第125話 燕陥つ
燕王臧荼が匈奴へ降ったという知らせは、驚くほど早く中華へ広がった。
これまでにも匈奴が燕へ侵入したことはある。ところが今回は、城を荒らして北へ帰ったのではなく、降った土地の役人を残し、税や賦役まで軽くしたうえで占領を続けているという。燕王の地位も奪わず、臧荼自身をそのまま使っているらしい。
草原から来る略奪者だと思われていた匈奴が、中華の土地を治め始めた。
その事実は、燕が敗れたこと以上に諸侯を驚かせた。
◆
「田横!」
彭城の宮殿に怒声が響いた。
項羽は斉から届いた報告を卓へ叩きつけ、その勢いで隣に積んであった竹簡まで床へ落とした。
「私に勝てないから匈奴を連れてきただと?」
報告によれば、臧荼の軍を正面から受け止めたのは田横だった。その背後を匈奴騎兵が襲い、敗れた臧荼は冒頓へ降伏している。
偶然に同じ敵を攻めたと考える余地はなかった。
「最初から組んでいたのか」
項羽は立ち上がり、床を数歩歩いてから范増を見た。
「お前、田横が消えたって知ってたよな」
「行方を追わせておりました」
「追わせて、燕を取られたのか?」
范増の眉がわずかに動いた。
「斉北部から姿を消したことまでは分かっておりましたが、少数の供で匈奴へ向かったと断定できる材料はございませんでした」
「なら何のために探してたんだ」
「見つけるためです」
「見つかってないだろ!」
項羽が卓を拳で叩き、置かれていた杯が跳ねた。
范増も、さすがに黙って受け流す気にはなれなかった。
「覇王。田横が匈奴へ赴くと予見せよと仰るのであれば、それは無理というものです」
「お前はいつも後からそう言うな」
「では、今ここで誰かを責めれば燕が戻りますかな」
部屋の空気が一気に悪くなった。
「何だと?」
項羽が振り返る。
范増も視線を逸らさなかった。
「今考えるべきは、誰の落ち度であったかではなく、冒頓が次にどこへ向かうかです。燕だけで満足するとは思えません」
「そんなことは分かってる!」
「ならば」
「もういい!」
項羽が手を振ったところで、部屋の入口から控えめな声がした。
「お茶をお持ちしたのですが、後にした方がよろしいでしょうか」
二人が同時にそちらを見る。
盆を持った虞が立っていた。
「……入れ」
項羽が椅子へ戻る。
虞は床に落ちた竹簡を避けながら卓へ近づき、何も聞かなかったように茶を置いた。
「范増様も、いかがですか」
「いただきましょう」
范増が答えると、項羽は不満そうにそちらを見た。
「何で普通に茶を飲んでるんだ」
「喉が渇いておりますので」
「私が怒ってるんだぞ」
「存じております」
虞は項羽の前にも杯を置いた。
「でも、范増様を怒っても、田横様は戻ってこないのでしょう?」
先ほど范増が言ったのと似た内容だったが、項羽は言い返さなかった。
虞は床に落ちていた報告を拾い、卓の端へ揃えた。
「燕を取られたのなら、次に取られないようにする方が先ではありませんか」
「……分かってる」
「でしたら、范増様にも考えていただかないと」
項羽はしばらく杯に手をつけずにいたものの、やがて椅子へ深く腰を下ろした。
「次はどこだと思う」
今度は范増へ向けた問いだった。
「斉か趙でしょう。田横が匈奴と手を組んだ以上、斉へ兵を戻そうとするはずです。趙東部も、燕からなら入りやすい」
「なら、斉北部の兵を増やす」
「それだけでは足りませぬ。匈奴が燕を拠点にするのであれば、今までのように追い払えば終わる相手ではなくなります」
項羽は舌打ちしたが、今度は范増を責めなかった。
虞がようやく自分の茶を注ぐ。
話が前へ進み始めたのを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
◆
燕の報告が咸陽へ届いた時、俺も最初は読み間違いだと思った。
「臧荼が降った?」
「間違いないようです」
張良が別の報告も机へ並べた。
匈奴は城を占領したまま撤退せず、現地の役人を利用している。さらに田横が匈奴と行動を共にしていたことまで確認されていた。
「田横がそこまでやるとは思わなかったな」
「斉を取り戻すためでしょう」
「匈奴まで使う?」
「自力で項羽殿を退けられないのであれば、使えるものを探すのは不思議ではありません」
張良は淡々としていたが、俺は地図から目を離せなかった。
冒頓が略奪ではなく領土を求め始めたのなら、話はかなり変わる。
「趙東部にも来るかな」
「来るでしょうね」
俺は地図の閼与を見た。
そこには王賁と三万を置いている。その東には陳余がいて、さらに北東から匈奴が入ってくれば、趙の情勢はまた大きく変わる。
「少し東へ出る?」
張良はすぐには答えず、関中から閼与までの道を指でなぞった。
「今はお勧めしません」
「やっぱり?」
「ようやく西側が落ち着き始めたところです。ここで兵を東へ出せば、また兵糧と人手を持っていかれます」
言われるまでもなく、その苦労は身に染みていた。
城を取るより、取った後の方が長い。
趙西部では戸籍の作り直しも終わっておらず、役人も不足している。匈奴が近づいたからといって、そのたびにこちらから境を越えていれば、何のために時間をかけて土地を整えたのか分からない。
「王賁に警戒を上げてもらう。それで今は止めるか」
「それがよろしいでしょう。匈奴が本当に趙へ入るのであれば、先に困るのは陳余殿です」
そこには手を出さない。
少なくとも、今は。
俺は閼与へ送る書状を用意させ、北東の報告を増やすよう命じた。
◆
巴蜀で知らせを聞いた劉邦は、秦王の話を聞いた時とは逆に、随分と機嫌がよかった。
「燕まで取ったのか。だったら項羽も黙ってねえだろ」
卓上の地図へ身を乗り出し、燕から斉へ指を滑らせる。
「北で匈奴とやり合ってくれるなら、そろそろこっちも東へ出る頃じゃねえか?」
韓信は地図を見たまま答えなかった。
「おい、韓信。聞いてんのか」
「聞いている」
「だったら何か言えよ」
「まだ早い」
劉邦の顔から笑みが消えた。
「また待つのか?」
「待つ」
「船も集めてる。兵糧も溜めてる。道だって前よりましになった。いつまで待てばいいんだ」
韓信は燕の位置を指した。
「匈奴が燕を取っただけだ。まだ楚の主力とは戦っていない」
「そのうち戦うだろ」
「だから、その時まで待つ」
劉邦は腕を組んだ。
韓信は続ける。
「項羽が北へ兵を出せば、楚の他の場所が薄くなる。匈奴が勝っても負けても、戦えば兵と馬と兵糧を使う。今こちらから出ていけば、楚はまだ余力のあるうちに西へ兵を回せる」
「じゃあ、もっと殴り合ってから出る?」
「そうだ」
「性格悪いな、お前」
「敵が減るまで待つだけだ」
劉邦はしばらく地図を眺めていた。
すぐにでも出たい気持ちは残っているらしいが、ここまで魚復を整えてきた以上、焦って準備を無駄にするつもりもなかった。
「分かった。待つ」
そう言ったあと、念を押すように韓信を指した。
「でも、本当に項羽が北へ出たら、その時は行くぞ」
「状況を見る」
「そこは行くって言えよ」
韓信は返事をせず、地図の燕と斉の境へ目を戻した。
そこでは今、匈奴の騎兵が南へ動き始めている。
漢が待っている間にも、楚と匈奴がぶつかる場所は、少しずつ近づいていた。




