたにやってほしいのは、趙王としてそこにいることだ」
「陳余を引きつけるために」
「それと、趙兵を踏みとどまらせるために」
張耳は地図へ視線を戻した。
「なら、やりましょう」
王賁が露骨に嫌そうな顔をしたが、張耳は続けた。
「陳余が私をどう見ているかは、私が一番よく知っています。私の旗だけなら罠を疑うかもしれませんが、本人が川を背にしていると分かれば、あの女は無視できないでしょう」
「本人まで行く必要はないと思うぞ」
「趙兵にも同じことが言えます。私は安全な場所にいて、あなたたちだけ川を背に戦えとは言えません。それに、軍略ができないなら、せめて兵の前に立つくらいはさせてください」
王賁は俺と張耳を順番に見たあと、とうとう諦めたようだった。
「勝手にしろ。俺は閼与を守る。お前らが本当に川へ叩き落とされた時、こっちまで空にしていたら目も当てられん」
「縁起でもない」
「その作戦を聞いた俺の台詞だ」
◆
数日後、張耳の一万は夜明け前に井陘を抜けた。
秦兵五千と西趙兵五千からなる先行隊は、そのまま川際まで進んで背後へ水を置く形で陣を張り、中央には大きな趙王旗を掲げた。張耳本人も旗の下に入り、兵の前から姿を隠そうとはしなかった。
少し離れた山中では、羌瘣の二千がすでに姿を消している。
残る本隊三万八千は、俺と楊端和、黥布らが率いて井陘の西側で待機した。
趙軍から見えるのは、まず張耳の一万だけだった。
◆
「妙です」
川際の陣を見た李左車は、最初からそう言った。
井陘の東には陳余が集めた十万が陣を敷いており、その高所からなら遠くの趙王旗までよく見える。
「何が妙だ」
陳余は、むしろ愉快そうだった。
「全部です。あそこへ陣を置けば、敗れた時に逃げられません。しかも張耳本人まで入っている。追い詰められた結果ではなく、自分からあの場所を選んでいるのです」
「兵法を知らないからだろう」
李左車が横目で陳余を見た。
「本気でそうお考えなのですか」
「何がおかしい。扶蘇は珍しい男というだけで、周囲から過大に持ち上げられている。多少戦場を歩いたところで、兵法まで知っているとは限らない」
「川を背にすれば危険だと知るのに、兵書を何十巻も読む必要はありません」
「なら、張耳も馬鹿になったということだ」
陳余は遠くの趙王旗を指した。
「あの女まで逃げ道のない場所に立っている。自分の旗を見せれば趙兵が奮い立つとでも考えたのだろう」
声音には嘲りがあったが、視線は旗から離れない。
李左車はその様子を見て、なおさら嫌なものを感じた。
「こちらには十万がおります。相手が本当に愚かなのなら、なおさら動く必要はありません。陣を固めたまま待ち、別働隊を西へ出して補給路を脅かせば、敵は勝手に苦しくなります」
「五万を相手に十万が籠もるのか」
「勝つためなら」
「それでは張耳を倒せない」
返ってきた言葉で、李左車はわずかに眉を寄せた。
「秦軍を退ければ十分でしょう」
「十分ではない」
陳余の笑みが消えた。
「あの女は趙王を名乗って戻ってきた。秦の後ろに隠れながら、それでも自分が趙を率いるつもりでいる。私が陣に籠もって帰るのを待てば、東趙の兵の中にも、どちらが本当の王なのか迷う者が出る」
「勝敗と評判は別です」
「私には同じだ」
陳余は言い切った。
「正面から叩く。五万なら十万で押し潰せばいい。難しい兵法など必要ない」
李左車はそれ以上、同じ説得を繰り返さなかった。ただし諦めたわけではなく、少なくとも敵の本隊が出るまでは動かず、さらに全軍を出すべきではないと進言した。
「今見えているのは一万だけです。残り四万ほどが何をするか分からないうちから全軍を動かすのは危険です」
「本隊が出るまでは待ってやる」
「その後も半数は本営へ残してください」
「それはその時に考える」
その答えだけで、李左車には嫌な予感がした。
◆
翌朝、俺の本隊三万八千が井陘から東へ出た。
山道を抜けた兵は、そのままでは大軍を展開できない。先頭から順に平地へ広がり、後続が詰まらないよう隊列を組み直していく間、前衛を任せた楊端和はすでに趙軍との距離を測っていた。
「向こうも待ってはくれませんね」
趙軍の前列が動き始めている。
「最初から退く必要はない。本気で当たってくれ」
「承知しております」
「ただ、深追いはするな。退く合図を出した時に離れられなくなる」
「それは黥布殿へ強く言っておいた方がよろしいかと」
