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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第118話 草原の勝負

 関中王の軍が閼与(あつよ)へ入ろうとしている。


 その報せを受けた羌瘣(きょうかい)は、使者が五万という兵数を告げたところで立ち上がった。張耳(ちょうじ)を伴った関中軍は趙西部でほとんど抵抗を受けず、すでにいくつもの邑が道を開けているという。


「続きはあとで聞く」


 使者を残して幕舎を出ると、羌瘣(きょうかい)は馬へ飛び乗り、冒頓(ぼくとつ)の陣へ向かった。


 趙へ入ってから、冒頓(ぼくとつ)は以前より兵を細かく使っている。


 数千ずつの騎兵を各地へ散らし、穀物や家畜を奪わせ、趙兵がまとまる気配を見せれば別の土地へ移る。城を欲しがらず、同じ場所へ長く留まらないため、趙の側も追うだけで精一杯だった。


 関中で羌瘣(きょうかい)の率いた一軍が半分になってから、特にその傾向が強くなった。


 兵たちには都合がいい。死ぬ者は少なく、陣へ戻れば奪った馬や穀物が増えている。


 羌瘣(きょうかい)には、それがどうにも気に入らなかった。


 冒頓(ぼくとつ)の幕舎へ着くと、入口には見慣れない栗毛の馬が繋がれていた。鞍は趙式に近いのに、革紐の留め方や弓袋の位置には草原の癖がある。


 中へ入った羌瘣(きょうかい)は、そこで足を止めた。


 冒頓(ぼくとつ)の傍らに若い女が座っている。


 しかも、その腰には冒頓(ぼくとつ)の腕が回っていた。


 名を楼煩(ろうはん)という。


 趙にいた女だが、母方には匈奴の血も入っているらしい。羌瘣(きょうかい)より背が高く、長い手足には余分な肉がない。細身ながら肩や腰は締まっており、座っているだけでも身体の使い方を知っているのが分かった。


 何より、若かった。


 羌瘣(きょうかい)は、そこを最初に見た。


「何だ」


 冒頓(ぼくとつ)は楼煩(ろうはん)の腰から腕を外そうともせずに尋ねた。


「扶蘇(ふそ)が出てきた。五万だ」


「知っている」


「閼与(あつよ)へ向かっている。今なら関中の城にも籠もっていないし、前みたいにこちらを待ち構えた陣もない。兵を集めろ」


 冒頓(ぼくとつ)は卓上の杯を取り、一口飲んでから元へ戻した。


「集めん」


「なぜだ」


「趙で十分取れている」


「扶蘇(ふそ)を叩けば、そのまま関中へ入れる」


「またそれか」


 返ってきた声には、もう何度も同じ話を聞かされた者の響きがあった。


「五万を相手にするために散っている兵を呼び戻し、勝ったあとで関中に残った兵まで相手にするのか。ここなら大きな戦をしなくても馬も穀物も手に入る」


「勝てる戦だ」


「お前がそう思っているだけだろう」


 羌瘣(きょうかい)は言い返しかけたが、そこで楼煩(ろうはん)と目が合った。


 女は二人の話へ口を挟まない。


 腕には治りかけの傷があり、指の付け根にも硬くなった跡が見えた。連れ去られてきたあと、ただ冒頓(ぼくとつ)の気まぐれで傍へ置かれている女ではなさそうだった。


「その女は戦えるのか」


 楼煩(ろうはん)本人は答えなかった。


「戦える」


 代わりに冒頓(ぼくとつ)が言った。


 その一言が妙に耳に残った。


 昔、楊端和(ようたんわ)もこの男の傍にいた。


 あの頃の羌瘣(きょうかい)は今より若く、馬でも剣でも負ける気がしなかった。捕らわれた身になってからも草原の女たちと競えば勝ったし、そうするたびに冒頓(ぼくとつ)も自分を見ていた。


