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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第131話 北へ帰る狼

 斉へ向かって進軍していた項羽(こうう)のもとへ秦からの返書が届いたのは、先行する龍且(りゅうしょ)の軍との合流が近づいた頃だった。


 馬上で封を切った項羽(こうう)は、最後まで読み終えると、少し意外そうに眉を上げた。


「扶蘇(ふそ)も兵を出すそうだ」


 傍らを進んでいた将が顔を向ける。


「燕へ向かわれるのでしょうか」


「いや、北へ出るらしい。陳余(ちんよ)の領域は通らず、そのまま匈奴の牧地を叩くとある」


 返書には、匈奴が長く使ってきた牧地を押さえ、馬や羊、飼葉を奪うこと、抵抗せず降った者については家畜ごと趙西部へ移す方針まで記されていた。


 将は地図を見ながら、少し考え込んだ。


「それでは、我らと直接合流するわけではありませんな」


「構わん」


 項羽(こうう)は即座に答えた。


「冒頓(ぼくとつ)が燕や斉へ兵を出している間に、北の牧地を荒らす。戻らなければ馬と羊を失い、戻ればこちらへ回せる兵が減る。悪くない策だ」


「秦王は、そこまでお考えでしたか」


「扶蘇(ふそ)なら、それくらいは考えるだろう」


 その言い方には疑いよりも納得があった。


 秦王を名乗るようになっても、求めれば匈奴へ兵を出す。その事実は、項羽(こうう)の中にある扶蘇(ふそ)への認識を、むしろ以前より強めていた。


「燕へ来ずともよい。冒頓(ぼくとつ)が困れば同じことだ。こちらは予定どおり斉へ入る」


 項羽(こうう)は返書を懐へ収めた。


「田横(でんおう)を叩くぞ。北は扶蘇(ふそ)に任せる」


 自分と扶蘇(ふそ)が別々の場所から同じ敵へ圧力をかけることに、項羽(こうう)は何の違和感も抱いていなかった。


◆


 北方で同じ報告を受けた冒頓(ぼくとつ)は、項羽(こうう)とは正反対の反応を見せた。


「もう一度言え」


 低い声を向けられ、報告に来た騎兵は背を伸ばした。


「南西の牧地へ秦軍が入りました。羊がおよそ二千、馬も数百を奪われ、冬越しのために蓄えていた飼葉も持ち去られております。抵抗しなかった部族の一部は、家族ごと南へ連れていかれました」


