第116話 趙王来る
匈奴が趙へ向きを変えてから、三か月が過ぎた。
北地と上郡では、ときどき烽火台から騎兵を見たという報告が届くものの、以前のような大軍の侵入はない。冒頓はこちらへ戻らず、趙や燕の北部へ兵を散らしているらしかった。
こちらから追うこともしなかった。
烽火台も、住民や家畜を退かせる手順もそのまま残した。匈奴がまた関中へ来れば、こちらも同じように迎える。その程度が伝わっていればいい。
南西でも、劉邦は動かなかった。
夏侯嬰と灌嬰が一度探りを入れてから、陳倉にも桟道にもまとまった兵は現れていない。欒布と酈商から来る報告も、斥候を追い返したとか、山中で怪しい一団を見たという程度に戻っていた。
その間、俺たちは延期していた閼与への進出準備を進めた。
◆
最初はひと月ほどで出られると思っていた。
その見通しを口にした翌日、張良は俺の机へ竹簡を何本も運び込んだ。荷車、馬糧、橋の修理、途中へ置く穀物、それに軍が通ったあとで壊れた道を誰が直すかまで書いてある。
何も言わずに置いていったのが少し腹立たしかった。
結局、それを片づけているうちにふた月目へ入った。
以前に調べた道も、今になって歩かせてみれば違うところが出てくる。雨で崖が崩れた場所があれば、古い秦軍の記録では水場だったところが使えなくなっている場所もあった。
楊端和は何度か自分で東へ出て、戻るたびに地図へ線を足した。
「こちらは人馬だけなら通れます。荷車は難しいでしょう」
ある日、楊端和が一本の街道を指で塞いだ。
「また駄目?」
「迂回路があります。一日余計にかかりますが、そちらを使う方が安全です」
横で王賁が笑う。
「一日くらい我慢しろ、扶蘇。途中で荷車が谷へ落ちたら、一日じゃ済まない」
「分かってるよ」
「なら、その顔やめろ」
「どんな顔だよ」
王賁は答えず、自分で増やした馬糧の竹簡を俺の方へ押した。
黥布はもっと早く出たがったが、途中から街道修復へ兵を出す仕事を押しつけられたせいか、ふた月目には何も言わなくなった。
三か月目へ入る頃には、五万を動かす準備もようやく形になった。
兵糧を置く倉が決まり、予備の荷車も集まった。北辺からどこまで兵を戻せるかについても、蒙恬と何度も数字を合わせてある。
あと十日ほどで出られる。
そう考え始めた頃、趙から届く報告が急に増えた。
◆
趙北部は、匈奴に対してほとんど何もできなくなっていた。
冒頓は大きな城を囲わない。騎兵をいくつかに分け、守備の薄い場所へ入り、穀物や馬、牛を奪う。逃げ遅れた住民を連れ去ることもあった。
兵が集まる頃には、もう別の土地へ移っている。
張耳が北へまとまった兵を出せれば、少しは違ったかもしれない。
その兵を出させなかったのが陳余だった。
この三か月で、陳余の攻勢は目に見えて強くなった。小さな城が降ったという報告の次には、張耳方の将が兵ごと寝返ったという報告が届き、その次には周辺の邑までまとめて陳余へ従った。
北へ兵を動かせば、その隙に南を取られる。
南へ集めれば、匈奴が好きに入ってくる。
ある朝、張良が二本の竹簡を俺の机へ置いた。
「昨日、陳余殿へ一城が降っています」
もう一本は地図の北側だった。
「こちらでは同じ日に匈奴が入りました」
途中から来た王賁が竹簡を一本ずつ読み、卓へ戻した。
「張耳は何してる」
「動いたという報告はありません」
「動かなかったのか、動けなかったのか」
張良は答えなかった。
そこまでは分からないのだろう。
王賁も二度は聞かず、地図を眺めた。
「嫌な形だな」
俺もそう思った。
以前の俺なら、張耳がどこかで間違えたからこうなった、と考えたかもしれない。実際に何か間違えたのだろう。ただ、北と南の両方から別の敵に食いつかれる感覚については、少し分かるようになっていた。
「そろそろ使者が来てもよさそうだけど」
俺が言うと、張良は次の竹簡へ手を伸ばした。
「来れば、でしょうね」
結局、使者は来なかった。
三日後、本人が来た。
◆
「趙王、張耳様がお越しです」
軍議へ向かう途中で侍従に呼び止められ、俺は聞き返した。
「本人?」
「はい。お供の兵は千にも届きません」
隣にいた王賁が足を止めた。
「王が千も連れずに国を出たのか」
その理由までは侍従にも分からなかった。
張良は持っていた竹簡を閉じる。
「先にお会いください」
そうするしかない。
