第136話 呂雉
彭城から逃げ帰った漢軍が、ようやく襄陽で軍らしい形を取り戻し始めた頃、一人の女が城門を訪れた。
旅装は汚れていたものの、立ち姿には不思議な乱れがなかった。長い黒髪を後ろでまとめ、切れ長の目は人を見るというより値踏みしているように冷たい。整った顔立ちは疑いようのない美人だったが、虞のように目元へ柔らかさが宿ることはなく、口元に浮かぶわずかな笑みさえ、相手を安心させるためのものには見えなかった。
「沛から参りました。呂雉と申します」
門を守っていた兵は顔を見合わせた。
沛。
その地名だけで、最近何があったかは分かる。
項羽が彭城を奪還したあと、劉邦への報復として兵を送り、町を焼いた。呂雉はそこで一族の多くを失い、逃げ延びたのだという。
「漢王に会わせてください」
「御用件は?」
「嫁ぎに来ました」
兵の一人が聞き返した。
「……何と?」
「聞こえなかったのですか。漢王劉邦に嫁ぎたいと申し上げました」
あまりにも平然と言うので、兵の方が困った。
数日前に故郷を焼かれ、一族を失った女が、着の身着のままで現れて求婚している。普通なら正気を疑うところだったが、呂雉の目には取り乱した様子がまったくない。
結局、話は城内へ通された。
◆
「俺に嫁ぎたい女が来た?」
劉邦は、報告を聞いて久しぶりに少し元気になった。
彭城で盧綰を失ってから、以前ほど酒にも女にも騒がなくなっていたのだが、その言葉だけは別だったらしい。
隣で馬具を点検していた夏侯嬰が、呆れたように顔を上げた。
「まだ会ってもないのに、その顔かい」
「どんな顔だよ」
「女って聞いただけで急に血色がよくなった顔さ」
「求婚されてるんだから、気になるだろ」
「美人じゃなかったら?」
「……話は聞く」
「間が長いねえ」
劉邦が言い返そうとしたところで、呂雉が通された。
その瞬間、言葉が止まった。
夏侯嬰は横から劉邦の顔を見て、それから呂雉を見た。
「分かりやすい男だねえ」
「うるせえ」
小声で返したものの、劉邦の視線はほとんど呂雉から離れていなかった。
艶やかな美人だった。
ただし、これまで劉邦が好んできた女とは少し違う。
笑えば相手まで気分がよくなるような愛嬌はなく、助けを求める弱さも見せない。美しいというより、よく研がれた刃を眺めているような印象が先に来る。
「お前が呂雉か」
「はい」
呂雉は一礼したあと、遠慮なく劉邦を見た。
頭の先から足元まで、じっくりと。
「……何だよ」
「失礼」
「いや、失礼っていうか、そんな見るか?」
「見ます。私はあなたに嫁ぐために来たのですから」
夏侯嬰が吹き出した。
「気に入らなきゃ帰るつもりだったのかい?」
「そうですね」
呂雉はさらりと答えた。
そして再び劉邦を見る。
「ですが、帰る必要はなさそうです」
「俺が気に入ったのか?」
「顔だけなら、もう少し好みがあります」
「おい」
「ただ、相が尋常ではありません」
劉邦が眉を寄せた。
「相?」
「人の上に立つ顔です。それも、一郡や一国で終わる顔ではない」
その言葉には媚びがなかった。
呂雉は本気でそう見ているらしい。
「彭城で負けて逃げてきた男だぞ」
「知っています」
「十万で一万に追い出された」
「それも聞きました」
「じゃあ、何でそんな男に賭ける」
呂雉は少しだけ目を細めた。
「負けても、まだこれだけの者があなたについているからです」
城内には敗残兵が集まり、灌嬰や曹参が軍を立て直している。遠い後方では蕭何が兵糧を送り続け、韓信も離れず、陳平もまだ策を練っている。
「一度負けたくらいで人が散る男なら、私はここへ来ません」
劉邦はしばらく黙っていた。
やがて口元が緩む。
「で、俺に嫁いで何が欲しい」
「項羽の首です」
部屋の空気が変わった。
夏侯嬰も笑うのをやめた。
「私の一族は、項羽の兵に殺されました。理由は、沛があなたの故郷だったから。それだけです」
呂雉の声は震えなかった。
怒鳴りもしない。
かえって、その冷静さの方が深いものを感じさせた。
「私は兵を持っていません。武もありません。ですが、あなたには兵があり、将があり、まだ天下を争う力がある」
「だから俺に賭ける?」
「はい」
「結構打算的だな」
「結婚でしょう。何か問題がありますか」
夏侯嬰が、また笑った。
「こりゃいい。あんたにちょうどいいよ、漢王」
