第127話 覇王と単于
易水の南岸へ出た項羽は、川の向こうに並んだ騎兵を見つけると、ようやく追いついたと言わんばかりに馬を止めた。
燕南部では鍾離眜が各地の城邑を取り戻し、匈奴へ降った者たちを一つずつ屈服させている。その間に項羽は本隊を率いて北へ進み、ついに冒頓の主力と向かい合った。
対岸にいる匈奴は、およそ二万。
楚軍の方がはるかに多い。
しかも目の前を流れる易水は、思っていたほど水がなかった。岸辺では川底の石が透けて見え、中央付近でも馬なら十分に渡れそうで、兵を遮るほどの流れには見えない。
「ここまで来て逃げなかったか」
項羽は機嫌を直したように笑った。
隣では范増が、対岸の布陣をじっと眺めている。
「どうした」
「少々、妙ですな」
「またそれか」
「渡河を防ぐなら、今が最もよい機会です。弓騎兵を岸へ出し、こちらが川の中へ入ったところを射ればよい。それをしない理由が分かりませぬ」
確かに、匈奴は遠かった。
川岸ぎりぎりへ兵を置くでもなく、弓兵を並べるでもない。楚軍が姿を現してから相当な時間が経っているのに、攻撃するどころか布陣を変える気配さえなかった。
「怖いんじゃないか?」
「それなら、そもそも待ち受ける必要がありません」
「伏兵は?」
「探らせております。今のところ見つかっておりませぬ」
上流にも下流にも斥候を走らせている。対岸の地形にも、大軍を隠せそうな森や谷は見当たらない。
范増は嫌なものを感じていたものの、それが何なのかまでは掴めなかった。
「分からないなら、渡れば分かる」
「だから覇王ご自身が先頭に立つという話にはならぬでしょう」
「私なら何が出ても潰せる」
「そういう問題ではありませぬ」
項羽は聞かなかった。
最初の五千を自分が率い、北岸へ橋頭堡を作る。問題がなければ後続を続かせ、一気に二万の匈奴を押し潰す。
命令を受けた楚兵が川へ入った。
水は冷たいものの、流れは弱く、足を取られる者さえほとんどいない。馬も嫌がることなく進み、先頭の項羽は難なく川の中央を越えていった。
それでも匈奴は射てこなかった。
北岸へ上がってからも同じだった。
項羽に続いて兵が次々と川を渡り、五千ほどが北岸に集まる。後続もすでに水へ入り始めており、南岸にはなお三万を超える楚兵が控えていた。
ここまで来れば、范増が警戒していた何かも、単なる杞憂に思えてくる。
北岸で項羽が馬首を返した。
「ほら見ろ。何も」
言い終える前だった。
一人の兵が上流を指さした。
「覇王、あれは?」
遠くの丘から、一本の煙が上がっていた。
細い煙は風に揺れながら空へ伸び、そのさらに奥でも、少し遅れてもう一本が立ち上る。
狼煙だった。
項羽の表情が変わった。
南岸でも范増が気づき、上流へ顔を向ける。
間もなく、低い音が聞こえてきた。
最初は遠雷かと思うほど小さかった。
だが空には雲一つなく、音は途切れない。それどころか、ひと息ごとに大きくなり、やがて大地そのものが唸っているような轟音となって近づいてくる。
「何だ、あれは」
項羽が上流を睨む。
南岸の范増も同じ方向を見た瞬間、顔色を変えた。
川の彼方に、白い線が見えた。
その線が急速に太くなる。
「川から出ろ!」
范増の声が響いた。
「渡河を止めろ! 中にいる兵を岸へ上げろ!」
伝令が走り、旗が振られたものの、すでに川へ入っていた兵は一万近い。前へ進む者と南岸へ戻ろうとする者がぶつかり、隊列が乱れ始めたところへ、轟音の正体が姿を現した。
濁流だった。
さっきまで穏やかだった川が、上流から押し寄せた大量の水によって一変する。
茶色く濁った水は流木や石まで巻き込み、川幅いっぱいに広がりながら楚兵へ襲いかかった。先頭にいた兵が何十人もまとめて倒され、その後ろにいた馬まで横倒しになる。
叫び声は、水の音に呑まれた。
岸へ戻ろうとしていた者が押し流され、北岸を目指した者も足を取られる。倒れた馬へ別の兵がぶつかり、盾も槍も手から離れ、人と装具が濁った水の中を入り混じって流れていく。
南岸に残った楚軍は動けなかった。
目の前には味方がいる。
北岸には項羽までいる。
それでも助けようと川へ入れば、自分たちまで流される。
范増は水際まで馬を進めたものの、そこで止まるしかなかった。
「堰……」
ようやく口から漏れた。
