第119話 正面から
陳余は、南から来た楚軍をそれほど恐れていなかった。
西へ向ける予定だった兵まで引き戻したことで、手元には三万余りが集まっている。南から進んできた鍾離眜の軍もほぼ同数であり、兵数だけを見れば不利ではなかった。
何より、そこに項羽はいない。
「西はどうなった」
出陣前に陳余が尋ねると、側近は地図の閼与を指した。
「関中王が入りました。周辺の邑も、ほとんど抵抗していないとのことです」
陳余は顔をしかめた。ようやく張耳を追い出したところへ、今度は五万もの関中軍を連れて戻ってきたのだから、腹が立たないはずもない。
「西は今のところ捨てる。南を片づけてから戻る」
北では匈奴が動き、西からは関中軍が入ってきている。それでも鍾離眜さえ退ければ、まだ立て直せると陳余は考えていた。
巨鹿で見た項羽なら話は別だ。
だが、今回は将が違う。
同数の兵を率いて正面から戦うのであれば、むしろこちらにも勝機がある。その見立てを疑う理由は、まだなかった。
◆
両軍が向かい合ったのは、低い丘陵に挟まれた平地だった。
大軍が隠れられる林もなく、片方だけが大きく回り込めるほど広くもない。先に陣を整えた陳余は、進んできた楚軍の布陣を見て少し拍子抜けした。
鍾離眜は何も隠していなかった。
中央と左右へ兵を並べ、その後方にいくつかの隊を残している。伏兵を置いた様子もなく、趙軍の正面へそのままぶつかるつもりらしい。
「本当に正面から来るのか」
「そのようです」
側近の返事に、陳余は少し笑った。
「なら、ありがたい」
趙軍も正面へ兵を厚く並べた。
兵数が同じなら、最初から前へ多く出した方が押し合いでは有利になる。陳余は中央だけでなく左右にも十分な兵を置き、早い段階で楚軍を押し崩すつもりだった。
鼓が鳴り、両軍が進む。
最初にぶつかったのは中央だった。戈と槍が絡み、盾が押し合う音が重なり、その少し後には両翼でも戦闘が始まった。
午前のうちは、趙軍の方がよく押していた。
「左翼、前へ出ています。中央も楚軍を下げています」
報告を聞いた陳余が戦場へ目を向けると、確かに楚軍の前列は少しずつ後退している。特に左翼では数十歩も押し込んだらしく、趙兵の旗が朝より前へ出ていた。
「見たか。項羽がいなければ、楚軍もこんなものだ」
傍らの将も頷いた。
楚軍中央がまた下がったところで、陳余は予備から三千を送り込んだ。
「中央へ入れろ。ここで割る」
趙軍の圧力が増し、楚軍はさらに後ろへ下がった。
ところが、逃げ出す兵がいない。
前列を押し込めば、その後ろから別の兵が出てくる。少しずつ後退しているのに、陣形そのものは崩れなかった。
「粘るな」
「あと一押しでしょう」
近くの将がそう言い、陳余も同じように見た。
「もう一隊、中央へ」
後方にいた兵が、また前へ動いた。
◆
楚軍の中央では、鍾離眜が戦線を眺めながら伝令を呼んだ。
「三隊目を下げる。五隊目を前へ」
命令を受けた兵が走っていく。
押されている隊を一斉に退かせれば、その瞬間に穴が開く。鍾離眜は隣の隊に一時だけ幅を狭めさせ、その後ろを通して疲れた兵を抜き、代わりの隊を前へ入れていた。
その分だけ楚軍全体は後ろへ動く。
近くの将が戦場を見た。
「だいぶ押されています」
「見えている」
「押し返しますか」
「まだいい」
鍾離眜は趙軍の後方へ目を向けた。
朝には厚かったはずの本陣近くから、何度も兵が前へ送り込まれている。
「向こうは勝っているつもりだ。そのまま使わせろ」
将はそれ以上聞かなかった。
◆
昼を過ぎても、陳余にはまだ趙軍が優勢に見えていた。
左翼も中央も、朝より前にいる。それ自体は間違いなく、楚軍が押されていることも事実だった。
ただ、前へ出ている趙兵の中には、朝から休まず戦っている隊が増えていた。
「中央はまだ割れないのか」
「持ちこたえています。ただ、向こうもかなり疲れているはずです」
陳余は前線を見た。
楚軍は下がっている。
ここでこちらの兵まで下げれば、せっかく押した分を戻すことになる。
「左から千、中央へ回せ」
「左翼も今は押しております」
「なら少し抜いても持つ」
命令通り、兵が中央へ向かった。
その頃には、本陣の近くに残る予備もかなり減っていた。側近の一人が何度かそちらへ目をやり、やがて口を開いた。
「もう少し残した方がよろしいのでは」
「ここまで押しているのに止めるのか?」
「止めるというより、交代のために」
「楚軍が崩れれば交代もいらない」
陳余はそう答え、さらに兵を前へ送った。
しばらくして、最初に異変が出たのは左翼だった。
「前列が交代を求めています」
