第124話 帰らぬ匈奴
燕王臧荼のもとへ、北辺の城が匈奴に襲われたとの報せが届いた時、最初に出た命令は出陣ではなかった。
「倉の穀物を南へ移せ。近くの村には、家畜を連れて城から離れるよう伝えろ」
匈奴の侵入そのものは珍しくない。趙東部から燕へ活動域を移して以来、冒頓の騎兵は何度も国境を越え、城を避けて村を襲っては牛馬や穀物を奪い、こちらが兵を集める頃には北へ引き上げていた。
臧荼も、今回だけ違うとは考えなかった。追えばさらに北へ逃げる相手に大軍を付き合わせれば、こちらが兵糧と馬を消耗するだけなので、取られる物を減らしながら帰るのを待つ方がましだった。
「また欲しい物を取れば帰る。城一つのために二万も三万も走らせてやる必要はない」
ところが三日後に届いた報告は、これまでとは様子が違っていた。
「匈奴は、まだ城におります」
臧荼は手元の竹簡から顔を上げた。
「落とした城に居座っているのか。まだ略奪が終わっていない?」
「それが、ほとんど行っておりません」
報告に来た将自身、口にしながら納得できていないらしい。
城門を破って入った匈奴兵は、抵抗した兵こそ討ったものの、倉を空にせず、住民をまとめて連れ去ることもなかった。武器を捨てた者には手を出さず、逃げなかった役人については、そのまま役所で仕事を続けさせているという。
「税は当面軽くすると布告したそうです。賦役についても、今年は減らすと」
「誰がそんなことを言っている?」
「匈奴が、です」
臧荼はしばらく返事をしなかった。
牛や馬を奪うなら分かる。穀物や女、職人を連れ去るのも、北辺では何度も起きてきた。
税を軽くすると言い出す匈奴など、聞いたことがない。
「住民を安心させてから、まとめて連れ去るつもりではありませんか」
側近の一人がそう言ったが、臧荼は首を振った。
「それなら、もうやっている」
城を落としてから三日が過ぎている。それでも匈奴は帰る支度を始めるどころか、壊した城壁を直させ、周囲へ斥候まで出していた。
さらに翌日、南の邑から来た使者が、北を占領した匈奴から降伏を勧める使者が来たと報告した。門を開き、兵糧と馬を差し出せば略奪しないという。
そこで臧荼も、ようやくこれまでとの違いを認めざるを得なくなった。
今回の匈奴は、帰るつもりがない。
◆
「二万を出す」
燕の諸将を集めた軍議で、臧荼は出陣を決めた。
北の城一つならまだ取り返せるし、匈奴が城を守る戦いに慣れていないうちなら、早く動くほどこちらに利がある。逆に放置して周辺の邑まで門を開き始めれば、兵をぶつける前から燕そのものが削られてしまう。
数日のうちに二万をまとめた臧荼は、自ら軍を率いて北へ向かった。
ところが、匈奴が占領した城へ辿り着く前に、見覚えのない軍が街道を塞いでいた。
「斉の旗?」
前方の丘に並ぶ旗を見て、臧荼は馬を止めた。
兵数は多くない。三千ほど、多く見積もっても五千には届かず、槍兵を中心にした小さな陣の前には斉の旗がいくつも立っている。
その中央にいる女を認め、臧荼はさらに眉を寄せた。
「田横……?」
斉で項羽と戦い続けていたはずの女が、なぜ燕にいるのか。
楚に追われて北へ逃げてきたとしても、燕軍の進路を塞ぐ理由がない。しかも、その先には今まさに燕の城を奪っている匈奴がいる。
「使者を出しますか」
側近が尋ねたが、臧荼はすぐに首を振った。
「いらん。何を考えているにせよ、武器を持ってこちらの道を塞いでいるなら敵だ」
こちらは二万、相手はせいぜい数千である。匈奴を追い払う前に余計な戦へ付き合わされるのは腹立たしかったが、兵力差を考えれば長引くとも思えない。
