第139話 刎頸
項羽からの使者が咸陽へ入ったのは、北方から戻ってさほど経たない頃だった。
楚は漢に南を脅かされ、北では匈奴が再び動いている。そのうえ、これまで楚の側に立っていた東趙の陳余まで関係を断ったため、使者が携えてきた書状には、楚が漢と匈奴を抑えている間に秦から東趙へ兵を出してほしいと記されていた。
「前は匈奴、今度は陳余か。随分と頼られる国になったものだな」
書状を読み終えた王賁は、呆れた顔でそれを卓へ戻した。
「項羽本人は、こっちを使ってるつもりなんてないと思うけどな。敵じゃないんだから、困った時くらい助けてくれるだろうって感じじゃないか」
「お前たち二人だけなら、それでもいいんだろうさ。だが今のお前は秦王で、向こうは楚を背負ってる。昔みたいに酒でも飲みながら頼み事をして済む立場じゃないぞ」
そこを言われると、俺も返す言葉がなかった。
俺が秦王を名乗ってからも、項羽の態度はほとんど変わっていない。良く言えば昔からの付き合いを忘れていないのだろうが、国同士の利害まで同じ感覚で扱われると、こちらとしては少々困る。
もっとも、今回に限れば秦にも動く理由がある。
「悪い話ではありません」
張良は卓上の地図へ手を伸ばし、趙の東側を指した。
「陳余が自ら楚との関係を断った以上、今なら東趙へ兵を入れても項羽殿と直接争うことにはなりにくいでしょう。それに、こちらはすでに張耳殿を趙王として認めています。趙の半分を別の王が持ったままでは、いずれまた問題になります」
西趙には秦の影響が及び、閼与には王賁の三万が駐屯している。しかし、その東には陳余が率いるもう一つの趙があり、同じ国の名を掲げる二人の王が向かい合った状態だった。
放っておけば、どちらかが動く。だったら楚が手を出せない今のうちに決着をつけた方がいい。
「張耳を呼ぼう。あの人がどう考えてるかも聞いてから決めたい」
「その割には、もう兵を出す顔をしてるぞ」
王賁に言われ、俺は地図から顔を上げた。
「そんな顔って、どんな顔だよ」
「昔から面倒なことを思いついた時の顔だ」
◆
呼ばれてきた張耳は、楚から届いた書状を読み終えると、怒るでも喜ぶでもなく、少しだけ口元を歪めた。
「自分たちの側にいた陳余が離れた途端、今度は秦に討たせるのですか。項羽殿も随分と忙しくなったようですね」
「断りたい?」
「いいえ。こちらにも都合がいい話です」
返事は早かった。張耳は書状を卓へ置き、地図の東趙へ視線を落とした。
「私が趙王を名乗り続けるなら、いずれ避けて通れない相手です。むしろ陳余が楚から離れた今を逃す理由の方がありません」
「だったら今回、総大将はあなたに任せたい」
さすがに、その言葉には張耳も顔を上げた。
「私に軍全体の指揮を執れ、と?」
「そこまでは求めない。作戦は俺たち秦側で考えるし、秦兵を動かすのも秦の将だ。ただ、東趙へ入る軍の一番前には、秦王の旗じゃなく趙王の旗があった方がいい」
秦が趙を征服するのではなく、張耳が分裂した趙を取り戻す。名目の違いに見えて、東趙の民や兵が受け取る意味は大きく変わる。
「東趙にも昔あなたに従った奴はいるだろ。陳余のために戦っている者ばかりじゃないはずだ。趙王のあなたが自分で立っているだけで、揺れる兵はいると思う」
「つまり、私は旗ですか」
「言い方は悪いけど」
「構いませんよ。王というものは、元々そういう役目もあります」
張耳は苦笑したものの、そのまま引き受けるとは言わなかった。地図の東に置かれた駒へ触れ、少しだけ黙ってから俺を見た。
「ただ、その前に一つ聞いていただけますか。扶蘇様は、私と陳余が昔どんな関係だったか、どこまでご存じです?」
「恋人だったことと、かなり昔から一緒だったことくらいだな。鉅鹿での二人なら俺も見てるけど、その前はほとんど知らない」
「なら、少し話しておいた方がいいでしょうね。今のあの女だけを見ても、どうしてここまで拗れたのか分からないでしょうから」
張耳は昔を懐かしむというより、長く開けていなかった箱でも開けるような顔をした。
