第133話 彭城の炎
漢軍十万が彭城へ向かっているとの報せが入った時、城内に残る楚兵は一万ほどしかいなかった。
范増は地図の上で敵の進路を確かめると、籠城して項羽の帰還を待つ案を早々に捨てた。項羽と龍且は斉にあり、鍾離眜も燕南部を押さえている。十倍の敵を相手に、いつ戻るとも知れない援軍を待つには、兵も兵糧も足りなかった。
「城は捨てる。兵は順次退かせろ」
側近たちは驚かなかった。数字を見れば、それ以外の答えを出す方が難しい。
ただ、范増には一つだけ厄介な問題が残っていた。
虞である。
兵だけなら、漢軍が彭城を完全に囲む前に抜けられる。だが虞を連れれば、侍女や荷、護衛も必要になり、どうしても足が鈍る。漢軍には騎兵もいる以上、逃走を察知されて追われれば、追いつかれる可能性は高かった。
軍略だけを考えるなら、虞を城へ残すのが一番簡単だった。
かつて劉邦は、まだ最後の秦王であった虞を自分のものにしようとしていた。捕らえられても殺される可能性は低い。それなら一人を残し、一万の兵を救った方が理にかなっている。
そこまで考えたところで、范増は地図から目を離した。
「最後くらい、あの馬鹿のために働くか」
側近が怪訝そうにしたが、説明する気にはならなかった。
項羽とは長い付き合いだった。策を出せば気に入らぬと顔に出し、諫めれば腹を立て、それでも放っておけば余計なことをするので、結局こちらが世話を焼く。そのうえ最近では、范増が何度言っても聞かなかったことを、虞が同じような意味で口にすると案外素直に受け入れることまであった。
腹が立たなかったと言えば嘘になる。
さらに、このところ楚の内側には妙な話が流れていた。
范増は項羽を見限り始めているらしい。覇王のやり方に愛想を尽かし、別の主を探しているともいう。どれも根拠らしい根拠はなく、それでいて一つ潰せば別の場所から似た話が出てくるので、誰かが二人の間に楔を打ち込もうとしていることくらいは分かっていた。
誰が仕掛けているのか、おおよその見当もつく。
だが、それを確かめて項羽のところへ乗り込み、また一から喧嘩をする気力が、范増にはもうあまり残っていなかった。
長く生きた。
十分に口も出したし、十分に嫌われた。
ここから虞を連れて無事に斉まで逃げ切ったところで、項羽が素直に感謝する姿など想像できない。
「どうせ、もっと早く逃がせだの、遅いだの言うに決まっている」
思わず漏らすと、側近が苦笑した。
「覇王なら、仰るかもしれません」
「だろうな」
それでいい、と范増は思った。
礼を言われるために、ここまで付き合ってきたわけではない。
◆
「私は残ります」
逃げる支度を命じられた虞は、すぐに首を振った。
「項羽様がお戻りになるまで、私もここにいます」
「戻る前に漢軍が来る。十万だ。お前が残ったところで兵は増えん」
「それなら范増も一緒に逃げれば」
「私まで一緒では目立つ」
范増は卓に残っていた竹簡をいくつか火鉢へ放り込みながら、虞の方を見もしなかった。
「お前だけなら二百もつければ足りる。私と一万の兵まで同じ道を走れば、漢軍に逃げ道を教えてやるようなものだ」
「でも」
「劉邦はお前を欲しがっていた。楚から逃げた陳平も、随分と馬鹿な真似をしたそうだな」
虞はわずかに顔を曇らせた。
「はい」
「なら捕まるな。お前を奪われれば、項羽は斉も何も放り出しかねん」
冗談で言っているのではなかった。
范増はすでに逃走経路をいくつも用意していた。虞は漢軍が城へ到着するよりかなり前に、少人数の護衛だけを連れて北東へ抜ける。その後、別の門から似た編成の騎馬隊や幌をかけた馬車を何隊か出し、どれが重要人物を運んでいるのか分からなくする。
「お前が出たあとも、城から何隊か逃がす。追っ手が来ても全部は追えん」
「そこまでして、范増はどうするのですか」
「少し仕事をしてから考える」
虞は黙って范増を見た。
「死ぬつもりですね」
「最初から死ぬつもりなら、逃げ道など作らん」
「では、本当に逃げるのですか」
「機会があればな」
嘘だ、と虞の顔に書いてあった。
それでも問い詰めることはせず、しばらくしてから深く頭を下げた。
「項羽様に、何か伝えますか」
范増は少しだけ手を止めた。
言いたいことなら、いくらでもある。
人の話を少しは聞け。すぐ怒るな。扶蘇をいつまでも味方だと思うな。虞の言葉だけ素直に聞くのも腹が立つ。