「家族ごと?」


「はい。秦軍は天幕を片端から焼いているわけではありません。降った者には馬と羊をまとめさせ、そのまま南へ移動させています」


 冒頓(ぼくとつ)は答えず、卓上の木杯を握った。


 そこへ別の伝令まで入ってきた。


「西側の谷でも同じ動きです。秦軍はいくつかに分かれて牧地へ入り、家畜と人をまとめて移しております。正確な数は、まだ分かりません」


 杯が小さく軋んだ。


 易水(えきすい)で項羽(こうう)を討ち損ねた時ですら、冒頓(ぼくとつ)は損得を計って自ら退いた。部下の前で怒りを露わにすることも少ない男だったが、今回は違った。


「秦が、こちらの羊を奪っているのか」


 隣にいた楼煩(ろうはん)は何も言わなかった。


 中華へ侵入して牛馬や穀物を奪ってきた側が口にするには、随分と勝手な言葉だった。それでも、今の冒頓(ぼくとつ)に指摘する者はいない。


 燕は新しく得た土地である。城を使い、中華の役人を残し、税を取る仕組みを作り始めたとはいえ、まだ手に入れて日が浅い。


 一方、北の牧地は以前から匈奴を支えてきた。


 馬を育て、羊を増やし、遠征へ出た兵の家族を残し、次の季節の軍を養う。中華に城を持ったからといって、その仕組みをすぐに捨てられるわけではなかった。


「秦軍を率いているのは誰だ」


「秦王扶蘇(ふそ)本人。それに楊端和(ようたんわ)、黥布(げいふ)の名が確認されております」


 楊端和(ようたんわ)の名を聞いた時、冒頓(ぼくとつ)の眉がわずかに動いた。


 その直後、斉からの急報まで届いた。


「単于、項羽(こうう)が斉へ向かっています。すでに大軍が入り、龍且(りゅうしょ)の軍と合流する動きです」


 冒頓(ぼくとつ)は地図へ視線を落とした。


 田横(でんおう)を失うのは惜しい。


 燕を取る策も、易水(えきすい)で楚軍を分断した策も、あの女の知恵が大きかった。斉へ足場を作れれば、中華東部へ伸びる道も増える。


 それでも、項羽(こうう)本人ともう一度正面から戦う気にはなれなかった。


 易水(えきすい)では川を使い、二万の騎兵で五千を囲み、それでも首を取れなかった。斉を守るために再びあの女と戦えば、勝敗以前にどれだけ兵を失うか分からない。


 しかも、その間にも北では馬と羊が消えていく。


「斉には今いる兵で持たせろ。我々は北へ戻る」


 楼煩(ろうはん)が顔を向けた。


「斉を諦めるのか」


「まだだ。ただ、今は斉より北を守る」


 冒頓(ぼくとつ)は地図の北側を指で叩いた。


「牧地を空にされたら、来年から馬が減る。羊も減る。燕で税を取っても、その穴はすぐには埋まらん」


 楼煩(ろうはん)は少し考えたあと、頷いた。


「私も行く」


「ああ。お前は一緒に来い」


 冒頓(ぼくとつ)は北帰の準備を命じると、続けて趙方面へ使者を走らせた。


「羌瘣(きょうかい)に伝えろ。秦軍を追い払え。こちらも急いで戻る」


◆


 その命令を受け取った時、羌瘣(きょうかい)は趙東部の小城にいた。


 文面そのものは短い。


 北へ入った秦軍を追い払え。


 それだけなら、すぐに兵を集めればよかった。


 ところが敵将として並んだ名前を見たところで、羌瘣(きょうかい)の視線が止まった。


 秦王扶蘇(ふそ)。


 その下に、楊端和(ようたんわ)。


「……来たのか」


 自分がどちらの名へ向けて言ったのかは、考えるまでもなかった。


 扶蘇(ふそ)本人が出ている以上、秦が今回の北進を軽い牽制で終わらせるつもりでないことは分かる。軍事上、警戒すべき相手なのは間違いない。


 それでも、羌瘣(きょうかい)の胸をざらつかせたのは楊端和(ようたんわ)の名だった。


 二人は秦の将だった頃から互いを知り、匈奴に捕らえられた時には同じ側にいた。


 武器を奪われ、秦将としての立場を失い、草原へ放り込まれたところまでは同じだった。その後に選んだ道が違った。


 楊端和(ようたんわ)は秦へ戻った。


 羌瘣(きょうかい)は草原に残った。


 その選択を間違いだったと思っているわけではない。


 冒頓(ぼくとつ)と過ごした時間には、偽りではないものも確かにあった。妻として扱われ、戦士として必要とされ、自分の居場所がここなのだと思えた時期もある。


 だからこそ、最近の自分が腹立たしかった。


 楼煩(ろうはん)に敗れ、冒頓(ぼくとつ)のすぐ傍にいた場所も少しずつ狭くなっている。その一方で、秦へ帰った楊端和(ようたんわ)は今も将として使われ、扶蘇(ふそ)とともに北へ戻ってきた。