「後ろの隊を出せ」
「その隊は先ほど中央へ回しました」
陳余は報告に来た兵を見た。
「残りは?」
「本陣の守りを除けば、二隊ほどです」
一隊を左へ送るよう命じた直後、楚軍の中央から鼓の音が変わった。
◆
鍾離眜が動かしたのは、朝からほとんど戦っていなかった兵だった。
特別に兵数が多いわけではない。三万のうち、前へ出す数を抑え、その分を後ろへ残していただけだった。
疲れの強い隊を何隊か下げ、新しい兵を中央へ入れる。
「今度は下がるな。前へ出せ」
楚軍の鼓が鳴り直した。
朝から押し続けてきた趙兵へ、まだ体力を残した楚兵が真正面からぶつかった。
趙軍中央が初めて数歩下がる。
「押し返せ!」
陳余は本陣の旗を前へ寄せた。
趙兵もそこで踏ん張り、一度は楚軍を止めた。前列の兵が押し返し始めるのを見て、陳余もまだ戦えると思った。
そこへ左翼から使者が駆け込んできた。
「交代の兵をお願いします。前がもう持ちません」
「一隊送っただろう」
「途中で中央へ回すよう命令が変わったと」
陳余は口を閉じた。
自分が変えた命令だった。
中央を崩せると思い、そちらへ回した。
「右翼から寄せろ」
「右翼も楚軍が前へ出ています。抜けば押されます」
戦場を見れば、その通りだった。
楚軍は左右でも少しずつ前へ出始めている。
伏兵が現れたわけではない。
見えていなかった兵が突然出てきたわけでもなかった。
朝から後ろにいた兵が、今になって正面へ出てきただけだった。
趙軍中央がまた下がる。
一隊が十歩ほど押されたところで、後ろの隊とぶつかって陣形が歪んだ。その間へ楚兵が押し入り、さらに左の隊まで引かれ始める。
「列を戻せ。間を開けろ!」
伝令を走らせると、今度は左翼から別の使者が来た。
「予備をください。このままでは持ちません!」
陳余は本陣の後ろを見た。
そこにいるはずだった兵は、もうほとんど残っていなかった。
朝には十分にいた。
楚軍が下がるたび、あと少しで崩れると思って自分が前へ送ったのだ。
鍾離眜は奇襲をしていない。
補給を絶たれたわけでも、背後を取られたわけでもない。
同じほどの兵で、正面から戦っている。
それでも今、余力を残しているのは楚軍の方だった。
「本陣を前へ出す」
陳余は最後に残った兵まで動かした。
その旗を見て、趙軍も一度は持ち直した。
中央では楚兵を押し返し、崩れかけた左翼も踏みとどまる。
鍾離眜はそこで急がなかった。
疲れた隊だけを少しずつ後ろへ下げ、新しい兵を入れながら、中央と左右の歩調を合わせて前へ押す。
夕刻前、趙軍中央が再び下がった。
今度は、旗を前へ出しても止まりきらなかった。
中央の後退に左翼の一部が巻き込まれ、そこを直そうとして別の隊まで動く。兵が逃げ始める前に退路を作らなければ、今度は本当に軍全体が崩れると陳余にも分かった。
「退く。順に下げろ」
最後まで正面を向いたまま、趙軍は戦場を離れた。
◆
その夜、集まった兵を数えてみれば、軍そのものが消えたわけではなかった。
楚軍にも相応の死傷者は出ている。
それでも趙軍の各隊は疲れ切り、負傷者や脱落者も多かった。翌日、同じ平地でもう一度ぶつかればどうなるかを聞く必要はなく、将たちもそれを口にしなかった。
陳余も、もう項羽がいないとは言わなかった。
翌朝の軍議では、しばらく地図を見たあと、自分の剣を外した。
「降る」
反対する者はいなかった。
楚へ送った使者は、その日のうちに戻ってきた。
趙軍は武器を置き、陳余本人は彭城へ出頭する。それに従えば、降った兵には手を出さないという条件だった。
「兵は殺さないのだな」
陳余が確認すると、使者は頷いた。
「鍾離眜将軍より、そのように申し付かっております」
陳余は自分の剣を側近へ渡した。
「分かった。行こう」
◆
彭城へ着いた陳余は、ほとんど待たされることなく項羽の前へ通された。
その隣には范増もいる。
「お前が陳余か」
「はい」
「張耳を追い出したな。私が王にした女を」
陳余は一度だけ顔を上げた。
「それについては、私にも申し上げたいことがあります」
「言え」
「私は張耳より働きました。それでも王にはなれなかった」
横にいた范増の眉がわずかに動いた。
「覇王の分封へ従わなかったことは認めます。それでも、何の理由もなく趙を乱したつもりはありません」
項羽は少し考えるように陳余を見た。
「だから張耳を追い出したのか」
「はい」
「なら、やったことは変わらないな」
「変わりません」
陳余もそこで口を閉じた。
范増が項羽へ向き直る。
「覇王。この者を残せば、また趙で人を集めます。覇王がお決めになった王を追放した者を許せば、他の諸侯へも示しがつきません」