「最初に私についてきたのは、陳余の方だったんですよ」
◆
二人が知り合った頃の陳余は、今より若く、かなり血の気の多い女だったらしい。
張耳の方が年長で、すでに多少は名も知られていた。やがて秦から追われる身となった二人は名を変えて土地を転々とし、人に雇われて門を守るような仕事までしながら一緒に暮らしていた。
「一度、陳余が役人と揉めたことがありましてね。人前で打たれたものだから、怒ってその場で斬ろうとしたんです」
「いかにもやりそうだな」
「今ならまだ考えてから抜くでしょうが、あの頃は先に手が動く女でした」
剣へ手を伸ばした陳余を、張耳は横から腕ごと押さえた。
「離せ、張耳。あいつを斬る」
「斬った後はどうする」
「逃げればいい」
「今だって逃げてるんだぞ。これ以上、追手を増やしてどうする」
陳余はしばらく抵抗したものの、最後には剣から手を離した。その夜まで機嫌は直らず、粗末な寝台に座って傷へ薬を塗られている間も、自分を打った役人への悪態を延々と続けていたという。
「昼間は平気な顔をしていたくせに、二人になると痛い痛いとうるさくて」
「それを今でも覚えてるんだな」
「嫌でも覚えていますよ。手当てが終わった後、急に私の袖をつかんで妙なことを聞いてきましたから」
陳余は、いつまで自分といるつもりなのかと尋ねた。
逃亡生活は楽ではない。張耳なら、自分など置いて一人で生きた方が楽ではないのかと、珍しく弱気なことを口にしたらしい。
「ついてきたのはお前だろう。お前が嫌になるまでは一緒にいるよ」
張耳が何気なくそう答えると、陳余は傷の痛みも忘れたように笑った。
「なら、一生だな」
いつ恋人になったのか、張耳にもはっきりとは思い出せないという。
同じ部屋で暮らし、同じ飯を食べ、危険な土地では背中を預ける。そんな日々が続くうち、寝台を共にすることにも相手の身体へ触れることにも、いちいち理由を必要としなくなっていた。
刎頸の交わりを結んだのも、その頃だった。
どちらかが首を刎ねられる時には、もう一人も同じところへ首を差し出す。酒の入った席で交わした大仰な誓いだったらしいが、二人とも笑い話のつもりではなかった。
それほどまでに、互いを疑わなかった。
◆
その誓いが冗談では済まなくなったのが、鉅鹿だった。
城は秦軍に幾重にも包囲され、糧食は減り続け、救援に来た諸侯軍も秦軍を恐れて動こうとしなかった。城壁から外を見れば篝火が夜の向こうまで連なり、二人とも、自分たちがこの城で死ぬ可能性を本気で考えていた。
「扶蘇様も、物見櫓にいた私たちを覚えておられるでしょう」
「ああ。二人でずっと一緒にいたな」
「ええ。あの頃は、それ以外に考えられませんでしたから」
ある夜、城がもう長く保たないかもしれないと張耳が口にすると、陳余は何も言わずに彼女を抱き寄せた。
「怖いか?」
「怖いに決まってる。お前は怖くないのか」
「怖い。だから抱いてる」
甲冑を着たまま身体を寄せ、二人で遠くの陣火を眺めた。昔なら刎頸の誓いも勇ましい言葉で済んだが、この夜だけは、明日の朝に二人そろって首を失っていても不思議ではなかった。
「もし秦軍が入ってきたら、一緒に戦おう」
「もちろん」
「お前だけ逃げるなよ」
「逃げ道があったら、お前を引きずってでも逃げるよ」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「分かってる」
陳余は少し笑い、やがて張耳の肩へ顔を埋めた。
「私を一人にするな」
「お前もな」
結局、鉅鹿で二人が死ぬことはなかった。
項羽が秦軍を打ち破り、城の囲みは解かれた。二人は同じ門から生きて出て、その後しばらくは、死地さえ一緒に越えた自分たちが別れることなどあり得ないと本気で思っていたらしい。
「壊れたのは、戦っている時ではなかったんです」
張耳は静かに言った。
「天下を分けるようになってからでした」
◆
項羽の論功行賞が始まった頃、すでに二人の耳には、自分たちの扱いに差がつくという噂が届いていた。
