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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第6章 定まらぬ天下

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第126話 逆鱗

 燕が匈奴の手に落ちたとの報せを受けてから、彭城(ほうじょう)では北へ送る兵と物資の準備が急速に進められていた。


 斉には龍且(りゅうしょ)を向かわせる。田横(でんおう)が匈奴と結んだ以上、弱まりつつあった斉の抵抗が再び勢いを取り戻す可能性は高く、燕と斉を自由に行き来されれば楚の支配そのものが揺らぎかねない。


 燕については、鍾離眜(しょうりばつ)を先鋒として先に進ませ、その後を項羽(こうう)の本隊が追うことになった。


「燕南部から取り返す。鍾離眜(しょうりばつ)、先に入って街道を開け。私は兵が揃い次第追う」


「承知しました」


 軍議に集まった諸将の多くは異論を挟まなかった。


 今回の匈奴は、これまでのように牛馬や穀物を奪って北へ帰ったわけではない。燕王臧荼(ぞうと)を降し、城を占領したまま税や賦役まで定め始めている。項羽(こうう)が封じた王と土地を奪われた以上、楚として放置する選択は取りづらかった。


 その中で、一人だけ違う意見を口にした男がいた。


「燕は、今は放っておくべきでしょう」


 陳平(ちんぺい)だった。


 大きな官職を与えられているわけではないが、諸侯の事情や人の利害を読むことには長けている。ただ、武功を重んじる楚では、策ばかり口にする男として軽く扱われることも多かった。


 項羽(こうう)がゆっくり顔を向ける。


「何だと?」


「覇王が主力を率いて北へ向かえば、喜ぶ者が出ます。まず劉邦(りゅうほう)。楚軍が燕と匈奴に拘束されれば、巴蜀(はしょく)から東へ出るには絶好の機会です」


「劉邦(りゅうほう)は分かる」


 項羽(こうう)はそこで言葉を挟んだ。


「もう一人は誰だ」


「扶蘇(ふそ)です」


 その名を聞いた瞬間、項羽(こうう)の表情が変わった。


「なぜ扶蘇(ふそ)が喜ぶ?」


「楚の兵が北へ引かれれば、趙で動きやすくなるからです。扶蘇(ふそ)はすでに趙西部を押さえ、閼与(あつよ)には兵を置いている。楚の注意が燕へ向けば、その先へ手を伸ばす好機になります」


