第122話 秦王の使者
彭城へ秦の使者が入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
謁見の場で差し出された書状には、時候の挨拶とこれまでの友好への謝意が記され、その後に本題が続いていた。関中王の号を改め、今後は秦王を称するという。
許しを求める文言はなかった。
項羽は一度最後まで読み、竹簡を巻いて卓へ置いた。
「分かった。扶蘇に、私は構わないと返しておけ」
あまりにあっさりした返答だったため、秦の使者は頭を下げた姿勢のまま一瞬動かなかった。
「……それを、そのまま秦王へお伝えしてもよろしいのでしょうか」
「他に何がいる?」
「いえ。では、そのように」
使者が退出すると、それまで少し離れた席で聞いていた范増が、秦から届いた書状へ手を伸ばした。
「覇王。お認めになる前に、もう少しお考えいただきたかったのですが」
「考えたぞ」
「いつです」
「読んでる間に」
范増は何も言わず、書状を開き直した。
関中王という号は、項羽が諸侯を分封した際に扶蘇へ与えたものだった。それを自ら捨てて秦王を称する以上、単なる呼び名の変更では済まない。
「扶蘇殿は、覇王から与えられた王号ではなく、秦そのものを継ぐ王号を選ばれました。今後、自らの国を秦として扱うという意思表示と見るべきでしょう」
「元々、秦の公子だろう。しかも今は咸陽を持ってる。秦王の方が分かりやすいじゃないか」
「そういう問題ではございません」
項羽は露骨に面倒そうな顔をした。
「また始まったな」
「始めさせているのは覇王です」
そこは范増も譲らなかった。
「秦は関中だけでも侮れぬ土地です。今では閼与まで押さえ、張耳殿も扶蘇殿の下におります。その国が自ら秦を称する以上、これまでより注意して見る必要があります」
「見るのは好きにしろ」
項羽はそう言って、別の竹簡を手に取った。
「ただ、秦王になったからって扶蘇が今日から私の敵になるわけじゃない。あいつはこっちへ兵を出してないし、私も西へ攻めるつもりはない。それで困ることがあるか?」
「今すぐは」
「なら今はそれでいい」
范増が何か続けようとしたところで、項羽は斉から届いた報告を広げた。
楚にとって目の前にある問題は、むしろ東だった。
斉では田横の抵抗がまだ続いている。以前ほど大きな軍を集められなくなったとはいえ、楚の支配が行き届いていない土地では小規模な襲撃が絶えず、完全に鎮まったとは到底言えなかった。
「田横を片づけてないのに、西でも戦を始めるのか?」
「戦を始めろとは申し上げておりません」
「だったら秦は見張っておけ。それでいいだろ」
今度は范増も押さなかった。
「承知いたしました。秦から入る報告は増やします」
「任せる」
項羽はもう秦の書状には触れず、斉の報告へ目を戻した。
范増はその横顔を見ていたが、やがて手元の書状を巻いた。
警戒していると言いながら、扶蘇についてだけはどうにも判断が甘い。
それがいつまで許されるのか、范増には分からなかった。
◆
その日の夕方、虞が部屋を訪ねると、項羽は窓際に腰を下ろし、弓の弦を張り直していた。
「今日は范増様と長くお話しされていましたね」
「聞こえてたのか?」
「廊下まで全部ではありませんけれど」
虞は卓の上にあった茶器を寄せ、自分の分を注いだ。
「何かございましたか」
「扶蘇が秦王になった」
「秦王に?」
「ああ」
虞は驚いた様子こそ見せたものの、しばらく考えたあとには小さく頷いた。
「扶蘇様らしい気もいたします」
「だろ?」
項羽は待っていたように顔を上げた。
「范増は、また面倒なことになるって言うんだ」
「范増様には、范増様なりのお考えがあるのでしょう」
「お前までそっちにつくのか」
