第113話 匈奴を待つ
張良が軍師として最初に手をつけたのは、匈奴でも劉邦でもなかった。
人だった。
咸陽へ戻って数日後、張良は関中軍に属する将校たちの名簿を取り寄せ、朝から晩まで軍歴を読み込んでいた。誰がどの戦に参加し、どれほどの武功を立てたかだけではなく、敗れた時に何人を連れ帰ったか、補給を任された際に損耗を抑えられたか、命じられた持ち場を勝手に離れなかったかまで、一人ずつ確かめている。
「そこまで見るのか?」
俺が尋ねても、張良は名簿から顔を上げなかった。
「むしろ、そこを見なければ意味がありません。関中王の軍には、敵を破る者ならすでに十分おります」
目の前に広げられた地図へ視線を落とす。北には蒙恬、王賁、楊端和がおり、蒙凛は騎射を率いることができる。公には死んだことになっているため表立って使えないが、王離もいるし、南西の陳倉には黥布が置かれていた。
確かに、戦場で敵を叩き潰す者ばかりなら揃っている。
「足りないのは、勝つ者ではありません。任せた場所を、任せたとおりに守る者です」
張良はそう言うと、名簿の中から二つの名前を選び出した。
◆
一人目は、欒布。
かつて彭越の軍に属し、その軍が崩れた後に残った兵の一部をまとめて関中軍へ加わった女だった。今は校尉として働いているが、大軍を率いた経験も、誰もが知るような華々しい勝利もない。
「この欒布という者は、なぜ校尉のままなのです?」
張良に問われ、俺は名簿を覗き込んだ。
「大きな武功がなかったから、かな。俺も名前までは覚えてなかった」
「三度敗れた戦がありますが、その三度とも、自分の部隊を崩さず退いております」
「三度負けてるんだろ?」
「そこだけを見るなら、そうです」
張良は淡々と答え、指先で軍歴の一か所を示した。主軍が崩れ、上官まで逃げた戦で、欒布は二千近い兵をまとめ、追撃を受けながらも潰走させずに撤退している。
勝った時には目立たなくても、負けた時に兵を残せる。そう言われると、確かに違って見えた。
呼び出された欒布は三十前後の落ち着いた女で、体格は特別大きくないものの、使い込まれた鎧を着けて立つ姿には妙な安定感があった。俺が陳倉を任せたいと告げると、さすがに目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
「私に、ですか?」
「ああ」
「ですが、陳倉には黥布将軍がおられます」
「その黥布を外す」
欒布は少しだけ考え、それから深く頭を下げた。
「命じられるのであれば、守ります」
敵を一兵も通さぬとも、自分の命に代えて守るとも言わない。その代わり、張良が城外の敵を追ってはならないと念を押すと、欒布は迷わず頷いた。
「陳倉を守ることが命であれば、敵を倒すことは二の次です。城を空けてまで功を取りに行くつもりはありません」
その答えを聞いた張良は、それ以上何も尋ねなかった。
◆
二人目は、酈商。
姉の酈食其はすでに俺のもとで外交や交渉に力を貸しているが、妹の酈商は姉とは違い、兵をまとめる方に才がある女だった。張良が姉妹でも随分違うものだと言うと、酈商は苦笑を浮かべた。
「姉上の真似をしろと言われても無理です。私は口で人を動かすより、兵を並べている方が性に合っております」
「それで結構です」
張良はそう答え、漢中と関中を結ぶ桟道を指した。
「あなたには南西の桟道と、その周辺の守備を任せます。漢軍の大部隊が動いた場合は、必ず咸陽まで知らせてください」
「攻め込まれた場合は、どういたしましょう」
「守ってください。ただし、勝とうとはしないことです」
酈商の眉がわずかに動いた。
「勝たなくてもよいのですか」
「あなたに韓信を破れとは申しません。知らせ、塞ぎ、時間を稼ぐ。北へ出た主力が戻るまで桟道を抜かせなければ、それで十分です」
酈商は地図を見ながらしばらく考えていたが、やがて静かに頷いた。
「承知しました」
欒布も酈商も、天下に名を轟かせるような将ではない。それでも、こういう者へ守りを任せられるようになれば、蒙恬や王賁ほどの将を、一つの城や一本の道へ縛りつける必要はなくなる。
張良が名簿を読み続けていた理由を、俺もようやく理解し始めていた。
◆
陳倉への交代命令を出すと、黥布本人が数日もしないうちに咸陽へ戻ってきた。
「やっと出してくれるのか!」
軍議の場へ入ってきた第一声がそれだったので、俺は思わず顔をしかめる。