「扶蘇(ふそ)は私の味方だ」


 言い切った項羽(こうう)に、陳平(ちんぺい)は一瞬だけ黙った。


 周囲の将たちの方が嫌な予感を覚えたらしく、何人かが視線を逸らした。


「覇王」


 陳平(ちんぺい)は、それでも続けた。


「扶蘇(ふそ)が自分を覇王の味方だと思っているとは限りません」


「何?」


「秦王を名乗り、趙西部まで支配している王です。もう覇王から土地を預かっているだけの男ではない」


 項羽(こうう)の目が鋭くなる。


 陳平(ちんぺい)はそこまで見ても引かなかった。


「扶蘇(ふそ)をまだ味方だと思っているのは、覇王だけではありませんか」


 次の瞬間、陳平(ちんぺい)の身体が床を滑った。


 項羽(こうう)が立ち上がったと思った時には、腹へ蹴りが入っていた。


 陳平(ちんぺい)は柱の近くまで転がり、身体を丸めて咳き込んだ。


「覇王!」


 鍾離眜(しょうりばつ)が声を上げたが、項羽(こうう)は追い打ちまではしなかった。


「扶蘇(ふそ)の何を知ってる」


 低い声の方が、怒鳴られるより危険だった。


 陳平(ちんぺい)は腹を押さえながら、どうにか片膝を立てる。


「……人ではなく、国の話をしております」


「同じだ」


「同じでは」


「黙れ」


 今度は范増(はんぞう)が、倒れた陳平(ちんぺい)へ冷たい目を向けた。


「口が回るのは知っているが、少しは場所を選べ。男だからといって、何を言っても女が笑って許すと思うな」


 陳平(ちんぺい)が顔を上げる。


 范増(はんぞう)は鼻で笑った。


「策を出すなら、相手が聞く形にして出せ。それもできず、怒らせた挙句に蹴られて転がるなら、軍師どころか口の軽い馬鹿と変わらん」


「……随分な言われようだ」


「まだ足りんか?」


 陳平(ちんぺい)は黙った。


「燕へ行く」


 項羽(こうう)は席へ戻り、地図を叩いた。


「鍾離眜(しょうりばつ)を先鋒。龍且(りゅうしょ)は斉。予定は変えない」


 今度は誰も異論を挟まなかった。


◆


 軍議が終わったあと、陳平(ちんぺい)は廊下の壁へ片手をつきながら歩いていた。


 骨までは折れていないようだが、腹の奥はまだ鈍く痛み、息を深く吸うだけでも蹴られた場所が疼いた。


「随分ひどくやられましたね」


 声をかけられて振り向くと、虞(ぐ)が立っていた。


 遠目に姿を見たことは何度もある。


 最後の秦王だった子嬰(しえい)が名を変え、今では項羽(こうう)の傍らにいることも知っている。


 ただ、これほど近くで顔を見るのは初めてだった。


 陳平(ちんぺい)は、ほんの一瞬ながら腹の痛みを忘れた。


「立てますか、陳平(ちんぺい)」


「ああ……いや、大丈夫だ」


「大丈夫には見えませんけれど」


 虞(ぐ)が手を差し出す。


 陳平(ちんぺい)はその手を借りて立ち上がり、改めて目の前の女を見た。


 美しい女なら、これまでにも何人も見ている。


 それでも項羽(こうう)が、この女だけを自分のすぐ傍へ置いている理由を、陳平(ちんぺい)は少し分かった気がした。


 虞(ぐ)は衣についた埃を軽く払いながら言った。


「項羽(こうう)様も、蹴ることはなかったと思います。でも、楚でやっていくなら、もう少し項羽(こうう)様の気持ちを汲んで話した方がいいですよ」


「気持ち?」


「臧荼(ぞうと)様は、項羽(こうう)様が自分で燕王にした方です。それを放っておけばよいと言われれば、自分が決めたことまで軽く扱われたように聞こえたのでしょう」


 昼間の范増(はんぞう)も、似たようなことを言っていた。


 しかし、虞(ぐ)の口から聞くと不思議と腹が立たなかった。


「あなたは、いつもあの方へそう話すのか」


「そんな大したことはしていません。怒っている時に、少し話すくらいです」


 虞(ぐ)は小さく笑って一礼し、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。


 陳平(ちんぺい)は、背中が見えなくなるまで動かなかった。


◆


 その夜、虞(ぐ)は自室で項羽(こうう)の出陣に必要な物を整理していた。


 北へ向かうのは項羽(こうう)であり、虞(ぐ)自身は当面彭城(ほうじょう)に残る。衣や身の回りの品を分けていると、戸の外からかすかな物音が聞こえた。


「誰です?」


 返事がない。


 不審に思って立ち上がったところで戸が開き、陳平(ちんぺい)が入ってきた。


「陳平(ちんぺい)?」


「声を出すな」


 昼間とは違い、すぐに旅立てる格好をしていた。


 虞(ぐ)は眉を寄せる。


「こんな時間に何をしているのですか」


「迎えに来た」


「誰を?」


「お前をだ」


 虞(ぐ)はしばらく言葉を失った。


「冗談なら、あまり面白くありません」


「冗談で夜中にここまで来るか」


「では、帰ってください」


 虞(ぐ)が戸口へ向かおうとすると、陳平(ちんぺい)は前へ回り込み、その腕を掴んだ。


「離してください」


「項羽(こうう)と一緒にいる必要はない」


「私は自分でここにいます」


「分かっていないだけだ。あの女は気に入らなければ人を蹴り、城を焼き、殺すこともためらわない。お前までいつ同じ目に遭うか」


「陳平(ちんぺい)」


 虞(ぐ)の声が硬くなった。


「昼間、私が手を貸したことを勘違いしたのなら、今ここで忘れてください」