「どちらにもついておりません」
虞は笑いながら、項羽の手元を指した。
「それより、弦が片方だけ強く張られています」
「そうか?」
「貸してください」
受け取った弓を虞が直し始めると、項羽は横から手元を覗き込んだ。
「扶蘇様とは、戦いたくないのですね」
項羽は一拍置いてから答えた。
「戦う理由がない」
「理由ができたら?」
「その時は戦う」
答え自体には迷いがなかった。
ただ、すぐに続ける。
「できなきゃいいけどな」
虞は顔を上げず、弦の具合を確かめた。
「では、できないようになさればよいのではありませんか」
「簡単に言うな」
「私は王ではありませんから」
直した弓を差し出すと、項羽は受け取って弦を一度鳴らした。今度は気に入ったらしく、そのまま壁へ立てかける。
それ以上、二人の間で秦の話は続かなかった。
◆
秦王への改号は、少し遅れて巴蜀にも伝わった。
「秦王?」
報告を受けた劉邦は、最初から嫌そうな顔をした。
「関中王で我慢できなかったのか、あいつ」
向かいにいた蕭何は、届けられた書状の写しを読みながら答えた。
「本人がどう考えたかまでは分かりません。ただ、こちらへ兵を出したという話ではありません」
「分かってるよ」
劉邦は椅子の背へ寄りかかり、指で卓を軽く叩いた。
「それでも気に入らねえんだよ。秦って名前が」
樊噲を失ってから、扶蘇に対する劉邦の感情は以前より悪くなっている。蕭何もそれを知っていたため、そこを説得しようとはしなかった。
部屋の端では、韓信が兵糧の集積についての報告を読んでいた。
「韓信、お前はどう思う」
劉邦に呼ばれ、韓信はようやく顔を上げた。
「今すぐ何か変わるとは思わない」
「秦王だぞ」
「王号で兵は増えない」
「そういうところだぞ、お前は」
韓信は意味が分からなかったらしく、それ以上答えず書類へ戻った。
魚復では倉を増やし、川舟を集めながら、巴蜀から穀物を運ぶ仕組みを整えている最中だった。水路を使って東へまとまった兵を出せる状態にはまだ遠く、秦が王号を変えたからといって、予定を放り出して軍を動かす理由はない。
蕭何は次の竹簡を劉邦の前へ置いた。
「秦の話より、こちらをお願いします。魚復へ送る人夫の割り当てです」
「今それやるのか?」
「今やるものです」
「秦王より?」
「秦王は、こちらが書類を放っておいても困りません」
劉邦はしばらく竹簡を睨んでいたが、結局手を伸ばした。
◆
数日後、彭城へ斉から別の報告が届いた。
最初の一本を読んだ范増は、続いて二本目を開き、そこまで目を通したところで近くの役人を呼んだ。
「田横の所在は?」
「確認できておりません」
「最後に姿を見せたのは」
「斉北部です。それ以降、本人を見た者がおりませぬ」
范増は眉を寄せた。
田横の抵抗そのものが止まったわけではなかった。各地にはまだ従う者がおり、楚の小部隊や役人を狙った襲撃も続いている。
消えたのは、田横本人だけだった。
「兵を連れているのか?」
「ごく少数の供だけだったようです」
斉を捨てて逃げたとは考えにくい。
それができる女なら、楚軍に何度追われても反乱を続けることなどなかったはずだ。
范増は地図を開き、最後に確認された場所を指で押さえた。
斉の北部。
そこから先へ視線を動かせば、燕と趙の東方へ通じる道があり、そのさらに北には草原が広がっている。
「北へ向かった旅人を調べよ。街道だけではなく、渡し場や小さな邑にも人を回せ」
「斉の外まで、でございますか」
「中にいない者を、中だけ探してどうする」
「御意」
役人が退出したあとも、范増は地図を畳まなかった。
田横は楚に負け続けても、斉を諦めなかった。
そんな女が、兵も率いず北へ向かった。
何を取りに行ったのか。
それだけが、まだ分からなかった。




