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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第132話 同じ草原で

 地平に立っていた細い土煙は、やがて三千の騎兵へと姿を変えた。


 楊端和(ようたんわ)は丘の斜面に歩兵を置き、その左右へ騎兵を開かせていた。北から移してきた人々と羊、馬はさらに後方へ退かせてある。守るものを大量に抱えている以上、自由に動き回ることはできないが、それは向こうも承知しているはずだった。


 それでも羌瘣(きょうかい)の三千騎は、こちらの姿を認めても速度を大きく落とさなかった。


「ずいぶん急いでやがるな」


 黥布(げいふ)が前方を見ながら言った。


「後ろの一万五千が揃うまで待つ気はねえらしい」


「待てないんだろう。私たちを倒すつもりじゃない。ここで止めて、後続が来るまで時間を稼げればいい」


「だったら、その前に潰すか」


「お前はそれでいい」


「また雑な扱いだな」


「細かい策を考えさせるために連れてきた覚えはない」


 黥布(げいふ)は一瞬だけ不満そうな顔をしたものの、すぐに笑った。


「まあ、そっちの方が俺も楽だ」


 やがて匈奴騎兵は矢の届かない位置で止まり、その中から一騎だけが前へ出た。


 羌瘣(きょうかい)だった。


 楊端和(ようたんわ)も槍を手に馬を進める。


 近づくにつれて、相手の顔がよく見えるようになった。


 昔と同じ顔でありながら、以前とは随分違って見えた。


「久しぶりだな、羌瘣(きょうかい)」


「……ああ」


 返事が硬い。


 かつて草原で再会した頃は、むしろ羌瘣(きょうかい)の方に余裕があった。冒頓(ぼくとつ)の傍に居場所を得て、自分の選んだ道に迷いを見せず、秦へ帰った楊端和(ようたんわ)の方が、どこか過去を引きずっていた。


 今は逆に見える。


「ずいぶん焦ってるじゃないか」


 羌瘣(きょうかい)の目が細くなった。


「何だと?」


「昔のお前なら、三千だけでこんなに急いで来なかった。後ろの兵を待って、こっちが嫌がるところから動いたはずだ」


「軍の話なら黙って戦え」


「軍の話だけじゃなさそうだから言ってるんだ」


 楊端和(ようたんわ)は、相手の顔を見たまま続けた。


「冒頓(ぼくとつ)に遠ざけられて、そんなに苛立ってるのか?」


 羌瘣(きょうかい)の手が剣の柄を強く握った。


「貴様に何が分かる」


「分からないさ。ただ、今のお前が昔より余裕をなくしてることくらいは分かる」


 羌瘣(きょうかい)は鼻で笑った。


「そういう貴様はどうなんだ。秦へ戻って随分満足そうじゃないか」


「それが?」


「扶蘇(ふそ)に抱かれたのか?」


 楊端和(ようたんわ)は、そこで初めて少し黙った。


 以前なら、その一言で心を乱されたかもしれない。


 今は違う。


 湧いたのは怒りより、むしろ憐れみだった。


「まだそんなことで女の幸せを測ってるのか」


 羌瘣(きょうかい)の笑みが消えた。


「何?」


「誰に抱かれた、誰の隣で眠った、それで勝った負けたを決める。昔のお前は、そこまで狭くなかった」


「貴様……」


「今のお前、少し哀れだな」


 次の瞬間、羌瘣(きょうかい)の馬が地面を蹴った。


◆


 最初の一撃から、羌瘣(きょうかい)の剣は荒々しかった。


 横薙ぎの刃を楊端和(ようたんわ)が槍の柄で受けると、そのまま押し込み、間を置かず下から切り上げてくる。楊端和(ようたんわ)は馬を半歩ずらしてかわしたが、羌瘣(きょうかい)は止まらず追った。


「その目で私を見るな!」


「図星を突かれたからって、私に全部ぶつけるな!」


 怒りに任せているだけなら、いずれ崩れる。


 実際、隙は多かった。


 楊端和(ようたんわ)は正面から受け続けず、槍の長さを使って脇へ外れる。剣が大きく流れた瞬間に穂先を返すと、羌瘣(きょうかい)の肩を浅く裂き、次の一突きは脇腹へ入った。


