第121話 三つの国
北辺から届く報告は、このところ随分と薄くなっていた。
冒頓の騎兵は趙東部から燕に近い方へ活動域を移し、北地や上郡へまとまった兵が入ってくることもなくなった。城や耕地に縛られない者たちだから、関中で奪いにくくなれば別の土地へ移るのも早い。
南西では劉邦との小競り合いこそ残っているが、陳倉へ再び大軍を出してくる気配はない。東でも、楚に降った陳余が独断でこちらへ戦を仕掛けることはなかった。
少なくとも今すぐ、どこかから数万の敵が来る心配をしなくてもよくなった。
その代わり、机の上には戸籍や税、倉の修理、役人の補充といった竹簡が増えた。
ある日の午後、決裁を終えた竹簡へ印を押そうとして、俺は手を止めた。
関中王。
項羽から与えられた王号だった。
これまでは特に気にしたこともない。生き残るだけで精一杯だった頃には王号など何でもよかったし、関中へ戻ってからも、わざわざ変える理由がなかった。
今は事情が違う。
支配は閼与まで伸び、張耳もこちらへ従っている。実際に治めてみれば、関中と趙西部では土地の仕組みも、人の繋がり方もかなり違った。
俺は印を置き、向かいで書類を読んでいた張良へ声をかけた。
「張良、ちょっといい?」
「はい」
「秦王を名乗ろうと思う」
張良は書きかけの文字を最後まで書いてから、筆を置いた。
「秦を復興なさるのですか」
「名前だけなら、そうなる」
「名前だけでは済まないでしょう」
「うん。だから相談してる」
張良の指が、机の上に広げてあった地図の端へ触れた。
「私は韓臣です」
「知ってる」
「秦を滅ぼしたいと思って生きてきました」
「それも知ってる」
「でしたら、簡単に賛成するとは思わないでください」
「思ってないよ」
そう答えると、張良は少しだけ目を細めた。
「では、どのような秦をお作りになるおつもりですか」
俺は地図を自分の方へ引き寄せた。
「関中は今までどおり郡県でいいと思ってる。役所も残ってるし、咸陽から直接動かせる。でも趙西部まで全部同じやり方にすると無理が出る」
閼与へ進んでから、それは何度も思い知らされた。
軍を入れて城門を開かせるより、その後に誰が税を集め、誰が土地の争いを裁くのかを決める方が時間がかかった。関中から送った役人が地元の慣習を知らず、余計に話をこじらせたこともある。
「張耳殿には、趙王の号を残されますか」
「今のところは。その方が趙の人間も従いやすいと思う」
「秦王の下に趙王ですか」
「変?」
「かなり」
俺もそこは否定できなかった。
張良は地図の西と東を見比べてから、紙を一枚引き寄せた。
「ですが、全てを郡県へ変えるよりは現実的です。諸侯に土地を任せるのであれば、軍をどこまで持たせるか、税をどれだけ中央へ納めさせるかは先に決めておいた方がよいでしょう」
「外交も勝手にはさせたくない」
「でしたら、それも」
紙の上に項目が増えていく。
中央が直接治める土地と、諸侯に任せる土地を分ける。街道や大きな倉、武器を作る場所は中央で持ち、諸侯には一定の兵と土地を認める代わりに、勝手な出兵や外交はさせない。
まだ穴はいくらでもありそうだった。
「郡県と封建を混ぜることになりますね」
「やっぱり面倒?」
「面倒でしょうね」
張良は平然と答えた。
「ですが、土地ごとの事情を無視するよりはましです」
「手伝ってくれるんだ」
「秦臣になるとは申しておりません」
「そこは分かってる」
「なら結構です」
張良はまた筆を動かし始めた。
◆
制度より先に片づけなければならないこともあった。
関中王は項羽から与えられた名だ。それを秦王へ改めれば、項羽の分封とは別に、自分から秦の継承を名乗ることになる。
「許可を取るべきかな」
俺が尋ねると、張良は首を振った。
「許可を求めれば、断られた時に困ります」
「じゃあ知らせるだけ?」
「その方がよろしいかと」
項羽自身がどう受け取るかは分からない。
俺の知っている項羽なら、案外「扶蘇ならいい」と済ませる可能性もある。むしろ范増の方が警戒するだろう。
劉邦も喜びはしないはずだ。
そこまで考えて、俺は筆を取った。
「まあ、嫌がられたらその時考えるか」
「王号を変える方の言葉とは思えませんね」
「今から全部心配しても仕方ないだろ」
張良は何も言わず、書状の文面だけ直した。
◆
新しい王号を使うと決めると、役所の方が妙に慌ただしくなった。
印を作り直し、書式を改め、すでに準備していた文書のどこまで直すかで書記たちが揉めている。俺としては名前を二文字変えただけのつもりでも、役所ではそうはいかないらしい。
廊下を歩いていると、部屋の中から声が聞こえた。
「関中王印は保管でいいのか?」
「捨てるわけにはいかないだろう」
「では誰が預かる」
「知らん。上に聞け」
俺が顔を出すと、全員が急に静かになった。
「今の話、俺に聞く?」
誰も答えなかったので、そのまま引き返した。
部屋へ戻ると、机の上には削りかけの新しい印が置いてあった。
まだ文字は彫られていない。
俺は手に取ってしばらく眺め、それから職人へ返すため脇へ置いた。
秦王。
その名を選んだからといって、昔の秦へ戻るつもりはない。
関中に残った制度は使う。新しく加わった土地では、そこにいる人間も使う。それで不都合が出れば、また直せばいい。
今の俺にできるのは、その程度だった。
◆
やがて、咸陽から東と南へ使者が出た。
関中王は秦王を称する。
それを知らせる書状が、楚へ向かい、漢へも伝わっていく。
まだ国境は定まっていない。趙や斉、燕にもそれぞれの王や勢力が残り、この先また誰かが動けば地図は簡単に変わるだろう。
それでも、大きな流れだけを見れば、以前にはなかった形が見え始めていた。
西には秦。
東には楚。
南西には漢。
一度は秦によって一つになった天下の上に、秦、楚、漢が並び立つ鼎立の形が、まだ朧げながら現れ始めていた。
第5章 了




