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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第129話 新しい年

 年が改まり、咸陽(かんよう)にも少しずつ春の気配が近づいてきた頃、秦王宮では戦とも政とも関係のない騒ぎが起きていた。


 蒙凛(もうりん)が、子を産んだのである。


 初めての出産ということもあって、俺と蒙恬(もうてん)は産室の外で朝から落ち着かなかった。中から侍女が出てくるたびに二人して顔を向けるものだから、三度目くらいには相手の方から「まだでございます」と先に言われてしまった。


「蒙恬(もうてん)、少し座ったら?」


「扶蘇(ふそ)様こそ、先ほどから同じところを何度往復しておられるのです」


「俺は座ってたよ」


「椅子に触れただけでは、座ったことにはなりません」


 そう言う蒙恬(もうてん)自身も、さっきから一度も腰を落ち着けていない。


 それを指摘しようとした時、産室の中から、それまでとはまるで違う高い声が響いた。


 産声だった。


 俺と蒙恬(もうてん)は同時に戸口へ寄り、出てきた侍女を危うく驚かせるところだった。


「おめでとうございます。母子ともにご無事でございます」


「どっちだ?」


「姫君でございます」


 女の子だった。


 この世界では女児が生まれること自体は珍しくもない。それでも自分の子となれば話は別で、産湯を終え、布に包まれた小さな身体を見せられると、俺はしばらく何も言えなかった。


 横にいる蒙恬(もうてん)はもっとひどい。


「まあ……」


 それだけ言ったきり、赤子を覗き込んで動かない。


 普段なら兵数でも兵糧でも一度聞けば覚えている女が、孫を前にすると語彙までどこかへ落としてしまうらしい。


「母上、近いって」


 寝台に横になっていた蒙凛(もうりん)が、疲れた声で言った。


「ですが、もう少し顔を」


「さっきからずっと見てるでしょう」


「見るたびに少し違う気がします」


「そんなわけないでしょ」


 出産を終えたばかりでも、この親子のやり取りはいつもと変わらなかった。


 しばらくすると赤子が乳を欲しがり、蒙凛(もうりん)が腕に抱いて授乳を始めた。


 その姿を眺めていたら、ずっと昔の記憶が、妙に鮮明に浮かんできた。


 俺も、こうやって蒙恬(もうてん)の乳を飲んでいた。


 転生した時から意識そのものははっきりしていたので、実のところ「覚えている」なんて曖昧なものではない。抱かれた時の腕の感触も、乳の味も、飲み終わったあと背中を優しく叩かれたことも、それなりに残っている。


 もっとも、それを本人へ正直に言えるはずもなかった。


「そういえば、俺も蒙恬(もうてん)の乳を飲んでたんだよな」


 何気なく口にしたつもりだったが、蒙恬(もうてん)がぴたりと動きを止めた。


「……覚えておられるのですか?」


 しまった。


 普通なら、覚えているはずのない時期の話だ。


「いや、はっきりじゃないよ。なんとなく……抱かれてた感じとか、匂いとか、そのくらい」


 自分でも苦しいと思う言い訳だったが、蒙恬(もうてん)は疑うより先に頬を赤らめた。


「そんな昔のことまで……」


 四十代になった今も、蒙恬(もうてん)の美しさはほとんど変わっていない。年齢相応の落ち着きは増しているが、背筋は伸び、髪も肌も若い頃の面影をよく残していて、昔から知っている俺には年齢の数字だけが先へ進んだように見えることさえある。