言われて視線を向けると、黥布はすでに前の方へ出ていた。
「聞こえてるぞ」
振り返りもしない。
「俺は逃げる芝居なんぞ好きじゃねえ。だが、最初は本気でやっていいんだろ?」
「いい。ただし合図したら戻れ」
「だったら問題ねえ。十万だろうが何だろうが、来た奴から潰すだけだ」
黥布が得物を肩から下ろしたところで、趙軍の太鼓が響いた。
向こうの前衛が走り始め、こちらもすぐに太鼓を返す。楊端和の号令で槍兵が前へ進み、盾を重ね、その左右を歩兵が固めながら弓兵が射撃位置についた。
最初の矢が空を越えた。
双方から放たれた矢が降り始め、その直後に前列同士が正面から激突した。秦兵の盾列へ趙兵が何重にも押し寄せ、槍の穂先が隙間を探して伸び、倒れた兵が出れば両軍とも後ろから別の兵を押し込んで穴を埋める。
囮だからと手を抜いている兵などいない。
こちらも、本気で目の前の敵を倒しにいった。
「押せ!」
楊端和の声に秦兵が一斉に踏み込み、趙軍の第一列を数歩押し返した。空いたところへ槍を突き込み、再び盾を揃えるが、趙軍もすぐ後列を前へ入れ、左右から兵を広げてこちらの前面を包もうとする。
「左を広げすぎるな! 後続の道を塞ぐな!」
楊端和は自ら前へ出ながら、山道から続く兵が詰まらないよう部隊を細かく動かしていった。
その時、別の場所から大きな歓声が上がった。
黥布だった。
敵兵の厚い一角へ自ら先頭に立って飛び込み、正面から振り下ろされた武器を受けるより先に、相手を盾ごと後ろへ押し飛ばしている。できた隙間へ踏み込むと、そのまま次の兵へぶつかり、後続の秦兵まで引き連れて趙軍の列を深く抉った。
「黥布様に続け!」
秦兵が殺到し、一時は趙軍の前列が大きくへこんだ。
「押してるな」
俺もその様子を見ていたが、すぐに趙軍の後ろから新手が動き始めた。
黥布が一列を割っても、その先にはまだ兵がいる。それどころか左右から別の隊が集まり、突っ込みすぎた部隊を包み始めていた。
「黥布を戻せ!」
伝令を飛ばす。
ほどなく後退の旗が振られたものの、本人はまだ敵の中で得物を振り回していた。
「退け、黥布殿!」
「分かってる!」
そう怒鳴りながら、目の前の趙兵をもう一人押し倒している。
ようやく自陣へ戻った頃には、最初についていった兵の何人かが帰ってこなかった。
「十万ってのは面倒だな。斬っても斬っても、次が出てきやがる」
「だから一人で勝とうとするな」
「一人じゃねえだろ。こいつらもいる」
黥布の周囲にいた兵が声を上げた。疲労は見えているが、まだ士気は落ちていない。
少なくとも趙軍から見れば、秦軍が最初から退くためだけに出てきたとは思わないはずだった。
◆
戦いは、その後も簡単には動かなかった。
楊端和が中央を支え、黥布が厚くなった場所へ何度も食い込み、俺も予備兵を送って押し返す。こちらが前へ出れば趙軍が数歩下がり、向こうが兵を重ねれば今度はこちらが押されるという攻防がしばらく続いた。
ただ、時間が経つほど兵数の差が効いてきた。
趙軍は疲れた隊を後ろへ回して新しい兵を出せるが、こちらにそこまでの余裕はない。負傷者を後方へ運ぶ姿が増え、山道から出た時には揃っていた前列にも少しずつ乱れが生じていた。
やがて楊端和から伝令が来た。
「扶蘇様。これ以上続ければ、予定ではなく本当に押し込まれます」
「分かった」
俺にも同じものが見えていた。
ここまで本気で戦ったのなら、退けば趙軍も食いつく。
「全軍に伝えろ。予定どおり後退する。ただし走るな。敵を押し返してから下がり、旗も捨てるな」
命令が前線へ伝わり、秦軍が戦いながら徐々に後ろへ動き始めた。
だが何万もの兵を敵と接触したまま退かせるのは、地図の駒を動かすようにはいかない。
「退け!」
「まだ敵と噛み合ってる!」
「右から先に下げろ!」
各所で怒鳴り声が飛び交い、秦軍の動きを察した趙兵も勢いを強める。
「秦が退くぞ!」
「追え!」
一部では予定以上に押され、十数歩まとめて下がった兵が後ろの隊とぶつかった。そこへ趙兵が食い込みかけ、楊端和が自ら馬を返して穴を塞ぐ。
黥布も退却命令には最後まで不満そうだった。
「これ、本当に逃げてるように見せる必要あんのか?」
「今は黙って下がれ!」
「分かったよ。ただで帰らせる気はねえけどな!」
追ってきた兵をもう一度押し返し、それからようやく味方とともに下がっていく。
