第135話 帰る場所
羌瘣がまともに起き上がれるようになったのは、捕らえられてから数日が経ってからだった。
剣で負った傷そのものは、それほど深くない。厄介だったのは黥布に締め上げられた時の痛みで、背中から脇腹にかけて鈍い疼きが残り、寝返りを打つだけでも顔をしかめることがあった。骨は折れていなかったものの、医師からは当分無理をするなと言われている。
もっとも、羌瘣が思い出したくないのは痛みではなかった。
あの時、自分が何を口走ったか。
殺されると思い、苦しくて、何でもいいから腕を緩めさせたかった。それでも、最後に自分が差し出そうとしたものが何だったのかは忘れようがない。
抱かせてやる。
好きにしていい。
思い出すたびに、背中とは別のところが痛くなった。
「……最悪だ」
寝台の上で呟いたところへ、天幕の外から声がした。
「入るぞ」
返事を待たずに入ってきたのは楊端和だった。
羌瘣は露骨に顔をしかめる。
「笑いに来たのか」
「何を笑うんだ」
「聞いていただろ」
何のことか説明する必要はなかった。
楊端和は近くの椅子を引き寄せて座ったが、羌瘣から視線を逸らそうとはしなかった。
「聞いた」
「なら笑えばいい。私は命が惜しくなったら、男に身体を差し出そうとする女だったらしい」
「それで笑えという方が難しいな」
「哀れんでいるのか?」
「またそれか」
楊端和は呆れたように息を吐いた。
「この前も言っただろう。お前は人にどう見られているかばかり気にしすぎてる」
羌瘣は反射的に言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
楊端和が立派なことを言っているからではない。むしろ、今の羌瘣自身が、それを否定できなくなっていた。
「冒頓に選ばれた時は嬉しかった」
しばらくして、羌瘣が口を開いた。
「妻になって、抱かれて、あいつの傍にいる時は、自分には価値があると思えた。楼煩が近くに置かれるようになれば腹が立ったし、お前を見た時には、扶蘇に抱かれたのかと真っ先に聞いた」
そこまで話して、自分で乾いた笑いを漏らす。
「最後はあれだ。殺されそうになっても、身体を出せば男を動かせると思った。しかも相手は女に興味すらなかった」
「そこは少し面白かった」
「殺すぞ」
「動けるようになってから言え」
羌瘣は睨んだが、楊端和は気にしなかった。
少しだけ空気が緩んだあと、楊端和は膝の上で手を組んだ。
「抱かれたいと思うことまで悪いとは言わない。私だって、そんなことを言える立場じゃないからな」
羌瘣が目を向ける。
「頭曼か」
「ああ」
楊端和は否定しなかった。
捕らえられたことも、自由を奪われたことも、今になって美しい思い出へ変わったわけではない。それでも、その中に自分の身体が快楽を覚えた時間があったことまで消そうとはしていなかった。
「あそこで感じたことがあったからといって、私があの男のものだったことにはならない。反対に、嫌だったことばかり並べたところで、あの頃の私が全部消えるわけでもない」
「……それで秦へ戻ったのか」
「戻りたかったから戻った。それだけだ」
「そんな簡単な話か?」
「簡単じゃなかったぞ。戻ったらどう見られるかも考えたし、扶蘇様に顔を合わせるのも怖かった。それでも、戻るかどうかまで他人に決めてもらうのは嫌だった」
羌瘣は掛け布を握った。
「私は、お前とは違う」
「当たり前だろ」
返事があまりに早く、羌瘣は思わず顔を上げた。
「同じようになる必要なんかない。ただ、お前は三千騎を率いてここまで来た。昔から剣を持って、自分で戦場を選んできた女だ。それなのに男に欲しがられるかどうかだけで自分を決めているのは、少し変じゃないか?」
