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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第138話 三方の敵

 劉邦(りゅうほう)が想像していた以上に、項羽(こうう)の追撃は速かった。


 二万もの兵を率いて逃げる以上、一騎だけで走るようにはいかない。夏侯嬰(かこうえい)は前もって調べさせていた道へ本隊を導き、荷の一部まで捨てて移動を急がせたが、それでも楚軍との距離は少しずつ縮まっていった。


「後ろがまた捕まった!」


 伝令の声を聞いた劉邦(りゅうほう)が振り返ろうとすると、夏侯嬰(かこうえい)が腕をつかんだ。


「見るな。前へ行きな」


「でもよ」


「だからあたしたちがいるんだろ。王様が後ろへ戻ってどうする」


 後衛では灌嬰(かんえい)の騎兵が楚軍とぶつかっていた。


 まともに戦うつもりはない。接近した先頭を弓で乱し、距離を詰められれば短時間だけ槍を合わせ、そのまま別の騎兵隊と交代して退く。項羽(こうう)自身が前へ出てきた時だけは、合図を待たずに散るよう徹底させていた。


 それでも損害は出た。


 項羽(こうう)が追いついた場所では、数百人単位の兵が潰されることもある。しかし、そこへ劉邦(りゅうほう)本人はいない。


「また逃げたか!」


 項羽(こうう)が怒鳴る頃には、本隊は次の道へ入っている。


 一度追撃を弱めると、今度は劉邦(りゅうほう)が進路を変え、別の楚領へ姿を見せた。守備の薄い邑から兵糧を奪い、江陵(こうりょう)へ近づく素振りまで見せるため、放置するわけにもいかない。


 結局、項羽(こうう)はまた追った。


「俺、いつまでこれやるんだ?」


 馬上で劉邦(りゅうほう)がぼやく。


「韓信(かんしん)が仕事を終えるまでだろうね」


「こっちの方がよっぽど仕事してる気がするぞ」


 夏侯嬰(かこうえい)が笑った。


「王様が一生懸命働くなんて、いいことじゃないか」


「帰ったら絶対覚えてろよ」


 追われる方に余裕などなかったが、策そのものは機能していた。


◆


 その頃、韓信(かんしん)は九江郡西部へ兵を進めていた。


 劉邦(りゅうほう)が南郡で漢王の旗を見せつけている間に、本隊とは別の経路を使って東へ回り、まず街道と渡河点を押さえていく。楚軍の守備が厚い城には無理に取りつかず、周辺を切り離したうえで降伏を促したため、漢軍は大きな損害を出さずに足場を広げることができた。


 陳平(ちんぺい)も各地の有力者へ使者を送り、抵抗するより漢へ従った方が土地や財産を守れると説いて回った。


「また一つ降ったそうです」


 報告を受けた陳平(ちんぺい)が地図へ印を入れる。


「漢王には、もうしばらく頑張っていただきたいものですな」


「昨日、項羽(こうう)にかなり迫られた」


「捕まったのですか?」


「いや」


「では、まだ働けます」


 韓信(かんしん)が横目を向けた。


「本人の前でも同じことを言えるか?」


「もちろんです。少し離れた場所からなら」


 韓信(かんしん)は何も言わず、次に取るべき渡河点へ視線を戻した。


◆


 漢軍が楚の南西と東南を同時に動かしている頃、北では冒頓(ぼくとつ)も機会を逃さなかった。


 項羽(こうう)本人が南郡へ出ていると知ると、匈奴騎兵を南燕方面へ送り込み、楚が押さえる街道や小さな砦を狙わせた。


 易水(えきすい)で戦って以来、冒頓(ぼくとつ)は項羽(こうう)と正面からぶつかることに拘らなくなっていた。むしろ、本人がいないところだけを叩けばよいと割り切っている。


 鍾離眜(しょうりばつ)は主要な城と軍を固め、匈奴が望むような無闇な分散は避けたが、その分だけ守れない場所が出る。小砦や集落を捨てて要所を守れば、今度は道が切られ、物資を運ぶにも遠回りを強いられた。