「……勝ったつもりか」


 口にしてから、羌瘣(きょうかい)は自分で顔をしかめた。


 楊端和(ようたんわ)がそんなことを考えているはずはない。


 分かっている。


 それなのに、そう思わずにはいられなかった。


 同じように捕らえられ、同じ草原で暮らした二人が、今は秦と匈奴に分かれている。


 しかも今度は、自分が守る側で、楊端和(ようたんわ)が草原へ攻め込んでくる側だった。


「今動かせる騎兵を集めろ。三千で先に北へ向かう」


 側近が地図へ目を落とした。


「趙にいる残りの兵も集めますか」


「後から来させる。全部を待っていたら遅い」


 趙各地へ散っている匈奴兵をまとめれば、さらに一万五千ほどになる。ただ、それを待つ間にも秦軍は牧地を奪い、人と家畜を南へ運んでいく。


「私が先に押さえる。残りは集まり次第、同じ道を来させろ」


 側近が退出すると、羌瘣(きょうかい)はもう一度だけ命令書を開いた。


 秦軍を追い払え。


 楊端和(ようたんわ)を討てとは書いていない。


 それでも、その名だけが妙に目についた。


 今度会えば、何を言うのだろう。


 なぜ戻った、と聞くのか。


 秦へ帰って満足か、と嫌味を言うのか。


 あるいは何も言わず、武器を向けるのか。


 考えても答えは出ないまま、ほどなく三千騎が城門を飛び出した。


 羌瘣(きょうかい)は北へ馬を走らせながら、秦王よりも、かつて同じ草原にいた一人の女のことを考えていた。


◆


 羌瘣(きょうかい)が三千騎を率いて急行している頃、楊端和(ようたんわ)はすでに趙方面から匈奴騎兵が近づいているとの報告を受けていた。


「先頭は三千ほどです。その後ろにもかなりの兵が集まっております」


 斥候の報告を聞いた楊端和(ようたんわ)は、地図と周囲の地形を見比べた。


「先行しているのは羌瘣(きょうかい)でしょう」


 隣にいた黥布(げいふ)は、武器を肩へ預けたまま前方を見た。


「後ろが揃う前に三千だけで来るなら、先に潰せるんじゃねえか?」


「三千でこちらを倒すつもりではないでしょう。進路を止め、後続が追いつくまで時間を稼ぐつもりです」


「だったら、その前に叩けばいい」


「あなたはそれで構いません」


 黥布(げいふ)が少しだけ顔をしかめた。


「随分雑な扱いだな」


「細かいことを考える役で連れてきた覚えはありません」


「まあ、それならいい」


 納得するところなのかは分からなかったが、黥布(げいふ)はそれ以上何も言わなかった。


 楊端和(ようたんわ)は斥候から進軍速度と使っている道を聞き、しばらく周囲を見渡してから布陣する場所を決めた。


「ここで迎えます。連れてきた人と家畜は後方へ下げ、騎兵は左右へ。歩兵は丘の斜面を使ってください」


 指示を飛ばしながら、楊端和(ようたんわ)は草地の向こうを見た。


 なだらかな丘が続き、冬を越した草は短い。遠くまで見通しが利くため、騎兵を迎える場所として悪くない。


 だが、ここを選んだ理由は地形だけではなかった。


 見覚えがある。


 かつて羌瘣(きょうかい)とともに匈奴に捕らえられ、頭曼(とうまん)のもとへ連れていかれたのが、この一帯だった。


 武器を奪われ、自由を失い、秦の将として持っていたものを一つずつ剥がされていった。


 その後に続いた草原での日々まで思い返せば、簡単に屈辱だけとは言い切れない。


 嫌だったことはいくらでもある。


 思い出したくないこともある。


 それでも頭曼(とうまん)のもとで味わったもののすべてを苦痛だったことにしてしまえば、自分に嘘をつくことになる。


 自由を奪われているというのに、身体だけは違う答えを返した夜もあった。そのことを恥じた時期もあれば、なぜ自分はそう感じたのか、今になっても整理できない部分も残っている。


 そして、あの時は羌瘣(きょうかい)も同じ場所にいた。


 楊端和(ようたんわ)は馬上でゆっくり息を吐いた。


「来るぞ」


 黥布(げいふ)の声で顔を上げる。


 地平の向こうに、細い土煙が立ち始めていた。


 先頭の三千騎はかなり急いでいるらしい。そのさらに後ろにも、時間を置いて大きな軍が続いている。


「後ろが来るまで待つか?」


「いいえ。向こうも待たせるつもりで来ています。こちらが何もせず付き合う必要はありません」


 楊端和(ようたんわ)は腰の剣へ手を置いた。


 かつて二人とも捕らえられ、同じ草原で暮らすことを強いられた。


 そこから違う道を選んだ二人が、今度は秦と匈奴に分かれて、同じ場所へ戻ってきた。


 土煙は、もう肉眼で騎影が見えるところまで近づいていた。


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