朝から軍営を歩いていたので一度だけ着替えたが、謁見の場へ通された張耳を見て、王賁の言ったことを思い出した。
確かに、向こうの方がひどかった。
護衛の馬は疲れ、兵の鎧も揃っていない。城門の内側で休ませている者の中には、地面に腰を下ろしたまま動こうとしない者もいた。
張耳本人だけは王としての衣を整えていたが、以前に見た時より頬が落ちている。
「突然の来訪をお許しください、関中王」
「構いません。まず休まれた方がいいんじゃないですか」
「その前に済ませたいことがあります」
勧めた席へ座った張耳は、挨拶を長く続けなかった。
「私を、関中王の下へ置いていただきたい」
援軍の話だと思っていたので、すぐには返せなかった。
「従属する、ということですか?」
「はい」
それだけだった。
趙がどれだけ苦しいかを、張耳は並べなかった。俺たちも数か月前から見ている。
張良が口を開いた。
「王位はどうなさいます?」
張耳は膝に置いた手を少し動かした。
「捨てろと言われれば」
「残せるのであれば?」
「残したいです」
俺にはその方が信用できた。
ここまで追いつめられたからといって、国も王位も急にどうでもよくなるわけではない。
「陳余とは、もう話せないんですか?」
聞くと、張耳はしばらく机の端を見ていた。
「話すことなら、たくさんあります」
少し笑った。
「多すぎるのでしょうね」
俺はそこでやめた。
昔の二人に何があったのか、今ここで聞いても仕方がない。
「俺の軍が入れば、反発する人もいると思います」
「おります」
「秦が戻ってきたと思う者も」
「私が趙を売ったと言う者もおります」
張耳は否定しなかった。
「それでも、来ました」
その顔を見てから、俺は張良へ目をやった。
「行くべきです」
返事は早かった。
「三か月、閼与へ出る準備をしてきました。今は張耳殿ご本人までこちらにおられます」
王賁は地図ではなく張耳を見た。
「お前の兵は、関中軍が入っても従うのか?」
「全員とは申しません」
「そうか」
王賁はそこで頷いた。
「全員と言われるよりましだ」
張耳が少し困った顔をした。
俺も同じことを考えていた。
「従属を受けます」
張耳が深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「最初から趙全部へ兵を広げるつもりはありません。西から入ります。それと、場合によっては陳余とも戦います」
張耳の返事だけ、少し遅れた。
「……はい」
◆
張耳を休ませたあと、予定していた軍議をそのまま続けた。
張良が示した兵力は五万。
三か月前から準備していた数と同じだった。
匈奴はまだ北にいる。陳余だけでなく、こちらを嫌う趙の城がどう動くかも分からない。最初から十万、十五万と入れるより、まずは準備済みの五万で閼与へ出る方がいいという判断だった。
王賁も反対しなかった。
「足りなければあとで呼べばいい。ただし、扶蘇」
「分かってるよ。勝手に奥へ行くな、だろ」
「覚えたじゃないか」
「毎回言われればな」
出陣は十日後。
俺が五万を率いる。
その日の軍議ではそこまで決め、細かい編成は翌朝に回した。
日が傾いた頃に部屋へ戻ろうとすると、女官が待っていた。
「関中王、蒙凛様がお待ちです」
◆
部屋では、蒙凛が窓際に座っていた。
弓は壁際へ立てかけたままになっている。
「十日後に出るんでしょ」
「そのつもり」
「じゃあ、私を外して」
俺が顔を見ると、蒙凛は困ったように笑い、自分の腹へ手を置いた。
「子がいるって。今日、医師に言われた」
その手を見た。
まだ、何も変わっているようには見えない。
「……本当に?」
「たぶん。まだ早いけど」
頭の中に残っていた張耳や五万の兵が、一度どこかへ消えた。
俺は蒙凛の隣へ座った。
「嬉しい」
「うん」
手を握ると、蒙凛も握り返してきた。
少しして、蒙凛の方から俺の肩へ頭を寄せた。
「私も、嬉しいよ」
小さな声だった。
何を言えばいいのか思いつかず、そのまま二人で座っていた。
やがて廊下から、急いでいるのに足音を抑えようとして失敗しているような音が近づいてきた。
蒙凛が顔を上げる。
「母さんだ」
女官が扉の向こうから告げた。
「蒙恬将軍がお越しです」
扉が開くのを待つ間もなく、蒙恬が入ってきた。
「蒙凛」
「母さん、早い」
蒙恬は娘の前まで来ると、いつもの軍議ではまず見せない顔でしゃがみ込んだ。