狼煙。
轟音。
急激に増した水。
ここに至って初めて、何をされたのか理解した。
浅かったのではない。
浅くされていた。
◆
この策を冒頓へ授けたのは、田横だった。
燕へ入る前、田横は周辺の地勢を記した図を前にして、易水の上流には水を溜められる場所があると教えていた。
ただ堰き止めれば、下流の水が消えて敵も怪しむ。
そこで完全には止めず、渡河できそうな程度まで水位を落としたまま数日をかけて水を蓄える。敵が十分に川へ入り、先頭だけが向こう岸へ渡ったところで堰を切れば、軍そのものを二つに断てる。
匈奴が川辺へ出ず、矢一本射たなかったのも、そのためだった。
渡河を邪魔してはいけない。
むしろ安心して渡ってもらわなければ困る。
冒頓は、北岸へ上がった項羽と五千ほどの兵を眺めながら、轟音を立てる易水へ目をやった。
「見事だな」
隣の楼煩は返事をせず、川を見ていた。
渡河中にいた一万近い楚兵は濁流に呑まれ、運よく岸へ辿り着いた者も武器や馬を失っている。南岸には三万以上が残っているものの、増水した川に遮られてすぐには渡れない。
対して北岸に取り残された楚軍は、およそ五千。
こちらは二万だった。
冒頓は満足そうに頷くと、楼煩へ言った。
「項羽を討て」
「分かった」
楼煩は弓を手に取った。
◆
背後の惨状を見ていた項羽は、匈奴の角笛が鳴るとゆっくり振り返った。
「……やってくれたな」
声は大きくなかった。
その顔を見た近くの楚兵たちの方が、かえって息を詰めた。
二万の匈奴騎兵が左右へ広がり、川を背にした五千を取り囲もうとしている。数だけを見れば、戦う前から勝敗が決まっていてもおかしくない。
最初に飛んできたのは矢だった。
匈奴騎兵は距離を保ったまま周囲を走り、何度も矢を浴びせる。楚兵は盾を寄せ、背後の濁流へ追い込まれないよう陣を縮めた。
項羽だけは、その場に留まらなかった。
盾へ突き立った矢を見て顔を歪めると、自分から前へ出る。
「遠くからちまちま射るな! 来い!」
もちろん、匈奴騎兵は来なかった。
距離を取ったまま射続ければよい。
少なくとも、最初はそう考えていた。
項羽は馬腹を蹴る。
一騎を追い、横から槍を突き出してきた別の騎兵を馬上から叩き落とす。奪った槍をそのまま投げつけると、さらに奥にいた兵が馬から転げた。
項羽の後ろへ楚兵が続いた。
包囲された五千は、ばらばらになれば終わることを分かっている。項羽が敵陣へ穴を開けるたび、その場所へ兵が集まり、匈奴が包囲を狭めれば槍を並べて押し返した。
数の差は四倍もある。
それでも項羽がいる場所では、その差がうまく働かなかった。
近づいた騎兵が斬られ、距離を取ろうとした騎兵まで追われる。別の隊が側面へ回れば、いつの間にか項羽自身がそこへ現れていた。
戦いが続くにつれ、匈奴騎兵の動きに変化が出た。
最初は命令どおりに距離を保っていた。
やがて、命令されなくても距離を取るようになった。
項羽の馬が向きを変えるだけで、その正面にいる兵が左右へ散る。
何人かの将が怒鳴り、包囲を縮めようとするものの、兵も馬も素直には前へ出なかった。
冒頓は、その有様をしばらく黙って見ていた。
二万対五千。
しかも相手は川を背負い、逃げる場所もない。
それなのに、思い描いていた戦にはならなかった。
◆
楼煩は少し離れた場所で馬を止め、弓へ矢を番えた。
近づかなければいい。
羌瘣と戦った時もそうだった。相手が接近戦で強いなら距離を取り、弓で仕留めればよい。
項羽も同じはずだった。
弦を引く。
矢先の向こうで、項羽がまた一人を馬から叩き落とした。
次の騎兵へ向かう。
その動きを追いながら、楼煩は射る瞬間を待った。
今だと思った。
ところが指が動かなかった。
弓を握っている手が、かすかに震えている。
楼煩は眉を寄せ、一度息を吐いてからもう一度狙いを定めた。
その時、遠くにいた項羽がこちらを向いた。
自分を見たのかどうかは分からない。
距離だってある。
それなのに、外した後のことを考えてしまった。
あれがこちらへ来る。
手の震えが大きくなる。
矢を放てなかった。
「どうした」
横から冒頓の声がした。
楼煩は答えず、弓を構えたまま項羽を見ている。
冒頓はその手元へ目を落とした。
「震えているぞ」
