第126話 逆鱗
燕が匈奴の手に落ちたとの報せを受けてから、彭城では北へ送る兵と物資の準備が急速に進められていた。
斉には龍且を向かわせる。田横が匈奴と結んだ以上、弱まりつつあった斉の抵抗が再び勢いを取り戻す可能性は高く、燕と斉を自由に行き来されれば楚の支配そのものが揺らぎかねない。
燕については、鍾離眜を先鋒として先に進ませ、その後を項羽の本隊が追うことになった。
「燕南部から取り返す。鍾離眜、先に入って街道を開け。私は兵が揃い次第追う」
「承知しました」
軍議に集まった諸将の多くは異論を挟まなかった。
今回の匈奴は、これまでのように牛馬や穀物を奪って北へ帰ったわけではない。燕王臧荼を降し、城を占領したまま税や賦役まで定め始めている。項羽が封じた王と土地を奪われた以上、楚として放置する選択は取りづらかった。
その中で、一人だけ違う意見を口にした男がいた。
「燕は、今は放っておくべきでしょう」
陳平だった。
大きな官職を与えられているわけではないが、諸侯の事情や人の利害を読むことには長けている。ただ、武功を重んじる楚では、策ばかり口にする男として軽く扱われることも多かった。
項羽がゆっくり顔を向ける。
「何だと?」
「覇王が主力を率いて北へ向かえば、喜ぶ者が出ます。まず劉邦。楚軍が燕と匈奴に拘束されれば、巴蜀から東へ出るには絶好の機会です」
「劉邦は分かる」
項羽はそこで言葉を挟んだ。
「もう一人は誰だ」
「扶蘇です」
その名を聞いた瞬間、項羽の表情が変わった。
「なぜ扶蘇が喜ぶ?」
「楚の兵が北へ引かれれば、趙で動きやすくなるからです。扶蘇はすでに趙西部を押さえ、閼与には兵を置いている。楚の注意が燕へ向けば、その先へ手を伸ばす好機になります」
「扶蘇は私の味方だ」
言い切った項羽に、陳平は一瞬だけ黙った。
周囲の将たちの方が嫌な予感を覚えたらしく、何人かが視線を逸らした。
「覇王」
陳平は、それでも続けた。
「扶蘇が自分を覇王の味方だと思っているとは限りません」
「何?」
「秦王を名乗り、趙西部まで支配している王です。もう覇王から土地を預かっているだけの男ではない」
項羽の目が鋭くなる。
陳平はそこまで見ても引かなかった。
「扶蘇をまだ味方だと思っているのは、覇王だけではありませんか」
次の瞬間、陳平の身体が床を滑った。
項羽が立ち上がったと思った時には、腹へ蹴りが入っていた。
陳平は柱の近くまで転がり、身体を丸めて咳き込んだ。
「覇王!」
鍾離眜が声を上げたが、項羽は追い打ちまではしなかった。
「扶蘇の何を知ってる」
低い声の方が、怒鳴られるより危険だった。
陳平は腹を押さえながら、どうにか片膝を立てる。
「……人ではなく、国の話をしております」
「同じだ」
「同じでは」
「黙れ」
今度は范増が、倒れた陳平へ冷たい目を向けた。
「口が回るのは知っているが、少しは場所を選べ。男だからといって、何を言っても女が笑って許すと思うな」
陳平が顔を上げる。
范増は鼻で笑った。
「策を出すなら、相手が聞く形にして出せ。それもできず、怒らせた挙句に蹴られて転がるなら、軍師どころか口の軽い馬鹿と変わらん」
「……随分な言われようだ」
「まだ足りんか?」
陳平は黙った。
「燕へ行く」
項羽は席へ戻り、地図を叩いた。
「鍾離眜を先鋒。龍且は斉。予定は変えない」
今度は誰も異論を挟まなかった。
◆
軍議が終わったあと、陳平は廊下の壁へ片手をつきながら歩いていた。
骨までは折れていないようだが、腹の奥はまだ鈍く痛み、息を深く吸うだけでも蹴られた場所が疼いた。
