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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第128話 楚から来た男

 易水(えきすい)で大きな損害を受けた楚軍は、それでも燕から完全に退いたわけではなかった。


 先に各地の平定へ回っていた鍾離眜(しょうりばつ)が燕南部の城邑をいくつか確保し、そこへ守備兵を残す。一方、冒頓(ぼくとつ)も項羽(こうう)を深追いせず、すでに従わせた燕王臧荼(ぞうと)を使いながら北部から中部を押さえたため、両軍が再び大兵力をぶつけることはなかった。


 あれほど激しく始まった戦にしては、決着は妙にあっさりしていた。


 燕という国を一本の線で割ったわけではないが、大まかに見れば南に楚、北に匈奴という形で互いに軍を止めたのである。


 その知らせが巴蜀(はしょく)へ届くと、劉邦(りゅうほう)は報告を二度ほど読み返し、満足そうに頷いた。


「やっぱり様子見で正解だったな」


 向かいに座っていた韓信(かんしん)が顔を上げた。


「私がそう言った」


「そうだったか?」


「そうだ」


「俺もそう思ってたぞ」


「東へ出ると言っていた」


「最終的に出なかっただろ。大事なのはそこだ」


 韓信(かんしん)は何も言わなくなった。


 隣で帳簿を見ていた蕭何(しょうか)が、顔を上げないまま口を挟む。


「韓信(かんしん)が止めなければ、出る気だったでしょう」


「細かいなあ」


「兵糧を預かる者は細かくなります」


 劉邦(りゅうほう)は聞こえなかったことにして、地図へ目を戻した。


 結果だけなら、待った甲斐はある。


 項羽(こうう)は燕を取り戻せず、易水(えきすい)ではかなりの兵を失った。匈奴も無傷とはいかなかったようだが、燕の大半は依然として冒頓(ぼくとつ)の側にあり、両者の境にはしばらく兵を置かざるを得ない。


「で、今度こそ行けるんじゃねえか?」


 劉邦(りゅうほう)が期待を込めて韓信(かんしん)を見る。


「まだだ」


「お前、本当にそれ好きだな」


「楚は傷ついたが、崩れてはいない。匈奴も燕を取ったばかりで、すぐに全部を南へ向けるとは限らない。もう少し見たい」


「また様子見かよ」


「さっき正解だったと言ったばかりだろう」


 劉邦(りゅうほう)は口を閉じた。


 そこへ、部屋の外から兵が入ってきた。


「漢王。楚から来たという男が、面会を求めております」


「楚から?」


 韓信(かんしん)の目つきが変わる。


 蕭何(しょうか)も帳簿を閉じた。


「名は」


「陳平(ちんぺい)と申しております」


 聞き覚えがないらしく、劉邦(りゅうほう)は首を傾げた。


「何者だ?」


「楚で役目を得ていた男だと言っております。項羽(こうう)のもとを離れ、漢王に仕えたいと」


 韓信(かんしん)はすぐに言った。


「先に調べろ」


「俺もそう思う」


 今度は劉邦(りゅうほう)が胸を張ったので、韓信(かんしん)は相手にしなかった。


◆


 陳平(ちんぺい)は、その日のうちに劉邦(りゅうほう)の前へ通された。


 逃げてきたばかりにしては身なりを整えていたものの、長旅の疲れまでは隠せていない。それでも楚から一人で逃亡してきた男にしては妙に落ち着いており、韓信(かんしん)と蕭何(しょうか)の視線を受けても臆した様子はなかった。