 衣が破れ、血が滲む。


 普通なら、少しは動きが鈍る。


 ところが羌瘣(きょうかい)は傷を気にするどころか、むしろ剣を振る速度を上げた。


 槍を打ち払い、間合いへ飛び込み、馬上から身体ごとぶつかってくる。楊端和(ようたんわ)が距離を取り直そうとすれば、その分まで強引に詰めてきた。


「落ち着け、羌瘣(きょうかい)!」


「貴様に言われたくない!」


 剣が槍の柄へ叩きつけられ、腕が痺れた。


 続く一撃が肩口をかすめる。


 楊端和(ようたんわ)も黙って受けてはいない。槍先が羌瘣(きょうかい)の腕や腿を何度も捉えたが、それでも剣の勢いは弱まらなかった。


 技の冴えというより、執念だった。


 傷が増えるほど前へ出てくる。


 楊端和(ようたんわ)が馬首を返して間合いを作ろうとしたところへ、羌瘣(きょうかい)がさらに踏み込み、槍を強く跳ね上げた。


 その直後、肩から身体をぶつけてくる。


 楊端和(ようたんわ)の身体が大きく傾いた。


 馬が暴れ、鐙から足が外れる。


 次に見えたのは空だった。


 楊端和(ようたんわ)は背中から草地へ落ち、そのまま数度転がった。


「楊端和(ようたんわ)!」


 秦兵の間から声が上がる。


 羌瘣(きょうかい)は止まらなかった。


 馬上から鐙を蹴って跳び、両手で握った剣を地上の楊端和(ようたんわ)へ突き立てようとする。


 楊端和(ようたんわ)は咄嗟に身体を横へ転がした。


 刃が土へ深く刺さる。


 すぐに起き上がり、落とした槍を拾って横へ払うと、羌瘣(きょうかい)も剣を引き抜きながら後ろへ跳んだ。


 二人とも馬から下りた。


 そこからは、地上での戦いになった。


◆


 近接戦になれば、羌瘣(きょうかい)の速さがさらに生きた。


 楊端和(ようたんわ)は槍の間合いを保とうとしたが、羌瘣(きょうかい)は穂先を弾いて内側へ入り込み、短い間合いから何度も刃を振るってくる。その度に楊端和(ようたんわ)は後ろへ下がらされ、少しずつ余裕を失っていった。


