第117話 閼与へ
趙へ入って三日目まで、まともな軍とは一度も出会わなかった。
張良から散々慎重に進めと言われていたので、先頭の楊端和には斥候を多めにつけ、俺たちも街道から大きく外れないようにしていた。五万も動けば、どこかの城から兵くらい出てくると思っていたのだが、見つかるのは逃げていく武装集団ばかりだった。
「また盗賊か?」
捕らえた男たちを見ながら聞くと、黥布が首を傾げた。
「さあな。本人たちは兵だって言ってる」
「誰の?」
「それを聞くたび名前が変わる」
近くにいた兵が笑った。
男たちは街道へ縄を張り、通る者から銭や穀物を取っていた。最初は張耳の兵だと言い、張耳本人がこちらにいると知ると、今度は地元の守備兵だと言い始めたらしい。
役所へ照会しようにも、その役所に人がいない。
街道沿いの邑では、門だけは閉じているのに城壁の上に兵がほとんど見えなかった。張耳が先に使者を出しても返事がなく、こちらから人をやると、ようやく老人が数人出てきた。
県令はひと月前に逃げたという。
「どこへ?」
「存じません」
年老いた書記は、こちらを見上げたまま答えた。
「南へ行ったとも、陳余様の方へ行ったとも」
言いながら、自分でもどちらか知らないらしい。
役所の中には竹簡が積まれたまま残っていた。税を集めた記録も途中で途切れ、穀倉には鼠の方が多い。
張良は一通り見ただけで、持ち出そうとはしなかった。
「ここの役人をこちらから置く?」
俺が聞くと、張良は首を振った。
「まだ早いでしょう。残っている者に仕事を続けさせてください」
「三人しかいないぞ」
「三人いるなら、三人でできるところまで」
書記たちはそのやり取りを不安そうに聞いていた。
俺は穀倉の戸を閉めた。
「軍の分は買います。勝手には持っていかないから、残っている村へそう伝えてください」
老人はしばらく俺を見たあと、何度も頭を下げた。
その日の夕方になると、城門の外へ農民が集まり始めた。
歓迎の声を上げる者はいない。最初は遠巻きにこちらを眺め、兵が畑へ入らないのを確かめてから、麦や豆を入れた袋を持ってくる者が出てきた。値をつけて買うと、その翌朝には荷車まで来た。
王賁がその列を見て、馬上で鼻を鳴らした。
「随分変わったな」
「何が?」
「秦軍が来たら逃げるのが普通だった」
「今も半分くらい逃げてるよ」
「半分残った」
それは確かだった。
少し東へ進むと、匈奴に荒らされた土地も目につくようになった。
家は残っているのに人がいない村があり、穀倉の戸だけ壊されているところもある。畑の脇には切れた縄が落ち、牛をつないでいた杭だけが残っていた。
楊端和はそういう村へ入るたび、馬の跡を見ていた。
「何日前?」
「これは古いです。十日以上は経っています」
「近くにまだいる?」
「小隊なら分かりません。ただ、大きな一軍が西へ戻った形跡はありません」
楊端和は立ち上がると、土を払った。
「先へ進めます」
◆
抵抗がないから楽かといえば、そうでもなかった。
道を塞いでいた盗賊を追い払えば、今度はその近くの村から訴えが来る。橋が壊れている、逃げた役人が税を二度取った、隣村から来た連中に倉を奪われた。
五万の軍が通った途端、三か月分の面倒事まで一緒に出てきた。
「俺たち、戦いに来たんだよな?」
昼の休憩で俺が言うと、張良は干した肉を少しずつ食べながら答えた。
「戦がなくて不満ですか?」
「そうじゃないけど」
「でしたら、今のうちに進みましょう」
張良は手元の地図へ指を置いた。
閼与までの距離は、もうそれほど残っていない。
「予定より早く?」
「この辺りに、こちらを止められる軍がいません」
王賁が横から地図を覗いた。
「陳余は兵を出してこないのか」
「西へ回したという報告は、まだありません」
「じゃあ行けるうちに行くか」
王賁は俺を見る。
「閼与までな」
「分かってるよ」
「ならいい」
