第131話 北へ帰る狼
斉へ向かって進軍していた項羽のもとへ秦からの返書が届いたのは、先行する龍且の軍との合流が近づいた頃だった。
馬上で封を切った項羽は、最後まで読み終えると、少し意外そうに眉を上げた。
「扶蘇も兵を出すそうだ」
傍らを進んでいた将が顔を向ける。
「燕へ向かわれるのでしょうか」
「いや、北へ出るらしい。陳余の領域は通らず、そのまま匈奴の牧地を叩くとある」
返書には、匈奴が長く使ってきた牧地を押さえ、馬や羊、飼葉を奪うこと、抵抗せず降った者については家畜ごと趙西部へ移す方針まで記されていた。
将は地図を見ながら、少し考え込んだ。
「それでは、我らと直接合流するわけではありませんな」
「構わん」
項羽は即座に答えた。
「冒頓が燕や斉へ兵を出している間に、北の牧地を荒らす。戻らなければ馬と羊を失い、戻ればこちらへ回せる兵が減る。悪くない策だ」
「秦王は、そこまでお考えでしたか」
「扶蘇なら、それくらいは考えるだろう」
その言い方には疑いよりも納得があった。
秦王を名乗るようになっても、求めれば匈奴へ兵を出す。その事実は、項羽の中にある扶蘇への認識を、むしろ以前より強めていた。
「燕へ来ずともよい。冒頓が困れば同じことだ。こちらは予定どおり斉へ入る」
項羽は返書を懐へ収めた。
「田横を叩くぞ。北は扶蘇に任せる」
自分と扶蘇が別々の場所から同じ敵へ圧力をかけることに、項羽は何の違和感も抱いていなかった。
◆
北方で同じ報告を受けた冒頓は、項羽とは正反対の反応を見せた。
「もう一度言え」
低い声を向けられ、報告に来た騎兵は背を伸ばした。
「南西の牧地へ秦軍が入りました。羊がおよそ二千、馬も数百を奪われ、冬越しのために蓄えていた飼葉も持ち去られております。抵抗しなかった部族の一部は、家族ごと南へ連れていかれました」
「家族ごと?」
「はい。秦軍は天幕を片端から焼いているわけではありません。降った者には馬と羊をまとめさせ、そのまま南へ移動させています」
冒頓は答えず、卓上の木杯を握った。
そこへ別の伝令まで入ってきた。
「西側の谷でも同じ動きです。秦軍はいくつかに分かれて牧地へ入り、家畜と人をまとめて移しております。正確な数は、まだ分かりません」
杯が小さく軋んだ。
易水で項羽を討ち損ねた時ですら、冒頓は損得を計って自ら退いた。部下の前で怒りを露わにすることも少ない男だったが、今回は違った。
「秦が、こちらの羊を奪っているのか」
隣にいた楼煩は何も言わなかった。
中華へ侵入して牛馬や穀物を奪ってきた側が口にするには、随分と勝手な言葉だった。それでも、今の冒頓に指摘する者はいない。
燕は新しく得た土地である。城を使い、中華の役人を残し、税を取る仕組みを作り始めたとはいえ、まだ手に入れて日が浅い。
一方、北の牧地は以前から匈奴を支えてきた。
馬を育て、羊を増やし、遠征へ出た兵の家族を残し、次の季節の軍を養う。中華に城を持ったからといって、その仕組みをすぐに捨てられるわけではなかった。
「秦軍を率いているのは誰だ」
「秦王扶蘇本人。それに楊端和、黥布の名が確認されております」
楊端和の名を聞いた時、冒頓の眉がわずかに動いた。
その直後、斉からの急報まで届いた。
「単于、項羽が斉へ向かっています。すでに大軍が入り、龍且の軍と合流する動きです」
冒頓は地図へ視線を落とした。
田横を失うのは惜しい。
燕を取る策も、易水で楚軍を分断した策も、あの女の知恵が大きかった。斉へ足場を作れれば、中華東部へ伸びる道も増える。
それでも、項羽本人ともう一度正面から戦う気にはなれなかった。
易水では川を使い、二万の騎兵で五千を囲み、それでも首を取れなかった。斉を守るために再びあの女と戦えば、勝敗以前にどれだけ兵を失うか分からない。
しかも、その間にも北では馬と羊が消えていく。
「斉には今いる兵で持たせろ。我々は北へ戻る」
楼煩が顔を向けた。
「斉を諦めるのか」
「まだだ。ただ、今は斉より北を守る」
冒頓は地図の北側を指で叩いた。
「牧地を空にされたら、来年から馬が減る。羊も減る。燕で税を取っても、その穴はすぐには埋まらん」
楼煩は少し考えたあと、頷いた。
「私も行く」
「ああ。お前は一緒に来い」
冒頓は北帰の準備を命じると、続けて趙方面へ使者を走らせた。
「羌瘣に伝えろ。秦軍を追い払え。こちらも急いで戻る」
◆
その命令を受け取った時、羌瘣は趙東部の小城にいた。
文面そのものは短い。
北へ入った秦軍を追い払え。
それだけなら、すぐに兵を集めればよかった。
ところが敵将として並んだ名前を見たところで、羌瘣の視線が止まった。
秦王扶蘇。
その下に、楊端和。
「……来たのか」
自分がどちらの名へ向けて言ったのかは、考えるまでもなかった。
扶蘇本人が出ている以上、秦が今回の北進を軽い牽制で終わらせるつもりでないことは分かる。軍事上、警戒すべき相手なのは間違いない。