「随分ひどくやられましたね」
声をかけられて振り向くと、虞が立っていた。
遠目に姿を見たことは何度もある。
最後の秦王だった子嬰が名を変え、今では項羽の傍らにいることも知っている。
ただ、これほど近くで顔を見るのは初めてだった。
陳平は、ほんの一瞬ながら腹の痛みを忘れた。
「立てますか、陳平」
「ああ……いや、大丈夫だ」
「大丈夫には見えませんけれど」
虞が手を差し出す。
陳平はその手を借りて立ち上がり、改めて目の前の女を見た。
美しい女なら、これまでにも何人も見ている。
それでも項羽が、この女だけを自分のすぐ傍へ置いている理由を、陳平は少し分かった気がした。
虞は衣についた埃を軽く払いながら言った。
「項羽様も、蹴ることはなかったと思います。でも、楚でやっていくなら、もう少し項羽様の気持ちを汲んで話した方がいいですよ」
「気持ち?」
「臧荼様は、項羽様が自分で燕王にした方です。それを放っておけばよいと言われれば、自分が決めたことまで軽く扱われたように聞こえたのでしょう」
昼間の范増も、似たようなことを言っていた。
しかし、虞の口から聞くと不思議と腹が立たなかった。
「あなたは、いつもあの方へそう話すのか」
「そんな大したことはしていません。怒っている時に、少し話すくらいです」
虞は小さく笑って一礼し、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。
陳平は、背中が見えなくなるまで動かなかった。
◆
その夜、虞は自室で項羽の出陣に必要な物を整理していた。
北へ向かうのは項羽であり、虞自身は当面彭城に残る。衣や身の回りの品を分けていると、戸の外からかすかな物音が聞こえた。
「誰です?」
返事がない。
不審に思って立ち上がったところで戸が開き、陳平が入ってきた。
「陳平?」
「声を出すな」
昼間とは違い、すぐに旅立てる格好をしていた。
虞は眉を寄せる。
「こんな時間に何をしているのですか」
「迎えに来た」
「誰を?」
「お前をだ」
虞はしばらく言葉を失った。
「冗談なら、あまり面白くありません」
「冗談で夜中にここまで来るか」
「では、帰ってください」
虞が戸口へ向かおうとすると、陳平は前へ回り込み、その腕を掴んだ。
「離してください」
「項羽と一緒にいる必要はない」
「私は自分でここにいます」
「分かっていないだけだ。あの女は気に入らなければ人を蹴り、城を焼き、殺すこともためらわない。お前までいつ同じ目に遭うか」
「陳平」
虞の声が硬くなった。
「昼間、私が手を貸したことを勘違いしたのなら、今ここで忘れてください」
「勘違いじゃない」
虞が腕を振りほどこうとすると、陳平はもう一方の手まで掴んだ。
「痛いです。放してください」
「一緒に来い。ここを出ればいい」
「嫌です」
「話を聞け」
「聞きません」
虞が強く身を引いた拍子に、肩口の衣がずれた。帯までほどけたわけではないが、上衣の合わせが崩れ、袖も片方が大きく引かれている。
陳平はなおも外へ連れ出そうと腕を引いた。
「離して!」
今度は虞も声を上げた。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
陳平の顔色が変わる。
今夜の項羽は出陣前の軍議で遅くなるはずだった。少なくとも、陳平はそう聞いていた。
ところが戸が開き、そこに本人が立っていた。
項羽は最初に虞を見た。
乱れた上衣。
掴まれた腕。
そして、その腕を握っている陳平。