羌瘣は何も答えなかった。
言われて腹は立つ。
だが以前のように、その腹立ちをそのまま楊端和へぶつける気にはなれなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、別のことを尋ねた。
「北はどうなった」
楊端和は、何を聞きたいのか分かっていた。
「冒頓は北へ戻った。ただ、私たちを深追いはせず、守りを置いて燕へ戻ったそうだ」
「……そうか」
「お前を返せという使者も、今のところ来ていない」
羌瘣の指が一瞬だけ止まった。
それでも表情は崩さない。
「当然だ。単于が捕虜一人のために秦軍を追い回すわけにはいかない。燕も斉もあるんだぞ」
「そうだな」
「それに、私が勝手に三千で先行した結果だ。あいつが責任を負うことじゃない」
「そうだな」
楊端和が何も否定しないので、かえって羌瘣の口が止まった。
「……何だ」
「何も」
「なら、その顔をやめろ」
「どんな顔だ?」
「私が必死に冒頓を庇ってると思ってる顔だ」
「自分で言ってるじゃないか」
羌瘣は枕を投げつけようとして、背中の痛みに顔をしかめた。
楊端和はそれを見て笑うこともなく、立ち上がった。
「好きなら好きでいいんじゃないか」
天幕を出る前に、それだけ言った。
「ただ、あの男がお前を選ぶかどうかと、お前がどこにいるかは別の話だろ」
羌瘣は返事をしなかった。
その夜は、なかなか眠れなかった。
◆
翌日、羌瘣は扶蘇の天幕へ呼ばれた。
まだ歩くと背中が痛むため、ゆっくりした足取りだったが、縄で縛られてはいなかった。入口には当然ながら秦兵が立ち、武器も返されていない。
中へ入ると、扶蘇は地図ではなく竹簡を読んでいた。
「座ってくれ。立たせておくと、あとで楊端和に文句を言われそうだ」
「私にまで気を遣うのか」
「捕虜を治療したあと、立たせっぱなしで倒れられても困る」
羌瘣は向かいの椅子へ座った。
「それで、私をどうする」
「それを聞こうと思って呼んだ」
「私に?」
「お前はどうしたい」
問い返されるとは思っていなかったらしい。羌瘣は怪訝そうに扶蘇を見た。
「捕虜に聞くことか?」
「捕虜だから聞いてる。匈奴へ返せば、また兵を率いて来るかもしれない。ずっと閉じ込めておく方法もあるし、処刑するという選択肢だって、立場だけ考えればなくはない」
「随分正直だな」
「何もなかったことにする方がおかしいだろ」
扶蘇は竹簡を脇へ置いた。
「お前は秦を離れ、匈奴に入り、実際に秦軍へ剣を向けた。だから以前と同じように戻ってきて、明日から将軍をやれという話にはならない」
「分かっている」
「なら話は早い」
羌瘣が少し眉を寄せた。
「秦へ戻れと言いたいのか?」
「俺が決めることじゃない。戻りたいなら拒まないと言ってる」
「簡単に言うな。私は秦を捨てたんだぞ」
「だから以前と同じではないと言った。戻るならしばらく兵は預けないし、監視もつける。北方について聞きたいこともある。ただし、お前を見せしめに殺すつもりもない」
羌瘣は椅子の背へ身体を預けようとして、痛みを思い出して途中でやめた。
「随分信用されていないな」
「つい何日か前に楊端和を殺しかけた女を、いきなり信用する方が怖いだろ」
「それは……まあ、そうだな」
珍しく素直に認めると、扶蘇も少しだけ笑った。
そのあと、羌瘣はまた黙った。
秦に戻る。
言葉にすれば短いが、自分が草原で過ごした時間を裏切るようにも感じられる。
「もし戻ったら、私は冒頓と戦うことになるかもしれない」
「そうなる可能性は高い」
