第115話 道を変える者たち
匈奴を北へ退けたあとも、蒙恬には北辺へ兵を残してもらっていた。冒頓がそのまま草原へ戻るとは限らず、こちらが主力を解いたところでもう一度入ってくる可能性くらいは考えておく必要があった。
数日後、上郡から届いた報せを読んだ俺は、地図の上で指を東へずらした。
「趙へ行ったのか」
匈奴の騎兵は関中へ戻らず、趙北部へ入り始めていた。いくつかの集落では穀物が持ち去られ、馬や牛を奪われたうえ、逃げ遅れた住民まで北へ連れていかれている。そのさらに東でも別の騎兵隊が見つかっていた。
向かいから竹簡を取った王賁は、一通り目を通して鼻を鳴らした。
「そりゃ、こっちには戻らないだろ。村へ行けば空っぽ、奥へ入れば軍が待ってる。私が単于でも他へ行く」
「もう一度くらい来ると思ってたんだけどな」
「何で残念そうなんだ、扶蘇」
「準備したからだよ。来てほしいわけじゃない」
「ならいいだろ」
王賁は竹簡を卓へ戻した。
張良は報告のあった場所へ駒を置き、楊端和は趙の北辺から燕へ続く一帯を見ていた。
「燕まで行くと思うか?」
「趙が兵を集めれば、行くでしょう」
楊端和は地図から目を離さない。
「城を取るのが目的なら話は別ですが、あちらはそうではありません。取りやすい場所へ移ればいいだけです」
「漢から何か言われて来たんじゃないのか」
「それで漢の将になるわけでもありませんから」
返事はそれだけだった。
俺も追及せず、地図の西寄りへ視線を戻した。そこには、匈奴が来る前から何度も見ていた地名がある。
閼与。
太行山脈の西側まで勢力を伸ばし、関中東方の足場を固める。北方戦で延期したものの、その方針まで捨てた覚えはない。
「じゃあ、閼与の準備を戻すか」
王賁が妙な顔をした。
「戻すだろ。そのために北から主力を戻すんじゃないのか」
「趙が荒れ始めたから、一応確認してるんだよ」
「確認するのはいいが、閼与までだぞ」
「分かってる」
「匈奴を追うついでに趙を助ける、とか言い出すなよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「まだ、な」
こいつは俺を何だと思っているんだ。
張良は俺たちを止めるでもなく、閼与の西へもう一つ駒を置いた。
「先に斥候を戻しましょう。北へ回していた兵を、そのまま東へ流すのはお勧めしません」
「糧食か?」
「それもあります。前に調べた道が、そのまま使えるとも限りませんので」
王賁が横から笑う。
「ほら。急ぐなってさ」
「今のはそういう話じゃない」
「同じだろ」
「違うだろ」
張良は無視して、別の竹簡を開いていた。
「蒙恬殿と相談して、北辺へ残す兵を先に決めます。黥布殿は戻してよいでしょう」
「本人が一番喜びそうだな」
「北に置いておくと、勝手に何か追いそうだからな」
王賁が言うと、俺も否定できなかった。
そこで、新しい伝令が入ってきた。
「申し上げます。趙へ入った匈奴の一隊に、羌瘣の旗を確認したとのことです」
楊端和が手を出し、竹簡を受け取った。
「本人は?」
「そこまでは確認できておりません。旗と、先の戦で見た騎兵の一部が同じだったと」
「そうですか」
楊端和は一度だけ読み返し、それを地図の脇へ置いた。佩剣の吊り紐が捻れていたのか、指を入れて直してから、閼与の北側へ視線を移す。
「こちらの斥候は、少し北寄りまで見させた方がよろしいでしょう。匈奴の小隊が西へ流れてくる可能性はあります」
「頼む」
「はい」
軍議はそのまま、東進に使う道と兵の話へ移った。
◆
羌瘣は、出発の前日まで関中へ戻るつもりでいた。
