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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第136話 呂雉

 彭城(ほうじょう)から逃げ帰った漢軍が、ようやく襄陽(じょうよう)で軍らしい形を取り戻し始めた頃、一人の女が城門を訪れた。


 旅装は汚れていたものの、立ち姿には不思議な乱れがなかった。長い黒髪を後ろでまとめ、切れ長の目は人を見るというより値踏みしているように冷たい。整った顔立ちは疑いようのない美人だったが、虞(ぐ)のように目元へ柔らかさが宿ることはなく、口元に浮かぶわずかな笑みさえ、相手を安心させるためのものには見えなかった。


「沛(はい)から参りました。呂雉(りょち)と申します」


 門を守っていた兵は顔を見合わせた。


 沛(はい)。


 その地名だけで、最近何があったかは分かる。


 項羽(こうう)が彭城(ほうじょう)を奪還したあと、劉邦(りゅうほう)への報復として兵を送り、町を焼いた。呂雉(りょち)はそこで一族の多くを失い、逃げ延びたのだという。


「漢王に会わせてください」


「御用件は?」


「嫁ぎに来ました」


 兵の一人が聞き返した。


「……何と?」


「聞こえなかったのですか。漢王劉邦(りゅうほう)に嫁ぎたいと申し上げました」


 あまりにも平然と言うので、兵の方が困った。


 数日前に故郷を焼かれ、一族を失った女が、着の身着のままで現れて求婚している。普通なら正気を疑うところだったが、呂雉(りょち)の目には取り乱した様子がまったくない。


 結局、話は城内へ通された。


◆


「俺に嫁ぎたい女が来た?」


 劉邦(りゅうほう)は、報告を聞いて久しぶりに少し元気になった。


 彭城(ほうじょう)で盧綰(ろわん)を失ってから、以前ほど酒にも女にも騒がなくなっていたのだが、その言葉だけは別だったらしい。


 隣で馬具を点検していた夏侯嬰(かこうえい)が、呆れたように顔を上げた。


「まだ会ってもないのに、その顔かい」


「どんな顔だよ」


「女って聞いただけで急に血色がよくなった顔さ」


「求婚されてるんだから、気になるだろ」


「美人じゃなかったら?」


「……話は聞く」


「間が長いねえ」


 劉邦(りゅうほう)が言い返そうとしたところで、呂雉(りょち)が通された。


 その瞬間、言葉が止まった。


 夏侯嬰(かこうえい)は横から劉邦(りゅうほう)の顔を見て、それから呂雉(りょち)を見た。


「分かりやすい男だねえ」


「うるせえ」


 小声で返したものの、劉邦(りゅうほう)の視線はほとんど呂雉(りょち)から離れていなかった。


 艶やかな美人だった。


 ただし、これまで劉邦(りゅうほう)が好んできた女とは少し違う。


 笑えば相手まで気分がよくなるような愛嬌はなく、助けを求める弱さも見せない。美しいというより、よく研がれた刃を眺めているような印象が先に来る。


「お前が呂雉(りょち)か」


「はい」


 呂雉(りょち)は一礼したあと、遠慮なく劉邦(りゅうほう)を見た。


 頭の先から足元まで、じっくりと。


「……何だよ」


「失礼」


「いや、失礼っていうか、そんな見るか?」


「見ます。私はあなたに嫁ぐために来たのですから」


 夏侯嬰(かこうえい)が吹き出した。


「気に入らなきゃ帰るつもりだったのかい?」


「そうですね」


 呂雉(りょち)はさらりと答えた。


 そして再び劉邦(りゅうほう)を見る。


「ですが、帰る必要はなさそうです」


「俺が気に入ったのか?」


「顔だけなら、もう少し好みがあります」


「おい」


「ただ、相が尋常ではありません」


 劉邦(りゅうほう)が眉を寄せた。


「相?」


「人の上に立つ顔です。それも、一郡や一国で終わる顔ではない」


 その言葉には媚びがなかった。


 呂雉(りょち)は本気でそう見ているらしい。


「彭城(ほうじょう)で負けて逃げてきた男だぞ」


「知っています」


「十万で一万に追い出された」


「それも聞きました」


「じゃあ、何でそんな男に賭ける」


 呂雉(りょち)は少しだけ目を細めた。


「負けても、まだこれだけの者があなたについているからです」


 城内には敗残兵が集まり、灌嬰(かんえい)や曹参(そうしん)が軍を立て直している。遠い後方では蕭何(しょうか)が兵糧を送り続け、韓信(かんしん)も離れず、陳平(ちんぺい)もまだ策を練っている。