 ただ、羌瘣(きょうかい)の攻撃には相変わらず隙も多い。


 大きく踏み込んだところへ槍を突けば、腕から血が流れた。脇腹にも新しい傷が増え、腿を裂かれて一度足をもつれさせても、羌瘣(きょうかい)はほとんど気にしない。


「まだそんな顔をするのか!」


「何の話だ!」


「私を哀れむな!」


 剣が振り下ろされる。


 楊端和(ようたんわ)は槍で受けたが、腕ごと押し込まれた。


「だったら、自分で自分を哀れだと思うのをやめろ!」


「黙れ!」


 横薙ぎの一撃で槍が弾かれ、草の上を転がった。


 楊端和(ようたんわ)が腰の剣へ手を伸ばすより早く、羌瘣(きょうかい)が前へ出る。刃を避けて身体を捻ったところへ次の攻撃が続き、肩を強く打たれて片膝をついた。


 羌瘣(きょうかい)は剣を振り上げた。


「終わりだ!」


 その時、横から馬蹄が近づいてきた。


「いつまで女同士で乳繰り合ってやがる!」


 羌瘣(きょうかい)が顔を向けた時には、もう遅かった。


 黥布(げいふ)が馬から飛び降りる勢いのまま突っ込み、剣を振る暇も与えず、羌瘣(きょうかい)の両腕ごと背後から抱え込んだ。


「なっ、離せ!」


「暴れんな!」


 羌瘣(きょうかい)が身体を捻る。


 だが力が違いすぎた。


 両腕ごと胴を締め上げられ、足が地面から浮く。


「ぐっ……!」


 さらに腕へ力が加わった。


「ぁあああっ!」


 羌瘣(きょうかい)の絶叫が草原に響いた。


 背中が大きく反り、骨まで軋んでいるのが分かる。


「黥布(げいふ)、殺すな!」


 楊端和(ようたんわ)が立ち上がりながら怒鳴った。


「分かってる。まだ折ってねえ!」


「まだじゃない!」


 羌瘣(きょうかい)は足を振って逃れようとしたが、黥布(げいふ)はびくともしない。息を吸うことさえ難しくなり、顔が苦痛に歪んだ。


「は、離せ……!」


「剣振り回してた時は元気だったじゃねえか」


「離し……たら……」


 言葉が途切れる。


 それでも、このままでは本当に背骨を折られると思ったのだろう。


「抱かせて……やる……好きにしていい……だから……!」


 黥布(げいふ)の動きが一瞬止まった。


 羌瘣(きょうかい)は苦しそうに息を継ぎながら、その反応にわずかな希望を見た。


「残念だったな」


「……?」


「俺は男にしか興味ねえ」


 再び腕に力が入った。


「ぁああああっ!」


 羌瘣(きょうかい)の身体が跳ねるように反った。


 抵抗していた脚から力が抜け、指先だけが細かく震える。呼吸もまともにできなくなり、口元には泡が滲んだ。


「黥布(げいふ)!」


 楊端和(ようたんわ)は、今度こそ本気で怒鳴った。


「もう離せ!」


「まだ噛みついてくるかもしれねえぞ」


「もう無理だ。離してやれ!」


 少し前まで、自分を殺そうとしていた女だった。


 それでも楊端和(ようたんわ)は、これ以上羌瘣(きょうかい)が壊されていくところを見ていられなかった。


「頼む」


 その一言で、黥布(げいふ)はようやく腕を緩めた。


 支えを失った羌瘣(きょうかい)の身体が、どさりと草の上へ落ちる。


 しばらく起き上がれなかった。


 涙と鼻水で顔は崩れ、口元には涎が残っている。身体は小さく痙攣し、息を吸うたびに喉の奥から苦しそうな音が漏れていた。


 楊端和(ようたんわ)は、その姿をしばらく見下ろした。


「……何やってるんだ、お前は」


 返事はない。


 目は開いているが、まともに声を出せる状態ではなかった。


「この女は連れて帰る。傷も診ろ」


 秦兵へ命じると、黥布(げいふ)が眉を上げた。


「捕虜にするのか?」


「ああ」


「また暴れたらどうする」


「その時は私が止める」


「さっき殺されかけてただろ」


「うるさい」


 黥布(げいふ)は肩を揺らして笑った。


◆


 羌瘣(きょうかい)が捕らえられたことは、三千の匈奴騎兵にもすぐ伝わった。


 一度は指揮官を取り戻そうと前へ動きかけたものの、秦軍は丘を使ってすでに陣を整え、黥布(げいふ)の部隊も正面で待ち構えている。後続が来る前に無理をすれば、三千そのものを失いかねなかった。


 しばらく睨み合った末、匈奴騎兵は距離を取り、来た道を引き返した。


 その後ろから近づいていた一万五千も、途中で羌瘣(きょうかい)が捕らえられたとの知らせを受けると進軍を止めた。指揮を立て直さないまま秦軍へ突っ込む理由はなく、やがてこちらも趙方面へ退いていった。


 楊端和(ようたんわ)は追撃させなかった。


 今回の目的は匈奴軍を全滅させることではなく、北の牧地を削って冒頓(ぼくとつ)を引き戻すことにある。人と家畜を抱えた状態で深追いする方が危険だった。


 秦軍はその日のうちに移動を始めた。


 捕虜となった羌瘣(きょうかい)も、荷車に乗せられて南へ運ばれていった。


◆


 五日後、冒頓(ぼくとつ)と楼煩(ろうはん)が北方へ到着した。


 しかし、そこに秦軍はもういなかった。


 天幕の並んでいた場所には杭と踏み荒らされた土だけが残り、羊の群れも馬も消えている。冬を越すため積んでいた飼葉まで運び出され、部族ごと移された場所では、人の声さえ聞こえなかった。