「陳平(ちんぺい)です。漢王にお目通りでき、光栄にございます」


「堅いのはいいよ。それより、何で楚から逃げてきた」


 劉邦(りゅうほう)がいきなり本題へ入る。


「覇王の御不興を買いました」


「何やった?」


「少々、意見が合わず」


「それだけで逃げるか?」


 陳平(ちんぺい)は一拍だけ黙った。


 その反応を見て、韓信(かんしん)が尋ねる。


「追手は?」


「出ております」


「なら、ただの意見の相違ではない」


 蕭何(しょうか)も陳平(ちんぺい)を見た。


「楚を追われた者がそのまま漢へ来たとなれば、密偵を疑うのが普通でしょう。詳しく話していただきたい」


 陳平(ちんぺい)は困ったように口元を歪めた。


「軍議で一度蹴られまして」


「それは意見の相違で済むかもしれんな」


 劉邦(りゅうほう)は妙なところで納得した。


「その夜、虞(ぐ)を連れ出そうとしました」


 部屋が静かになった。


 韓信(かんしん)が眉を寄せる。


「誰だ」


「今、項羽(こうう)の傍にいる虞(ぐ)です。元の名は子嬰(しえい)」


 その名を聞いた途端、劉邦(りゅうほう)が身を乗り出した。


「お前、子嬰(しえい)に手を出したのか?」


「手を出したという表現が適切かは」


「何したんだよ」


「夜に部屋へ入り、一緒に逃げようと説得しました。拒まれたので、少々強引に連れ出そうとして」


 蕭何(しょうか)の顔が冷たくなる。


「少々?」


「腕を掴んだ際、衣も少し乱れました」


 一瞬の沈黙のあと、劉邦(りゅうほう)が吹き出した。


「ははっ! そりゃ逃げるしかねえわ!」


 腹を抱えて笑い始める。


「よりによって、今の項羽(こうう)からあの女を盗もうとしたのか! よく生きてここまで来たな!」


「漢王」


 蕭何(しょうか)の声はかなり冷たかった。


「笑うところではないと思いますが」


「だって仕方ねえだろ。あの女を近くで見たなら」


「仕方なくはありません」


「いや、やったことじゃなくて、惚れた方だよ」


 劉邦(りゅうほう)は目尻を拭いながら、改めて陳平(ちんぺい)を見た。


「分かった。そこまでやったなら、楚の密偵って線は薄そうだな。項羽(こうう)がそんな芝居に虞(ぐ)を使うとも思えねえ」


 韓信(かんしん)も完全に警戒を解いたわけではなかったが、少なくとも妙な顔はしていた。


「密偵として送り込むには、逃げる理由が馬鹿すぎる」


「だろ?」


「褒めていない」


 陳平(ちんぺい)は黙っていた。


 どうやら漢へ来て最初に得た評価は、策士ではなく馬鹿らしい。


 劉邦(りゅうほう)はそんなことを気にせず、どこか懐かしそうに椅子へ背を預けた。


「しかし、虞(ぐ)か。元気だったか?」


「かなり」


「そうかあ」


 劉邦(りゅうほう)の顔に、昔を思い出したような表情が浮かぶ。


 咸陽(かんよう)を手にした頃、最後の秦王だった子嬰(しえい)を最初に受け入れたのは劉邦(りゅうほう)だった。その美貌にすっかり心を奪われ、一時は自分の妻にすることまで考えていた女である。


 結局、項羽(こうう)が咸陽(かんよう)へ入ってくると、子嬰(しえい)を守り切ることはできなかった。


「項羽(こうう)のところで、どうしてる?」


 陳平(ちんぺい)は少し考えてから答えた。


「かなり気に入られております。軍議の後で覇王が怒っていても、虞(ぐ)が話せば耳を貸すことがあります」


「へえ」


「気に入られているというより、あの方だけは扱いが違います。覇王の方から部屋へ通うほどです」


 劉邦(りゅうほう)は露骨に残念そうな顔をした。


「そこまでかよ。俺のところにいた時より馴染んでるじゃねえか」


「漢王のところにいた頃とは事情も違うのでしょう」


 蕭何(しょうか)が淡々と返す。


「惜しい女を渡したなあ」


「今さら言ってどうするのです」


 劉邦(りゅうほう)は未練がましく何度か頷いたあと、ようやく話を戻した。


「で、女を盗み損ねた話だけしに来たわけじゃないんだろ?」


「もちろんです」


 陳平(ちんぺい)の表情が変わった。


 それまでのどこか軽い雰囲気が薄れ、卓上の地図へ目を落とす。


「今の楚には、見た目ほど余裕がありません。燕で兵を失ったこともありますが、それ以上に、覇王と范増(はんぞう)の関係が悪くなっています」


 劉邦(りゅうほう)も姿勢を直した。


「仲悪いのか?」


「まだ決裂してはいません。范増(はんぞう)の策を覇王も必要としている。ただ、范増(はんぞう)は覇王の過ちを正そうとし、覇王はそれを自分への非難として受け取ることが増えています」


