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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第119話 正面から

 陳余(ちんよ)は、南から来た楚軍をそれほど恐れていなかった。


 西へ向ける予定だった兵まで引き戻したことで、手元には三万余りが集まっている。南から進んできた鍾離眜(しょうりばつ)の軍もほぼ同数であり、兵数だけを見れば不利ではなかった。


 何より、そこに項羽(こうう)はいない。


「西はどうなった」


 出陣前に陳余(ちんよ)が尋ねると、側近は地図の閼与(あつよ)を指した。


「関中王が入りました。周辺の邑も、ほとんど抵抗していないとのことです」


 陳余(ちんよ)は顔をしかめた。ようやく張耳(ちょうじ)を追い出したところへ、今度は五万もの関中軍を連れて戻ってきたのだから、腹が立たないはずもない。


「西は今のところ捨てる。南を片づけてから戻る」


 北では匈奴が動き、西からは関中軍が入ってきている。それでも鍾離眜(しょうりばつ)さえ退ければ、まだ立て直せると陳余(ちんよ)は考えていた。


 巨鹿で見た項羽(こうう)なら話は別だ。


 だが、今回は将が違う。


 同数の兵を率いて正面から戦うのであれば、むしろこちらにも勝機がある。その見立てを疑う理由は、まだなかった。


◆


 両軍が向かい合ったのは、低い丘陵に挟まれた平地だった。


 大軍が隠れられる林もなく、片方だけが大きく回り込めるほど広くもない。先に陣を整えた陳余(ちんよ)は、進んできた楚軍の布陣を見て少し拍子抜けした。


 鍾離眜(しょうりばつ)は何も隠していなかった。


 中央と左右へ兵を並べ、その後方にいくつかの隊を残している。伏兵を置いた様子もなく、趙軍の正面へそのままぶつかるつもりらしい。


「本当に正面から来るのか」


「そのようです」


 側近の返事に、陳余(ちんよ)は少し笑った。


「なら、ありがたい」


 趙軍も正面へ兵を厚く並べた。


 兵数が同じなら、最初から前へ多く出した方が押し合いでは有利になる。陳余(ちんよ)は中央だけでなく左右にも十分な兵を置き、早い段階で楚軍を押し崩すつもりだった。


 鼓が鳴り、両軍が進む。


 最初にぶつかったのは中央だった。戈と槍が絡み、盾が押し合う音が重なり、その少し後には両翼でも戦闘が始まった。


 午前のうちは、趙軍の方がよく押していた。


「左翼、前へ出ています。中央も楚軍を下げています」


 報告を聞いた陳余(ちんよ)が戦場へ目を向けると、確かに楚軍の前列は少しずつ後退している。特に左翼では数十歩も押し込んだらしく、趙兵の旗が朝より前へ出ていた。


「見たか。項羽(こうう)がいなければ、楚軍もこんなものだ」


 傍らの将も頷いた。


 楚軍中央がまた下がったところで、陳余(ちんよ)は予備から三千を送り込んだ。


「中央へ入れろ。ここで割る」


 趙軍の圧力が増し、楚軍はさらに後ろへ下がった。


 ところが、逃げ出す兵がいない。


 前列を押し込めば、その後ろから別の兵が出てくる。少しずつ後退しているのに、陣形そのものは崩れなかった。


「粘るな」


「あと一押しでしょう」


 近くの将がそう言い、陳余(ちんよ)も同じように見た。


「もう一隊、中央へ」


 後方にいた兵が、また前へ動いた。


◆


 楚軍の中央では、鍾離眜(しょうりばつ)が戦線を眺めながら伝令を呼んだ。


「三隊目を下げる。五隊目を前へ」


 命令を受けた兵が走っていく。


 押されている隊を一斉に退かせれば、その瞬間に穴が開く。鍾離眜(しょうりばつ)は隣の隊に一時だけ幅を狭めさせ、その後ろを通して疲れた兵を抜き、代わりの隊を前へ入れていた。