ある夜、陳余は何気ない顔で張耳に尋ねたという。
「もし、お前だけ王にすると言われたらどうする?」
「そんなことにはならないだろう」
「なったら?」
その時の張耳は、まだ本気で考えていなかった。
それでも陳余が何度も聞くので、最後には笑って答えた。
「二人で趙を支えると決めたんだ。片方だけと言われても、そんなものをそのまま受ける気はないよ」
陳余は、その言葉を覚えていた。
そして実際の論功行賞では、張耳に王位が与えられ、陳余には比べものにならないほど小さな土地しか与えられなかった。
知らせを受けた張耳は迷った。
約束を守るなら、王位を断るべきだったのかもしれない。しかし拒めば、趙そのものを別の誰かへ渡される可能性があり、そこに暮らす民も、それまで従ってきた兵も行き場を失う。王位だけ先に受け、あとから土地も権限も陳余と分ければいい。
張耳はそう考え、王位を受けた。
「私は、二人のために趙を残したつもりでした」
今になって張耳はそう言った。
「けれど、陳余に届いた最初の知らせは、私が王になったという事実だけでした」
後になって、張耳から領地を分けるという申し出も届いた。
それで陳余が納得すると思っていた。
返事は、たった一言だった。
「いらない」
張耳は直接会いに行き、なぜ拒むのか尋ねた。
「二人で趙を支えるために受けたんだ。私だけで抱えるつもりなんてない」
「お前は、受けないと言った」
その言葉で、張耳はようやく以前の会話を思い出した。
「状況が変わったんだ。私が断れば、趙そのものを他の者に持っていかれたかもしれない」
「だから受けたのか」
「そうだ。土地なら分ける。兵も、お前が必要なだけ」
陳余は、それを聞いて笑ったという。ただし、昔張耳の袖をつかんでいた頃の笑い方ではなかった。
「王になったお前から、土地と兵を恵んでもらえと?」
張耳には、そんなつもりなどなかった。
けれど現実には、軍議へ入れば張耳が上座に座り、使者はまず彼女へ頭を下げる。二人が同じ場所に立っているつもりでも、周囲は王とその下にいる将として扱い始めていた。
陳余にとっては、王位の大小だけが問題だったわけではない。
死ぬ時まで同じところに立つと言った女が、最初に一人で別の場所へ上がった。そのうえ、そこから手を伸ばしてきた。
張耳には善意だったものが、陳余には何より耐え難いものになっていた。
◆
それでも、二人の関係はすぐには切れなかった。
陳余が張耳の部屋を訪れる夜もあり、以前と変わらず同じ寝台で眠ることもあった。しかし朝になれば張耳は王として人々の前へ出て、陳余は一歩違う位置へ立たされる。
その繰り返しが、二人の間に残っていたものを少しずつ削っていった。
決定的だったのは、ある夜だったという。
陳余は側近をすべて遠ざけ、二人だけになった部屋で、卓を挟んだ向こうから張耳を見ていた。
「一緒に来い」
「どこへ?」
「ここではないところへだ。項羽が勝手に決めた王も領地も捨てて、もう一度二人で趙を作る。今の論功に納得していない趙人なら、いくらでも集められる」
張耳は返事に困った。
昔なら、二人で逃げればそれでよかった。だが今は自分を王として頼る民がおり、兵がおり、すでに一つの国が動き始めている。
「今さら、全部を捨てることはできない。私だけの問題じゃないんだ」
陳余は何も言わずに聞いていた。
「王位が欲しくて受けたわけじゃない。趙を残したかったんだ。お前だって一緒に戻ればいい。私の下に置くつもりなんてない」
「昔なら来たか?」
張耳は、その問いにすぐ答えられなかった。
昔なら、おそらく行った。
他に守るものなどなかったからだ。
「昔とは違う」
ようやく出した答えに、陳余はほんの少しだけ頷いた。
「そうだな。違う」
「陳余」
「もう分かった」
張耳が立ち上がって近づこうとした時、陳余は一歩だけ後ろへ下がった。
「鉅鹿では、私を一人にしないと言った」
「今だってそのつもりだ」
「だったら、どうして私はお前を見上げてるんだ」