「次ならやれる」
幕舎の中でそう言われても、冒頓は鞍の革紐を確かめる手を休めなかった。
「何をだ」
「扶蘇だ」
「またその話か」
羌瘣の眉が寄る。
「三万の半分を失ったまま終われと言うのか」
「終われとは言っていない。趙へ行けと言っている」
「関中へ行けばいい」
そこで冒頓は顔を上げた。
「行って何を持って帰る?」
「次はあの陣を崩す」
「それは食えるのか?」
羌瘣の口が止まった。
冒頓は足元にあった地図を靴先で広げ、趙北部を指した。
「ここなら穀物がある。馬も牛も取れるし、人もいる。守る兵も割れている。関中は先に逃がすことを覚えた」
「漢はどうする。劉邦は関中へ行かせるつもりだったはずだ」
「劉邦がそう思っていた。それで?」
冒頓は鞍を持ち上げ、従者へ渡した。
「私は漢王の将ではない」
「使者を受けた」
「話を聞いた。奴らは扶蘇に兵を使わせたかった。我々は中華から物を取れればよかった。今は趙の方が取りやすい」
「私は関中へ戻りたい」
「一人なら好きにしろ」
羌瘣の顔が険しくなった。
「兵は置いていけ」
冒頓はもう外の斥候を呼んでいた。
翌朝、羌瘣は命じられた通り趙へ向かった。
最初に襲った集落では、倉に残っていた穀物をいくつかの車へ積み替え、軍で使える馬と牛を集めた。捕らえた者は別の隊が北へ連れていく。
「次は東へ回りますか?」
部下が馬を寄せた。
羌瘣は南西へ目をやった。
「単于の命令どおりにしろ」
「はい」
部下が離れてからも、しばらく馬首は東を向かなかった。
◆
「話が違うじゃないか!」
漢中では、劉邦が匈奴の報告を卓へ放り出していた。
「何で趙なんだよ。こっちは扶蘇を北へ引っ張るつもりで使者を送ったんだぞ」
「単于には単于の都合があります」
蕭何は帳簿の数字を直しながら答えた。
「分かってるって。でも普通、もうちょっと付き合わない?」
「普通を求める相手を間違えていると思います」
「最近、俺への当たり強くない?」
「変えておりません」
「それはそれで嫌だな」
劉邦は椅子へ戻り、今度は韓信へ顔を向けた。
「お前から何とか言ってくれよ」
「何を」
「もう一度、匈奴を関中へ向かせるとか」
「無理だろ」
「早いって」
「一軍が半分になって、ほとんど何も持って帰れなかった。次も同じ場所へ行けと言われたら、私でも嫌だ」
韓信の手元には、夏侯嬰と灌嬰から届いた軍報が開かれていた。
今回の二万は、もともと関中へ攻め込むための本隊ではない。匈奴が北から動いた間に南西の守りがどれだけ薄くなるか、その程度を見るために出した軍だった。
「黥布がいなくても陳倉は抜けなかった。灌嬰の方も同じだ」
韓信が軍報を巻くと、劉邦は陳倉の辺りを指で叩いた。
「だったら次は、もっと出せばいい。三万でも五万でも」
「やらない」
「韓信」
「探るために二万出したんだ。無理だと分かったあとで五万を入れるなら、最初から探らせる必要がない」
「扶蘇を討ちたいんだよ、俺は」
それまで軽かった劉邦の声が低くなった。
「樊噲を死なせたのは、あいつの軍だ」
韓信は巻いた竹簡を置いた。
「分かってる」
「俺は忘れてないぞ」
「私が忘れると思うか」
「だったら」
「あの時、樊噲が残らなければ私は死んでた」
劉邦が何か言いかけたが、韓信は地図へ目を戻した。
「敵は項羽だろう」
卓を叩いていた指が止まった。
「扶蘇も敵だ」
「そうだな」
「じゃあ」
「先に扶蘇と関中で削り合うのか? その間、項羽は待ってくれるのか」
劉邦は口を尖らせたまま、何も返さなかった。
蕭何が帳簿を閉じる。
「夏侯嬰殿も灌嬰殿も、大きな損害を出さず戻れました。それで十分ではありませんか」