 なぜ選ばれたのか、本人から聞いたことはない。


 それでも羌瘣(きょうかい)は、自分では分かっているつもりだった。


 楼煩(ろうはん)が冒頓(ぼくとつ)の腕から離れ、立ち上がった。


 長い脚が伸びる。


 羌瘣(きょうかい)が双剣へ手をやると、楼煩(ろうはん)は肩を強張らせることもなく、片足をわずかに後ろへ引いた。


 その姿勢を見た途端、羌瘣(きょうかい)も自然に腰を落とした。


 見た目だけではない。


 かなりやる。


「その女は、私より強いのか」


 冒頓(ぼくとつ)が笑った。


「知らん」


「なら、なぜ傍に置く」


「使えるからだ」


「私より?」


 冒頓(ぼくとつ)は答えなかった。


 代わりに、楼煩(ろうはん)がまっすぐ羌瘣(きょうかい)を見る。


 幕舎の隅には短槍が立てかけてあった。


 楼煩(ろうはん)は無言のまま、それを取った。


「試せば分かる」


 羌瘣(きょうかい)が双剣を抜くと、冒頓(ぼくとつ)も腰を上げた。


「私が勝ったら、扶蘇(ふそ)を討つために兵を出せ」


「考えてやる」


「出すんだな」


 冒頓(ぼくとつ)はそこには答えず、幕舎の外へ出ると兵に二頭の馬を引かせた。


「乗れ」


「ここでやればいい」


「何を言っている」


 冒頓(ぼくとつ)は片方の手綱を楼煩(ろうはん)へ放った。


「騎兵同士なら馬の上で決めろ」


 楼煩(ろうはん)は短槍を持ったまま、軽く鞍へ上がった。


 その動きを見届けた羌瘣(きょうかい)も、何も言わず自分の馬へ向かった。


◆


 二頭が陣の外へ出る頃には、何事かと匈奴兵が集まり始めていた。


 羌瘣(きょうかい)は双剣を低く構え、向かいの楼煩(ろうはん)は右手に短槍を持っている。


 誰も合図を出さなかった。


 先に馬腹を蹴ったのは楼煩(ろうはん)だったが、羌瘣(きょうかい)もほとんど同時に馬を走らせた。


 最初の交錯で、短槍の穂先が首筋へ伸びてくる。


 速い。


 それでも、見えないほどではない。


 羌瘣(きょうかい)は身体を鞍へ沈めて穂先をかわし、すれ違いざまに右の剣を返した。楼煩(ろうはん)は槍の柄で受けたものの、衝撃に押されて上体を大きく傾ける。


 馬首を返した羌瘣(きょうかい)は、間を置かず二度目を仕掛けた。


 短槍を左の剣で外し、空いた脇へ右を滑り込ませる。楼煩(ろうはん)が身を引いたため深くは入らなかったが、衣が裂れ、その下に細い血の線が浮かんだ。


 周囲の匈奴兵から声が上がる。


 三度目も羌瘣(きょうかい)が押した。


 楼煩(ろうはん)は馬上で槍を扱うことにも、馬を思い通りに走らせることにも慣れている。それでも懐へ入られれば、二本の剣を相手にしたまま踏みとどまることはできなかった。