 その分だけ楚軍全体は後ろへ動く。


 近くの将が戦場を見た。


「だいぶ押されています」


「見えている」


「押し返しますか」


「まだいい」


 鍾離眜(しょうりばつ)は趙軍の後方へ目を向けた。


 朝には厚かったはずの本陣近くから、何度も兵が前へ送り込まれている。


「向こうは勝っているつもりだ。そのまま使わせろ」


 将はそれ以上聞かなかった。


◆


 昼を過ぎても、陳余(ちんよ)にはまだ趙軍が優勢に見えていた。


 左翼も中央も、朝より前にいる。それ自体は間違いなく、楚軍が押されていることも事実だった。


 ただ、前へ出ている趙兵の中には、朝から休まず戦っている隊が増えていた。


「中央はまだ割れないのか」


「持ちこたえています。ただ、向こうもかなり疲れているはずです」


 陳余(ちんよ)は前線を見た。


 楚軍は下がっている。


 ここでこちらの兵まで下げれば、せっかく押した分を戻すことになる。


「左から千、中央へ回せ」


「左翼も今は押しております」


「なら少し抜いても持つ」


 命令通り、兵が中央へ向かった。


 その頃には、本陣の近くに残る予備もかなり減っていた。側近の一人が何度かそちらへ目をやり、やがて口を開いた。


「もう少し残した方がよろしいのでは」


「ここまで押しているのに止めるのか?」


「止めるというより、交代のために」


「楚軍が崩れれば交代もいらない」


 陳余(ちんよ)はそう答え、さらに兵を前へ送った。


 しばらくして、最初に異変が出たのは左翼だった。


「前列が交代を求めています」


「後ろの隊を出せ」


「その隊は先ほど中央へ回しました」


 陳余(ちんよ)は報告に来た兵を見た。


「残りは?」


「本陣の守りを除けば、二隊ほどです」


 一隊を左へ送るよう命じた直後、楚軍の中央から鼓の音が変わった。


◆


 鍾離眜(しょうりばつ)が動かしたのは、朝からほとんど戦っていなかった兵だった。


 特別に兵数が多いわけではない。三万のうち、前へ出す数を抑え、その分を後ろへ残していただけだった。


 疲れの強い隊を何隊か下げ、新しい兵を中央へ入れる。


「今度は下がるな。前へ出せ」


 楚軍の鼓が鳴り直した。


 朝から押し続けてきた趙兵へ、まだ体力を残した楚兵が真正面からぶつかった。


 趙軍中央が初めて数歩下がる。


「押し返せ!」


 陳余(ちんよ)は本陣の旗を前へ寄せた。


 趙兵もそこで踏ん張り、一度は楚軍を止めた。前列の兵が押し返し始めるのを見て、陳余(ちんよ)もまだ戦えると思った。


 そこへ左翼から使者が駆け込んできた。


「交代の兵をお願いします。前がもう持ちません」


「一隊送っただろう」


「途中で中央へ回すよう命令が変わったと」


 陳余(ちんよ)は口を閉じた。


 自分が変えた命令だった。


 中央を崩せると思い、そちらへ回した。


「右翼から寄せろ」


「右翼も楚軍が前へ出ています。抜けば押されます」


 戦場を見れば、その通りだった。


 楚軍は左右でも少しずつ前へ出始めている。


 伏兵が現れたわけではない。


 見えていなかった兵が突然出てきたわけでもなかった。


 朝から後ろにいた兵が、今になって正面へ出てきただけだった。


 趙軍中央がまた下がる。


 一隊が十歩ほど押されたところで、後ろの隊とぶつかって陣形が歪んだ。その間へ楚兵が押し入り、さらに左の隊まで引かれ始める。


「列を戻せ。間を開けろ!」


 伝令を走らせると、今度は左翼から別の使者が来た。


「予備をください。このままでは持ちません!」


 陳余(ちんよ)は本陣の後ろを見た。


 そこにいるはずだった兵は、もうほとんど残っていなかった。


 朝には十分にいた。


 楚軍が下がるたび、あと少しで崩れると思って自分が前へ送ったのだ。


 鍾離眜(しょうりばつ)は奇襲をしていない。


 補給を絶たれたわけでも、背後を取られたわけでもない。


 同じほどの兵で、正面から戦っている。


 それでも今、余力を残しているのは楚軍の方だった。


「本陣を前へ出す」


 陳余(ちんよ)は最後に残った兵まで動かした。


 その旗を見て、趙軍も一度は持ち直した。


 中央では楚兵を押し返し、崩れかけた左翼も踏みとどまる。


 鍾離眜(しょうりばつ)はそこで急がなかった。


 疲れた隊だけを少しずつ後ろへ下げ、新しい兵を入れながら、中央と左右の歩調を合わせて前へ押す。


 夕刻前、趙軍中央が再び下がった。


 今度は、旗を前へ出しても止まりきらなかった。


 中央の後退に左翼の一部が巻き込まれ、そこを直そうとして別の隊まで動く。兵が逃げ始める前に退路を作らなければ、今度は本当に軍全体が崩れると陳余(ちんよ)にも分かった。


