第128話 楚から来た男
易水で大きな損害を受けた楚軍は、それでも燕から完全に退いたわけではなかった。
先に各地の平定へ回っていた鍾離眜が燕南部の城邑をいくつか確保し、そこへ守備兵を残す。一方、冒頓も項羽を深追いせず、すでに従わせた燕王臧荼を使いながら北部から中部を押さえたため、両軍が再び大兵力をぶつけることはなかった。
あれほど激しく始まった戦にしては、決着は妙にあっさりしていた。
燕という国を一本の線で割ったわけではないが、大まかに見れば南に楚、北に匈奴という形で互いに軍を止めたのである。
その知らせが巴蜀へ届くと、劉邦は報告を二度ほど読み返し、満足そうに頷いた。
「やっぱり様子見で正解だったな」
向かいに座っていた韓信が顔を上げた。
「私がそう言った」
「そうだったか?」
「そうだ」
「俺もそう思ってたぞ」
「東へ出ると言っていた」
「最終的に出なかっただろ。大事なのはそこだ」
韓信は何も言わなくなった。
隣で帳簿を見ていた蕭何が、顔を上げないまま口を挟む。
「韓信が止めなければ、出る気だったでしょう」
「細かいなあ」
「兵糧を預かる者は細かくなります」
劉邦は聞こえなかったことにして、地図へ目を戻した。
結果だけなら、待った甲斐はある。
項羽は燕を取り戻せず、易水ではかなりの兵を失った。匈奴も無傷とはいかなかったようだが、燕の大半は依然として冒頓の側にあり、両者の境にはしばらく兵を置かざるを得ない。
「で、今度こそ行けるんじゃねえか?」
劉邦が期待を込めて韓信を見る。
「まだだ」
「お前、本当にそれ好きだな」
「楚は傷ついたが、崩れてはいない。匈奴も燕を取ったばかりで、すぐに全部を南へ向けるとは限らない。もう少し見たい」
「また様子見かよ」
「さっき正解だったと言ったばかりだろう」
劉邦は口を閉じた。
そこへ、部屋の外から兵が入ってきた。
「漢王。楚から来たという男が、面会を求めております」
「楚から?」
韓信の目つきが変わる。
蕭何も帳簿を閉じた。
「名は」
「陳平と申しております」
聞き覚えがないらしく、劉邦は首を傾げた。
「何者だ?」
「楚で役目を得ていた男だと言っております。項羽のもとを離れ、漢王に仕えたいと」
韓信はすぐに言った。
「先に調べろ」
「俺もそう思う」
今度は劉邦が胸を張ったので、韓信は相手にしなかった。
◆
陳平は、その日のうちに劉邦の前へ通された。
逃げてきたばかりにしては身なりを整えていたものの、長旅の疲れまでは隠せていない。それでも楚から一人で逃亡してきた男にしては妙に落ち着いており、韓信と蕭何の視線を受けても臆した様子はなかった。
「陳平です。漢王にお目通りでき、光栄にございます」
「堅いのはいいよ。それより、何で楚から逃げてきた」
劉邦がいきなり本題へ入る。
「覇王の御不興を買いました」
「何やった?」
「少々、意見が合わず」
「それだけで逃げるか?」
陳平は一拍だけ黙った。
その反応を見て、韓信が尋ねる。
「追手は?」
「出ております」
「なら、ただの意見の相違ではない」
蕭何も陳平を見た。
「楚を追われた者がそのまま漢へ来たとなれば、密偵を疑うのが普通でしょう。詳しく話していただきたい」
陳平は困ったように口元を歪めた。
「軍議で一度蹴られまして」
「それは意見の相違で済むかもしれんな」
劉邦は妙なところで納得した。
「その夜、虞を連れ出そうとしました」
部屋が静かになった。
韓信が眉を寄せる。
「誰だ」
「今、項羽の傍にいる虞です。元の名は子嬰」
その名を聞いた途端、劉邦が身を乗り出した。
「お前、子嬰に手を出したのか?」
「手を出したという表現が適切かは」
「何したんだよ」
「夜に部屋へ入り、一緒に逃げようと説得しました。拒まれたので、少々強引に連れ出そうとして」
蕭何の顔が冷たくなる。
「少々?」
「腕を掴んだ際、衣も少し乱れました」
一瞬の沈黙のあと、劉邦が吹き出した。
「ははっ! そりゃ逃げるしかねえわ!」
腹を抱えて笑い始める。
「よりによって、今の項羽からあの女を盗もうとしたのか! よく生きてここまで来たな!」
「漢王」
蕭何の声はかなり冷たかった。
「笑うところではないと思いますが」
「だって仕方ねえだろ。あの女を近くで見たなら」
「仕方なくはありません」
「いや、やったことじゃなくて、惚れた方だよ」
劉邦は目尻を拭いながら、改めて陳平を見た。
「分かった。そこまでやったなら、楚の密偵って線は薄そうだな。項羽がそんな芝居に虞を使うとも思えねえ」
韓信も完全に警戒を解いたわけではなかったが、少なくとも妙な顔はしていた。
「密偵として送り込むには、逃げる理由が馬鹿すぎる」
「だろ?」