「殺した方がいいか?」
「はい」
項羽は大して迷わなかった。
「分かった。明日、処刑しろ」
陳余は一礼し、その日のうちに牢へ移された。
◆
夜になると、虞はいつものように項羽の髪を梳いていた。
戦から戻ったあとの項羽は自分で適当に髪をまとめてしまうことが多く、櫛を入れると途中でよく引っかかる。
「痛い」
「動くからです」
「動いてない」
「今、振り返りました」
項羽は不満そうに前を向いた。
しばらく髪を梳かせていたが、ふと思い出したように口を開く。
「明日、陳余を殺す」
虞の手が一度だけ止まり、すぐにまた動いた。
「今日、連れてこられた方ですか」
「会ってないだろう」
「遠くから見ました」
「そうか」
項羽はそれで済ませたが、虞は絡んだ髪を指でほどきながら尋ねた。
「どうして殺すのですか」
「私が王にした張耳を追い出した。范増も殺した方がいいって言っている」
「そうですか」
それだけ返されると、今度は項羽の方が気になったらしい。
「何だ」
「何もありません」
「あるだろう」
また振り返ろうとした頭を、虞は手で前へ戻した。
「髪が終わりません」
「なら早く言え」
虞は困ったように笑い、櫛を膝へ置いた。
「陳余様は、趙ではまだ人を集められる方なのですよね」
「だから危ないんだ」
「張耳様も、趙では同じでしょう?」
「ああ」
「その張耳様は、今は扶蘇様のところにいらっしゃいます」
そこで項羽は少し黙った。
虞は続きを急がず、もう一度櫛を手に取った。
「陳余様までいなくなれば、趙で人を集められる方は向こうにしか残らなくなりませんか」
「お前、あいつを使えっていうのか」
「使えるのでしたら」
「また逆らうかもしれないぞ」
「その時は、その時に考えればよいと思います」
項羽は少し考えてから笑った。
「お前、時々怖いことを言うな」
「そうでしょうか」
「殺すのは後でもいいってことだろう」
「今は生きている方が役に立つと思っただけです」
項羽は後ろへ腕を伸ばし、虞の腰を自分の方へ引き寄せた。
「分かった。殺すのはやめる」
「まだ髪が途中です」
「そっちか?」
「明日の朝、そのままで出ていかれる方が困ります」
項羽は渋々腕を離し、虞は何事もなかったように櫛を戻した。
◆
翌朝、范増が呼ばれた時、項羽はすでに朝食を終えていた。
席へ着く前に告げられたのは、昨夜とは反対の命令だった。
「陳余は殺さない。趙へ戻して、こっちのために使う」
范増は腰を下ろす途中で一度止まり、それからゆっくり座った。
「昨日とは、お考えが変わったのですな」
「ああ」
「昨夜、どなたかとお話になりましたか」
「虞だ」
返事を聞いた范増は、膝の上に置いた竹簡を指で揃えた。
「虞殿は、何と?」
「張耳が扶蘇についているなら、こっちにも趙で人を集められる奴がいた方がいいって」
「それで、処刑を取りやめると」
「そうだ」
范増はすぐには反論しなかった。
斉でも似たことがあった。
自分が城や街道を押さえ、降った土地を無闇に荒らすべきではないと進言した時には、項羽はなかなか耳を貸さなかった。それを虞が違う言葉で話した翌日には、あっさり命令が変わっている。
「覇王。陳余はすでに一度、覇王がお決めになった秩序へ背いております。趙へ戻したところで、今度はこちらの望む通りに動く保証はございません」
「分かってる」
「でしたら」
「今回は使う」
項羽はそこで范増を見た。
「虞の言う方がいい」
范増の指が竹簡の端で止まった。
「……そうですか」
少し間を置いてから、范増は頭を下げた。
「承知いたしました」
それ以上は言わなかった。
◆
牢で処刑を待っていた陳余のところへ使者が来たのは、昼前だった。
縄を解かれ、そのまま外へ出される。
「処刑場はどちらだ」
陳余が尋ねると、使者は首を振った。
「処刑は取りやめになった」
陳余はそこで足を止めた。
渡された竹簡には、昨日までとはまるで違う命令が書かれていた。
楚に従い、趙へ戻ること。
当地で兵を集め直し、張耳と関中王の動きを牽制すること。
陳余は一度最後まで読んだあと、確かめるようにもう一度目を通した。
「私を趙へ戻すのか」
「西楚覇王の命だ」
昨日、自分を殺せと命じたのも項羽だった。
今日、生かして使えと命じたのも同じ女だという。
陳余は竹簡をゆっくり巻いた。
「……分かった」
牢の外には、預けていた衣と最低限の荷が用意されていた。
剣までは返されなかったが、それでも城門の向こうには、昨日まで二度と見ることはないと思っていた空が広がっていた。