その一言に、張耳は答えられなかった。
陳余は少し待ったが、やがて諦めたように踵を返した。
「先に離したのは、お前だよ」
それが、恋人としてまともに言葉を交わした最後になった。
やがて陳余の周囲には、項羽の論功行賞に不満を抱く趙人が集まった。なぜ同じ趙を支えた二人のうち張耳だけが王なのか、楚の覇王が決めた王を趙人が受け入れる必要があるのかという不満は、陳余個人の傷と結びつき、やがて一つの勢力になった。
田栄から兵を得た陳余は、ついに張耳へ兵を向けた。
張耳は敗れ、国を追われ、最後にはかつて趙を滅ぼしかけた秦へ助けを求めることになった。
「だから、あの女からすれば、先に裏切ったのは私なんでしょう」
長い話を終えた張耳は、東趙の駒を指先でゆっくり回した。
「私は、あの時ほかに選びようがなかったと思っています。それでも、約束を破ったことまでなかったことにはできません」
◆
「今でも陳余を愛してる?」
俺が尋ねると、張耳は一瞬呆れたような顔をしてから、椅子の背へ身体を預けた。
「随分と聞きにくいことを、そのまま聞かれますね」
「これから戦場で会う相手だからな。嫌なら答えなくていい」
「嫌いなら、ずっと楽でしたよ」
それだけ言って、張耳はしばらく地図を眺めていた。
今でも昔と同じように愛しているのかは、自分にも分からないらしい。国を追われた恨みもあり、許せないことも多い。それでも、逃亡生活を共にし、鉅鹿で抱き合った女との年月まで憎むことはできないという。
「ただ、だからといって退くつもりはありません。私が趙王を名乗り、陳余も趙を名乗っている以上、このままではいずれ何度でも兵が死にます。それなら、ここで終わらせた方がいい」
「分かった。今回の総大将はあなたに頼む。実際の作戦と秦兵の指揮はこっちでやるけど、軍の先頭には趙王の旗を立てる」
東趙を取った後も秦の直轄領にはせず、張耳の趙へ戻すことも伝えると、彼女は深く頭を下げた。
「承知しました、扶蘇様。なら私は、趙王として東へ戻ります」
その声には、昔を語っていた時の柔らかさはもう残っていなかった。
◆
出兵の準備はすぐに始まり、まず閼与へ向かうことになった。そこで王賁の軍と合流し、西趙を後方に置いたまま太行山脈を東へ抜ければ、その先には陳余の支配する土地が広がっている。
問題になるのは井陘だった。
東へ抜ける重要な道である以上、こちらが動けば陳余も当然そこで待つだろうし、兵力も向こうが上回る可能性が高い。山道から出てきたところを正面から叩かれれば、それだけでこちらはかなり不利になる。
俺は出発前の地図を眺めながら、山道の先にある川と、敵が陣を置きそうな場所を何度も確かめていた。
「先ほどから、そこばかり見ておられますね」
隣から張耳の声がした。
「普通に戦ったら面倒そうだからな」
「普通でない戦い方を考えている、と?」
「まあ、そんなところ」
張耳はそれ以上問い詰めず、俺が指を置いている川へ視線を移した。
山道を越えれば、兵数で勝る相手が待っている。だから正面から力を比べる必要はないし、陳余自身にこちらが望む場所まで出てきてもらえばいい。
そのために何を見せればいいのかは、すでに分かっていた。
「張耳」
「はい」
「たぶん次の戦では、あなたの旗が一番危ないところに立つ」
張耳は少しだけ眉を上げたが、嫌がる様子はなかった。
「私に軍略は期待しないのでは?」
「しない。でも陳余を動かすなら、あなた以上のものはない」
その意味を悟ったのだろう。張耳は地図から目を離さず、かすかに笑った。
「随分と嫌な使い方をされますね」
「悪い」
「構いませんよ。あの女が私を裏切り者だと思っているのなら、なおさら目の前から逃げるわけにはいきません」
昔、鉅鹿の夜に抱き合った二人は、一人にしないと互いに約束した。
その約束をどちらが先に破ったのか、今では本人たちでさえ同じ答えを持っていない。
数日後、趙王張耳の旗を掲げた東征軍は咸陽を発ち、閼与へ向かった。山の向こうで待つ陳余もまた、同じ趙の名を背負っていた。