「褒めていない」
陳平は黙っていた。
どうやら漢へ来て最初に得た評価は、策士ではなく馬鹿らしい。
劉邦はそんなことを気にせず、どこか懐かしそうに椅子へ背を預けた。
「しかし、虞か。元気だったか?」
「かなり」
「そうかあ」
劉邦の顔に、昔を思い出したような表情が浮かぶ。
咸陽を手にした頃、最後の秦王だった子嬰を最初に受け入れたのは劉邦だった。その美貌にすっかり心を奪われ、一時は自分の妻にすることまで考えていた女である。
結局、項羽が咸陽へ入ってくると、子嬰を守り切ることはできなかった。
「項羽のところで、どうしてる?」
陳平は少し考えてから答えた。
「かなり気に入られております。軍議の後で覇王が怒っていても、虞が話せば耳を貸すことがあります」
「へえ」
「気に入られているというより、あの方だけは扱いが違います。覇王の方から部屋へ通うほどです」
劉邦は露骨に残念そうな顔をした。
「そこまでかよ。俺のところにいた時より馴染んでるじゃねえか」
「漢王のところにいた頃とは事情も違うのでしょう」
蕭何が淡々と返す。
「惜しい女を渡したなあ」
「今さら言ってどうするのです」
劉邦は未練がましく何度か頷いたあと、ようやく話を戻した。
「で、女を盗み損ねた話だけしに来たわけじゃないんだろ?」
「もちろんです」
陳平の表情が変わった。
それまでのどこか軽い雰囲気が薄れ、卓上の地図へ目を落とす。
「今の楚には、見た目ほど余裕がありません。燕で兵を失ったこともありますが、それ以上に、覇王と范増の関係が悪くなっています」
劉邦も姿勢を直した。
「仲悪いのか?」
「まだ決裂してはいません。范増の策を覇王も必要としている。ただ、范増は覇王の過ちを正そうとし、覇王はそれを自分への非難として受け取ることが増えています」
「それだけなら昔からじゃねえのか」
「以前より悪い」
陳平は答えた。
「范増が正しいことを言うほど、覇王が腹を立てる。逆に、同じようなことを虞が言えば聞く場合もあります。それを范増も面白く思っていない」
蕭何が尋ねる。
「そこを利用すると?」
「ええ」
「どうする」
陳平はすぐには答えず、劉邦の顔を見た。
「覇王は疑い深い方ではありません。むしろ、一度味方と思えば簡単には疑わない」
「それは分かる」
「ですが、自分を軽く扱われることには非常に敏感です。范増が裏で覇王を見限っていると思わせればいい。覇王の耳へ直接入れる必要もありません。周囲から少しずつ聞こえるようにすれば、勝手に気にし始めます」
韓信は腕を組んだ。
「范増本人が否定すれば終わる」
「否定の仕方まで含めて、あの二人なら揉めます」
陳平は小さく笑った。
「范増は頭を下げて機嫌を取るような人ではありませんから」
「追い出せると?」
劉邦が聞く。
「項羽の傍から離せます」
言い切った。
「殺す必要はありません。覇王が范増を信用しなくなるか、范増の方が愛想を尽かせば、それで十分です」
韓信が初めて少し興味を示した。
「それだけか」
「いいえ」
陳平は地図の燕を指した。
「匈奴と楚は、今回思ったほど長く戦わなかった。燕を南北に分けたような形で止まっています。なら、もう一度ぶつかる理由を作ります」
「どうやって?」
「双方に、相手がまだ自分の土地を狙っていると思わせればよい。特に覇王は田横を憎んでいます。匈奴の背後に田横がいる限り、煽る材料はいくらでもあります」
劉邦は地図へ視線を落とした。
楚と匈奴が再び戦えば、双方とも兵を使う。
その間、自分たちは巴蜀で兵糧を蓄え、魚復を整え続けられる。
「もっと殴り合わせて、その間に俺たちが準備するわけか」
「それだけではありません」
陳平は范増の名を書いた竹片を指で弾いた。
「覇王から范増を離す。そのうえで楚に余計な戦をさせる。強い軍を正面から倒すより、その方が安い」
劉邦はしばらく黙っていた。
やがて、にやりと笑う。
「お前、女を見る目以外は使えそうだな」
「女を見る目にも自信はありますが」
「そこは反省しろよ」
蕭何が呆れた顔をした。
劉邦は椅子から立ち上がると、陳平の肩を軽く叩いた。
「よし。俺のところで軍師をやれ」
韓信がすぐに口を挟んだ。
「簡単に決めるな」
「いいじゃねえか。お前は戦を考える。蕭何は国の中を回す。こいつには、人を仲違いさせることを考えてもらう」
「ひどい役目ですな」
陳平はそう言いながらも、嫌そうではなかった。
「得意だろ?」
「嫌いではありません」
劉邦は笑った。
「なら決まりだ」
楚と匈奴が燕で手を止めた頃、巴蜀では一人の男が新たに劉邦の陣営へ加わった。
正面から兵を動かすのではなく、人と人の間にある隙間へ手を入れる男だった。




