第137話 囮の王
彭城の敗戦から、ひと月あまりが過ぎていた。
逃げ延びた漢兵は少しずつ襄陽へ集まり、先にこの地を攻略していた灌嬰や曹参の兵と合流している。後方からは蕭何が兵糧や武具を送り続けており、十万を率いて彭城へ入った頃には及ばないものの、漢軍は再びまとまった兵を動かせるところまで立ち直っていた。
その立て直しを支えたのが、襄陽という拠点だった。
ここを失えば、西へ続く補給路まで危うくなり、漢軍はさらに奥へ押し戻される。一方で襄陽を保持している限り、南郡にも中原方面にも手を伸ばせるため、彭城で大敗したからといって東進そのものを諦める必要はなかった。
「兵は戻ってきた。飯もある。それで、今度はどうするんだ?」
軍議の席で劉邦が尋ねると、地図を見ていた韓信は顔を上げた。
「こちらから動く。ただし、項羽とは正面から戦わない」
「またそれかよ」
「またでいい。彭城で十万を一万に追い払われたばかりだ」
「そこを毎回言う必要あるか?」
「忘れないためには必要だ」
劉邦は嫌そうな顔をしたものの、反論はしなかった。
彭城で起きたことを思えば、項羽本人と真正面からぶつかる危険は誰もが理解している。兵力で上回っていても、軍が崩れた瞬間を突かれれば数の差など役に立たない。
陳平が地図の楚領へ指を置いた。
「項羽を倒そうと考えるより、あの方がいない場所を奪う方がよいでしょう。楚には龍且や鍾離眜もおりますが、広がった領土をすべて守るには足りません」
「でも俺たちが出れば、あいつは来るぞ」
劉邦は彭城を指で叩いた。
「今度こそ俺を殺すつもりで追ってくるだろ」
「なら、追わせればよろしいのではありませんか」
それまで黙っていた呂雉が口を開いた。
婚姻からまだひと月ほどしか経っていない。軍を率いた経験もなく、兵法家でもないため、これまで軍議では話を聞くことの方が多かったが、夫に遠慮する性格ではないことだけは周囲にもすでに知られていた。
劉邦が妻を見る。
「追わせる?」
「はい。あなたを」
夏侯嬰が口元を歪め、灌嬰は隣の韓信へ視線を向けた。
その韓信と陳平が何も言わない。
呂雉は二人の顔を順番に見た。
「お二人とも、同じことを考えたことはあるのでしょう?」
陳平が苦笑する。
「考えることと、漢王御本人に申し上げることは別です」
「お前も考えてたのかよ」
「最もよく食いつく餌ではありますから」
「言い方!」
劉邦は今度は韓信を見る。
「お前も?」
「漢王自身が旗を掲げて動けば、項羽は他より優先して追うだろう。ただ、捕まれば終わるから、こちらから提案するつもりはなかった」
「ほら。普通はそう考えるんだよ」
劉邦が勝ち誇ったように妻へ向き直ったが、呂雉は冷めた顔のままだった。
「では私が申し上げます。あなたが二万ほどを率いて南郡へ入り、江陵を脅かしてください」
「俺が?」
「漢王の旗も隠さず、あなた自身がいることを知らせます。項羽が来たら逃げ、追撃をやめたらまた楚領へ入る。それを繰り返せば、あの女はあなたを無視できません」
劉邦はしばらく呂雉を見つめた。
「お前、俺と結婚したばっかりだよな?」
「覚えています」
「一応、俺のことは好きなんだよな?」
「死んでほしいほど嫌いなら、そもそも嫁いでおりません」
「今、かなり死にそうな役を振られてるんだけど」
「捕まらなければよいのです」
「それが難しいって話だ!」
夏侯嬰がとうとう笑い出した。
「いい嫁をもらったねえ。普通なら亭主を危ないところから遠ざけるもんだけど、こっちは覇王の目の前へ出して使おうってんだから」
「お前は何で楽しそうなんだよ」
「効きそうだからさ」
韓信は笑っていなかった。
「やるなら、漢王がただ逃げるだけでは意味がない。その間に別軍を動かす」
指が地図の東へ移る。
「俺は別路から九江郡へ入る。項羽が南郡へ引きつけられている間に、渡河点や街道を押さえて西側から削る」
陳平も頷いた。
「項羽が漢王を追えば、韓信殿が進めます。九江郡を止めるために東へ向かえば、今度は漢王が江陵へ近づけばよい。本人がいかに強くとも、二つの戦場へ同時には立てません」
「俺だけ役目がおかしくないか?」
「漢王にしかできない役目です」
「それ、全然うれしくないんだけど」
不満はいくらでもあったが、劉邦にも策の意味は理解できた。
正面から倒せないなら、項羽の強さそのものを利用する。劉邦を殺そうと追い回している間、楚でもっとも強い兵と将が他の戦場から消えることになる。
「……分かったよ。それで、誰が俺と一緒に走るんだ?」
「私が行くよ」
夏侯嬰がすぐに答えた。
「道と馬のことなら任せな。あんた一人じゃ、そのうち腹を立てて振り返って戦い始めそうだからね」
「そこまで馬鹿じゃねえ」
「どうだか」
灌嬰も続いた。
「騎兵は私が連れていきます。逃げるだけでは距離を詰められますから、後衛で牽制しながら離れましょう」
「お前まで来てくれるのか」
「漢王を餌にする以上、食われないようにはします」
劉邦は椅子に深く座り直し、天井を仰いだ。
「俺、王なんだけどな」
「だから一番価値があるのでしょう」
呂雉の返事に、劉邦はもう何も言わなかった。
◆
数日後、二万の漢軍が襄陽を発った。
先頭近くには漢王の旗が堂々と掲げられ、隠密に動く気など初めからない。南郡へ入った劉邦は、小規模な楚軍の拠点をいくつか叩きながら南へ進み、やがて江陵を窺う位置まで姿を見せた。
その報告は、狙い通り彭城へ届いた。
「劉邦が?」
報告を受けた項羽は顔を上げた。
「はい。およそ二万を率い、南郡へ入っております。漢王の旗も確認されました」
項羽は迷わなかった。
彭城を一度奪い、范増を失う原因となり、そのまま逃げた男が、今度は楚領へ自分から入ってきている。
「兵を出す」
側近が確認する。
「御自ら向かわれるのですか?」
「ああ。今度こそ劉邦を逃がさない」
ほどなく楚軍が彭城を発ち、南西へ向かった。
項羽が動いたという知らせを受けた時、劉邦は少しもうれしそうな顔をしなかった。
「本当に来やがった」
「作戦通りじゃないか」
夏侯嬰が笑う。
「そうなんだけどよ。作戦が当たってこんなに嫌なの、初めてだぞ」
灌嬰はすでに騎兵へ出発の準備を命じていた。
「嫌がるのは逃げ切ってからにしてください。相手は項羽です」
劉邦は南の江陵ではなく、北西へ続く道へ馬首を向けた。
「分かったよ。逃げるぞ」
漢王の二万が動き出す。
その後ろから、項羽が近づいていた。




