第123話 草原の客
趙の北辺に近い匈奴の営地へ、見慣れぬ一団が入ったのは、乾いた風の強い夕方だった。
先頭にいた女は、馬を下りる動作に迷いがなかった。草原の礼に不慣れな者が見せるぎこちなさも、怯えもない。年の頃は三十前後。顔立ちは鋭く整っているが、武人というよりは、言葉で人を動かしてきた者の目をしている。裾の長い衣には中華風の名残があったものの、旅の砂にまみれて色はくすみ、袖口には糸のほつれも見えた。
田横である。
斉を追われ、なお死なず、今度は草原の王の前に座ろうとしていた。
幕の中では冒頓が胡座をかき、その右に楼煩、少し離れて羌瘣がいた。火の上では羊の脂が落ち、ぱちぱちと細い音を立てている。中華の宮廷や軍議とは違う匂いだった。革と煙と獣脂、それに、人が長く留まった幕舎の湿り気が混じっている。
田横はその匂いに眉ひとつ動かさず、正面へ進んだ。
「斉の田横と申します」
冒頓は答える前に、卓上の肉を小刀で切り、ひと切れ口へ運んだ。
「知っている。項羽に歯向かっている女だ」
「ええ。ですから今日は、覇王を喜ばせるためではなく、単于に利のある話をしに参りました」
ずいぶんな入り方だ、と羌瘣は思った。楚と戦っている女が、媚びもせずに草原の単于へ会いに来る。命が惜しくないのか、それとも自分の舌にそれだけ値打ちがあると知っているのか。
どちらにせよ、気に入らなかった。
冒頓は笑いもしない。
「利、か。言ってみろ」
田横は立ったまま話し始めた。座れとも言われていないのに、自分から膝を折る気はないらしい。
「単于は今、趙や燕のあたりで兵を動かしておられる。奪えるところから奪い、危なければ散る。それで困る相手は増えるでしょう。けれど、それで終わりです」
羌瘣が目を細めた。
喧嘩を売るような言い方だったが、冒頓は止めない。
「何が終わりなんだ」
「奪うだけでは、いつまでたっても奪う側のままです」
草原の風が幕の裾を鳴らした。
「中華の民は土に根を下ろし、城を築き、倉を立て、冬の前に飢えぬ仕組みを持っています。草原の民は強い。けれど、強いだけでは中華を手に入れられない。明日奪う羊のことを考えている間に、中華の者たちは十年先の倉を積んでいる」
冒頓の目が、ほんの少しだけ動いた。
田横はそれを見逃さなかった。
「単于は、いつまで草原においでになるのです」
その言葉で、幕の中の空気がわずかに変わった。
周囲に控えていた匈奴の男たちが顔を見合わせる。羌瘣も、無意識に背筋を伸ばしていた。そこへ踏み込むのか、と思ったのだ。
田横は続けた。
「草原の王として中華を脅かし続けるのも一つの生き方です。けれど単于ほどの男なら、脅かすだけで満足なさるとは思えない。城と田畑と人を手に入れ、中華に国を作る。そうお考えになったことはありませんか」
「ある」
あっさり言ったのは冒頓だった。
羌瘣はそちらを見た。初めて聞く話ではない。関中へ兵を向けた時、ただの略奪だけが目当てではないのだろうとは思っていた。けれど、こうもあっさり口にされると、胸のどこかがざらつく。
田横は表情を変えない。
「なら話は早い」
「早くはない」
冒頓は杯を取り、半分ほど飲んだ。
「中華の城は、馬で駆けるだけでは落ちん。人を住まわせるにも、草原とは違う面倒がある」
「承知しています」
「お前が手を貸すのか」
「ええ」
今度は即答だった。
「斉は楚と敵対しています。項羽を削れるなら、私はどことでも組む。単于が趙や燕を荒らして下さるだけでも楚は兵を割かざるを得ない。ですが、それだけではいずれ終わる。中華へ根を張るなら、誰の土地をどう食うかまで考えねばなりません」
冒頓は口元に手を当てたまま、面白そうに眺めている。
「たとえば?」
「燕です。趙の東もよい。あのあたりは今、誰のものとも言い切れない土地が多い。項羽は斉と諸侯に手を焼き、秦王は趙西を固めるので忙しい。劉邦は巴蜀から出る算段で手一杯。ならば、空いている場所から取るべきです」
そこまで聞いて、羌瘣は口を挟みたくなった。
燕でも趙でもない、と思う。扶蘇がいるなら関中こそ見るべきだ。あの男を討てば、秦は大きく揺らぐ。中華へ国を作る気なら、なおさらだ。
だが冒頓は彼女の方を見なかった。
「中華の民は、草原の王を受け入れるのか」
「最初からは無理でしょう」
田横はようやく少しだけ笑った。
「けれど、重い税と戦に疲れた土地は、意外と新しい主人を選びます。食わせ、守り、明日の畑を荒らさぬなら、昨日まで賊だった者に頭を下げることもある。中華の民はそういう生き物です」