最後の言葉として伝えるには、どれも普段の小言と大して変わらなかった。
「何もない」
「本当に?」
「ああ。何度言っても聞かなかった。今さら一つ増やしてどうする」
虞は寂しそうに笑った。
「きっと、項羽様は寂しがります」
「少しは困ればいい」
范増は追い払うように手を振った。
「行け。お前まで捕まったら、私が残る意味がなくなる」
◆
漢軍が彭城を望むところまで来ると、劉邦は拍子抜けしたように城壁を見上げた。
「本当に一万くらいしかいねえのか?」
「斥候が確認した限りでは、それほどです。すでに城から離れた部隊もあるようです」
蕭何の報告に、劉邦は笑みを浮かべたものの、傍らの韓信は城から目を離さなかった。
「范増が残っている」
「婆さん一人で十万は止められねえだろ」
「止められなくても、ただでは渡さない」
劉邦は面倒そうな顔をしたが、その横で陳平が別のことを気にしていた。
「虞も城にいたはずです」
「ああ」
劉邦の表情が変わった。
「捕まえるなら生きたままだ。傷もつけるなよ」
「まだ城も取っていません」
蕭何が呆れたように言ったが、劉邦は気にしなかった。
「城は逃げねえだろ。虞は逃げる」
陳平も珍しく同意した。
「その点については、漢王の仰る通りですな」
劉邦が横目で見た。
「お前もまだ諦めてねえのか」
「簡単に変わるようなら、最初からあんな真似はしません」
「懲りねえ奴だな」
「漢王ほどではありません」
二人がそんな話をしている間も、韓信だけは城壁と門の動きを見続けていた。
やがて斥候が駆け戻ってくる。
「城門が開きました。正門だけではありません。確認できる門はすべて開いております」
劉邦の笑みが消えた。
「全部か?」
「はい。城壁の上にも、ほとんど人影がありません」
韓信はすぐに前進を止めた。
「入るな。誘っている」
陳平も反対しなかった。
「罠でしょうな。范増が何もせず城を渡すとは思えません」
「だったら待つか?」
劉邦が尋ねたところで、城の北側から騎馬の一団が飛び出した。
百騎ほどで、その中央には幌をかけた馬車がある。
「別の門からも出ています!」
続いて西側からも似た一団が現れ、さらに少し離れた場所からは騎兵だけの集団が走り始めた。
劉邦が身を乗り出した。
「どれかに虞がいるんじゃねえか?」
「そのための囮でしょう」
韓信は冷静だったが、陳平は逃げていく馬車と城門を交互に見た。
「罠なのは間違いありません。ただ、目的は我々を全滅させることではなく、時間を稼ぐことかもしれません」
「虞を逃がすためか」
「おそらくは」
韓信が首を振る。
「それも含めて、そう思わせたいだけかもしれない」
「ですが、十万すべてを入れる必要はない。先鋒を出して中を探らせ、その間に騎兵を分けて逃走部隊を追えばいいでしょう」
陳平も罠そのものを見落としてはいなかった。
ただ、范増が城を捨てるためにどこまでやるのか、その覚悟を読み切れていなかった。
劉邦はしばらく考えたあと、後方へ振り向いた。
「盧綰!」
「何だい」
古くから付き従ってきた盧綰が馬を寄せる。
「一万連れて正門から入れ。ただし深追いするな。何かあったらすぐ戻ってこい」
「分かったよ。あんたが酒盛り始める前には帰ってくる」
「俺がいつも酒飲んでるみたいに言うな」
「違うのか?」
盧綰は笑って、一万の先鋒を率いて門へ向かった。
韓信は止めなかったものの、最後まで表情を緩めなかった。
◆
門をくぐった漢兵たちは、最初こそ盾を構え、屋根や路地を警戒しながら進んだ。
ところが矢は飛んでこず、建物の陰から槍兵が飛び出してくることもない。奥へ進むほど人の気配が薄くなり、やがて本当に城を捨てたのではないかという空気が先鋒の間に広がり始めた。
盧綰も馬上から周囲を見ながら眉をひそめた。
「静かすぎるね」
その頃、范増は正門から少し奥に入った建物の二階から、漢軍の旗を眺めていた。
城内に残した楚兵はわずかだった。大半はすでに別々の道から撤退させてあり、残った者にも、火をつけたら各自で抜けろと命じてある。
門から続く大通りには、軍馬用に蓄えていた乾いた飼葉や藁が、目立たぬよう建物や荷車の陰へ大量に仕込まれていた。さらに左右の路地には荷車を並べ、縄を切れば道へ崩れ出すよう細工してある。
先鋒が十分に入ったところで、范増は合図を出した。