「本当なの?」
「医師はそう言ってる」
「そう……」
蒙恬は何か言いかけて、娘の両手を取った。
しばらくそのまま見つめたあと、いきなり抱きしめる。
「ちょっと、母さん」
「いいでしょう、今日くらい」
声が少し掠れていた。
蒙凛も最初は困った顔をしていたが、やがて蒙恬の背へ腕を回した。
俺は横で見ていた。
蒙恬は娘を離すと、今度は俺へ向き直った。
「扶蘇様」
「はい」
「おめでとうございます」
言われてから、俺も笑った。
「蒙恬にも、おめでとうでいいのかな」
蒙恬が少し目を丸くする。
「……私も、ですか」
「祖母になるんだから」
その言葉が妙だったらしい。
蒙恬は口元を押さえたあと、娘を見て、また俺を見る。
「祖母……」
「嫌なの?」
蒙凛が聞く。
「嫌ではありません」
すぐ答えた。
そのあとで、蒙恬は少しだけ笑った。
「まだ、慣れませんね」
その夜は、三人ともいつもより遅くまで部屋にいた。
医師から何を言われたかを蒙恬が細かく聞き出し、蒙凛が途中から面倒くさそうに答え、俺はその横で何度か同じ話を聞いた。
珍しく、それが嫌ではなかった。
◆
翌朝になると、祝い事はそのまま軍議の仕事になった。
張良は席につくなり頭を下げた。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「それで、編成を変えます」
俺は思わず笑った。
「早いな」
「十日後に出陣ですので」
昨夜のことを喜んでいないわけではないらしい。ただ、張良にとっては、それと五万を動かす話は別だった。
蒙凛は騎射に慣れた兵の一部を率いる予定だった。斥候や側面警戒にも使うつもりだったため、本人の名前だけ消せば済むものではない。
そこへ蒙恬から、自分も関中へ残るという申し出があった。
「蒙凛のそばにいたい?」
俺が聞くと、蒙恬は少しだけ笑った。
「はい。それは否定いたしません」
昨夜なら、それで話を終えていたかもしれない。
軍議の席では、蒙恬はすぐ地図へ目を戻した。
「北辺には引き続き備えが必要です。冒頓が東へ向かったからといって、戻ってこないとは限りません。南西には劉邦もおります」
東へ五万出しても、関中には十万を残す。
北辺、陳倉方面、咸陽の予備に分け、その全体を蒙恬が見ることになった。
俺としても、その方がありがたかった。
子ができたと聞いた翌日に、蒙凛と離れて遠くへ出ることになる。少なくとも蒙恬が関中にいるなら、こちらから何度も使者を出して様子を聞かずに済む。
「任せてもいい?」
「もちろんです」
蒙恬はそこで一度だけ表情を緩めた。
「扶蘇様も、安心して行ってきてください」
張良は二人分の札を編成表から外し、代わりに三つを中央へ寄せた。
王賁。
楊端和。
黥布。
東へ出る五万は、この三人を中心に組み直す。
王賁が本隊を支え、楊端和は先行して街道と北側を見る。黥布には前方の兵を預ける。
「敵が出たらやっていいんだな?」
説明を聞いた黥布が最初に確認したのはそこだった。
「追う前に知らせてください」
張良は札を動かしながら答えた。
「まだ何もしてないぞ」
「今のうちに言っています」
王賁が横で笑った。
「聞いとけ。お前は敵を見るとすぐ行く」
「お前に言われたくない」
楊端和は二人のやり取りを気にせず、蒙凛の騎兵隊の名簿を読んでいた。
隊を一度全部ばらすことはせず、慣れた組み合わせを残しながら楊端和と王賁へ分ける。北に置く騎兵も必要なので、蒙恬が残したい者には印をつけていった。
「関中王は本隊です」
張良が俺の札を中央へ置いた。
「そこは昨日と変わらないだろ」
「はい。変えないために申し上げています」
王賁が笑った。
「扶蘇、今回は黥布と競争するなよ」
「誰がするんだよ」
「俺も嫌だぞ」
黥布まで加わった。
「何でそっちも嫌がるんだよ」
編成は昼前にまとまった。
出陣日は十日後のまま。
俺は五万を率いて東へ向かう。
同行する主だった将は王賁、楊端和、黥布。張良も軍師として同行する。
蒙恬は十万を預かり、関中に残る。
軍議が終わる頃には、昨日まで使っていた編成表の上に、新しい札や訂正がいくつも重なっていた。
書記が清書用の竹簡を抱えてやってきて、机の上を見た。
一度、張良を見る。
「全部ですか?」
「お願いします」
書記は小さく肩を落とし、椅子を引き寄せた。




