第132話 同じ草原で
地平に立っていた細い土煙は、やがて三千の騎兵へと姿を変えた。
楊端和は丘の斜面に歩兵を置き、その左右へ騎兵を開かせていた。北から移してきた人々と羊、馬はさらに後方へ退かせてある。守るものを大量に抱えている以上、自由に動き回ることはできないが、それは向こうも承知しているはずだった。
それでも羌瘣の三千騎は、こちらの姿を認めても速度を大きく落とさなかった。
「ずいぶん急いでやがるな」
黥布が前方を見ながら言った。
「後ろの一万五千が揃うまで待つ気はねえらしい」
「待てないんだろう。私たちを倒すつもりじゃない。ここで止めて、後続が来るまで時間を稼げればいい」
「だったら、その前に潰すか」
「お前はそれでいい」
「また雑な扱いだな」
「細かい策を考えさせるために連れてきた覚えはない」
黥布は一瞬だけ不満そうな顔をしたものの、すぐに笑った。
「まあ、そっちの方が俺も楽だ」
やがて匈奴騎兵は矢の届かない位置で止まり、その中から一騎だけが前へ出た。
羌瘣だった。
楊端和も槍を手に馬を進める。
近づくにつれて、相手の顔がよく見えるようになった。
昔と同じ顔でありながら、以前とは随分違って見えた。
「久しぶりだな、羌瘣」
「……ああ」
返事が硬い。
かつて草原で再会した頃は、むしろ羌瘣の方に余裕があった。冒頓の傍に居場所を得て、自分の選んだ道に迷いを見せず、秦へ帰った楊端和の方が、どこか過去を引きずっていた。
今は逆に見える。
「ずいぶん焦ってるじゃないか」
羌瘣の目が細くなった。
「何だと?」
「昔のお前なら、三千だけでこんなに急いで来なかった。後ろの兵を待って、こっちが嫌がるところから動いたはずだ」
「軍の話なら黙って戦え」
「軍の話だけじゃなさそうだから言ってるんだ」
楊端和は、相手の顔を見たまま続けた。
「冒頓に遠ざけられて、そんなに苛立ってるのか?」
羌瘣の手が剣の柄を強く握った。
「貴様に何が分かる」
「分からないさ。ただ、今のお前が昔より余裕をなくしてることくらいは分かる」
羌瘣は鼻で笑った。
「そういう貴様はどうなんだ。秦へ戻って随分満足そうじゃないか」
「それが?」
「扶蘇に抱かれたのか?」
楊端和は、そこで初めて少し黙った。
以前なら、その一言で心を乱されたかもしれない。
今は違う。
湧いたのは怒りより、むしろ憐れみだった。
「まだそんなことで女の幸せを測ってるのか」
羌瘣の笑みが消えた。
「何?」
「誰に抱かれた、誰の隣で眠った、それで勝った負けたを決める。昔のお前は、そこまで狭くなかった」
「貴様……」
「今のお前、少し哀れだな」
次の瞬間、羌瘣の馬が地面を蹴った。
◆
最初の一撃から、羌瘣の剣は荒々しかった。
横薙ぎの刃を楊端和が槍の柄で受けると、そのまま押し込み、間を置かず下から切り上げてくる。楊端和は馬を半歩ずらしてかわしたが、羌瘣は止まらず追った。
「その目で私を見るな!」
「図星を突かれたからって、私に全部ぶつけるな!」
怒りに任せているだけなら、いずれ崩れる。
実際、隙は多かった。
楊端和は正面から受け続けず、槍の長さを使って脇へ外れる。剣が大きく流れた瞬間に穂先を返すと、羌瘣の肩を浅く裂き、次の一突きは脇腹へ入った。
衣が破れ、血が滲む。
普通なら、少しは動きが鈍る。
ところが羌瘣は傷を気にするどころか、むしろ剣を振る速度を上げた。
槍を打ち払い、間合いへ飛び込み、馬上から身体ごとぶつかってくる。楊端和が距離を取り直そうとすれば、その分まで強引に詰めてきた。
「落ち着け、羌瘣!」
「貴様に言われたくない!」
剣が槍の柄へ叩きつけられ、腕が痺れた。
続く一撃が肩口をかすめる。
楊端和も黙って受けてはいない。槍先が羌瘣の腕や腿を何度も捉えたが、それでも剣の勢いは弱まらなかった。
技の冴えというより、執念だった。
傷が増えるほど前へ出てくる。
楊端和が馬首を返して間合いを作ろうとしたところへ、羌瘣がさらに踏み込み、槍を強く跳ね上げた。
その直後、肩から身体をぶつけてくる。
楊端和の身体が大きく傾いた。
馬が暴れ、鐙から足が外れる。
次に見えたのは空だった。
楊端和は背中から草地へ落ち、そのまま数度転がった。