昼間とは比較にならないほど静かな顔になった。
「手を離せ」
陳平は反射的に虞から手を離した。
「覇王、これは」
「何をした」
「話を」
「何をしたと聞いている」
虞が衣の合わせを直しながら口を開いた。
「項羽様、私は大丈夫です。ただ、陳平が」
そこまでだった。
項羽が踏み込む。
陳平は横へ飛び、振り抜かれた拳をどうにか避けた。背後の棚へ拳が当たり、積まれていた箱が床へ崩れ落ちる。
「待て、覇王!」
「待つと思うか!」
昼間の蹴りで分かっていた。
まともに受ければ死ぬ。
陳平は窓へ走り、枠へ足をかけると外へ飛び出した。
「陳平!」
項羽の怒声が夜の宮中へ響く。
衛兵が集まり始める前に、陳平は塀を越えた。裏手に用意していた馬へ飛び乗り、そのまま暗い道へ駆け出す。
本来は虞を連れて逃げるために用意した馬だった。
今は、自分一人の命を運ぶだけで精一杯だった。
◆
翌朝までに、陳平は彭城から完全に姿を消していた。
「見つけたら連れてこい。抵抗するなら殺していい」
項羽の命令を聞いた范増は、何があったのか詳しく尋ねなかった。
昨夜の騒ぎと項羽の顔を見れば、聞かなくても大体は察せられる。
「出陣は予定どおりだ」
項羽が言った。
「鍾離眜は先に出ています。覇王の本隊も、本日中には発てます」
「なら行く」
陳平一人のために、燕への出兵まで遅らせるつもりはなかった。
◆
先に燕へ入っていた鍾離眜は、燕王臧荼が集め直した軍と南部でぶつかった。
臧荼は匈奴に降ったとはいえ、前の戦で二万を失っている。残兵と各地から集めた兵で楚軍の進路を塞いだものの、兵数も練度も以前には及ばなかった。
鍾離眜は正面から圧力をかけながら、急いで決着を求めなかった。戦列が疲れれば後ろの隊と入れ替え、燕軍が押し返そうとしたところを新しい兵で受ける。
半日も経たないうちに燕軍は後退し、夕刻を待たずして陣を維持できなくなった。
臧荼本人は北へ逃れたものの、燕王が再び敗れたという知らせは周辺へすぐ広がった。匈奴へ降ったばかりの邑の中には、情勢を見て楚へ門を開き直すところも現れる。
鍾離眜は臧荼を無理に追わず、街道と城を一つずつ押さえながら北へ進んだ。
後から項羽の本隊が追いついた時には、燕南部のいくつかの城がすでに楚へ戻っていた。
「もっと速く進めたんじゃないか?」
合流した項羽に言われ、鍾離眜は苦笑した。
「進むだけなら。後ろに敵を残してよろしければですが」
「……分かったよ」
以前なら、そのまま自分だけ前へ出ていたかもしれない。
しかし今回の匈奴は、逃げれば追えばよい相手ではなかった。奪った城を使い、燕兵を抱え込み、そこから兵糧まで得ている。
楚軍は街道を確保しながら、さらに燕の奥へ進んだ。
数日後、斥候が大軍を発見したとの報せを持ち帰った。
項羽は鍾離眜とともに高台へ馬を進める。
眼下には大きな川が流れ、その向こうの河原を無数の馬が埋めていた。
黒、栗、白の馬が長く広がり、その間には革鎧をまとった騎兵が並んでいる。燕南部で遭遇した小部隊とは、最初から規模が違った。
中央には、一際大きな旗が立っていた。
「ようやく出てきたか」
項羽が目を細める。
「冒頓本人でしょう」
鍾離眜も対岸を見た。
川の向こうでは、冒頓が馬上から楚軍を眺めていた。
草原にも、項羽の名は届いている。
巨鹿で秦軍を砕き、諸侯を従えた西楚覇王。
一方の項羽もまた、関中で何度も秦軍を翻弄し、今では燕まで呑み込もうとしている匈奴の王を初めて自分の目で見た。
川を挟み、項羽と冒頓の軍が正面から向かい合った。




