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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第122話 秦王の使者

 彭城(ほうじょう)へ秦の使者が入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 謁見の場で差し出された書状には、時候の挨拶とこれまでの友好への謝意が記され、その後に本題が続いていた。関中王の号を改め、今後は秦王を称するという。


 許しを求める文言はなかった。


 項羽(こうう)は一度最後まで読み、竹簡を巻いて卓へ置いた。


「分かった。扶蘇(ふそ)に、私は構わないと返しておけ」


 あまりにあっさりした返答だったため、秦の使者は頭を下げた姿勢のまま一瞬動かなかった。


「……それを、そのまま秦王へお伝えしてもよろしいのでしょうか」


「他に何がいる?」


「いえ。では、そのように」


 使者が退出すると、それまで少し離れた席で聞いていた范増(はんぞう)が、秦から届いた書状へ手を伸ばした。


「覇王。お認めになる前に、もう少しお考えいただきたかったのですが」


「考えたぞ」


「いつです」


「読んでる間に」


 范増(はんぞう)は何も言わず、書状を開き直した。


 関中王という号は、項羽(こうう)が諸侯を分封した際に扶蘇(ふそ)へ与えたものだった。それを自ら捨てて秦王を称する以上、単なる呼び名の変更では済まない。


「扶蘇(ふそ)殿は、覇王から与えられた王号ではなく、秦そのものを継ぐ王号を選ばれました。今後、自らの国を秦として扱うという意思表示と見るべきでしょう」


「元々、秦の公子だろう。しかも今は咸陽(かんよう)を持ってる。秦王の方が分かりやすいじゃないか」


「そういう問題ではございません」


 項羽(こうう)は露骨に面倒そうな顔をした。


「また始まったな」


「始めさせているのは覇王です」


 そこは范増(はんぞう)も譲らなかった。


「秦は関中だけでも侮れぬ土地です。今では閼与(あつよ)まで押さえ、張耳(ちょうじ)殿も扶蘇(ふそ)殿の下におります。その国が自ら秦を称する以上、これまでより注意して見る必要があります」


「見るのは好きにしろ」


 項羽(こうう)はそう言って、別の竹簡を手に取った。


「ただ、秦王になったからって扶蘇(ふそ)が今日から私の敵になるわけじゃない。あいつはこっちへ兵を出してないし、私も西へ攻めるつもりはない。それで困ることがあるか?」


「今すぐは」


「なら今はそれでいい」


 范増(はんぞう)が何か続けようとしたところで、項羽(こうう)は斉から届いた報告を広げた。


 楚にとって目の前にある問題は、むしろ東だった。


 斉では田横(でんおう)の抵抗がまだ続いている。以前ほど大きな軍を集められなくなったとはいえ、楚の支配が行き届いていない土地では小規模な襲撃が絶えず、完全に鎮まったとは到底言えなかった。