 冒頓(ぼくとつ)は馬上からしばらくその光景を眺めていた。


「どれほど持っていかれた」


「まだ調べております。西側では人も家畜もほとんど残っていない部族があります」


「秦軍は」


「すでに南へ退きました。今から追えば、趙西部へ入ることになります」


 報告した兵が、そこでわずかに言葉を濁した。


「それと……羌瘣(きょうかい)様が捕らえられました」


 楼煩(ろうはん)がそちらを見る。


 冒頓(ぼくとつ)の表情はほとんど変わらなかった。


「三千で先に出たな」


「はい。秦軍と接触し、そこで捕らえられたようです」


「そうか」


 それだけ言って、空になった牧地へ視線を戻す。


「所詮、その程度の女だったということだ」


 楼煩(ろうはん)は何も言わなかった。


 もし羌瘣(きょうかい)本人が聞いていれば、何より深く刺さる言葉だっただろう。


 冒頓(ぼくとつ)は秦軍を追うことも考えたが、五日の差は大きい。人と家畜を連れた軍とはいえ、すでに趙西部へ近づいているなら、その先は秦の守備圏になる。


 しかも斉では、項羽(こうう)が田横(でんおう)を攻め続けていた。


「燕へ戻る」


 楼煩(ろうはん)が少しだけ眉を動かした。


「追わないのか」


「今からでは遅い。それより、残った牧地を守る兵を置く。もう同じことをさせるな」


 冒頓(ぼくとつ)は北方の守備を組み直したあと、自らは燕へ引き返した。


◆


 斉では、田横(でんおう)がまだ踏みとどまっていた。


 正面から項羽(こうう)と龍且(りゅうしょ)の軍を破る力はない。その代わり、守りやすい城と土地を選び、危なくなれば後退して次の拠点へ移ることで、楚軍に決着を与えなかった。


 項羽(こうう)は勝っている。


 しかし、田横(でんおう)を捕らえられない。


 斉を完全に鎮めるには、さらに奥まで兵を進めなければならなかった。


 その分、楚の主力は彭城(ほうじょう)から遠ざかっていく。


◆


 魚復(ぎょふく)へ集まる報告を読み終えた韓信(かんしん)は、長く眺めていた地図からようやく顔を上げた。


 斉には項羽(こうう)と龍且(りゅうしょ)。


 燕南部には鍾離眜(しょうりばつ)の兵が残る。


 冒頓(ぼくとつ)は秦に荒らされた北を立て直しながら燕へ戻ったばかりで、秦軍も北方遠征から引き上げる途中にある。


 彭城(ほうじょう)には范増(はんぞう)が残っているが、楚の主力そのものはいない。


「今だ」


 その一言を聞いた劉邦(りゅうほう)は、椅子から身を乗り出した。


「やっと言ったな」


「今行かなければ、これまで待った意味がない」


「今度こそ途中で『やっぱり待て』とか言うなよ」


「言わない」


 隣にいた陳平(ちんぺい)も地図を見ていた。


「ただし、彭城(ほうじょう)を空城と思わぬことです。范増(はんぞう)が残っています」


「婆さん一人で軍が増えるわけじゃねえだろ」


「兵は増えません。面倒は増えます」


 劉邦(りゅうほう)は笑った。


「だったら、その面倒もお前らに任せる」


「随分便利な軍師の使い方ですな」


「そのために拾ったんだろ」


 出陣の命令が下った。


 長く魚復(ぎょふく)へ蓄えてきた兵糧が船へ積まれ、兵が次々と乗り込む。漢軍は長江(ちょうこう)を下って楚領へ進み、適当な地点から陸路も交えながら北東へ向かうことになった。


 目標は一つだった。


 彭城(ほうじょう)。


 項羽(こうう)が斉で田横(でんおう)を追い、秦と匈奴が北で互いの力を削っている間に、その本拠を奪う。


 船が流れに乗り始めると、劉邦(りゅうほう)は甲板から東を見た。


「随分待たされたな」


「待ったから、この時機になった」


 韓信(かんしん)の返事に、今度ばかりは劉邦(りゅうほう)も文句を言わなかった。


 漢軍は長江(ちょうこう)を下り、楚領の奥へ入った。


 そこから進路を北東へ変える。


 范増(はんぞう)の守る彭城(ほうじょう)へ、劉邦(りゅうほう)の軍が迫り始めた。

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