それでも、羌瘣の胸をざらつかせたのは楊端和の名だった。
二人は秦の将だった頃から互いを知り、匈奴に捕らえられた時には同じ側にいた。
武器を奪われ、秦将としての立場を失い、草原へ放り込まれたところまでは同じだった。その後に選んだ道が違った。
楊端和は秦へ戻った。
羌瘣は草原に残った。
その選択を間違いだったと思っているわけではない。
冒頓と過ごした時間には、偽りではないものも確かにあった。妻として扱われ、戦士として必要とされ、自分の居場所がここなのだと思えた時期もある。
だからこそ、最近の自分が腹立たしかった。
楼煩に敗れ、冒頓のすぐ傍にいた場所も少しずつ狭くなっている。その一方で、秦へ帰った楊端和は今も将として使われ、扶蘇とともに北へ戻ってきた。
「……勝ったつもりか」
口にしてから、羌瘣は自分で顔をしかめた。
楊端和がそんなことを考えているはずはない。
分かっている。
それなのに、そう思わずにはいられなかった。
同じように捕らえられ、同じ草原で暮らした二人が、今は秦と匈奴に分かれている。
しかも今度は、自分が守る側で、楊端和が草原へ攻め込んでくる側だった。
「今動かせる騎兵を集めろ。三千で先に北へ向かう」
側近が地図へ目を落とした。
「趙にいる残りの兵も集めますか」
「後から来させる。全部を待っていたら遅い」
趙各地へ散っている匈奴兵をまとめれば、さらに一万五千ほどになる。ただ、それを待つ間にも秦軍は牧地を奪い、人と家畜を南へ運んでいく。
「私が先に押さえる。残りは集まり次第、同じ道を来させろ」
側近が退出すると、羌瘣はもう一度だけ命令書を開いた。
秦軍を追い払え。
楊端和を討てとは書いていない。
それでも、その名だけが妙に目についた。
今度会えば、何を言うのだろう。
なぜ戻った、と聞くのか。
秦へ帰って満足か、と嫌味を言うのか。
あるいは何も言わず、武器を向けるのか。
考えても答えは出ないまま、ほどなく三千騎が城門を飛び出した。
羌瘣は北へ馬を走らせながら、秦王よりも、かつて同じ草原にいた一人の女のことを考えていた。
◆
羌瘣が三千騎を率いて急行している頃、楊端和はすでに趙方面から匈奴騎兵が近づいているとの報告を受けていた。
「先頭は三千ほどです。その後ろにもかなりの兵が集まっております」
斥候の報告を聞いた楊端和は、地図と周囲の地形を見比べた。
「先行しているのは羌瘣でしょう」
隣にいた黥布は、武器を肩へ預けたまま前方を見た。
「後ろが揃う前に三千だけで来るなら、先に潰せるんじゃねえか?」
「三千でこちらを倒すつもりではないでしょう。進路を止め、後続が追いつくまで時間を稼ぐつもりです」
「だったら、その前に叩けばいい」
「あなたはそれで構いません」
黥布が少しだけ顔をしかめた。
「随分雑な扱いだな」
「細かいことを考える役で連れてきた覚えはありません」
「まあ、それならいい」
納得するところなのかは分からなかったが、黥布はそれ以上何も言わなかった。
楊端和は斥候から進軍速度と使っている道を聞き、しばらく周囲を見渡してから布陣する場所を決めた。
「ここで迎えます。連れてきた人と家畜は後方へ下げ、騎兵は左右へ。歩兵は丘の斜面を使ってください」
指示を飛ばしながら、楊端和は草地の向こうを見た。
なだらかな丘が続き、冬を越した草は短い。遠くまで見通しが利くため、騎兵を迎える場所として悪くない。
だが、ここを選んだ理由は地形だけではなかった。
見覚えがある。
かつて羌瘣とともに匈奴に捕らえられ、頭曼のもとへ連れていかれたのが、この一帯だった。
武器を奪われ、自由を失い、秦の将として持っていたものを一つずつ剥がされていった。
その後に続いた草原での日々まで思い返せば、簡単に屈辱だけとは言い切れない。
嫌だったことはいくらでもある。
思い出したくないこともある。
それでも頭曼のもとで味わったもののすべてを苦痛だったことにしてしまえば、自分に嘘をつくことになる。
自由を奪われているというのに、身体だけは違う答えを返した夜もあった。そのことを恥じた時期もあれば、なぜ自分はそう感じたのか、今になっても整理できない部分も残っている。
そして、あの時は羌瘣も同じ場所にいた。
楊端和は馬上でゆっくり息を吐いた。
「来るぞ」
黥布の声で顔を上げる。
地平の向こうに、細い土煙が立ち始めていた。
先頭の三千騎はかなり急いでいるらしい。そのさらに後ろにも、時間を置いて大きな軍が続いている。
「後ろが来るまで待つか?」
「いいえ。向こうも待たせるつもりで来ています。こちらが何もせず付き合う必要はありません」
楊端和は腰の剣へ手を置いた。
かつて二人とも捕らえられ、同じ草原で暮らすことを強いられた。
そこから違う道を選んだ二人が、今度は秦と匈奴に分かれて、同じ場所へ戻ってきた。
土煙は、もう肉眼で騎影が見えるところまで近づいていた。