「一度負けたくらいで人が散る男なら、私はここへ来ません」


 劉邦(りゅうほう)はしばらく黙っていた。


 やがて口元が緩む。


「で、俺に嫁いで何が欲しい」


「項羽(こうう)の首です」


 部屋の空気が変わった。


 夏侯嬰(かこうえい)も笑うのをやめた。


「私の一族は、項羽(こうう)の兵に殺されました。理由は、沛(はい)があなたの故郷だったから。それだけです」


 呂雉(りょち)の声は震えなかった。


 怒鳴りもしない。


 かえって、その冷静さの方が深いものを感じさせた。


「私は兵を持っていません。武もありません。ですが、あなたには兵があり、将があり、まだ天下を争う力がある」


「だから俺に賭ける?」


「はい」


「結構打算的だな」


「結婚でしょう。何か問題がありますか」


 夏侯嬰(かこうえい)が、また笑った。


「こりゃいい。あんたにちょうどいいよ、漢王」


「何がちょうどいいんだ」


「色香で頭を空っぽにされる女より、その空っぽになった頭を使ってくれる女の方がいい」


「誰の頭が空っぽだ!」


 夏侯嬰(かこうえい)は返事をせず、劉邦(りゅうほう)の下半身へ一瞬だけ視線を落とした。


「身体の方はもう返事してるみたいだけどね」


「見るな!」


 呂雉(りょち)も気づいたらしい。


 しかし顔を赤らめるどころか、口元にほんの少し笑みを浮かべただけだった。


「分かりやすい方ですね」


「お前まで言うのかよ」


「嫌いではありません」


 その一言で、劉邦(りゅうほう)は完全に負けた。


◆


 婚姻の話は驚くほど早くまとまった。


 韓信(かんしん)は興味がないと言わんばかりの顔をし、陳平(ちんぺい)は呂雉(りょち)を一目見ただけで、少し警戒するようになった。


「怖い女ですな」


 そう評した陳平(ちんぺい)に、劉邦(りゅうほう)は笑った。


「美人だろ」


「そこしか見ていないでしょう」


「他も見てる」


「どこをです?」


「言わせるな」


「言わなくても分かります」


 呂雉(りょち)は、そんな二人の会話を少し離れたところから聞いていたが、特に気分を害した様子もなかった。


 数日後、簡素ながら婚儀が行われた。


 戦時中であり、大敗の直後でもある。華美な宴を開く余裕はなかったが、劉邦(りゅうほう)は呂雉(りょち)を正式に正室として迎えた。


◆


 その夜、襄陽(じょうよう)の一室には甘い香が焚かれていた。


 強い香ではない。


 灯火の熱に混じり、近づいた時にだけ気づく程度のものだったが、劉邦(りゅうほう)には妙に意識された。


 寝台の端に腰掛けた呂雉(りょち)は、昼間より髪を緩く下ろしている。


 冷たい印象の顔立ちは変わらないのに、薄い夜着へ替わっただけで、昼間とはまったく違う女に見えた。


「何を突っ立っているのです?」


「いや」


 劉邦(りゅうほう)は喉を鳴らした。


「昼間より色っぽいなと思って」


「昼からそういう目で見ていたでしょう」


「気づいてたのか」


「気づかないと思いましたか?」


 呂雉(りょち)が手を伸ばす。


 指先が劉邦(りゅうほう)の衣の襟へ触れ、ゆっくりと引き寄せた。


 近づけば、先ほどから気になっていた香りが少し濃くなる。


 花のように甘い。


 それなのに、どこか薬にも似た鋭さが混じっていた。


「何の香だ?」


「嫌いですか」


「いや。むしろ好きだな」


「なら、名前を知る必要はありません」


「怖いこと言うなよ」


「今さら?」


 呂雉(りょち)が初めて、はっきりと笑った。


 虞(ぐ)なら、笑えば部屋まで柔らかくなるだろう。


 呂雉(りょち)の笑みは逆だった。


 美しい。


 だからこそ、うかつに触れれば傷を負いそうだった。


 劉邦(りゅうほう)はそれでも手を伸ばした。


「そういう女の方が燃えるんだよ」


「知っています」


 距離がなくなった。


 呂雉(りょち)の指が頬をなぞり、劉邦(りゅうほう)はその腰へ腕を回す。唇が重なると、最初は探るように静かだったものが、次第に長くなっていった。


 灯火が揺れる。


 衣擦れの音が小さく重なり、甘い香の中へ二人の息が混じった。


 劉邦(りゅうほう)が寝台へ手をついた時、呂雉(りょち)は拒まなかった。


 ただ、完全に身を任せてもいなかった。


 劉邦(りゅうほう)の首へ腕を回したまま、顔を耳元へ寄せる。


「漢王」


「何だ」


「一つ、お願いがあります」


「今言うのか?」


「今だから言うのです」


 耳に触れる吐息は甘かった。


 それなのに、続いた言葉には少しも熱がなかった。


「項羽(こうう)を討ってください」


 劉邦(りゅうほう)の動きが止まる。


 呂雉(りょち)は首筋へ唇を寄せたまま、静かに続けた。


「私の父も、母も、兄弟も、親類も、あの女の怒りに巻き込まれて死にました。だから私は、あの女が生きている限り忘れません」


「……怖い嫁をもらったな」


「今さら返しますか?」


「返すわけないだろ」


 劉邦(りゅうほう)は笑った。


 その笑いには、少しだけ以前の調子が戻っていた。


「俺だって項羽(こうう)には借りがある。彭城(ほうじょう)であれだけやられて、そのままにするつもりはねえよ」


「では、約束してください」


「天下を取る途中で、あいつも倒す」


「途中では困ります」


 呂雉(りょち)は劉邦(りゅうほう)の目をまっすぐ見た。


「必ず」


 少しの間、二人は見つめ合った。


 やがて劉邦(りゅうほう)は観念したように息を吐く。


「分かった。必ずだ」


 その答えを聞いて、呂雉(りょち)はようやく満足したらしい。


「なら、今夜はあなたの妻です」


「今夜だけかよ」


「明日の働き次第ですね」


「厳しくないか?」


「天下を取る男なのでしょう?」


 また唇が重なった。


 甘い香りは、夜が深くなるほど部屋に馴染んでいった。


 だが劉邦(りゅうほう)はまだ知らない。


 腕の中にいるこの女が、項羽(こうう)への恨みだけで自分を選んだわけではなく、本気で自分の先に天下を見ていることを。

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