「何がちょうどいいんだ」
「色香で頭を空っぽにされる女より、その空っぽになった頭を使ってくれる女の方がいい」
「誰の頭が空っぽだ!」
夏侯嬰は返事をせず、劉邦の下半身へ一瞬だけ視線を落とした。
「身体の方はもう返事してるみたいだけどね」
「見るな!」
呂雉も気づいたらしい。
しかし顔を赤らめるどころか、口元にほんの少し笑みを浮かべただけだった。
「分かりやすい方ですね」
「お前まで言うのかよ」
「嫌いではありません」
その一言で、劉邦は完全に負けた。
◆
婚姻の話は驚くほど早くまとまった。
韓信は興味がないと言わんばかりの顔をし、陳平は呂雉を一目見ただけで、少し警戒するようになった。
「怖い女ですな」
そう評した陳平に、劉邦は笑った。
「美人だろ」
「そこしか見ていないでしょう」
「他も見てる」
「どこをです?」
「言わせるな」
「言わなくても分かります」
呂雉は、そんな二人の会話を少し離れたところから聞いていたが、特に気分を害した様子もなかった。
数日後、簡素ながら婚儀が行われた。
戦時中であり、大敗の直後でもある。華美な宴を開く余裕はなかったが、劉邦は呂雉を正式に正室として迎えた。
◆
その夜、襄陽の一室には甘い香が焚かれていた。
強い香ではない。
灯火の熱に混じり、近づいた時にだけ気づく程度のものだったが、劉邦には妙に意識された。
寝台の端に腰掛けた呂雉は、昼間より髪を緩く下ろしている。
冷たい印象の顔立ちは変わらないのに、薄い夜着へ替わっただけで、昼間とはまったく違う女に見えた。
「何を突っ立っているのです?」
「いや」
劉邦は喉を鳴らした。
「昼間より色っぽいなと思って」
「昼からそういう目で見ていたでしょう」
「気づいてたのか」
「気づかないと思いましたか?」
呂雉が手を伸ばす。
指先が劉邦の衣の襟へ触れ、ゆっくりと引き寄せた。
近づけば、先ほどから気になっていた香りが少し濃くなる。
花のように甘い。
それなのに、どこか薬にも似た鋭さが混じっていた。
「何の香だ?」
「嫌いですか」
「いや。むしろ好きだな」
「なら、名前を知る必要はありません」
「怖いこと言うなよ」
「今さら?」
呂雉が初めて、はっきりと笑った。
虞なら、笑えば部屋まで柔らかくなるだろう。
呂雉の笑みは逆だった。
美しい。
だからこそ、うかつに触れれば傷を負いそうだった。
劉邦はそれでも手を伸ばした。
「そういう女の方が燃えるんだよ」
「知っています」
距離がなくなった。
呂雉の指が頬をなぞり、劉邦はその腰へ腕を回す。唇が重なると、最初は探るように静かだったものが、次第に長くなっていった。
灯火が揺れる。
衣擦れの音が小さく重なり、甘い香の中へ二人の息が混じった。
劉邦が寝台へ手をついた時、呂雉は拒まなかった。
ただ、完全に身を任せてもいなかった。
劉邦の首へ腕を回したまま、顔を耳元へ寄せる。
「漢王」
「何だ」
「一つ、お願いがあります」
「今言うのか?」
「今だから言うのです」
耳に触れる吐息は甘かった。
それなのに、続いた言葉には少しも熱がなかった。
「項羽を討ってください」
劉邦の動きが止まる。
呂雉は首筋へ唇を寄せたまま、静かに続けた。
「私の父も、母も、兄弟も、親類も、あの女の怒りに巻き込まれて死にました。だから私は、あの女が生きている限り忘れません」
「……怖い嫁をもらったな」
「今さら返しますか?」
「返すわけないだろ」
劉邦は笑った。
その笑いには、少しだけ以前の調子が戻っていた。
「俺だって項羽には借りがある。彭城であれだけやられて、そのままにするつもりはねえよ」
「では、約束してください」
「天下を取る途中で、あいつも倒す」
「途中では困ります」
呂雉は劉邦の目をまっすぐ見た。
「必ず」
少しの間、二人は見つめ合った。
やがて劉邦は観念したように息を吐く。
「分かった。必ずだ」
その答えを聞いて、呂雉はようやく満足したらしい。
「なら、今夜はあなたの妻です」
「今夜だけかよ」
「明日の働き次第ですね」
「厳しくないか?」
「天下を取る男なのでしょう?」
また唇が重なった。
甘い香りは、夜が深くなるほど部屋に馴染んでいった。
だが劉邦はまだ知らない。
腕の中にいるこの女が、項羽への恨みだけで自分を選んだわけではなく、本気で自分の先に天下を見ていることを。