楼煩は否定しなかった。
「……あれは、何だ」
これまで冒頓が聞いたことのない声だった。
怯えていると言うほど露骨ではない。
それでも、普段の楼煩にはなかった響きが混じっている。
冒頓は再び戦場を見た。
◆
日が傾く頃には、北岸へ渡った楚兵もかなり減っていた。
五千のうち、まともに立って戦える者は数千ほどしか残っていない。それでも匈奴側の損害も予想以上に膨らみ、何より兵たちが項羽へ近づくことを嫌がり始めている。
冒頓はそれ以上続ける価値を計った。
燕は手に入れた。
易水では一万近い楚兵を濁流へ叩き込み、北岸の五千にも大きな損害を与えている。
ここからさらに兵を失ってまで、項羽一人の首を狙う必要があるのか。
「退くぞ」
近くにいた将が驚いた。
「まだこちらが圧倒的に多い」
「見れば分かる」
「なら、もう少し押せば」
「その『もう少し』に何人使う」
冒頓は戦場を指した。
「五千か。一万か。それだけ払って、あれを討てる保証があるのか?」
将は答えられなかった。
「楚には十分な損害を与えた。燕も残っている。今日はもう勝っている」
冒頓が手を上げると、長い角笛が戦場へ響いた。
匈奴騎兵が少しずつ距離を取り始める。
「逃げるな!」
項羽は追おうとしたが、近くの楚将たちが必死に止めた。
「覇王、追ってはなりません!」
「まだやれる!」
「我らをご覧ください!」
怒鳴り返しかけた項羽は、そこでようやく周囲へ目を向けた。
兵は減っている。
立っている者も血と泥にまみれ、馬を失った者や、負傷した仲間を支えている者が少なくない。
背後ではまだ易水が濁流となって流れ、その向こうには三万を超える味方がいるというのに、こちらへ来ることができない。
項羽は逃げていく匈奴騎兵を睨み続けたが、結局、追撃は命じなかった。
◆
翌日になって水位が下がり始めると、南岸に残っていた楚軍もようやく川を渡った。
下流から戻ってきた兵もいたが、武器や馬を失った者は多く、行方の分からない者もまだ相当数いる。北岸の兵まで合わせれば、燕遠征をそのまま続けられる損害ではなかった。
范増は川を渡ると、傷だらけの項羽のところへ向かった。
「覇王」
「何人やられた」
「まだ正確には分かりませぬ。流された者だけでも一万近くおりますが、生きて戻る者もいるでしょう」
項羽は濁った川を見た。
「お前も気づかなかったな」
皮肉ではなく、事実を確認するような言い方だった。
范増は苦い顔で頷いた。
「見抜けませんでした。あの水量そのものが仕掛けだったとは」
「匈奴が考えたと思うか?」
「分かりませぬが、中華の地形を知る者の入れ知恵はあるでしょうな」
項羽は少し考えたあと、顔をしかめた。
「田横か」
「可能性は高いでしょう」
「……あの女」
項羽は拳を握ったが、今度はそのまま立ち上がろうとはしなかった。
范増は燕南部の地図を広げた。
「鍾離眜が取り返した地域までは維持できます。その先は捨てるべきです。今の状態で北へ進めば、今度こそ兵を失い切ります」
「冒頓はまだいる」
「だからこそです」
項羽はしばらく黙って地図を見ていた。
やがて、指で燕南部を叩いた。
「ここまでは残す」
「承知しました」
「鍾離眜に守りを固めさせろ。終わったら戻る」
「彭城へ?」
「ああ」
それ以上北へ進むとは言わなかった。
楚軍は燕南部の一部こそ取り返したものの、匈奴を燕から追い出すことはできず、遠征を切り上げることになった。
◆
北へ退いた冒頓は、楚軍が追ってこないことを確認してから馬を緩めた。
「追ってこない」
楼煩が言う。
「追える兵が残っていないからな」
冒頓に悔しさはなかった。
燕の大半は手元に残り、楚軍には大きな損害を与えた。項羽を討てなかったことだけが予定と違ったが、その一人のためにさらに何千、何万と兵を使う気にはならない。
しばらく馬を進めてから、楼煩が珍しく自分から尋ねた。
「また、あれと戦うのか」
「必要なら戦う」
楼煩は黙って先を待った。
「だが、正面からはやらん」
「……そうか」
「次に会っても近づくな」
楼煩が横目で見る。
「私だけか」
「全員だ」
その答えには、楼煩も何も言わなかった。
この日、冒頓は燕を守り、楚へ大きな損害を与えた。だが、同時に項羽の化け物じみた強さも知った。




