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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第117話 閼与へ

 趙へ入って三日目まで、まともな軍とは一度も出会わなかった。


 張良(ちょうりょう)から散々慎重に進めと言われていたので、先頭の楊端和(ようたんわ)には斥候を多めにつけ、俺たちも街道から大きく外れないようにしていた。五万も動けば、どこかの城から兵くらい出てくると思っていたのだが、見つかるのは逃げていく武装集団ばかりだった。


「また盗賊か?」


 捕らえた男たちを見ながら聞くと、黥布(げいふ)が首を傾げた。


「さあな。本人たちは兵だって言ってる」


「誰の?」


「それを聞くたび名前が変わる」


 近くにいた兵が笑った。


 男たちは街道へ縄を張り、通る者から銭や穀物を取っていた。最初は張耳(ちょうじ)の兵だと言い、張耳(ちょうじ)本人がこちらにいると知ると、今度は地元の守備兵だと言い始めたらしい。


 役所へ照会しようにも、その役所に人がいない。


 街道沿いの邑では、門だけは閉じているのに城壁の上に兵がほとんど見えなかった。張耳(ちょうじ)が先に使者を出しても返事がなく、こちらから人をやると、ようやく老人が数人出てきた。


 県令はひと月前に逃げたという。


「どこへ?」


「存じません」


 年老いた書記は、こちらを見上げたまま答えた。


「南へ行ったとも、陳余(ちんよ)様の方へ行ったとも」


 言いながら、自分でもどちらか知らないらしい。


 役所の中には竹簡が積まれたまま残っていた。税を集めた記録も途中で途切れ、穀倉には鼠の方が多い。


 張良(ちょうりょう)は一通り見ただけで、持ち出そうとはしなかった。


「ここの役人をこちらから置く?」


 俺が聞くと、張良(ちょうりょう)は首を振った。


「まだ早いでしょう。残っている者に仕事を続けさせてください」


「三人しかいないぞ」


「三人いるなら、三人でできるところまで」


 書記たちはそのやり取りを不安そうに聞いていた。


 俺は穀倉の戸を閉めた。


「軍の分は買います。勝手には持っていかないから、残っている村へそう伝えてください」


 老人はしばらく俺を見たあと、何度も頭を下げた。


 その日の夕方になると、城門の外へ農民が集まり始めた。


 歓迎の声を上げる者はいない。最初は遠巻きにこちらを眺め、兵が畑へ入らないのを確かめてから、麦や豆を入れた袋を持ってくる者が出てきた。値をつけて買うと、その翌朝には荷車まで来た。


 王賁(おうほん)がその列を見て、馬上で鼻を鳴らした。


「随分変わったな」


「何が?」


「秦軍が来たら逃げるのが普通だった」


「今も半分くらい逃げてるよ」


「半分残った」


 それは確かだった。


 少し東へ進むと、匈奴に荒らされた土地も目につくようになった。


 家は残っているのに人がいない村があり、穀倉の戸だけ壊されているところもある。畑の脇には切れた縄が落ち、牛をつないでいた杭だけが残っていた。


 楊端和(ようたんわ)はそういう村へ入るたび、馬の跡を見ていた。


「何日前?」


「これは古いです。十日以上は経っています」


「近くにまだいる?」


「小隊なら分かりません。ただ、大きな一軍が西へ戻った形跡はありません」


 楊端和(ようたんわ)は立ち上がると、土を払った。


「先へ進めます」


◆


 抵抗がないから楽かといえば、そうでもなかった。


 道を塞いでいた盗賊を追い払えば、今度はその近くの村から訴えが来る。橋が壊れている、逃げた役人が税を二度取った、隣村から来た連中に倉を奪われた。


 五万の軍が通った途端、三か月分の面倒事まで一緒に出てきた。


「俺たち、戦いに来たんだよな?」


 昼の休憩で俺が言うと、張良(ちょうりょう)は干した肉を少しずつ食べながら答えた。


「戦がなくて不満ですか?」


「そうじゃないけど」


「でしたら、今のうちに進みましょう」


 張良(ちょうりょう)は手元の地図へ指を置いた。


 閼与(あつよ)までの距離は、もうそれほど残っていない。


「予定より早く?」


「この辺りに、こちらを止められる軍がいません」


 王賁(おうほん)が横から地図を覗いた。


「陳余(ちんよ)は兵を出してこないのか」


「西へ回したという報告は、まだありません」


「じゃあ行けるうちに行くか」


 王賁(おうほん)は俺を見る。


「閼与(あつよ)までな」


「分かってるよ」


「ならいい」


 張良(ちょうりょう)は何も言わなかったが、地図を巻く手が少し早かった。


 翌朝から行軍の間隔を詰めた。


 三か月かけて道と兵糧を準備した甲斐はあった。途中の倉には必要な量が入り、荷車が遅れても次の宿営地まで兵を食わせられる。


 五万という数は、敵が出てこないとなると随分速かった。


 城門を閉めていた邑も、張耳(ちょうじ)本人の印を見せると態度を変えるところが多い。中には張耳(ちょうじ)を追い出した側へ従ったはずの城もあったが、こちらの兵数を見てまで争おうという者はいなかった。


