第130話 北へ
楚から二度目の使者が来たのは、最初の書状を受け取ってから十日ほど経った頃だった。
内容そのものは大きく変わっていない。
項羽は斉へ向かい、田横を討つ。その間、秦にも兵を出し、燕方面の匈奴を牽制してほしい。
ただし、前の書状より少しだけ急かす調子が強くなっていた。
「催促されてもなあ」
俺は返書を脇へ置き、卓いっぱいに広げた地図へ目を落とした。
西には咸陽、東には趙、さらにその先に燕がある。
楚の求めるまま燕へ兵を出そうとすれば、一番厄介なのは匈奴ではなかった。
「どうしても、ここを通るよな」
指を置いた先を、張良も見た。
「陳余殿の領域ですね」
「道を借りるだけ、で済むと思う?」
「済まないでしょう」
返事が早い。
俺たちは張耳を受け入れ、今では秦の下で趙王の名まで認めている。一方の陳余は楚に従って東部を押さえているものの、張耳との関係が修復されたわけではない。
そこへ俺が軍を率いて通行を求めれば、陳余にしてみれば敵を家へ入れるようなものだった。
「楚から頼まれて来ました、って言っても?」
「陳余殿が喜んで道を開ける理由にはなりません。むしろ、そのまま居座るのではないかと疑うでしょう」
「だよな」
無理に通れば戦になる。
それでは匈奴を牽制するために、先に楚の配下と戦うという意味の分からないことになる。
項羽との関係を切りたいわけでもない。むしろ今は、切れないから困っている。
俺は地図を眺めながら、燕まで続く道を何度かなぞった。
どう進んでも陳余の領域へ入る。
そう思っていたところで、ふと指が止まった。
「……待てよ」
張良がこちらを見る。
「何か?」
「燕へ行く必要、あるのか?」
自分で口にしてから、もう一度地図を見直した。
項羽から頼まれているのは、燕の城を取り返すことではない。匈奴へ圧力をかけ、斉へ向かう楚軍を助けろという話だ。
なら、こちらが燕へ行く必要はない。
俺は趙のさらに北へ指を滑らせた。
「匈奴は燕を取った。でも、全員が燕の城に住み始めたわけじゃないよな」
「もちろんです。冒頓殿が中華へ根を張ろうとしていても、部族の全てが遊牧を捨てたわけではないでしょう」
「馬も羊も、北に残ってる」
張良はそこで、俺が何を考え始めたのか察したらしい。
「牧地を叩きますか」
「燕じゃなくて、そっちを」
北方の牧地は、これまで匈奴が軍事力を支えてきた場所だ。
馬を育て、羊を飼い、季節ごとに草を求めて移動する。中華の城や田畑を取ったからといって、それまでの生活を一年や二年で全部捨てられるわけではない。
そこへ秦軍を入れる。
燕を直接攻めなくても、冒頓は無視できない。
「北を荒らせば、燕や斉に回してる兵を戻さざるを得なくなる。楚への援護にはなる」
「陳余殿の領域を通る必要もありません」
「そうなんだよ」
初めて道が見えた気がした。
そのまま俺は、北に記された牧地を見ていた。
馬を奪う。
羊を奪う。
冬を越すための草を奪う。
そこまで考えたところで、さっきまでの勢いが急に止まった。
「……これ、匈奴が中華でやってたことと同じじゃないか?」
張良は否定しなかった。
「似ておりますね」
「似てるどころか、ほとんど同じだろ。向こうの家畜を奪って、食べ物を奪って、生活できなくするんだから」
中華の村を襲った匈奴を、俺は何度も賊のように見てきた。
その自分が今、同じことを地図の上で考えている。
「だったら、奪うだけにしなければよいのでは?」
張良が何でもないことのように言った。
「どういうこと?」
「人も連れてくるのです」
俺は顔を上げた。
「……人?」
「羊や馬だけ奪えば、残された者は生活できません。ならば家族ごと移せばよい。家畜もまとめて趙西部へ入れるのです」
思わず地図の西側へ目を移した。
戦乱の続いた趙西部には、まだ人の戻っていない土地が多い。農地として使いづらい場所でも、牧畜なら利用できる土地はある。
「移民させるってこと?」
「本人たちが望めば、そう呼べます」
そこで張良が言葉を切った。
続きは聞かなくても分かった。
「望まなかったら?」
「連れてくることになります」
「それ、移民じゃないよな」
「はい」
あっさり認めた。
俺は椅子へ背を預けた。
「羊も馬も取って、家まで捨てさせて、こっちへ連れてくる。殺さないだけで、やってることは十分ひどいぞ」
「そうですね」
「もう少し何かないの?」
「慰めの言葉ですか?」
「……いや、いい」
張良にそれを求める方が間違っている気がした。
しばらく二人で地図を見た。