「中央から崩せ。深追いはいらん。道さえ開けばいい」
燕軍が前進を始めた。
◆
丘の上にいた田横は、その動きを静かに見ていた。
「来ます」
傍らの将が告げると、田横は視線を動かさないまま答えた。
「見えている。盾を上げろ。槍は陣から出すな。向こうが下がっても追うなよ」
兵数で大きく劣る以上、自分たちだけで臧荼の二万を破る必要はない。
燕軍が押し寄せると、斉兵は盾を重ね、その隙間から槍を突き出して受け止めた。最初の衝突で前列の何人かが倒れたものの、後ろの兵がすぐ穴を埋め、押されれば数歩ずつ退きながら陣形だけは崩さない。
臧荼には、その戦い方が単に兵数の不足を恐れているように見えた。
「やはり正面からぶつかるだけの兵がない。左右も出せ」
燕軍の圧力が増し、斉軍は少しずつ丘の奥へ下がっていく。それでも逃げ出す気配がないのを見ているうち、臧荼は次第に苛立ち始めた。
兵数はこちらが何倍も多い。この小軍の先には匈奴が占拠した城がある以上、ここで一日を潰したくはない。
「中央へもう二千入れろ。一気に割る」
予備から兵が送り込まれ、斉軍の陣はさらに狭くなった。
そこで、燕軍の後方から低い角笛の音が響いた。
最初、臧荼には何の音なのか分からなかった。燕軍が使う合図ではなく、正面の斉軍から聞こえたものでもない。
後ろを振り返った将が、土煙を見つけて叫んだ。
「騎兵です! 後方に騎兵!」
街道の両側から現れた騎兵が、燕軍の背後へ向かって一気に駆け込んでくる。その先頭を走る楼煩は、馬上で弓を引くと、ほとんど速度を落とさないまま矢を放った。
燕軍後方の旗手が倒れる。
続けて二射、三射と飛び込み、兵が盾を向ける頃には楼煩はすでに別の場所へ移っていた。その後ろから来た騎兵も横を駆け抜けながら矢を浴びせ、隊列が乱れたところへ別の一隊が突っ込んでくる。
「匈奴だ!」
声が広がった時には、後方の兵が前へ逃げ込み始めていた。
正面には田横の斉軍がいる。
背後には匈奴の騎兵がいる。
そこでようやく、臧荼は目の前の少数の敵が何のために動かなかったのかを理解した。
「最初から組んでいたのか」
答える者はいない。
後ろから攻撃されたと知った燕兵が振り返り始め、その動揺は前列にも伝わっていく。それまで守ることだけに徹していた田横は、その瞬間を待っていた。
「前へ出ろ」
斉軍が初めて攻勢に転じた。
数千の兵が燕軍の正面へ食い込み、背後では匈奴騎兵が走り回りながら、隊列を離れようとする兵へ矢を射かける。二万という数は残っていても、前後を別々の敵に塞がれた軍では、その数を一つにまとめて使えなかった。
臧荼は本陣の旗を西へ動かし、包囲の薄い場所から兵を抜こうとした。
「北へ走るな! 西へ寄せろ。隊ごとに動け!」
ところが、すでに命令が届かなくなり始めている。後方の兵は正面の事情を知らず、前方の兵は背後からどれほどの騎兵が来たのか分からないため、それぞれが近くの敵から逃れようとしていた。
臧荼が自ら馬を回した時、一本の矢が飛んできて、そのすぐ前の地面へ突き立った。
続いて楼煩が目の前を横切り、少し離れたところで馬首を返す。
「止まれ」
短い声だった。
臧荼が周囲を見れば、いつの間にか匈奴騎兵が本陣の近くまで入り込んでいる。その向こうでは燕兵が次々と武器を捨て始めていた。
剣へ伸ばしかけた手を、臧荼は途中で止めた。
◆
捕らえられた臧荼は、その日のうちに冒頓の前へ連れていかれた。
幕の中には田横も座っていた。
「お前が燕王か」
冒頓に問われ、臧荼は縄を掛けられたまま相手を見返した。
「そうだ。殺すなら早くしろ」
「降るなら殺さん」
「燕を渡せということか」