 ある城では、門が開くまで半日かかった。


 入ってみれば、守備兵は二百もいない。


「五万を相手に二百で門を閉めてたのか」


 俺が呟くと、王賁(おうほん)が笑った。


「開けたら開けたで怖いんだろ」


 そういうものかもしれない。


 城内へ入った俺たちに向けられる視線には、安心より先に警戒があった。


 兵が店から物を持ち出さず、宿営地を城外へ置くと知って、ようやく翌日から人が近づいてきた。


 その日の夕方、張良(ちょうりょう)が次の出発を一日早めたいと言った。


 俺は特に反対しなかった。


 もう、こちらの前にはまとまった軍がいなかった。


◆


 その頃、陳余(ちんよ)のもとへは、西からの報告が続けて届いていた。


「また降ったのか」


「はい」


 使者が床へ頭をつける。


「関中王の軍は略奪をせず、張耳(ちょうじ)様の印を示して」


「その名を私の前で様づけするな」


 使者の声が止まった。


 陳余(ちんよ)は手にしていた竹簡を投げることもせず、卓へ戻した。


「続けろ」


「……西部の諸邑は、ほとんど抵抗しておりません。関中王の軍は閼与(あつよ)へ向かっているものと思われます」


 陳余(ちんよ)の周囲にいた将たちが顔を見合わせる。


 張耳(ちょうじ)を趙から追い出すところまでは、ようやくたどり着いた。


 それからひと月も経っていない。


 追い出された女が戻ってきたと思ったら、後ろに五万の関中軍を連れている。


「張耳(ちょうじ)め」


 陳余(ちんよ)は地図の西へ手を伸ばした。


「自分で守れなくなったら、秦を連れて戻ってきたか」


「西へ兵を出しますか?」


 将の一人が聞く。


 陳余(ちんよ)は返事をせず、手元にある兵数を見た。


 北にも兵を置いている。


 匈奴がまた入ったという報せは昨日も来ていた。そちらへ何度も兵を回したせいで、各地の守備は薄くなっている。


「一万五千」


 ようやく陳余(ちんよ)が言った。


「西へ出す。閼与(あつよ)の手前で」


 命令を書かせようとした時だった。


 外から駆け込んできた兵が、入口で膝をついた。


「急報です。南より楚軍が侵入!」


 陳余(ちんよ)が顔を上げる。


「楚?」


「鍾離眜(しょうりばつ)将軍の軍です」


 室内の者が一斉に地図の南へ目を向けた。


「何人」


「確認できただけで三万を超えます。後続もおります」


「項羽(こうう)本人は?」


「確認されておりません」


 陳余(ちんよ)は椅子へ座り直した。


 使者はさらに竹簡を差し出す。


「鍾離眜(しょうりばつ)将軍より檄文が。西楚覇王の封じた趙王を武力で逐い、趙の秩序を乱した罪を問う、と」


 陳余(ちんよ)が鼻で笑った。


「今さら秩序だと?」


 周囲は黙っていた。


「項羽(こうう)が勝手に王を決めた時、私に何を与えた。張耳(ちょうじ)だけを王にしておいて、今になってその王を追い出した罪か」


 竹簡を手に取ったが、読みはしなかった。


「南の城は?」


「二城がすでに開門したとの報せです」


「早いな」


 今度は笑わなかった。


 西からは扶蘇(ふそ)の五万。


 北には匈奴。


 南から鍾離眜(しょうりばつ)。


 卓を囲んでいた将の一人が、先ほどの命令を確認するように口を開いた。


「西へ一万五千、でよろしいでしょうか」


 陳余(ちんよ)は地図を見たままだった。


「戻せ」


「は?」


「西へ出す兵を戻せ」


 将が地図の閼与(あつよ)を見る。


「では、閼与(あつよ)は」


「捨てる」


 すぐには誰も動かなかった。


「関中王に渡ります」


「分かっている」


 陳余(ちんよ)はようやく顔を上げた。


「扶蘇(ふそ)は今、西を取っている。鍾離眜(しょうりばつ)は私を討ちに来た」


 そこまで言うと、指で南の街道を叩いた。


「兵を集めろ。南へ向ける」


 将たちが動き始める。


 先ほどまで西へ出す予定だった命令書は、書記の手元で半分まで書かれたまま残った。


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