「それだけなら昔からじゃねえのか」


「以前より悪い」


 陳平(ちんぺい)は答えた。


「范増(はんぞう)が正しいことを言うほど、覇王が腹を立てる。逆に、同じようなことを虞(ぐ)が言えば聞く場合もあります。それを范増(はんぞう)も面白く思っていない」


 蕭何(しょうか)が尋ねる。


「そこを利用すると?」


「ええ」


「どうする」


 陳平(ちんぺい)はすぐには答えず、劉邦(りゅうほう)の顔を見た。


「覇王は疑い深い方ではありません。むしろ、一度味方と思えば簡単には疑わない」


「それは分かる」


「ですが、自分を軽く扱われることには非常に敏感です。范増(はんぞう)が裏で覇王を見限っていると思わせればいい。覇王の耳へ直接入れる必要もありません。周囲から少しずつ聞こえるようにすれば、勝手に気にし始めます」


 韓信(かんしん)は腕を組んだ。


「范増(はんぞう)本人が否定すれば終わる」


「否定の仕方まで含めて、あの二人なら揉めます」


 陳平(ちんぺい)は小さく笑った。


「范増(はんぞう)は頭を下げて機嫌を取るような人ではありませんから」


「追い出せると?」


 劉邦(りゅうほう)が聞く。


「項羽(こうう)の傍から離せます」


 言い切った。


「殺す必要はありません。覇王が范増(はんぞう)を信用しなくなるか、范増(はんぞう)の方が愛想を尽かせば、それで十分です」


 韓信(かんしん)が初めて少し興味を示した。


「それだけか」


「いいえ」


 陳平(ちんぺい)は地図の燕を指した。


「匈奴と楚は、今回思ったほど長く戦わなかった。燕を南北に分けたような形で止まっています。なら、もう一度ぶつかる理由を作ります」


「どうやって?」


「双方に、相手がまだ自分の土地を狙っていると思わせればよい。特に覇王は田横(でんおう)を憎んでいます。匈奴の背後に田横(でんおう)がいる限り、煽る材料はいくらでもあります」


 劉邦(りゅうほう)は地図へ視線を落とした。


 楚と匈奴が再び戦えば、双方とも兵を使う。


 その間、自分たちは巴蜀(はしょく)で兵糧を蓄え、魚復(ぎょふく)を整え続けられる。


「もっと殴り合わせて、その間に俺たちが準備するわけか」


「それだけではありません」


 陳平(ちんぺい)は范増(はんぞう)の名を書いた竹片を指で弾いた。


「覇王から范増(はんぞう)を離す。そのうえで楚に余計な戦をさせる。強い軍を正面から倒すより、その方が安い」


 劉邦(りゅうほう)はしばらく黙っていた。


 やがて、にやりと笑う。


「お前、女を見る目以外は使えそうだな」


「女を見る目にも自信はありますが」


「そこは反省しろよ」


 蕭何(しょうか)が呆れた顔をした。


 劉邦(りゅうほう)は椅子から立ち上がると、陳平(ちんぺい)の肩を軽く叩いた。


「よし。俺のところで軍師をやれ」


 韓信(かんしん)がすぐに口を挟んだ。


「簡単に決めるな」


「いいじゃねえか。お前は戦を考える。蕭何(しょうか)は国の中を回す。こいつには、人を仲違いさせることを考えてもらう」


「ひどい役目ですな」


 陳平(ちんぺい)はそう言いながらも、嫌そうではなかった。


「得意だろ?」


「嫌いではありません」


 劉邦(りゅうほう)は笑った。


「なら決まりだ」


 楚と匈奴が燕で手を止めた頃、巴蜀(はしょく)では一人の男が新たに劉邦(りゅうほう)の陣営へ加わった。


 正面から兵を動かすのではなく、人と人の間にある隙間へ手を入れる男だった。

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