第138話 三方の敵
劉邦が想像していた以上に、項羽の追撃は速かった。
二万もの兵を率いて逃げる以上、一騎だけで走るようにはいかない。夏侯嬰は前もって調べさせていた道へ本隊を導き、荷の一部まで捨てて移動を急がせたが、それでも楚軍との距離は少しずつ縮まっていった。
「後ろがまた捕まった!」
伝令の声を聞いた劉邦が振り返ろうとすると、夏侯嬰が腕をつかんだ。
「見るな。前へ行きな」
「でもよ」
「だからあたしたちがいるんだろ。王様が後ろへ戻ってどうする」
後衛では灌嬰の騎兵が楚軍とぶつかっていた。
まともに戦うつもりはない。接近した先頭を弓で乱し、距離を詰められれば短時間だけ槍を合わせ、そのまま別の騎兵隊と交代して退く。項羽自身が前へ出てきた時だけは、合図を待たずに散るよう徹底させていた。
それでも損害は出た。
項羽が追いついた場所では、数百人単位の兵が潰されることもある。しかし、そこへ劉邦本人はいない。
「また逃げたか!」
項羽が怒鳴る頃には、本隊は次の道へ入っている。
一度追撃を弱めると、今度は劉邦が進路を変え、別の楚領へ姿を見せた。守備の薄い邑から兵糧を奪い、江陵へ近づく素振りまで見せるため、放置するわけにもいかない。
結局、項羽はまた追った。
「俺、いつまでこれやるんだ?」
馬上で劉邦がぼやく。
「韓信が仕事を終えるまでだろうね」
「こっちの方がよっぽど仕事してる気がするぞ」
夏侯嬰が笑った。
「王様が一生懸命働くなんて、いいことじゃないか」
「帰ったら絶対覚えてろよ」
追われる方に余裕などなかったが、策そのものは機能していた。
◆
その頃、韓信は九江郡西部へ兵を進めていた。
劉邦が南郡で漢王の旗を見せつけている間に、本隊とは別の経路を使って東へ回り、まず街道と渡河点を押さえていく。楚軍の守備が厚い城には無理に取りつかず、周辺を切り離したうえで降伏を促したため、漢軍は大きな損害を出さずに足場を広げることができた。
陳平も各地の有力者へ使者を送り、抵抗するより漢へ従った方が土地や財産を守れると説いて回った。
「また一つ降ったそうです」
報告を受けた陳平が地図へ印を入れる。
「漢王には、もうしばらく頑張っていただきたいものですな」
「昨日、項羽にかなり迫られた」
「捕まったのですか?」
「いや」
「では、まだ働けます」
韓信が横目を向けた。
「本人の前でも同じことを言えるか?」
「もちろんです。少し離れた場所からなら」
韓信は何も言わず、次に取るべき渡河点へ視線を戻した。
◆
漢軍が楚の南西と東南を同時に動かしている頃、北では冒頓も機会を逃さなかった。
項羽本人が南郡へ出ていると知ると、匈奴騎兵を南燕方面へ送り込み、楚が押さえる街道や小さな砦を狙わせた。
易水で戦って以来、冒頓は項羽と正面からぶつかることに拘らなくなっていた。むしろ、本人がいないところだけを叩けばよいと割り切っている。
鍾離眜は主要な城と軍を固め、匈奴が望むような無闇な分散は避けたが、その分だけ守れない場所が出る。小砦や集落を捨てて要所を守れば、今度は道が切られ、物資を運ぶにも遠回りを強いられた。
南燕そのものが崩れたわけではない。
ただ、このままでは楚の支配が少しずつ狭くなる。
鍾離眜は彭城へ援兵を求めた。
◆
その知らせが届くより早く、東趙の陳余も楚の苦境を見ていた。
楚から届いた書状には、南燕へ兵を出して鍾離眜を助けるよう求める言葉が並んでいる。
陳余は最後まで読み終えると、卓の端へ置いた。
「今度は趙の兵を出せというのか」
張耳が扶蘇へ走り、秦の庇護を受けて趙王を名乗ってから、陳余は楚の力を借りることで対抗してきた。
それは楚が圧倒的に強かったからこそ意味があった。
今は劉邦が南郡へ入り、韓信が九江郡を削り、北では匈奴が南燕へ圧力をかけている。項羽本人が弱くなったわけではないが、その本人をどこへ向けるかで楚が苦しんでいることは、外から見ても分かった。
「援軍は出さない」
側近が驚いた。
「楚との関係を切られるおつもりですか?」
「楚がこちらを守る余裕もないのに、こちらだけ兵を出す理由がない」
陳余は東趙に駐屯している楚兵の位置へ指を置いた。
「それどころか、この兵も出ていってもらう。ここは趙だ」
「拒めば?」
「武装を解かせろ。それでも従わないなら追い出す」
危険な賭けではあった。
だが、項羽が漢と匈奴へ兵を取られている今を逃せば、同じ機会がもう一度来る保証はない。
ほどなく東趙各地で楚の旗が下ろされ、退去を拒んだ守備隊との間では小規模な戦闘も始まった。
◆
項羽が最初に追撃を止めたのは、九江郡から届いた報告を読んだ時だった。
「韓信が東へ?」
「はい。すでに複数の拠点が漢へ降っております」
劉邦を追っている間に、別軍が全く違う場所へ入り込んでいた。
そこでようやく九江へ向かうべきかと考え始めたところへ、今度は南燕から鍾離眜の使者が来た。匈奴の攻勢が強まり、現有兵力だけでは街道を維持できなくなりつつあるという。
さらに数日後には、東趙から陳余離反の報まで届いた。
項羽はそこで劉邦の追撃を諦め、彭城へ戻った。
戻った王宮の卓上には、各地からの書状が並んでいた。
九江郡では韓信が進み、南燕では匈奴が鍾離眜を押し、東趙では陳余が楚兵を追い出している。
項羽は地図を眺めたまま、やがて低く呟いた。
「……劉邦は、最初から私を連れ出すためだったのか」
南郡では何度も漢軍を破った。
逃げ遅れた兵を討ち、後衛も崩した。それでも劉邦本人を捕まえられないまま戻ってみれば、楚が失ったものの方が大きくなっている。
そこで項羽の視線が、軍議の席の一角に止まった。
范増がいた場所だった。
以前なら、劉邦が二万だけで出てきた時点で疑ったかもしれない。本人を追うより別働隊を探せと騒ぎ、南燕と東趙の動きまでまとめて持ってきて、また口論になっていただろう。
「……范増なら、どれから手をつけた」
返事はなかった。
龍且は斉で田横を相手にしており、鍾離眜も南燕から動けない。目の前にいる将たちは命じられた戦場では働けても、三つの戦線を一つにまとめる役目までは担っていなかった。
項羽は地図の西へ目を向けた。
「秦へ使者を出す」
将たちが顔を上げる。
「扶蘇に頼む。陳余が背いたことも伝えろ」
「援軍を求められるのでしょうか」
「ああ。張耳を趙王として抱えている以上、扶蘇にとっても陳余は邪魔なはずだ。こちらが漢と匈奴を抑える間、東趙を任せたい」
前に匈奴への牽制を求めた時、扶蘇は燕へ直接進まずとも北方を攻め、結果として冒頓を引き返させた。
今回も、事情を話せば動いてくれる。
項羽はそう考えていた。
「扶蘇なら分かる」
使者が西へ向かった。
項羽にとって扶蘇は、秦王を名乗った今でもまだ敵ではなかった。
その一方で、使者が向かう先の秦にとって、東趙は以前から手に入れたい土地でもあった。