「匈奴のことも話せと言うんだろう」
「秦のために必要なことは聞く。ただ、お前が知っていることを一日で全部吐かせようとは思っていない」
「甘いな」
「そうかもしれない。でも、秦に戻るなら秦の側に立ってもらう。それだけは曖昧にはできない」
羌瘣は視線を落とした。
「私は今でも、冒頓が嫌いじゃない」
「うん」
「……多分、まだ好きだ」
「それも俺にはどうしようもない」
あまりにあっさり返され、羌瘣は顔を上げた。
「気にならないのか?」
「誰を好きかまで秦王が決めるのか? そんなことを始めたら、俺は他に仕事ができなくなる」
羌瘣は思わず鼻で笑った。
だが扶蘇は冗談だけで終わらせなかった。
「冒頓を好きでいることと、これからお前がどこで生きるかは別だろ。少なくとも俺は、同じ話だとは思わない」
昨日、楊端和からも似たことを言われた。
羌瘣は自分の手を見た。
剣を握り続けてきた手だった。
冒頓に求められた時、そのことが嬉しかったのは本当だ。妻として傍にいた時間まで嘘にするつもりもなければ、楼煩へ嫉妬した自分までなかったことにはできない。
ただ、それが自分のすべてだったのか。
捕らえられ、息もできなくなった時、身体を差し出せば助かると思った。相手に欲しがられることを最後の武器にした自分を思い返すと、今度は恥ずかしさだけではなく、妙な可笑しさまで込み上げてくる。
「私は……」
そこまで言って、羌瘣は口を閉じた。
以前なら、ここで別のことを尋ねていたかもしれない。
それでも自分を欲しいのか。
自分にはまだ女として価値があるのか。
そんな問いが喉まで出かかったことに気づいて、飲み込んだ。
代わりに、自分が本当に決めなければならないことを口にした。
「秦に戻る」
扶蘇は大袈裟に喜ぶことも、驚くこともしなかった。
「分かった」
「……それだけか?」
「戻ると決めたのはお前だろ。俺が褒める話じゃない」
「もう少し何かあるかと思った」
「じゃあ言うけど、しばらく将軍には戻さない。勝手に馬に乗って出ていくな。あと黥布を殺すのも禁止」
「最後のは何だ」
「顔に書いてある」
羌瘣は舌打ちした。
「それと、楊端和とも勝手に決闘するなよ」
「向こうが喧嘩を売ってこなければな」
「その返事で安心できると思うか?」
久しぶりに少しだけ笑った。
草原にいた頃と同じ自分が消えたわけではない。冒頓を思えば今でも胸の奥は動くし、楼煩の顔を思い出せば腹も立つ。
それでも、その感情に自分の行き先まで決めてもらう必要はなかった。
◆
天幕を出ると、楊端和が少し離れたところにいた。
「どうだった」
「戻ることにした」
「そうか」
あまりにも普通の返事だった。
羌瘣は眉を寄せる。
「お前もそれだけか」
「他に何を言えばいい」
「知らん」
「面倒な奴だな」
二人で歩き始めると、向こうから黥布が来た。
羌瘣の足が止まる。
黥布も気づき、少しだけ口元を上げた。
「元気になったじゃねえか」
「……あの時のことは忘れろ」
「どの時だ?」
「分かっているだろ」
「抱かせてやるってやつか?」
羌瘣の顔が一気に赤くなった。
「殺す!」
腰へ手を伸ばしたが、剣はまだ返されていない。
黥布は腹を抱えて笑い、楊端和はその横で呆れたように肩を落とした。
「秦に戻ると決めて最初にやることが、それか?」
「こいつだけは別だ!」
「俺は何もしてねえだろ。助けてやっただけじゃねえか」
「締めすぎだ!」
騒ぐ二人を横目に、楊端和は先に歩き始めた。
羌瘣も何度か黥布を睨んだあと、その背中を追った。
かつて同じ草原から別々の方向へ進んだ二人は、今度は同じ秦軍の列に混じって南へ向かっていた。




