第114話 二つの侵攻
匈奴が再び南へ動いたという報せが届いたのは、北辺の烽火を整え直してから、さほど日を置かない頃だった。
最初に火が上がったのは上郡北方で、その半日後には西寄りの烽火台からも煙が上がった。さらに騎馬の伝令が北地方面にも匈奴の小部隊が現れたと知らせてきて、前回とよく似た侵入が始まったことが分かった。
「来ましたね」
張良は報告を聞いても慌てず、地図の前に立ったままだった。
「数は?」
蒙恬が尋ねると、伝令は息を整えて答えた。
「まだ全容は分かりませぬ。北東より二万余、西にも数千。さらにその後ろに別軍がいる模様です」
俺は反射的に立ち上がりかけたが、張良がこちらを見たので、そのまま腰を戻した。
「まだです」
「分かってるよ」
前回なら、敵が現れたというだけで軍を動かしていただろう。今回はどこから入り、どこへ向かい、後続がどれほどいるのかを見るまでは動かず、烽火を単なる警報ではなく敵の流れを読むための目として使う。
◆
匈奴の先鋒は、すぐには深く入ってこなかった。
騎兵はまず北辺の集落や牧地を探ったものの、人も家畜もすでに退避しており、倉にも持ち去れるほどの穀物は残されていなかった。いくつかの部隊は守備の厚い場所を避けて進路を変え、より奥に獲物がないか探り始める。
その動きは烽火と騎馬伝令によって次々に伝わり、やがて一つの流れとなって地図の上へ現れた。
「こちらへ寄っています」
張良が示したのは、前の軍議であえて守りを薄く見せると決めた経路だった。
楊端和は敵の進路と周囲の地形を見比べ、しばらく考えてから口を開いた。
「このままなら水場へ向かうでしょう。ただし、向こうにもこの辺りを知っている者がいます」
「羌瘣か」
「はい。あの女も元は秦の将です。北辺の道や水場については、匈奴の将より詳しいところもあるでしょう」
張良はそれを聞いても策を変えなかった。
「知っているなら、なおさら使う道も絞られます。こちらは敵の判断まで決める必要はありません。進む方向が見えた時に動けばよいのです」
◆
同じ頃、匈奴軍の中でも、関中側の様子がおかしいことに気づいた者がいた。
冒頓である。
前回と同じように部隊を複数へ分け、広い範囲へ騎兵を散らしたものの、今回は関中軍が簡単には追ってこない。集落もあらかじめ空にされており、匈奴の小部隊を見つけるたびに軍を差し向けていた以前とは、明らかに対応が違っていた。
「妙だな」
馬上で冒頓が呟くと、隣にいた羌瘣が振り向いた。
「何がだ?」
「前は我々が動けば、向こうも動いた。今回は追ってこぬうえに、民まで先に逃がしている」
「なら、奥に入ればいい」
羌瘣は南東へ続く道を見た。
「この先なら知っている。秦にいた頃、何度も通った。少し南へ行けば水場があり、その先には牧地もある。大軍が隠れるには向かん場所だ」
冒頓はすぐには頷かなかった。
「以前と今では違う」
「道も地形も変わらん。私が先に見る。危なければ戻ればいい」
羌瘣には、自分の記憶を疑う理由がなかった。草原での戦い方を身につけた今でも、目の前にあるのはかつて秦将として歩いた土地であり、知らぬ敵地ではない。
その土地勘が、今回は逆に判断を押した。
「三万もいる。少し探っただけで戻る必要もあるまい」
羌瘣は三万近い騎兵を率い、そのまま南へ進んでいった。
冒頓は止めなかったが、遠ざかる隊列を見送りながら、違和感を捨てることもできなかった。
◆
一方、漢中では韓信も動いていた。