「勘違いじゃない」


 虞(ぐ)が腕を振りほどこうとすると、陳平(ちんぺい)はもう一方の手まで掴んだ。


「痛いです。放してください」


「一緒に来い。ここを出ればいい」


「嫌です」


「話を聞け」


「聞きません」


 虞(ぐ)が強く身を引いた拍子に、肩口の衣がずれた。帯までほどけたわけではないが、上衣の合わせが崩れ、袖も片方が大きく引かれている。


 陳平(ちんぺい)はなおも外へ連れ出そうと腕を引いた。


「離して!」


 今度は虞(ぐ)も声を上げた。


 その時、廊下から足音が近づいてきた。


 陳平(ちんぺい)の顔色が変わる。


 今夜の項羽(こうう)は出陣前の軍議で遅くなるはずだった。少なくとも、陳平(ちんぺい)はそう聞いていた。


 ところが戸が開き、そこに本人が立っていた。


 項羽(こうう)は最初に虞(ぐ)を見た。


 乱れた上衣。


 掴まれた腕。


 そして、その腕を握っている陳平(ちんぺい)。


 昼間とは比較にならないほど静かな顔になった。


「手を離せ」


 陳平(ちんぺい)は反射的に虞(ぐ)から手を離した。


「覇王、これは」


「何をした」


「話を」


「何をしたと聞いている」


 虞(ぐ)が衣の合わせを直しながら口を開いた。


「項羽(こうう)様、私は大丈夫です。ただ、陳平(ちんぺい)が」


 そこまでだった。


 項羽(こうう)が踏み込む。


 陳平(ちんぺい)は横へ飛び、振り抜かれた拳をどうにか避けた。背後の棚へ拳が当たり、積まれていた箱が床へ崩れ落ちる。


「待て、覇王!」


「待つと思うか!」


 昼間の蹴りで分かっていた。


 まともに受ければ死ぬ。


 陳平(ちんぺい)は窓へ走り、枠へ足をかけると外へ飛び出した。


「陳平(ちんぺい)!」


 項羽(こうう)の怒声が夜の宮中へ響く。


 衛兵が集まり始める前に、陳平(ちんぺい)は塀を越えた。裏手に用意していた馬へ飛び乗り、そのまま暗い道へ駆け出す。


 本来は虞(ぐ)を連れて逃げるために用意した馬だった。


 今は、自分一人の命を運ぶだけで精一杯だった。


◆


 翌朝までに、陳平(ちんぺい)は彭城(ほうじょう)から完全に姿を消していた。


「見つけたら連れてこい。抵抗するなら殺していい」


 項羽(こうう)の命令を聞いた范増(はんぞう)は、何があったのか詳しく尋ねなかった。


 昨夜の騒ぎと項羽(こうう)の顔を見れば、聞かなくても大体は察せられる。


「出陣は予定どおりだ」


 項羽(こうう)が言った。


「鍾離眜(しょうりばつ)は先に出ています。覇王の本隊も、本日中には発てます」


「なら行く」


 陳平(ちんぺい)一人のために、燕への出兵まで遅らせるつもりはなかった。


◆


 先に燕へ入っていた鍾離眜(しょうりばつ)は、燕王臧荼(ぞうと)が集め直した軍と南部でぶつかった。


 臧荼(ぞうと)は匈奴に降ったとはいえ、前の戦で二万を失っている。残兵と各地から集めた兵で楚軍の進路を塞いだものの、兵数も練度も以前には及ばなかった。


 鍾離眜(しょうりばつ)は正面から圧力をかけながら、急いで決着を求めなかった。戦列が疲れれば後ろの隊と入れ替え、燕軍が押し返そうとしたところを新しい兵で受ける。


 半日も経たないうちに燕軍は後退し、夕刻を待たずして陣を維持できなくなった。


 臧荼(ぞうと)本人は北へ逃れたものの、燕王が再び敗れたという知らせは周辺へすぐ広がった。匈奴へ降ったばかりの邑の中には、情勢を見て楚へ門を開き直すところも現れる。


 鍾離眜(しょうりばつ)は臧荼(ぞうと)を無理に追わず、街道と城を一つずつ押さえながら北へ進んだ。


 後から項羽(こうう)の本隊が追いついた時には、燕南部のいくつかの城がすでに楚へ戻っていた。


「もっと速く進めたんじゃないか?」


 合流した項羽(こうう)に言われ、鍾離眜(しょうりばつ)は苦笑した。


「進むだけなら。後ろに敵を残してよろしければですが」


「……分かったよ」


 以前なら、そのまま自分だけ前へ出ていたかもしれない。


 しかし今回の匈奴は、逃げれば追えばよい相手ではなかった。奪った城を使い、燕兵を抱え込み、そこから兵糧まで得ている。


 楚軍は街道を確保しながら、さらに燕の奥へ進んだ。


 数日後、斥候が大軍を発見したとの報せを持ち帰った。


 項羽(こうう)は鍾離眜(しょうりばつ)とともに高台へ馬を進める。


 眼下には大きな川が流れ、その向こうの河原を無数の馬が埋めていた。


 黒、栗、白の馬が長く広がり、その間には革鎧をまとった騎兵が並んでいる。燕南部で遭遇した小部隊とは、最初から規模が違った。


 中央には、一際大きな旗が立っていた。


「ようやく出てきたか」


 項羽(こうう)が目を細める。


「冒頓(ぼくとつ)本人でしょう」


 鍾離眜(しょうりばつ)も対岸を見た。


 川の向こうでは、冒頓(ぼくとつ)が馬上から楚軍を眺めていた。


 草原にも、項羽(こうう)の名は届いている。


 巨鹿で秦軍を砕き、諸侯を従えた西楚覇王。


 一方の項羽(こうう)もまた、関中で何度も秦軍を翻弄し、今では燕まで呑み込もうとしている匈奴の王を初めて自分の目で見た。


 川を挟み、項羽(こうう)と冒頓(ぼくとつ)の軍が正面から向かい合った。


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