「もう少し残念そうにしろよ。陳倉は重要な城なんだぞ」
「重要だから退屈なんだよ。城壁眺めて、漢軍が来ねえか待って、来なきゃそのまま一日終わりだ。俺に向いてねえだろ」
「自分で言うな」
横にいた王賁が鼻を鳴らした。
「誰が見ても向いてない」
「だろ?」
黥布が嬉しそうに笑うので、俺は返す言葉を失った。
張良はそんなやり取りには構わず、机の上へ地図を広げた。
「これで陳倉には欒布殿、桟道方面には酈商殿を置けます。既存の秦軍将校もその下へ配し、南西には敵を止めるための兵を残します」
「それで?」
蒙恬が尋ねると、張良の指は地図の上をゆっくり北へ移った。
「主力は北へ動かします」
王賁が眉を上げる。
「匈奴を追うのか?」
「いいえ」
答えは即座だった。
前回、俺たちは五万を動かして北へ出たが、冒頓本人を見ることすらできなかった。羌瘣の二万にこちらの目を向けさせられ、その間に別働隊が北地と上郡へ散り、集落と牧地を荒らして去っている。
「前は追うなと言ったよな。それなのに、今度は主力を北へ持っていくのか」
「はい。ただし、その前に何をもって勝ちとするのかを決めておきます。そこが曖昧なままでは、敵を何人討っても戦は終わりません」
張良は北辺へ指を置き、軍議に集まった者たちを見回した。
「この戦の勝ちは三つです。北辺の民と財を奪わせないこと、侵入した敵の一軍へ無視できぬ損害を与えること、そしてこちらの主力を失わないこと。この三つができれば十分です」
黥布が面白くなさそうに口を曲げた。
「冒頓は狙わねえのか?」
「討てる機会があれば討ちます。ただし、それを目標にはいたしません。単于一人を求めて草原へ深入りすれば、前回と同じようにこちらが走らされます」
「匈奴そのものを潰す気もない、と」
「ありません。関中へ来ても何も得られず、来れば兵と馬を失う。そう冒頓に理解させれば、この戦ではそれでよいのです」
俺は地図の北を見つめた。そこまでしても、また翌年に来る可能性はある。
「一度叩いただけで、来なくなると思うか?」
「そこまでは期待しておりません。ただ、同じやり方で利益を得られぬと分かれば、こちらが毎年同じだけの兵を北へ置く必要はなくなります」
そう言って、張良の指は北から南へ滑った。
その先には漢中と巴蜀があり、さらに東では項羽が斉の反乱に縛られている。劉邦が巴蜀で力を蓄えている今、匈奴が来るたびに主力を北へ送り続ければ、俺はいつまでも関中から動けない。
「つまり、この戦の目的は北で勝つことだけじゃないんだな」
「はい。北に縛られなくなることです」
張良の答えは短かったが、それで十分だった。
◆
目的が定まると、作戦の形も分かりやすくなった。
まず北地と上郡を中心に烽火と連絡網を再建し、匈奴の侵入を早く知る。周辺の民には戦わせず、家畜や穀物とともにあらかじめ決めた城邑や砦へ退避させ、匈奴が小部隊で入り込んでも持ち帰るものがない状態を作る。
「村を一つ一つ守る必要はありません。人と、持ち去られる物を守ればよいのです」
張良の説明を聞きながら、楊端和が地図へ目を落とした。
「略奪できなければ、小さな騎兵隊ほど奥へ入ってくるでしょう」
「それで構いません。ただし、すべての侵入路を同じように固めてしまえば、敵は別の場所を探します。ですから一か所だけ、敵から見て入りやすい経路を残します」
「餌を置くのですか?」
「いいえ。民も家畜も退かせます。残すのは獲物ではなく、道です」
守備の厚い場所と薄い場所を意図して作り、敵が好き勝手に侵入経路を選べないようにする。張良の考えを聞いた楊端和はしばらく黙って地形を確かめ、それから納得したように頷いた。
「奪えるものが減れば、敵は楽に入れる方へ寄るでしょう。冒頓本人が来るとは限りませんが、一軍を誘導することはできるかもしれません」
「そこで烽火を使います」
俺はそこで、前の案とは違うことに気づいた。
「最初から大軍をそこへ隠しておくわけじゃないのか?」
「十万近い軍を匈奴の斥候から隠すことなどできません。兵だけ隠しても、糧秣や馬、車列、宿営地、炊煙までは消せないでしょう」
張良は各地へ指を動かし、軍を分けて置く場所を示した。
「最初は本当に散っていてください。蒙恬殿は北東、王賁殿は関中内部、黥布殿は西寄りに置き、敵が入った後で烽火を受けて動きます」
蒙恬が地図を覗き込んだ。