 四度目の交錯では、羌瘣(きょうかい)の剣が短槍の柄を強く打ち、楼煩(ろうはん)の身体を馬の首近くまで傾かせた。


「どうした」


 馬首を返した羌瘣(きょうかい)の声に、少し笑いが混じった。


 勝てる。


 そう思った。


 楼煩(ろうはん)は答えず、それまでより大きく距離を取ると、短槍を鞍へ収めた。


 代わりに手へ取ったのは弓だった。


 羌瘣(きょうかい)の口元から笑みが消えた。


 一本目が飛んでくる。


 馬を横へ流して避け、二本目は左の剣で弾いた。


 楼煩(ろうはん)はその間にも馬を走らせている。こちらが追えば同じだけ離れ、身体を大きく捻って進行方向とは逆へ矢を放つ動きにも迷いがなかった。


「逃げるのか!」


 羌瘣(きょうかい)が追う。


 三本目が頬の脇を抜けた。


 距離は少しずつ縮まっている。


 あと一度、馬を伸ばせば剣が届く。


 楼煩(ろうはん)が次の矢を放つのを見て、羌瘣(きょうかい)は上体を右へ倒した。


 矢は横を抜けた。


 かわしたと思ったところへ、続けて放たれたもう一本が飛んでくる。


 左肩へ鈍い衝撃が走った。


 矢が刺さったと気づくより先に、腕から力が抜ける。


 身体を捻った姿勢のまま手綱を取り直そうとしたが、痛みに驚いた馬まで進路を変え、羌瘣(きょうかい)は鞍の上で身体を戻せなかった。


 地面へ投げ出され、肩から転がる。


 双剣の一本が手を離れ、草の上を滑っていった。


「そこまでだ」


 冒頓(ぼくとつ)の声が飛んだ。


 羌瘣(きょうかい)は残った剣を地面へ突き、身体を起こした。


「まだ終わっていない」


「終わった」


「馬から降りろ。剣でやる」


 楼煩(ろうはん)は弓を鞍へ戻した。


 それでも馬首を返さず、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


 羌瘣(きょうかい)は地面に片膝をついたまま、その顔を睨み上げた。


「何だ」


 楼煩(ろうはん)は答えなかった。


 代わりに鞍へ収めていた短槍を抜く。


 穂先がこちらへ伸びてきたので、羌瘣(きょうかい)は反射的に剣を上げようとした。


 左肩に痛みが走り、動きが遅れる。


 短槍の先が襟へ引っかかった。


「やめろ」


 楼煩(ろうはん)は手を止めなかった。


 布の裂ける音がした。


 外衣が襟元から胸元にかけて大きく裂れ、矢の刺さった肩と、その下の肌が露わになる。


「貴様……!」


 羌瘣(きょうかい)はとっさに右腕を胸元へ寄せた。


 そこにはまだ剣がある。


 裂けた衣を押さえるには、剣を手放さなければならない。


 一瞬迷ったこと自体が、さらに腹立たしかった。


 周囲には匈奴兵がいる。


 誰が見ているのか、確かめる気にもならなかった。


 楼煩(ろうはん)は、衣を押さえようと身体を縮めた羌瘣(きょうかい)を馬上から見下ろしている。


 笑ってはいない。


 得意そうな顔さえしなかった。


「哀れな女だ」


 それだけ言うと、楼煩(ろうはん)は短槍を戻し、馬首を返した。


「待て!」


 羌瘣(きょうかい)が叫んでも振り返らない。


 冒頓(ぼくとつ)のところへ戻った楼煩(ろうはん)は、再びその腰を腕で抱き寄せられた。


「兵は出さん」


 冒頓(ぼくとつ)の声が届く。


「もう一度やれば勝てる」


 羌瘣(きょうかい)は裂けた衣を右腕で押さえながら言った。


「今、負けた」


「剣なら私が勝っていた」


「馬から落ちて死んでいたら、剣も何もない」


 冒頓(ぼくとつ)はそれ以上付き合わなかった。


 羌瘣(きょうかい)は奥歯を噛み、落とした剣へ手を伸ばそうとした。


 その時、ふと昔の光景が浮かんだ。


 楊端和(ようたんわ)がいた。


 捕らわれ、自由を失い、それでも意地だけは捨てなかった女を前にして、当時の自分は何をしようとしたのだったか。


 思い出したくもなかった。


 治療のため近寄ってきた兵へ、最初は手を振って追い払った。自分で立とうとしたものの、裂けた衣を押さったままでは剣にも手をつけず、左肩へ力を入れれば矢が揺れて痛みが走る。


 結局、膝が一度地面についた。


 少し離れたところでは、冒頓(ぼくとつ)の腕の中に戻った楼煩(ろうはん)が、何事もなかったように馬上から降りようとしている。


 羌瘣(きょうかい)は顔を上げられなかった。


 悔しさで滲んだ涙が一滴、裂けた衣の裾をかすめ、乾いた土へ落ちた。


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