路地の縄が切られた。
荷を積んだ車が次々と大通りへ転がり出て、戻ろうとした兵の道を塞ぐ。ほぼ同時に数か所で火が上がり、乾いた飼葉へ燃え移った炎が風を受けて広がった。
「火だ! 下がれ!」
盧綰が叫んだが、後ろにはまだ門から入ってくる兵がおり、先では荷車が道を塞いでいる。狭い場所へ一万が押し込まれたことで、退こうとする兵と進もうとする兵がぶつかり、隊列が崩れた。
盧綰は近くの兵に荷車を退かせながら、別の路地へ逃げ道を求めた。
そこへ、杖をついた老女が現れた。
「范増か!」
「名くらいは知っていたか」
盧綰は周囲を見た。煙は濃くなり、近くの屋根にも火が移り始めている。
「こんな真似して、自分はどう逃げるつもりだ!」
「さてな」
范増は盧綰の旗を見て、わずかに眉をしかめた。
「劉邦でも韓信でもないとは、最後にしては少々外れたな」
「悪かったね、小物で!」
盧綰は馬から飛び降り、剣を抜いた。
范増に勝つことが目的ではない。目の前の老女を退け、向こうの路地へ抜ければまだ助かる。
剣が振るわれた。
范増は避け切れず、肩から胸元を深く斬られて壁へ倒れ込んだ。
「どけ!」
「行けばいい」
范増は血の滲む口元を拭いながら笑った。
盧綰がその先へ走りかけた時、路地の向こうで大きな音がした。
最後に残していた荷車が倒れ、積まれていた飼葉と木材が道いっぱいに崩れ落ちる。そこにも火が回り始めていた。
盧綰が振り返った。
「最初から、この道も塞ぐつもりだったのか」
「逃げ道を一つだけ残しておけば、人はそこへ走る。お前も素直だったな」
「この婆さん……」
「私はもう長く生きた。お前には悪いが、付き合ってもらう」
盧綰は別の道を探したが、煙の向こうでは建物が崩れ始めている。部下たちもそれぞれ逃げ道を求めて散り、近づこうにも火に阻まれていた。
范増は壁にもたれたまま、空を見上げた。
「せめて一度くらい、素直に人の話を聞けばいいものを」
誰に向けた言葉なのか、盧綰には分からなかった。
炎は、もう二人の間まで来ていた。
◆
城内から黒煙が上がった瞬間、韓信は後続を止めた。
「これ以上入れるな。門からも離せ」
外へ逃げ出してくる兵を収容しながら、陳平は燃える正門を睨んでいた。
「時間稼ぎだけではなかったか」
「だから言った」
「認めます。読みが浅かった」
陳平は言い訳をしなかった。
范増が兵を逃がすために何か仕掛けるところまでは読んだ。だが、自分自身まで城に残し、先鋒ごと焼く覚悟までは見ていなかった。
劉邦は二人の話など聞いていなかった。
「盧綰は?」
門から逃げてくる兵の中に、見慣れた姿がない。
「おい、盧綰は戻ってないのか!」
答えられる者はいなかった。
火勢が弱まり、負傷者の収容と城内の確認ができるようになったのは、かなり時間が経ってからだった。
先鋒一万のすべてが失われたわけではない。かなりの兵が門や脇道から脱出したものの、火と混乱で数千が死傷し、何より指揮していた盧綰が戻らなかった。
焼けた路地で遺体が見つかり、それが盧綰だと確認されると、劉邦はしばらく動かなかった。
沛にいた頃から一緒だった。
王になる前も、天下を争う前も、逃げる時には一緒に逃げ、何か始めれば当然のようについてきた。十万のうち何人を失ったかという話とは、まるで重さが違った。
「……馬鹿が」
劉邦は焼け焦げた門を見たまま、低く呟いた。
「おかしかったら戻れって言っただろうが」
隣にいた蕭何は、何も言わなかった。
やがて、もう一つの遺体が范増だと確認された。
陳平はその報告を受けても笑わなかった。本来なら、自分が時間をかけて項羽との間を裂き、いずれ楚から追い出そうとしていた相手である。
「こちらが追い出す前に、自分で終わらせましたか」
韓信が横を見る。
「嬉しくないのか」
「先鋒に数千の死傷者が出て、漢王は盧綰を失いました。安いとは言えません」
火災で正門周辺といくつかの街路は焼けたものの、彭城そのものが灰になったわけではない。城内に残っていた楚兵もすでに退き、翌日には漢軍が主要な区画を押さえた。
こうして楚の本拠彭城は、劉邦の手に落ちた。
しかし、劉邦と陳平が城と同じくらい欲しがっていた女は、どこを探しても見つからなかった。
漢軍が城外で囮の騎馬隊を追いかけていた頃には、虞はすでに彭城から遠く離れていた。
向かう先は斉。
項羽のもとだった。