 その蒙恬(もうてん)が、乳母だった頃のことを思い出されて今さら恥ずかしがっている。


 少しおかしくなって見ていると、授乳を終えかけていた蒙凛(もうりん)が母親へ視線を向けた。


「おばあちゃんになったくせに、何を赤くなってるの」


 蒙恬(もうてん)の眉がぴくりと動く。


「……今、何と?」


「おばあちゃん」


「聞こえなかったから尋ねたのではありません」


「でも事実でしょ。孫がいるんだから」


「蒙凛(もうりん)、母になったのですから、少しは言葉遣いを改めなさい」


「母上にだけは言われたくないわ。私が子供の頃、庭で誰と喧嘩して塀を壊したの?」


「あれは向こうが先に仕掛けてきたのです」


「ほら、そういうところ」


 俺は止めるべきか迷ったが、下手に間へ入ると二人ともこちらへ矛先を向けてくることを知っているので、黙っておくことにした。


 ところが母娘の声が少し大きくなったところで、腕の中の赤子が急に泣き出した。


「あっ、どうしたの?」


「蒙凛(もうりん)、頭をもう少し支えて」


「分かってるって。母上、近い!」


「でも泣いているでしょう」


「俺が抱こうか?」


「扶蘇(ふそ)は待って!」


「扶蘇(ふそ)様は、今は少しお待ちください!」


 二人から同時に止められ、俺は伸ばしかけた手を引っ込めた。


 さっきまで言い争っていた母娘が、今度は揃って赤子をあやし始める。その様子を少し離れたところから眺めているうち、俺はいつの間にか笑っていた。


 戦も、国境も、兵糧も関係ない。


 そんな時間は最近では珍しく、それだけに妙に長く感じられた。


◆


 同じ頃、巴蜀(はしょく)から陳平(ちんぺい)が仕掛け始めた范増(はんぞう)への離間策は、まだ目立った成果を出していなかった。


 項羽(こうう)と范増(はんぞう)は長く共に戦ってきた間柄であり、多少の噂や讒言だけで簡単に切れる関係ではない。陳平(ちんぺい)もそこは承知していたので、急いで大きな嘘を流すことはせず、范増(はんぞう)が覇王を見限りつつある、あるいは楚の将の中に范増(はんぞう)を疎ましく思う者がいるといった、否定し切るには面倒な話を少しずつ広げていた。


 亀裂はある。


 けれど、まだ指一本入るほどでもない。


 一方で、もう一つの狙いだった楚と匈奴の再衝突については、陳平(ちんぺい)が大掛かりな策を弄するまでもなかった。


 燕を巡る争いは終わっていないうえ、田横(でんおう)は匈奴の力を借りて斉へ戻っている。易水(えきすい)で楚軍に大損害を与えた策も田横(でんおう)の入れ知恵だったことが、やがて楚側にも伝わり始めていた。


 陳平(ちんぺい)が裏でやったのは、その話が項羽(こうう)の耳へ届きやすいよう、少し背中を押した程度だった。


 火種そのものは、とっくに燃えていた。


◆


「斉へ行く」


 彭城(ほうじょう)で開かれた軍議で、項羽(こうう)はそう告げた。


 田横(でんおう)は斉へ戻ったあと、旧臣や豪族へ再び声をかけ、北から入ってきた匈奴とも連絡を保っている。先に龍且(りゅうしょ)を送ってはいるものの、放置すれば斉がまた大きく揺れるのは明らかだった。


「今度は田横(でんおう)を潰す。燕に入り込んだ匈奴まで動かして、あげく易水(えきすい)であれだ。これ以上好きにさせない」


 項羽(こうう)が地図の斉を指で叩く。


 誰も異論は唱えなかった。


 出陣の話がまとまりかけたところで、范増(はんぞう)が口を開いた。


「私も参りましょうか」


「いや、今回はいい」


 返事があまりに早かったので、范増(はんぞう)は一瞬だけ黙った。


「理由を聞こうか」


「お前も歳だしな」


 軍議の空気が妙な具合に止まった。


 范増(はんぞう)の目が細くなる。


「覇王」


「何だよ」


「私を年寄り扱いするには、まだ少し早いと思うが」


「でも若くはないだろ」


「お前よりはな」


「ほら」


「そこで勝った顔をするな」


 周囲の将たちは目を合わせないようにしていた。


 項羽(こうう)は悪気があって言ったわけではないらしく、地図を見ながら続けた。


「今回は龍且(りゅうしょ)もいる。斉へ行って田横(でんおう)を叩くだけだ。お前は彭城(ほうじょう)に残って、こっちを見ててくれ」


 楚の領域は広くなっており、項羽(こうう)が軍を率いて出れば、本拠を預かる者は必要になる。理屈だけなら不自然ではなかった。


 ただ、以前なら項羽(こうう)は当然のように范増(はんぞう)を連れていった。


 范増(はんぞう)はそれを口にせず、代わりに地図の北側へ指を移した。


「では、一つだけ進言しておく」


「何だ?」


「燕の匈奴を放っておくわけにもいくまい。斉へ兵を向けるなら、秦王にも動いてもらえばいい」


 項羽(こうう)が顔を上げた。


「扶蘇(ふそ)に?」


「ああ。秦はすでに趙西部を押さえている。匈奴が燕から趙へ広がれば、困るのは秦も同じだ。覇王が斉へ向かう間、秦に燕方面から圧力をかけてもらえばよい」


 項羽(こうう)はしばらく考えた。


「扶蘇(ふそ)なら、頼めば出してくれるかな」


「聞いてみればいい。少なくとも、匈奴をこれ以上西へ伸ばしたくはないだろう」


「そうだな」


 項羽(こうう)にとっては、ごく自然な話だった。


 扶蘇(ふそ)は秦王を名乗るようになったが、楚へ剣を向けたことはない。鉅鹿以来、何度か意見がぶつかったことはあっても、項羽(こうう)の中では今なお敵ではなく、むしろ同じ側にいる人間だった。