匈奴が再び北から扶蘇へ圧力をかけることを見越し、韓信は以前から二万をすぐ動かせる位置へ寄せていた。そのため北方侵入の報せが届くと、大軍を整えるための日数をかけることなく、二つの軍を関中へ向けることができた。
夏侯嬰に一万、灌嬰に一万。
「前回と同じなら、関中王は北へ主力を送るでしょう」
蕭何が地図を見ながら言うと、韓信は頷いた。
「だから南西を試す。陳倉が薄ければ夏侯嬰を入れ、別の桟道が空けば灌嬰を通す。どちらも駄目なら、深追いはさせない」
「攻め取ることより、守りがどれほど残っているかを見るわけですね」
「ああ。二万を潰してまで入りたいわけじゃない」
冒頓が漢のために戦っているわけではないことなど、韓信も承知している。ただ利害が一致している間だけ北から圧力をかけてもらい、その隙に関中の弱い場所を突けばよい。
「抜けるなら抜けろ。無理なら戻れ。ただし、誰が守っていたかは必ず見てこい」
◆
夏侯嬰が一万を率いて陳倉へ迫った時、城壁の上に黥布の姿はなかった。
「やはり北へ回したか」
そう判断した夏侯嬰だったが、城門は固く閉ざされ、守備兵にも浮き足立った様子はない。城壁の上に立っていたのは、見覚えのない女だった。
「名を聞こう!」
呼びかけると、女は城壁の縁まで進んだ。
「関中王配下、欒布」
「黥布はどうした!」
「知らぬ」
もちろん欒布は知っているが、敵へ教える理由はない。
夏侯嬰は守備の厚さを確かめるため、小規模な攻撃を繰り返した。盾を進め、弓兵に援護させ、ときにはわざと兵を退かせて追撃を誘ったものの、欒布は城門を開かず、攻城部隊が射程へ入った時だけ弩と矢を集中させる。
半日ほど探ったところで、夏侯嬰は攻撃を止めた。
「黥布より面倒かもしれんな」
黥布なら挑発すれば出てくる可能性があるが、この女にはその気配すらない。一万で短期間に抜ける城ではないと判断し、夏侯嬰は無駄に兵を失う前に軍を退いた。
◆
別の桟道へ入った灌嬰も、似た壁にぶつかった。
狭い道の要所には柵が設けられ、石と木材が積まれている。関中王の旗の脇には酈商の名を記した将旗が立ち、守備兵は敵を倒すためではなく、少しでも長く道を塞ぐための配置を取っていた。
灌嬰は軽装の騎兵を斥候として先へ回し、別の抜け道も探らせたが、酈商は追撃に兵を割かなかった。こちらが下がれば持ち場へ戻り、別の道へ寄れば、その先の要所だけを塞ぎ直す。
正面から戦えば勝てる可能性はあるものの、一つの柵を破り、一つの部隊を退かせるたびに時間を失えば、その間に北へ出た関中軍が戻ってくる。しかも、その先に同じような守りがいくつ残っているかも分からない。
「ここで一万を減らす戦じゃないな」
灌嬰は二日ほど周辺を探った後、それ以上の前進を諦めて軍を退いた。
◆
その頃、羌瘣の三万は水場へ近づいていた。
地形は記憶と大きく違っていない。左右に丘陵が迫り、正面へ進めば水場へ出る。その先には、かつて秦軍が兵を休ませたこともある牧地が広がっている。
「やはり変わっていない」
そう判断した羌瘣は速度を落とさず、先鋒をそのまま進ませた。
異変が起きたのは、先頭の騎兵が水場へ出た直後だった。
丘陵の向こうから角笛が鳴り、正面に蒙恬の軍が姿を現した。歩兵が道を塞ぐように陣を広げ、その後ろには弩兵が並んでいる。
「蒙恬だと?」
羌瘣が馬を止めた時には、別の方向から王賁の軍も現れ、さらに西からは大きな鬨の声が近づいてきた。
「いたぞォ! 今度は逃がすなよ!」
黥布だった。
羌瘣の顔から余裕が消えた。
「黥布まで北へ?」