「退く。順に下げろ」


 最後まで正面を向いたまま、趙軍は戦場を離れた。


◆


 その夜、集まった兵を数えてみれば、軍そのものが消えたわけではなかった。


 楚軍にも相応の死傷者は出ている。


 それでも趙軍の各隊は疲れ切り、負傷者や脱落者も多かった。翌日、同じ平地でもう一度ぶつかればどうなるかを聞く必要はなく、将たちもそれを口にしなかった。


 陳余(ちんよ)も、もう項羽(こうう)がいないとは言わなかった。


 翌朝の軍議では、しばらく地図を見たあと、自分の剣を外した。


「降る」


 反対する者はいなかった。


 楚へ送った使者は、その日のうちに戻ってきた。


 趙軍は武器を置き、陳余(ちんよ)本人は彭城(ほうじょう)へ出頭する。それに従えば、降った兵には手を出さないという条件だった。


「兵は殺さないのだな」


 陳余(ちんよ)が確認すると、使者は頷いた。


「鍾離眜(しょうりばつ)将軍より、そのように申し付かっております」


 陳余(ちんよ)は自分の剣を側近へ渡した。


「分かった。行こう」


◆


 彭城(ほうじょう)へ着いた陳余(ちんよ)は、ほとんど待たされることなく項羽(こうう)の前へ通された。


 その隣には范増(はんぞう)もいる。


「お前が陳余(ちんよ)か」


「はい」


「張耳(ちょうじ)を追い出したな。私が王にした女を」


 陳余(ちんよ)は一度だけ顔を上げた。


「それについては、私にも申し上げたいことがあります」


「言え」


「私は張耳(ちょうじ)より働きました。それでも王にはなれなかった」


 横にいた范増(はんぞう)の眉がわずかに動いた。


「覇王の分封へ従わなかったことは認めます。それでも、何の理由もなく趙を乱したつもりはありません」


 項羽(こうう)は少し考えるように陳余(ちんよ)を見た。


「だから張耳(ちょうじ)を追い出したのか」


「はい」


「なら、やったことは変わらないな」


「変わりません」


 陳余(ちんよ)もそこで口を閉じた。


 范増(はんぞう)が項羽(こうう)へ向き直る。


「覇王。この者を残せば、また趙で人を集めます。覇王がお決めになった王を追放した者を許せば、他の諸侯へも示しがつきません」


「殺した方がいいか?」


「はい」


 項羽(こうう)は大して迷わなかった。


「分かった。明日、処刑しろ」


 陳余(ちんよ)は一礼し、その日のうちに牢へ移された。


◆


 夜になると、虞(ぐ)はいつものように項羽(こうう)の髪を梳いていた。


 戦から戻ったあとの項羽(こうう)は自分で適当に髪をまとめてしまうことが多く、櫛を入れると途中でよく引っかかる。


「痛い」


「動くからです」


「動いてない」


「今、振り返りました」


 項羽(こうう)は不満そうに前を向いた。


 しばらく髪を梳かせていたが、ふと思い出したように口を開く。


「明日、陳余(ちんよ)を殺す」


 虞(ぐ)の手が一度だけ止まり、すぐにまた動いた。


「今日、連れてこられた方ですか」


「会ってないだろう」


「遠くから見ました」


「そうか」


 項羽(こうう)はそれで済ませたが、虞(ぐ)は絡んだ髪を指でほどきながら尋ねた。


「どうして殺すのですか」


「私が王にした張耳(ちょうじ)を追い出した。范増(はんぞう)も殺した方がいいって言っている」


「そうですか」


 それだけ返されると、今度は項羽(こうう)の方が気になったらしい。


「何だ」


「何もありません」


「あるだろう」


 また振り返ろうとした頭を、虞(ぐ)は手で前へ戻した。


「髪が終わりません」


「なら早く言え」


 虞(ぐ)は困ったように笑い、櫛を膝へ置いた。


「陳余(ちんよ)様は、趙ではまだ人を集められる方なのですよね」


「だから危ないんだ」


「張耳(ちょうじ)様も、趙では同じでしょう?」


「ああ」