「匈奴の侵入方向を確認してから、各軍を一点へ集めるのですね」
「はい。ただし、敵の後ろを追うのではありません。我々には城と街道がありますから、外から入ってくる匈奴より短い道を使える場所がある。烽火で敵の位置を知り、進路を読んで、その先へ先回りします」
前回はこちらが敵の動きを見てから追いかけたため、匈奴が進路を変えるたびに軍を動かされ続けた。今度は烽火で敵の侵入方向を掴み、関中側の道を利用して先に戦場へ入る。
「前回は、向こうに走らされた」
俺が言うと、張良は頷いた。
「今度は、敵より先に待ちます」
◆
どこで待つかについては、張良だけでは決めなかった。
匈奴との戦を実際に知る楊端和と地図を囲み、広すぎる平地を避けながら候補を絞っていく。最終的に選ばれたのは、周囲に丘陵があり、近くに水場のある一帯だった。
「ここなら騎兵がどの方向へでも一気に散ることはできません。長く走ってきた軍なら、水場も無視しにくいでしょう」
楊端和はそう評価したが、続けて一つ条件を付けた。
「ただし、包囲はしてはなりません」
「私もそのつもりです」
張良が答える。
「せっかく捕まえるのに、逃がすのか?」
俺が尋ねると、張良は北へ抜ける経路を示した。
「完全包囲を狙えば、こちらも兵を薄く広げる必要があります。それでは騎兵に隙間を突かれ、各個に崩されかねません」
王賁も地図を見ながら頷いた。
「一点に厚く集めて正面を叩き、北へ押し出す方がいい。逃げ道があるなら、崩れた奴らもそっちへ流れる」
「はい。今回の勝利条件に、敵の全滅は入っておりません」
北へ退く道だけを残し、そこへ向かう敵へ損害を重ねる。その役目を担うのが、蒙凛の騎兵だった。
「蒙凛、退く騎兵を追えるか?」
俺が尋ねると、蒙凛は少し考えてから答えた。
「どこまでも追い続けるのは無理です。ただ、敵が北へ退くと分かっているなら、その側面へ先に回り込んで射ることはできます」
「それで十分です」
張良が頷くと、黥布は腕を組んだまま豪快に笑った。
「要するに、俺たちは来た奴をぶっ叩く。崩れたら娘っ子の弓で削る。草原の奥までは追わねえ。そういうことだな?」
「大まかには、その理解で結構です」
「分かりやすいじゃねえか」
「あなたには、あまり細かく説明しない方がよさそうですね」
「お前、俺を馬鹿だと思ってねえか?」
王賁が横から口を挟んだ。
「思われるようなことを言うからだ」
「お前まで言うなよ」
軍議の場に小さな笑いが起きた。
◆
最終的に北へ動かせる主力を並べてみると、改めて顔ぶれの異様さに気づかされる。
蒙恬、王賁、黥布、楊端和、蒙凛。そして公には出せないものの、必要なら王離も戦場へ投入できる。
俺はこれまで、北が危なければ蒙恬、東が不穏なら王賁、陳倉が危なければ黥布という具合に、それぞれを別々の穴へ当てるように使ってきた。一人一人の強さは分かっていたつもりだが、一つの目的のためにこれだけの将を意図して噛み合わせようとしたことはない。
「こうして見ると、うちの将軍、かなり強くない?」
俺が思わず漏らすと、王賁が呆れたようにこちらを見た。
「今さら気づいたのか、扶蘇」
「いや、一人ずつなら分かってたんだけどさ」
「だから使い方が悪いと申し上げているのです」
張良が平然と言うので、俺は思わず顔を向けた。
「そこまで言う?」
「聞きたくないことも申し上げてよいと、関中王ご自身が許可されましたので」
確かに言った。軍師を置いた初日から少し後悔しそうではあるが、反論できる材料もなかった。
俺はもう一度地図へ目を戻した。
「最後に一つ聞く。これだけの戦力を集めて、本当に一軍を叩くだけでいいのか?」
「それでよいのです。奪わせず、一軍に痛手を与え、こちらは主力を保ったまま帰る。それができれば、次から北へ置く兵を減らせます」
「派手じゃないな」
俺がそう言うと、張良はわずかに笑った。
「勝った後に見るべき場所は、北ではありませんから」
そう言って、張良は北辺から指を離し、そのまま南へ滑らせた。
指先が止まったのは、劉邦が力を蓄えている巴蜀だった。そのさらに東では、項羽が斉の反乱に縛られている。
匈奴との戦は、草原で勝つためだけの戦ではない。ここで北辺の守り方そのものを変えられれば、関中の主力はようやく別の場所へ向けられる。
そのために、次は匈奴を追わない。
こちらが選んだ場所で、待つ。