本隊三万八千は、そうして何度も敵へ向き直りながら川際を目指した。
最初から決めていた退却ではある。
しかし兵たちは汗と泥にまみれ、負傷した仲間を支えながら、追ってくる趙兵へ何度も槍を向けている。芝居をしている者など一人もいなかった。
俺自身も、どこまでが予定どおりで、どこからが本当に押され始めたのか、次第に境目が分からなくなっていた。
◆
「秦軍が退きます!」
報告を受けた陳余は、馬上で笑った。
「見たか、李左車。結局、十万を受けきれなかっただけだ」
李左車は笑わなかった。
退いていく秦軍をしばらく見つめたあと、表情を険しくする。
「敗走ではありません」
「押されていることに変わりはない」
「列を保ったまま退いています。それに、向かっている先をご覧ください」
秦軍本隊の先には、最初から張耳が置かれていた川際の陣がある。
李左車はそこで何かを悟った。
「追撃を止めてください」
「なぜだ」
「あそこへ入ることが、最初から目的だった可能性があります。こちらを誘っています」
陳余も川際へ目を向けた。
張耳の旗は、まだそこにある。
「だからどうした。五万全部が川へ追い詰められるのなら、こちらにとって都合がいい」
「都合よく見えすぎるのです。一度兵を止め、本営を残してください。追うとしても半数で十分です」
しかし秦軍はさらに退き、張耳の陣へ近づいていく。
その姿を見ているうちに、陳余の視線は再び趙王旗へ吸い寄せられた。
そこにいるのは、かつて自分を捨てたと思っている女だった。
「全軍を出す」
「陳余様」
「五万を十万で潰す。それで終わる」
「本営が空きます!」
「敵は目の前に全部いる!」
陳余は剣を抜いた。
「追え! 秦軍を川へ落とせ! 張耳の旗を倒した者には重賞を与える!」
進軍を告げる太鼓が激しく鳴り、前衛に続いて中軍が動く。さらに本営に残っていた兵まで、次々と西へ向かい始めた。
李左車は最後まで険しい顔をしていたが、全軍が動き始めた以上、同じ反対を繰り返しても意味がない。
すぐに戦場へ目を戻した。
「右軍は上流側へ寄せろ。左も川沿いへ広げ、敵の側面へ回れるようにしておけ。弓兵は中央へ固めるな。左右へ分けろ!」
罠だと疑っていても、入ってしまったならその中で勝つしかない。
陳余が敵を侮っていても、その下にいる李左車まで愚かなわけではなかった。
◆
「来た!」
川際に立つ張耳のもとへ、先に伝令が駆け込んだ。
「秦本隊、こちらへ後退中! その後方より趙軍が追撃しております!」
「数は?」
「ほぼ全軍です!」
張耳は遠くへ目を凝らした。
最初に見えたのは、こちらへ向かって後退してくる秦王旗だった。その左右には楊端和らの部隊が続き、ところどころで趙軍へ向き直りながら距離を稼いでいる。
さらにその後ろには、平地を埋めるほどの大軍が迫っていた。
「本当に全部連れてきましたね」
誰へ言うでもなく漏らした言葉に、近くの兵たちは笑う余裕もない。
やがて最初の秦兵が背水陣へ入り、続いて本隊が次々と合流し始めた。
「張耳!」
馬を寄せると、張耳は俺ではなく、その背後に迫る趙軍を見ていた。
「扶蘇様。一つ聞いてもよろしいですか」
「何?」
「全軍を誘い出せれば一番よいとは聞きましたが、本当に十万近く来た時の気分までは伺っておりませんでした」
「俺も今かなり怖い」
「それなら安心しました。私だけではなかったようなので」
張耳は苦笑し、それから兵たちへ向き直った。
本隊三万八千が次々と陣へ入り、先に待っていた一万と混ざりながら戦列を組み直していく。後ろには川があり、山中へ消えた羌瘣の二千がどこまで進んでいるのか、こちらから知る術はない。
俺も振り返って水面を見た。
地図ではただの一本の線だった川が、実際に背後へ置いてみると妙に近い。
「盾を前へ! 急いで隊列を組み直せ!」
号令が飛び、疲れ切った兵たちが再び槍を構える。
張耳の趙王旗が中央で翻り、その少し後ろには俺の秦王旗も上がった。
その時、前方から地鳴りのような鬨の声が届いた。
十万が迫っている。
ここで受け止められなければ、敵本営へ向かった羌瘣も、囮となった張耳も、ここまで本気で戦ってきた兵も、すべて無駄になる。
楊端和が前列へ入りながらこちらを振り返った。
「扶蘇様。ここからは、本当に一歩も下がれませんよ」
「ああ」
俺も剣を抜いた。
「分かってる」
直後、追いついた趙軍の先頭が、背水の陣へ激突した。