言葉の端に、諸侯も民も見てきた者の冷たさがあった。
冒頓は、そこで初めて右手の楼煩を見た。
「どう思う」
たったそれだけだった。
羌瘣の胸が、わずかに冷えた。
自分もこの場にいるのに、問われるのは楼煩だけ。しかも当の楼煩は、それを誇るふうもなく、火の揺れを見ていた目を静かに上げただけだった。
「悪くない」
短い声だった。
「奪うだけなら、いずれ飢える」
「それだけか」
「足場は要る」
楼煩は言葉を切ったあと、田横を見た。
「この女は、嘘を言ってない」
また短い。なのに、冒頓は頷いた。
「私もそう思う」
それだけで、話が一段進んだ気配がした。
羌瘣は膝の上に置いた手へ力を入れた。自分なら、もっと違う言い方をしただろう。もっと具体的に、どの道を通り、どこを避け、誰が脅威になるかまで言えた。秦の北辺を知っているのは自分だ。扶蘇の癖も、蒙恬の軍の動かし方も、他の誰より知っている。
なのに聞かれない。
聞かれもしない意見ほど、口の中で腐るものはない。
「単于」
つい、声が出た。
冒頓は視線だけを寄越した。
「関中を後回しにするのか」
「今その話をしていたか?」
「中華に国を作るなら、扶蘇を放っておけない。あの男は北を固めるのが早い。時間を与えれば、なおさら面倒になる」
田横は黙っていたが、視線だけは羌瘣へ向いている。値踏みしているのかもしれない。その感じも気に障った。
冒頓は肘を膝に置いた。
「放っておけない相手だから、今すぐ噛みつく必要があるとは限らん」
「……」
「お前は扶蘇を見ると、すぐそっちへ話を寄せるな」
軽く言われた一言が、妙に刺さった。
言い返そうとしたが、うまい言葉が出てこない。違う、と否定するほど分かりやすくなる気がした。
楼煩は何も言わない。余計な慰めも、得意げな顔もない。ただ静かに座っている。その静けさが、かえって腹立たしかった。
田横がようやく言った。
「単于が今すぐ関中を攻めぬとしても、秦を敵の一つと見ておくべきだという点は、その方の言う通りでしょう」
その方、という呼び方だった。名を呼ばれもしない。
羌瘣はますます機嫌が悪くなったが、今それを表へ出すのは負けた気がした。
「ただ順番の話です。どこから食うのが得か。どこへ根を下ろすのが早いか。中華は広い。草原から見て、一つしか道がないわけではありません」
冒頓は、そこでようやく決めたようだった。
「面白い」
杯を卓へ置く。
「趙と燕をもう少し食ってみる。その先のことは、見ながら決める」
「では、私も」
「手を貸せ」
田横は深く頭を下げることはせず、静かに一礼しただけだった。
話が終わり、幕舎の外へ出る背を見送りながら、羌瘣は唇の内側を噛んだ。血の味がしたが、気持ちは少しも晴れない。
楼煩が立ち上がると、冒頓は自然な動きでその腕を取った。何か囁き、楼煩は小さく頷く。たったそれだけのやり取りなのに、妙に親しげで、外から割り込む余地がない。
「お前はどうする」
不意に冒頓が言ったので、羌瘣は一瞬、自分に向けられたものか分からなかった。
「何がだ」
「そんな顔をしているなら、外へ出て風でも浴びてこい」
そんな顔。自分がどんな顔をしていたのか、考えたくもない。
「別に」
そう言って立ち上がったが、声が少し硬かった。
幕をくぐって外へ出ると、草原の空はもう暗くなり始めている。風は冷たく、遠くで馬のいななきがした。焚き火のそばで笑っている兵たちの声も聞こえる。皆いつも通りだ。悔しいのは自分だけらしい。
歩きながら、肩の古傷がじくりと疼いた。楼煩に敗れた時の矢傷だった。もう治っているはずなのに、こういう時だけ妙に存在を主張する。
あの女は強い。寡黙で、余計なことを言わず、冒頓の前でも媚びない。だから気に入られているのかもしれない。そう思うと、ますます面白くない。
自分だって、昔は違ったはずだ。
もっと鋭くて、もっと役に立って、少なくとも、今みたいに問われもしない場所へ押しやられてはいなかった。
足を止めたところで、どうにもならないものが喉の奥へ溜まってきた。腹立たしさなのか、情けなさなのか、自分でも判然としない。目頭が熱くなり、こらえたつもりだったのに、ひとしずく落ちた。
羌瘣は乱暴に袖で拭った。
「……何なんだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、風にすぐ散った。
遠くの幕では、まだ火が揺れていた。