「使者を出せ。私は斉へ行くから、その間に燕の匈奴を叩いてほしいって」


「分かった」


 范増(はんぞう)は頷いた。


 その提案が、扶蘇(ふそ)をどこまで困らせることになるかまでは、項羽(こうう)も考えていなかった。


◆


 楚の使者が咸陽(かんよう)へ入ったのは、それから数日後だった。


 俺の前に置かれた書状には、項羽(こうう)が斉へ兵を向け、田横(でんおう)を討つこと、その間に秦からも兵を出して燕方面の匈奴を牽制してほしいことが書かれていた。


 一度読み終え、俺はもう一度最初から読んだ。


「これ、頼み事というより、来る前提で書いてない?」


 隣にいた張良(ちょうりょう)へ渡す。


 張良(ちょうりょう)も最後まで目を通したあと、わずかに口元を緩めた。


「項羽(こうう)殿らしい書状ですね」


「褒めてる?」


「いいえ」


 俺は地図へ目を落とした。


 燕の北部から中部には匈奴が根を張り始め、その西側では羌瘣(きょうかい)が趙方面へ入っている。こちらとしても、匈奴を完全に放置してよい状況ではなくなっていた。


 だから厄介だった。


「断ったら、どうなると思う?」


「項羽(こうう)殿はまず驚くでしょう」


「その次は?」


「『どうしてだ』と聞くのでは」


 いかにもありそうで、俺は額を押さえた。


 項羽(こうう)は、まだ俺を味方だと思っている。


 その一方で、俺にとって楚はすでに無条件で肩を並べられる相手ではない。


 ここで兵を出せば、楚と匈奴の戦へ秦が足を踏み入れる。


 出さなければ、項羽(こうう)との関係に初めてはっきりした亀裂が入るかもしれない。


「趙西部を固めるだけでも手が足りないのにな」


「だからこそ、返事は急がない方がよろしいでしょう」


 張良(ちょうりょう)は地図の閼与(あつよ)を指した。


「兵を出すにしても、どこまで出すのか。匈奴を叩くためなのか、楚を助けるためなのか。その辺りを曖昧にしたまま動けば、後で面倒になります」


「もう十分面倒だけどね」


 俺は書状を畳み直した。


 赤子の顔を見ていた朝とは、まるで違う一日になっていた。


◆


 楚が秦へ援軍を求めたという話は、ほどなく巴蜀(はしょく)にも届いた。


 劉邦(りゅうほう)は報告を読むと、地図の前で笑った。


「扶蘇(ふそ)まで引っ張り込むのか。面白くなってきたな」


 韓信(かんしん)は浮かれる様子もなく、燕から趙へ伸びる道を見ていた。


「まだ秦が出るとは決まっていない」


「でも項羽(こうう)から頼まれたら、断りにくいだろ」


「断るかもしれん」


「お前、もうちょっと人の困るところを楽しめよ」


「必要がない」


 劉邦(りゅうほう)は相変わらずだな、と言いたげな顔をした。


 その横では陳平(ちんぺい)が、楚、秦、燕の位置を順に見ている。


 楚は斉へ動く。


 匈奴は燕に残る。


 秦はそのどちらにも関わり得る位置へ引き出されようとしていた。


「漢王」


 陳平(ちんぺい)が言う。


「しばらくは、まだ動かぬ方がよいでしょう」


「またかよ」


「今度は私が言っております」


「増えたな、待てって言う奴が」


 韓信(かんしん)は気にせず続けた。


「東で動く兵が増えるほど、こちらが選べる時期は後になる」


 劉邦(りゅうほう)は不満そうに頬を掻いたものの、今度はすぐに反論しなかった。


 項羽(こうう)が斉へ入り、匈奴がそれに応じて動き、さらに扶蘇(ふそ)まで兵を出すなら、状況はもっと崩れる。


 その時こそ、自分たちが外から入る余地が生まれる。


「分かったよ。待つ」


 そう言ってから、劉邦(りゅうほう)は韓信(かんしん)と陳平(ちんぺい)を交互に見た。


「でも今度、俺が『そろそろ行こう』って言った時に、二人揃ってまた待てって言うなよ」


「状況次第だ」


「私も同じです」


「もう嫌だ、この軍師ども」


 劉邦(りゅうほう)はぼやいたが、地図から離れようとはしなかった。


 楚と匈奴の争いへ、秦まで引き寄せられようとしている。


 漢だけが、その輪の外で次の機会を待っていた。

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