「お前は王のままでいい。ただし、これからは私に従え」
思っていた言葉とは違ったらしく、臧荼の眉が動いた。
「私を残すのか?」
「燕のことを知らん者を一から王にするより、お前を使った方が早い」
横にいた田横も口を開いた。
「城を焼かれ、家臣も民も失ってから国を奪われるよりは、残した方がよいでしょう」
「お前がそれを言うのか」
「私は斉が欲しいのであって、燕が欲しいわけではありません」
臧荼は、田横と冒頓を交互に見た。
斉の独立を求めて楚と戦ってきた女と、中華を荒らし続けてきた草原の単于。その二人が手を組み、今度は燕を滅ぼすのではなく、燕王ごと取り込もうとしている。
「私が降らなければどうする」
「別の燕王を探す」
冒頓の答えには迷いがなかった。
臧荼はしばらく黙り込み、幕の外から聞こえてくる馬の声へ耳を傾けていたが、やがて視線を落とした。
「……分かった。降る」
燕王自身が降ったという知らせは、戦の結果以上に大きく各地へ広がった。
先に落ちた城で大規模な略奪が行われていないことも知られ始めていたため、抵抗して国を荒らされるくらいならと、戦わず門を開く城が続いた。
冒頓も約束を守った。従った土地では大きな略奪を禁じ、税を軽くして、急ぎでない賦役も止める。匈奴兵が勝手に民家へ押し入れば罰する一方で、燕には兵糧と馬を出させ、既存の役人や燕王臧荼もそのまま利用した。
これまで中華へ侵入しては、奪うものを奪って草原へ戻っていた匈奴が、中華の城を持ち、その土地から次の兵糧を得るようになった。
◆
燕を押さえても、冒頓はそこで軍を止めなかった。
むしろ燕を足場として軍を分け、南と西へ送り始めた。
田横は斉へ戻る。燕から南へ下れば楚が押さえている斉北部へ手が届き、旧斉の豪族や兵へ呼びかけるにも、匈奴の将を送るより田横自身が動いた方が早い。
楼煩には燕南部を押さえながら、斉方面へ向かう軍との連絡を保つ役目が与えられた。
その配置が決まったあと、冒頓は羌瘣を幕へ呼んだ。
「お前は趙へ行け」
羌瘣は、自分の名が呼ばれたことに少し遅れて反応した。
「私が?」
「趙東部へ入る。お前は秦にいた頃、あの辺りの道も軍の動きも見ているだろう」
「知っている」
「なら、その知識を使え」
渡される兵は、以前のような大軍ではなかった。それでも、一軍を任されて趙方面を担当することには変わりない。
羌瘣は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じたが、同時に余計な言葉まで口から出てしまった。
「楼煩ではなく、私でいいのか」
冒頓は少しだけ眉を上げた。
「楼煩は燕で使う。お前は趙で使う。それだけだ」
「……分かった」
以前なら、その言い方に腹を立てていたかもしれない。
今は、自分にもまだ任される場所があることの方が大きかった。前のように冒頓の一番近くにいるわけではなくても、必要とされなくなったわけではない。
「どこまで進めばいい」
「取れるところまで取れ。ただし、秦王の兵とはまだぶつかるな」
その一言で、羌瘣の顔からわずかに力が抜けた。
「扶蘇を避けろと?」
「趙を取れと言っている。秦と戦えとは言っていない」
それ以上の反論を許さない声だった。
羌瘣は黙って一礼し、幕の外へ出た。
騎兵たちはすでに出発の支度を始めており、趙へ向かう馬には矢筒や食糧が次々と括りつけられている。
燕から南へは田横が進み、その周囲を楼煩の騎兵が支える。西では羌瘣が趙東部へ入る。
匈奴の軍はもう、略奪の季節が終われば北へ戻る軍ではなかった。
燕を足場にしたまま、斉と趙へ向かって広がり始めていた。