「楊端和!」
秦兵の間から声が上がる。
羌瘣は止まらなかった。
馬上から鐙を蹴って跳び、両手で握った剣を地上の楊端和へ突き立てようとする。
楊端和は咄嗟に身体を横へ転がした。
刃が土へ深く刺さる。
すぐに起き上がり、落とした槍を拾って横へ払うと、羌瘣も剣を引き抜きながら後ろへ跳んだ。
二人とも馬から下りた。
そこからは、地上での戦いになった。
◆
近接戦になれば、羌瘣の速さがさらに生きた。
楊端和は槍の間合いを保とうとしたが、羌瘣は穂先を弾いて内側へ入り込み、短い間合いから何度も刃を振るってくる。その度に楊端和は後ろへ下がらされ、少しずつ余裕を失っていった。
ただ、羌瘣の攻撃には相変わらず隙も多い。
大きく踏み込んだところへ槍を突けば、腕から血が流れた。脇腹にも新しい傷が増え、腿を裂かれて一度足をもつれさせても、羌瘣はほとんど気にしない。
「まだそんな顔をするのか!」
「何の話だ!」
「私を哀れむな!」
剣が振り下ろされる。
楊端和は槍で受けたが、腕ごと押し込まれた。
「だったら、自分で自分を哀れだと思うのをやめろ!」
「黙れ!」
横薙ぎの一撃で槍が弾かれ、草の上を転がった。
楊端和が腰の剣へ手を伸ばすより早く、羌瘣が前へ出る。刃を避けて身体を捻ったところへ次の攻撃が続き、肩を強く打たれて片膝をついた。
羌瘣は剣を振り上げた。
「終わりだ!」
その時、横から馬蹄が近づいてきた。
「いつまで女同士で乳繰り合ってやがる!」
羌瘣が顔を向けた時には、もう遅かった。
黥布が馬から飛び降りる勢いのまま突っ込み、剣を振る暇も与えず、羌瘣の両腕ごと背後から抱え込んだ。
「なっ、離せ!」
「暴れんな!」
羌瘣が身体を捻る。
だが力が違いすぎた。
両腕ごと胴を締め上げられ、足が地面から浮く。
「ぐっ……!」
さらに腕へ力が加わった。
「ぁあああっ!」
羌瘣の絶叫が草原に響いた。
背中が大きく反り、骨まで軋んでいるのが分かる。
「黥布、殺すな!」
楊端和が立ち上がりながら怒鳴った。
「分かってる。まだ折ってねえ!」
「まだじゃない!」
羌瘣は足を振って逃れようとしたが、黥布はびくともしない。息を吸うことさえ難しくなり、顔が苦痛に歪んだ。
「は、離せ……!」
「剣振り回してた時は元気だったじゃねえか」
「離し……たら……」
言葉が途切れる。
それでも、このままでは本当に背骨を折られると思ったのだろう。
「抱かせて……やる……好きにしていい……だから……!」
黥布の動きが一瞬止まった。
羌瘣は苦しそうに息を継ぎながら、その反応にわずかな希望を見た。
「残念だったな」
「……?」
「俺は男にしか興味ねえ」
再び腕に力が入った。
「ぁああああっ!」
羌瘣の身体が跳ねるように反った。
抵抗していた脚から力が抜け、指先だけが細かく震える。呼吸もまともにできなくなり、口元には泡が滲んだ。
「黥布!」
楊端和は、今度こそ本気で怒鳴った。
「もう離せ!」
「まだ噛みついてくるかもしれねえぞ」
「もう無理だ。離してやれ!」
少し前まで、自分を殺そうとしていた女だった。
それでも楊端和は、これ以上羌瘣が壊されていくところを見ていられなかった。
「頼む」
その一言で、黥布はようやく腕を緩めた。
支えを失った羌瘣の身体が、どさりと草の上へ落ちる。
しばらく起き上がれなかった。
涙と鼻水で顔は崩れ、口元には涎が残っている。身体は小さく痙攣し、息を吸うたびに喉の奥から苦しそうな音が漏れていた。
楊端和は、その姿をしばらく見下ろした。
「……何やってるんだ、お前は」
返事はない。
目は開いているが、まともに声を出せる状態ではなかった。
「この女は連れて帰る。傷も診ろ」
秦兵へ命じると、黥布が眉を上げた。
「捕虜にするのか?」
「ああ」
「また暴れたらどうする」
「その時は私が止める」
「さっき殺されかけてただろ」
「うるさい」
黥布は肩を揺らして笑った。
◆
羌瘣が捕らえられたことは、三千の匈奴騎兵にもすぐ伝わった。
一度は指揮官を取り戻そうと前へ動きかけたものの、秦軍は丘を使ってすでに陣を整え、黥布の部隊も正面で待ち構えている。後続が来る前に無理をすれば、三千そのものを失いかねなかった。