「その張耳(ちょうじ)様は、今は扶蘇(ふそ)様のところにいらっしゃいます」


 そこで項羽(こうう)は少し黙った。


 虞(ぐ)は続きを急がず、もう一度櫛を手に取った。


「陳余(ちんよ)様までいなくなれば、趙で人を集められる方は向こうにしか残らなくなりませんか」


「お前、あいつを使えっていうのか」


「使えるのでしたら」


「また逆らうかもしれないぞ」


「その時は、その時に考えればよいと思います」


 項羽(こうう)は少し考えてから笑った。


「お前、時々怖いことを言うな」


「そうでしょうか」


「殺すのは後でもいいってことだろう」


「今は生きている方が役に立つと思っただけです」


 項羽(こうう)は後ろへ腕を伸ばし、虞(ぐ)の腰を自分の方へ引き寄せた。


「分かった。殺すのはやめる」


「まだ髪が途中です」


「そっちか?」


「明日の朝、そのままで出ていかれる方が困ります」


 項羽(こうう)は渋々腕を離し、虞(ぐ)は何事もなかったように櫛を戻した。


◆


 翌朝、范増(はんぞう)が呼ばれた時、項羽(こうう)はすでに朝食を終えていた。


 席へ着く前に告げられたのは、昨夜とは反対の命令だった。


「陳余(ちんよ)は殺さない。趙へ戻して、こっちのために使う」


 范増(はんぞう)は腰を下ろす途中で一度止まり、それからゆっくり座った。


「昨日とは、お考えが変わったのですな」


「ああ」


「昨夜、どなたかとお話になりましたか」


「虞(ぐ)だ」


 返事を聞いた范増(はんぞう)は、膝の上に置いた竹簡を指で揃えた。


「虞(ぐ)殿は、何と?」


「張耳(ちょうじ)が扶蘇(ふそ)についているなら、こっちにも趙で人を集められる奴がいた方がいいって」


「それで、処刑を取りやめると」


「そうだ」


 范増(はんぞう)はすぐには反論しなかった。


 斉でも似たことがあった。


 自分が城や街道を押さえ、降った土地を無闇に荒らすべきではないと進言した時には、項羽(こうう)はなかなか耳を貸さなかった。それを虞(ぐ)が違う言葉で話した翌日には、あっさり命令が変わっている。


「覇王。陳余(ちんよ)はすでに一度、覇王がお決めになった秩序へ背いております。趙へ戻したところで、今度はこちらの望む通りに動く保証はございません」


「分かってる」


「でしたら」


「今回は使う」


 項羽(こうう)はそこで范増(はんぞう)を見た。


「虞(ぐ)の言う方がいい」


 范増(はんぞう)の指が竹簡の端で止まった。


「……そうですか」


 少し間を置いてから、范増(はんぞう)は頭を下げた。


「承知いたしました」


 それ以上は言わなかった。


◆


 牢で処刑を待っていた陳余(ちんよ)のところへ使者が来たのは、昼前だった。


 縄を解かれ、そのまま外へ出される。


「処刑場はどちらだ」


 陳余(ちんよ)が尋ねると、使者は首を振った。


「処刑は取りやめになった」


 陳余(ちんよ)はそこで足を止めた。


 渡された竹簡には、昨日までとはまるで違う命令が書かれていた。


 楚に従い、趙へ戻ること。


 当地で兵を集め直し、張耳(ちょうじ)と関中王の動きを牽制すること。


 陳余(ちんよ)は一度最後まで読んだあと、確かめるようにもう一度目を通した。


「私を趙へ戻すのか」


「西楚覇王の命だ」


 昨日、自分を殺せと命じたのも項羽(こうう)だった。


 今日、生かして使えと命じたのも同じ女だという。


 陳余(ちんよ)は竹簡をゆっくり巻いた。


「……分かった」


 牢の外には、預けていた衣と最低限の荷が用意されていた。


 剣までは返されなかったが、それでも城門の向こうには、昨日まで二度と見ることはないと思っていた空が広がっていた。


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