張良は何も言わなかったが、地図を巻く手が少し早かった。
翌朝から行軍の間隔を詰めた。
三か月かけて道と兵糧を準備した甲斐はあった。途中の倉には必要な量が入り、荷車が遅れても次の宿営地まで兵を食わせられる。
五万という数は、敵が出てこないとなると随分速かった。
城門を閉めていた邑も、張耳本人の印を見せると態度を変えるところが多い。中には張耳を追い出した側へ従ったはずの城もあったが、こちらの兵数を見てまで争おうという者はいなかった。
ある城では、門が開くまで半日かかった。
入ってみれば、守備兵は二百もいない。
「五万を相手に二百で門を閉めてたのか」
俺が呟くと、王賁が笑った。
「開けたら開けたで怖いんだろ」
そういうものかもしれない。
城内へ入った俺たちに向けられる視線には、安心より先に警戒があった。
兵が店から物を持ち出さず、宿営地を城外へ置くと知って、ようやく翌日から人が近づいてきた。
その日の夕方、張良が次の出発を一日早めたいと言った。
俺は特に反対しなかった。
もう、こちらの前にはまとまった軍がいなかった。
◆
その頃、陳余のもとへは、西からの報告が続けて届いていた。
「また降ったのか」
「はい」
使者が床へ頭をつける。
「関中王の軍は略奪をせず、張耳様の印を示して」
「その名を私の前で様づけするな」
使者の声が止まった。
陳余は手にしていた竹簡を投げることもせず、卓へ戻した。
「続けろ」
「……西部の諸邑は、ほとんど抵抗しておりません。関中王の軍は閼与へ向かっているものと思われます」
陳余の周囲にいた将たちが顔を見合わせる。
張耳を趙から追い出すところまでは、ようやくたどり着いた。
それからひと月も経っていない。
追い出された女が戻ってきたと思ったら、後ろに五万の関中軍を連れている。
「張耳め」
陳余は地図の西へ手を伸ばした。
「自分で守れなくなったら、秦を連れて戻ってきたか」
「西へ兵を出しますか?」
将の一人が聞く。
陳余は返事をせず、手元にある兵数を見た。
北にも兵を置いている。
匈奴がまた入ったという報せは昨日も来ていた。そちらへ何度も兵を回したせいで、各地の守備は薄くなっている。
「一万五千」
ようやく陳余が言った。
「西へ出す。閼与の手前で」
命令を書かせようとした時だった。
外から駆け込んできた兵が、入口で膝をついた。
「急報です。南より楚軍が侵入!」
陳余が顔を上げる。
「楚?」
「鍾離眜将軍の軍です」
室内の者が一斉に地図の南へ目を向けた。
「何人」
「確認できただけで三万を超えます。後続もおります」
「項羽本人は?」
「確認されておりません」
陳余は椅子へ座り直した。
使者はさらに竹簡を差し出す。
「鍾離眜将軍より檄文が。西楚覇王の封じた趙王を武力で逐い、趙の秩序を乱した罪を問う、と」
陳余が鼻で笑った。
「今さら秩序だと?」
周囲は黙っていた。
「項羽が勝手に王を決めた時、私に何を与えた。張耳だけを王にしておいて、今になってその王を追い出した罪か」
竹簡を手に取ったが、読みはしなかった。
「南の城は?」
「二城がすでに開門したとの報せです」
「早いな」
今度は笑わなかった。
西からは扶蘇の五万。
北には匈奴。
南から鍾離眜。
卓を囲んでいた将の一人が、先ほどの命令を確認するように口を開いた。
「西へ一万五千、でよろしいでしょうか」
陳余は地図を見たままだった。
「戻せ」
「は?」
「西へ出す兵を戻せ」
将が地図の閼与を見る。
「では、閼与は」
「捨てる」
すぐには誰も動かなかった。
「関中王に渡ります」
「分かっている」
陳余はようやく顔を上げた。
「扶蘇は今、西を取っている。鍾離眜は私を討ちに来た」
そこまで言うと、指で南の街道を叩いた。
「兵を集めろ。南へ向ける」
将たちが動き始める。
先ほどまで西へ出す予定だった命令書は、書記の手元で半分まで書かれたまま残った。