しばらく睨み合った末、匈奴騎兵は距離を取り、来た道を引き返した。
その後ろから近づいていた一万五千も、途中で羌瘣が捕らえられたとの知らせを受けると進軍を止めた。指揮を立て直さないまま秦軍へ突っ込む理由はなく、やがてこちらも趙方面へ退いていった。
楊端和は追撃させなかった。
今回の目的は匈奴軍を全滅させることではなく、北の牧地を削って冒頓を引き戻すことにある。人と家畜を抱えた状態で深追いする方が危険だった。
秦軍はその日のうちに移動を始めた。
捕虜となった羌瘣も、荷車に乗せられて南へ運ばれていった。
◆
五日後、冒頓と楼煩が北方へ到着した。
しかし、そこに秦軍はもういなかった。
天幕の並んでいた場所には杭と踏み荒らされた土だけが残り、羊の群れも馬も消えている。冬を越すため積んでいた飼葉まで運び出され、部族ごと移された場所では、人の声さえ聞こえなかった。
冒頓は馬上からしばらくその光景を眺めていた。
「どれほど持っていかれた」
「まだ調べております。西側では人も家畜もほとんど残っていない部族があります」
「秦軍は」
「すでに南へ退きました。今から追えば、趙西部へ入ることになります」
報告した兵が、そこでわずかに言葉を濁した。
「それと……羌瘣様が捕らえられました」
楼煩がそちらを見る。
冒頓の表情はほとんど変わらなかった。
「三千で先に出たな」
「はい。秦軍と接触し、そこで捕らえられたようです」
「そうか」
それだけ言って、空になった牧地へ視線を戻す。
「所詮、その程度の女だったということだ」
楼煩は何も言わなかった。
もし羌瘣本人が聞いていれば、何より深く刺さる言葉だっただろう。
冒頓は秦軍を追うことも考えたが、五日の差は大きい。人と家畜を連れた軍とはいえ、すでに趙西部へ近づいているなら、その先は秦の守備圏になる。
しかも斉では、項羽が田横を攻め続けていた。
「燕へ戻る」
楼煩が少しだけ眉を動かした。
「追わないのか」
「今からでは遅い。それより、残った牧地を守る兵を置く。もう同じことをさせるな」
冒頓は北方の守備を組み直したあと、自らは燕へ引き返した。
◆
斉では、田横がまだ踏みとどまっていた。
正面から項羽と龍且の軍を破る力はない。その代わり、守りやすい城と土地を選び、危なくなれば後退して次の拠点へ移ることで、楚軍に決着を与えなかった。
項羽は勝っている。
しかし、田横を捕らえられない。
斉を完全に鎮めるには、さらに奥まで兵を進めなければならなかった。
その分、楚の主力は彭城から遠ざかっていく。
◆
魚復へ集まる報告を読み終えた韓信は、長く眺めていた地図からようやく顔を上げた。
斉には項羽と龍且。
燕南部には鍾離眜の兵が残る。
冒頓は秦に荒らされた北を立て直しながら燕へ戻ったばかりで、秦軍も北方遠征から引き上げる途中にある。
彭城には范増が残っているが、楚の主力そのものはいない。
「今だ」
その一言を聞いた劉邦は、椅子から身を乗り出した。
「やっと言ったな」
「今行かなければ、これまで待った意味がない」
「今度こそ途中で『やっぱり待て』とか言うなよ」
「言わない」
隣にいた陳平も地図を見ていた。
「ただし、彭城を空城と思わぬことです。范増が残っています」
「婆さん一人で軍が増えるわけじゃねえだろ」
「兵は増えません。面倒は増えます」
劉邦は笑った。
「だったら、その面倒もお前らに任せる」
「随分便利な軍師の使い方ですな」
「そのために拾ったんだろ」
出陣の命令が下った。
長く魚復へ蓄えてきた兵糧が船へ積まれ、兵が次々と乗り込む。漢軍は長江を下って楚領へ進み、適当な地点から陸路も交えながら北東へ向かうことになった。
目標は一つだった。
彭城。
項羽が斉で田横を追い、秦と匈奴が北で互いの力を削っている間に、その本拠を奪う。
船が流れに乗り始めると、劉邦は甲板から東を見た。
「随分待たされたな」
「待ったから、この時機になった」
韓信の返事に、今度ばかりは劉邦も文句を言わなかった。
漢軍は長江を下り、楚領の奥へ入った。
そこから進路を北東へ変える。
范増の守る彭城へ、劉邦の軍が迫り始めた。