 南燕そのものが崩れたわけではない。


 ただ、このままでは楚の支配が少しずつ狭くなる。


 鍾離眜(しょうりばつ)は彭城(ほうじょう)へ援兵を求めた。


◆


 その知らせが届くより早く、東趙の陳余(ちんよ)も楚の苦境を見ていた。


 楚から届いた書状には、南燕へ兵を出して鍾離眜(しょうりばつ)を助けるよう求める言葉が並んでいる。


 陳余(ちんよ)は最後まで読み終えると、卓の端へ置いた。


「今度は趙の兵を出せというのか」


 張耳(ちょうじ)が扶蘇(ふそ)へ走り、秦の庇護を受けて趙王を名乗ってから、陳余(ちんよ)は楚の力を借りることで対抗してきた。


 それは楚が圧倒的に強かったからこそ意味があった。


 今は劉邦(りゅうほう)が南郡へ入り、韓信(かんしん)が九江郡を削り、北では匈奴が南燕へ圧力をかけている。項羽(こうう)本人が弱くなったわけではないが、その本人をどこへ向けるかで楚が苦しんでいることは、外から見ても分かった。


「援軍は出さない」


 側近が驚いた。


「楚との関係を切られるおつもりですか?」


「楚がこちらを守る余裕もないのに、こちらだけ兵を出す理由がない」


 陳余(ちんよ)は東趙に駐屯している楚兵の位置へ指を置いた。


「それどころか、この兵も出ていってもらう。ここは趙だ」


「拒めば?」


「武装を解かせろ。それでも従わないなら追い出す」


 危険な賭けではあった。


 だが、項羽(こうう)が漢と匈奴へ兵を取られている今を逃せば、同じ機会がもう一度来る保証はない。


 ほどなく東趙各地で楚の旗が下ろされ、退去を拒んだ守備隊との間では小規模な戦闘も始まった。


◆


 項羽(こうう)が最初に追撃を止めたのは、九江郡から届いた報告を読んだ時だった。


「韓信(かんしん)が東へ?」


「はい。すでに複数の拠点が漢へ降っております」


 劉邦(りゅうほう)を追っている間に、別軍が全く違う場所へ入り込んでいた。


 そこでようやく九江へ向かうべきかと考え始めたところへ、今度は南燕から鍾離眜(しょうりばつ)の使者が来た。匈奴の攻勢が強まり、現有兵力だけでは街道を維持できなくなりつつあるという。


 さらに数日後には、東趙から陳余(ちんよ)離反の報まで届いた。


 項羽(こうう)はそこで劉邦(りゅうほう)の追撃を諦め、彭城(ほうじょう)へ戻った。


 戻った王宮の卓上には、各地からの書状が並んでいた。


 九江郡では韓信(かんしん)が進み、南燕では匈奴が鍾離眜(しょうりばつ)を押し、東趙では陳余(ちんよ)が楚兵を追い出している。


 項羽(こうう)は地図を眺めたまま、やがて低く呟いた。


「……劉邦(りゅうほう)は、最初から私を連れ出すためだったのか」


 南郡では何度も漢軍を破った。


 逃げ遅れた兵を討ち、後衛も崩した。それでも劉邦(りゅうほう)本人を捕まえられないまま戻ってみれば、楚が失ったものの方が大きくなっている。


 そこで項羽(こうう)の視線が、軍議の席の一角に止まった。


 范増(はんぞう)がいた場所だった。


 以前なら、劉邦(りゅうほう)が二万だけで出てきた時点で疑ったかもしれない。本人を追うより別働隊を探せと騒ぎ、南燕と東趙の動きまでまとめて持ってきて、また口論になっていただろう。


「……范増(はんぞう)なら、どれから手をつけた」


 返事はなかった。


 龍且(りゅうしょ)は斉で田横(でんおう)を相手にしており、鍾離眜(しょうりばつ)も南燕から動けない。目の前にいる将たちは命じられた戦場では働けても、三つの戦線を一つにまとめる役目までは担っていなかった。


 項羽(こうう)は地図の西へ目を向けた。


「秦へ使者を出す」


 将たちが顔を上げる。


「扶蘇(ふそ)に頼む。陳余(ちんよ)が背いたことも伝えろ」


「援軍を求められるのでしょうか」


「ああ。張耳(ちょうじ)を趙王として抱えている以上、扶蘇(ふそ)にとっても陳余(ちんよ)は邪魔なはずだ。こちらが漢と匈奴を抑える間、東趙を任せたい」


 前に匈奴への牽制を求めた時、扶蘇(ふそ)は燕へ直接進まずとも北方を攻め、結果として冒頓(ぼくとつ)を引き返させた。


 今回も、事情を話せば動いてくれる。


 項羽(こうう)はそう考えていた。


「扶蘇(ふそ)なら分かる」


 使者が西へ向かった。


 項羽(こうう)にとって扶蘇(ふそ)は、秦王を名乗った今でもまだ敵ではなかった。


 その一方で、使者が向かう先の秦にとって、東趙は以前から手に入れたい土地でもあった。

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