陳倉を守っているはずの男が、なぜここにいるのか。その疑問に答える暇もなく、前方では蒙恬が陣を固め、側面には王賁、西からは黥布が迫ってくる。
ただし、北へ戻る方向だけは開いていた。
「……そういうことか」
羌瘣は一目で意図を察した。
全滅させるつもりはない。ここで打撃を与え、そのまま北へ押し返すつもりだ。
「全軍、反転! 北へ抜ける!」
判断は早かったが、三万近い騎兵が狭まった地形で一斉に向きを変えるには時間がかかった。その間に正面から弩の斉射が降り、側面では王賁が隊列の薄いところへ兵を入れ、黥布がまとまった騎兵へ力任せに食い込んでくる。
羌瘣も馬を走らせ、崩れかける部隊をまとめながら退路へ兵を流した。
「止まるな! 北へ抜けろ! 固まりすぎるな、だが散るな!」
匈奴へ来てから身につけた騎兵戦の経験がなければ、そのまま全軍が崩れていただろう。羌瘣は自ら後方へ回って追撃を抑え、ようやく主力を北へ向けた。
そこへ側面から矢が飛んできた。
蒙凛の騎兵だった。
退く方向が北へ絞られたことで、蒙凛は敵の後ろを追い続ける必要がない。先に退路の側面へ回り、通過する騎兵へ馬上から矢を浴びせている。
「またあの娘か!」
羌瘣は飛んできた一本を剣で弾き、そのまま馬を走らせた。
ここで立ち止まれば後ろから王賁と黥布に追いつかれる。矢を受けながらでも北へ抜けるしかなく、羌瘣は隊列をまとめながら戦場を離脱した。
◆
羌瘣が冒頓のもとへ戻った時、連れ帰れた兵は一万五千ほどにまで減っていた。
三万近くで入った軍の、およそ半分である。討たれた者だけではなく、負傷して馬から落ちた者、混乱の中で捕らえられた者、馬を失って取り残された者も多かった。
冒頓は戻ってきた隊列を、馬上から黙って見ていた。
「すまない」
羌瘣が口を開いた。
「私が道を知っていると思った。昔と変わっていなかったから、そのまま先へ出た」
「地形は変わっていなかったのだろう」
「ああ」
「変わったのは敵だ」
羌瘣は何も答えなかった。
冒頓は南へ視線を向けたまま、しばらく考えていた。
「誰かいるな」
「扶蘇ではないのか?」
「それだけではない」
冒頓は短く答え、再び敗残の騎兵を見た。
三万が一万五千。
その数字を確かめるように眺めた後、冒頓は低く呟いた。
「……使えぬ女だ」
羌瘣の表情が固まったが、冒頓はそれ以上何も言わず、馬首を北へ向けた。
◆
数日後、夏侯嬰と灌嬰からの報告が韓信のもとへ届いた。
陳倉には黥布がいない。それでも欒布が城を守り、別の桟道では酈商が灌嬰を止めていた。
さらに北からは、匈奴の一軍が大きな損害を受けたという報せも入ってくる。
韓信はしばらく二つの報告を並べていたが、やがて地図へ視線を落とした。
「黥布を外しても、陳倉が崩れない。その黥布は北で匈奴を叩いている」
蕭何が表情を引き締めた。
「人の使い方を変えた者がいるのですね」
「たぶんな」
韓信は指先で関中を軽く叩いた。
「軍師を得たかもしれない」
◆
北方からの報告が揃うと、冒頓の本隊はそれ以上南へ入らず、匈奴軍は北へ退き始めた。こちらにも追撃できる兵は十分残っていたが、張良は迷わず止めた。
「追わなくていいんだな」
「はい。ここから先は、匈奴の戦になります」
俺は遠ざかっていく騎兵を見送った。
前回は姿すら見せない冒頓に走らされたが、今回は一軍を叩き、そこで止まることができた。南では欒布と酈商が持ち場を守り、北では主力を消耗させずに戦いを終えた。
張良はすでに北を見ていなかった。
その視線は、南へ向いていた。