「田横(でんおう)を片づけてないのに、西でも戦を始めるのか?」


「戦を始めろとは申し上げておりません」


「だったら秦は見張っておけ。それでいいだろ」


 今度は范増(はんぞう)も押さなかった。


「承知いたしました。秦から入る報告は増やします」


「任せる」


 項羽(こうう)はもう秦の書状には触れず、斉の報告へ目を戻した。


 范増(はんぞう)はその横顔を見ていたが、やがて手元の書状を巻いた。


 警戒していると言いながら、扶蘇(ふそ)についてだけはどうにも判断が甘い。


 それがいつまで許されるのか、范増(はんぞう)には分からなかった。


◆


 その日の夕方、虞(ぐ)が部屋を訪ねると、項羽(こうう)は窓際に腰を下ろし、弓の弦を張り直していた。


「今日は范増(はんぞう)様と長くお話しされていましたね」


「聞こえてたのか?」


「廊下まで全部ではありませんけれど」


 虞(ぐ)は卓の上にあった茶器を寄せ、自分の分を注いだ。


「何かございましたか」


「扶蘇(ふそ)が秦王になった」


「秦王に?」


「ああ」


 虞(ぐ)は驚いた様子こそ見せたものの、しばらく考えたあとには小さく頷いた。


「扶蘇(ふそ)様らしい気もいたします」


「だろ?」


 項羽(こうう)は待っていたように顔を上げた。


「范増(はんぞう)は、また面倒なことになるって言うんだ」


「范増(はんぞう)様には、范増(はんぞう)様なりのお考えがあるのでしょう」


「お前までそっちにつくのか」


「どちらにもついておりません」


 虞(ぐ)は笑いながら、項羽(こうう)の手元を指した。


「それより、弦が片方だけ強く張られています」


「そうか?」


「貸してください」


 受け取った弓を虞(ぐ)が直し始めると、項羽(こうう)は横から手元を覗き込んだ。


「扶蘇(ふそ)様とは、戦いたくないのですね」


 項羽(こうう)は一拍置いてから答えた。


「戦う理由がない」


「理由ができたら?」


「その時は戦う」


 答え自体には迷いがなかった。


 ただ、すぐに続ける。


「できなきゃいいけどな」


 虞(ぐ)は顔を上げず、弦の具合を確かめた。


「では、できないようになさればよいのではありませんか」


「簡単に言うな」


「私は王ではありませんから」


 直した弓を差し出すと、項羽(こうう)は受け取って弦を一度鳴らした。今度は気に入ったらしく、そのまま壁へ立てかける。


 それ以上、二人の間で秦の話は続かなかった。


◆


 秦王への改号は、少し遅れて巴蜀(はしょく)にも伝わった。


「秦王?」


 報告を受けた劉邦(りゅうほう)は、最初から嫌そうな顔をした。


「関中王で我慢できなかったのか、あいつ」


 向かいにいた蕭何(しょうか)は、届けられた書状の写しを読みながら答えた。


「本人がどう考えたかまでは分かりません。ただ、こちらへ兵を出したという話ではありません」


「分かってるよ」


 劉邦(りゅうほう)は椅子の背へ寄りかかり、指で卓を軽く叩いた。


「それでも気に入らねえんだよ。秦って名前が」


 樊噲(はんかい)を失ってから、扶蘇(ふそ)に対する劉邦(りゅうほう)の感情は以前より悪くなっている。蕭何(しょうか)もそれを知っていたため、そこを説得しようとはしなかった。


 部屋の端では、韓信(かんしん)が兵糧の集積についての報告を読んでいた。


「韓信(かんしん)、お前はどう思う」


 劉邦(りゅうほう)に呼ばれ、韓信(かんしん)はようやく顔を上げた。


「今すぐ何か変わるとは思わない」


「秦王だぞ」


「王号で兵は増えない」


「そういうところだぞ、お前は」


 韓信(かんしん)は意味が分からなかったらしく、それ以上答えず書類へ戻った。


 魚復(ぎょふく)では倉を増やし、川舟を集めながら、巴蜀(はしょく)から穀物を運ぶ仕組みを整えている最中だった。水路を使って東へまとまった兵を出せる状態にはまだ遠く、秦が王号を変えたからといって、予定を放り出して軍を動かす理由はない。


 蕭何(しょうか)は次の竹簡を劉邦(りゅうほう)の前へ置いた。


「秦の話より、こちらをお願いします。魚復(ぎょふく)へ送る人夫の割り当てです」


「今それやるのか?」


「今やるものです」


「秦王より?」


「秦王は、こちらが書類を放っておいても困りません」


 劉邦(りゅうほう)はしばらく竹簡を睨んでいたが、結局手を伸ばした。


◆


 数日後、彭城(ほうじょう)へ斉から別の報告が届いた。


 最初の一本を読んだ范増(はんぞう)は、続いて二本目を開き、そこまで目を通したところで近くの役人を呼んだ。


「田横(でんおう)の所在は?」


「確認できておりません」


「最後に姿を見せたのは」


「斉北部です。それ以降、本人を見た者がおりませぬ」


 范増(はんぞう)は眉を寄せた。


 田横(でんおう)の抵抗そのものが止まったわけではなかった。各地にはまだ従う者がおり、楚の小部隊や役人を狙った襲撃も続いている。


 消えたのは、田横(でんおう)本人だけだった。


「兵を連れているのか?」


「ごく少数の供だけだったようです」


 斉を捨てて逃げたとは考えにくい。


 それができる女なら、楚軍に何度追われても反乱を続けることなどなかったはずだ。


 范増(はんぞう)は地図を開き、最後に確認された場所を指で押さえた。


 斉の北部。


 そこから先へ視線を動かせば、燕と趙の東方へ通じる道があり、そのさらに北には草原が広がっている。


「北へ向かった旅人を調べよ。街道だけではなく、渡し場や小さな邑にも人を回せ」


「斉の外まで、でございますか」


「中にいない者を、中だけ探してどうする」


「御意」


 役人が退出したあとも、范増(はんぞう)は地図を畳まなかった。


 田横(でんおう)は楚に負け続けても、斉を諦めなかった。


 そんな女が、兵も率いず北へ向かった。


 何を取りに行ったのか。


 それだけが、まだ分からなかった。

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