「二人とも、もう少し押せたって言ってない?」
「夏侯嬰殿は『あの城に付き合ってたら日が暮れる』と書いております」
「……あの人らしいな」
劉邦の口元が少し緩んだ。
韓信は陳倉の軍報を脇へ寄せた。
「予定どおり戻す。夏侯嬰は巴蜀の輸送へ、灌嬰は兵を休ませる」
「長江の方か」
「ああ」
劉邦はまだ陳倉を見ていた。
「……扶蘇のことは忘れないぞ」
「好きにしろ」
「お前もだろ」
「忘れてないって言っただろ」
韓信の返事が少し強くなったので、劉邦はそれ以上は言わなかった。
◆
巴蜀から長江へ出る準備は、匈奴が動く前から始まっていた。
盧綰の兵は屯田を続け、蕭何は各地から上がってくる穀物の数字を集めている。巴蜀東端の魚復にも人夫が入り始めており、船を集め、兵糧を置くための倉を少しずつ作っていた。
「魚復はどうなってる?」
韓信が聞くと、蕭何は脇に積んであった竹簡から一本を抜いた。
「倉が二つ。小さいですが使えます。船の方は、修理待ちが随分ありますね」
「道は?」
「遅れています」
「どのくらい」
「夏侯嬰殿が途中で一万を連れて陳倉へ行きましたから、その分だけ」
韓信の目が少し横へ逃げた。
劉邦が見逃さない。
「それ、お前のせいじゃないか」
「必要だった」
「じゃあ胸張れよ」
「うるさい」
蕭何は二人を放って話を続けた。
「夏侯嬰殿には休ませたあと、元の仕事へ戻っていただきます。屯田兵は今のまま。魚復へ回す兵糧を増やすのは、収穫を見てからでよろしいですね?」
「ああ。畑を痩せさせてまで急ぐ必要はない」
「灌嬰殿は?」
「当分休ませる。東へ出る段になれば使う」
劉邦は長江を指で辿り、地図の東側へ手を伸ばした。
「この道なら、項羽の方へ出られるんだよな」
「そのために作ってる」
「じゃあ先にそっちだな」
言いながら、もう片方の手で陳倉の辺りを一度だけ叩く。
「先に、だけど」
韓信は聞こえなかったことにした。
◆
夏侯嬰が漢中へ戻ったのは、その翌々日だった。
兵を宿舎へ入れ、荷を下ろし始めたところで、蕭何から魚復方面の竹簡が届いた。夏侯嬰は鎧の紐を解きながら片手で受け取り、その場で読み始める。
「……あらまあ」
近くにいた兵が嫌そうにこちらを見た。
「何かございましたか」
「道、止まってるじゃないの。雨が降るたび車がはまって、船材も途中で置きっぱなし。せっかく前に言っといたのにねえ」
「将軍が陳倉へ行かれておりましたので……」
「分かってるよ。あたしが行ったんだから」
夏侯嬰は竹簡を裏まで確かめ、兵の胸へ押しつけた。
「まあいいや。三日は休もう」
「三日ですか」
「嫌なら二日にする?」
「三日でお願いします」
「じゃあ嬉しそうな顔しな」
兵の表情が少しだけ明るくなった。
「四日目の朝に出るよ。荷車は全部見といてね。車輪だけじゃ駄目だよ、軸も。馬もちゃんと休ませときな」
「全部ですか?」
「長江まで行くんだよ。途中で『将軍、車が動きません』なんて言われても、あたしゃ背負ってやれないからね」
兵が慌てて頷く。
夏侯嬰は解きかけの鎧を抱え直し、宿舎へ向かいかけたところで振り返った。
「それと、ご飯は先に食べな。休みだからって酒だけ飲んで寝るんじゃないよ」
「将軍もです」
「あたしは分かってるよ」
「昨日も酒だけだったじゃないですか」
夏侯嬰は足を止めた。
「……誰から聞いたの」
兵は竹簡を抱えたまま逃げた。
「こら、待ちな。そういうことだけ足が速いんだから!」
宿舎の前で別の兵が笑っていたので、夏侯嬰はそちらにも「笑ってないで荷物片づけな」と声を飛ばした。