張良は急かさなかった。
その代わり、逃げ道も作らなかった。
「何もしないという選択もあります」
「それを言う?」
「選択肢ではありますから」
張良は北の方を指した。
「匈奴が燕を固め、趙へ入り、さらに西へ来るまで待つ。その時になってから戦うこともできます。秦王がそう決められるのであれば、私は止めません」
言葉は丁寧だったが、中身はまるで優しくない。
「でも、その結果も俺が引き受けろってことだろ」
「王である以上は」
分かっていた。
正しい選択肢がどこかに隠れているわけではない。
匈奴の牧地へ入れば、そこで暮らしている人間からすれば俺たちが侵略者になる。だからといって何もしなければ、今度は趙や秦の民が襲われるかもしれない。
人を連れてくれば人口は増える。
羊や馬も手に入る。
軍事的にも、統治の面でも利はある。
利があるから余計に気分が悪かった。
「……やる」
口に出してからも、すっきりはしなかった。
「北へ出る。牧地を押さえる。ただし、無意味に殺すのは禁止。降る者は家族ごと受け入れる。家畜も一緒に連れてきて、趙西部に住ませる」
「承知しました」
「逃げる者は?」
「追いますか?」
少し考えた。
「全部は追わない。戦える男や女を無理に狩る必要はない。でも、冒頓のところへまとまって戻られるのも困るな」
「その辺りは、現地で判断するしかないでしょう」
「結局それか」
「地図の上で全部決められるなら、王は楽でしょうね」
張良はそう言って、地図を畳み始めた。
◆
最初に呼んだのは、楊端和と黥布だった。
北へ出ると聞いて、楊端和は少しだけ表情を変えた。
「匈奴の本拠へ向かわれるのですか」
「本拠そのものというより、牧地だ。燕を攻めるつもりはない」
俺は二人の前に地図を広げた。
「冒頓は燕と斉に兵を割いている。趙へも入ってる。その間に北を押さえて、馬と羊をこちらへ持ってくる」
「略奪か?」
黥布は遠慮がなかった。
「……そう見えるよな」
「見えるっていうか、そうだろ」
「だから、人も連れてくる」
黥布が眉を上げる。
「丸ごとか」
「抵抗しない者は殺さない。家族を引き離すな。羊や馬も一緒に移す。趙西部で生活させる」
黥布は少し考えたあと、肩をすくめた。
「俺は戦う奴を倒せって言われた方が楽なんだがな」
「俺もそう思う」
楊端和は地図を見たまま黙っていた。
かつて匈奴の中へ入り、頭曼に近づき、そこで長く暮らした女である。俺たちより、北の暮らしがどんなものかはよく知っている。
「楊端和、嫌なら」
「行きます」
俺が言い終える前に答えた。
「北の道を知る者は多くありません。私がいた方がよいでしょう」
「……頼む」
「はい」
それ以上、何を思っているのかは聞かなかった。
楊端和には先行して北への道を探らせ、黥布にはその護衛と、抵抗する部族への対応を任せることにした。
「できるだけ戦うなよ」
そう言うと、黥布が露骨に嫌そうな顔をした。
「俺を連れていく意味あるか?」
「戦わないために、戦ったら怖そうな奴を連れていくんだよ」
「そういう使い方か」
納得したのかしていないのか分からない顔で、黥布は引き下がった。
◆
俺自身も北へ向かうことにした。
今回は大軍を東へ出すわけではない。閼与や趙西部の守りを崩さない範囲で兵をまとめ、楊端和と黥布の後を追う。
張良も同行する。
そしてもう一人、俺の近くには大きな剣を背負った女がいた。
「その剣、もう少し普通のにできない?」
「無理です」
王離が即答した。
「即答するところじゃないよ。お前、世間では死んだことになってるんだから」
「顔を隠しております」
「剣が顔より目立つんだよ」
深く兜をかぶり、王氏の一兵として紛れ込んでいるものの、その体格と巨大な剣はどうしても目につく。
「これより小さいと使いづらいです」
「だったら仕方ないか……」
「はい、扶蘇様」
「納得してないからね」
王離は気にした様子もなかった。
出発の日、俺は城門の外から北へ続く道を見た。
楚へは、援軍を出すと返事をしてある。
ただし燕へは行かない。
匈奴の北側へ回り、その力の根を削る。
言葉にすれば、ずいぶん立派な作戦に聞こえる。
実際にやることは、誰かが暮らしている土地へ兵を入れ、家畜と人をまとめてこちらへ連れてくることだった。
王になったからといって、嫌な決断が嫌でなくなるわけではないらしい。
「行こう」
俺が馬を進めると、張良と王離が続いた。
その先では、すでに楊端和と黥布が北へ向かっている。
秦軍は燕ではなく、そのさらに西北へ進路を取った。




