第112話 軍師を乞う
匈奴が去った後、北辺に残ったのは焼けた集落と空になった牧地だった。
城は落ちていない。軍も壊滅していない。それでも家畜と穀物を奪われ、五万もの兵を北へ動かしたこちらだけが大量の兵糧を費やし、冒頓にはまともな損害を与えることさえできなかった。
俺は咸陽へ戻ると、すぐに主だった者を集めた。
蒙恬、王賁、楊端和、蒙凛。公には死んだことになっている王離だけは表立った軍議に姿を見せられないため、奥の部屋に控えさせている。
そして南西の陳倉には、黥布がいる。
地図を見れば見るほど、妙な気分になった。
「……人はいるんだけどな」
思わず口から漏れた言葉に、王賁が眉を上げる。
「何が足りないんだ、扶蘇」
「将軍だよ」
「いるだろ」
「だから困ってる」
王賁は怪訝そうな顔をした。
俺は地図の北を指した。
「蒙恬には北辺を任せられる。匈奴の戦い方も、北方の地形も知ってる」
「はい。ただ、以前のような防衛線をすぐに再建するには時間が必要でございます」
蒙恬が答える。
「王賁には東を任せられる。趙方面へ何かあっても対応できる」
「まあな」
「楊端和は匈奴を知っているし、野戦もできる。蒙凛には騎兵がある。王離は表に出せないけど、戦場に出れば切り札になる」
そこまで並べてから、俺は南西へ指を移した。
「黥布なんて、攻めさせれば間違いなく強い。それなのに今は陳倉で城守をさせてる」
王賁が腕を組んだ。
「向いてないな」
「本人もたぶんそう思ってる」
「たぶんどころか、毎日のように『いつまで城にいりゃいいんだ』って文句を送ってきてるぞ」
「やっぱり?」
「お前、読んでないのか」
「読んでるけど、最後までだいたい同じだから」
蒙凛が口元を押さえて笑い、楊端和も僅かに視線を落とした。
だが、笑って済む話ではなかった。
北には冒頓。
南西には劉邦と韓信。
東では項羽が反乱鎮圧に追われ、その向こうでは趙や斉の情勢が崩れ続けている。
どこか一つを見るだけなら、今いる将たちで十分だった。
問題は、それらを一つの戦として見る者がいないことだった。
「俺たちには、戦える人間は揃ってる」
俺は地図から目を離さなかった。
「でも、誰をどこへ置けば一年後に一番有利になるかを、俺と一緒に考える人間がいない」
部屋が静かになった。
蒙恬が先に意味を理解したようだった。
「軍師、でございますか」
「うん」
今までは、自分で何とかなると思っていた。
実際、何とかなってきた部分もある。
俺には、この時代について知っていることがある。誰が強くなるのか、どんな戦いが起こるのか、どの人物が何を成し遂げるのか。それを利用すれば、少なくとも何も知らない相手より一歩先へ行けると思っていた。
だが陳倉では、知識があっても韓信を完全には潰せなかった。
北ではもっと酷い。
冒頓の侵入を警戒していたのに、本人とは一度もまともにぶつかれず、好きなだけ荒らされて帰られた。
知っていることと、使えることは違う。
まして、この天下はもう俺が知っていた形から大きく外れている。
「候補はいるのか」
王賁が尋ねた。
「一人だけ」
俺は答えた。
そして口にする直前、自分でも少し笑いそうになった。
今まで何で思いつかなかったのだろう。
「張良」
王賁の顔から表情が消えた。
「……韓の?」
「そう」
「秦を憎んでた女だぞ」
「知ってる」
「始皇帝を殺そうとしたことまである」
「それも知ってる」
「それで、お前が軍師になってくれって頼むのか」
「だからこそ、俺が頼む」
王賁はしばらく俺を見ていた。
「扶蘇、お前は時々とんでもないことを思いつくな」
「褒めてる?」
「褒めてない」
即答された。
だが、俺はもう決めていた。
張良。
かつて劉邦の傍らにいた女であり、今は彼のもとを離れて韓へ戻っている。
もし、あの張良をこちらへ引き込めるなら。
軍師として、これ以上の相手はそういない。
◆
俺はその日のうちに書状を書いた。
美辞麗句を並べるつもりはなかった。
韓を捨てろとも、俺へ忠誠を誓えとも書かなかった。ただ、天下について助言を乞いたいこと、関中へ来てほしいこと、その身分は客卿でも構わないことを記した。
最後まで書いてから、少し考えて一文を加えた。
『秦を許せとは申しません』
これだけは必要だと思った。
張良にとって、俺がどんな国を作ろうとしているか以前に、俺は秦の公子であり、政の息子なのだ。
その過去を無視して「今は秦じゃないから仲良くしよう」では、あまりにも虫がよすぎる。
使者を韓へ送ってから十日ほど経った。
返事が届いた。
文は短かった。
『話だけは伺いましょう』
それだけだった。
王賁に見せると鼻で笑われた。
「ずいぶん歓迎されてるな」
「来てくれるだけでも十分だろ」
「刺されるなよ」
「そこまで?」
「お前の母親を殺そうとした女だぞ」
それを言われると否定できない。
ただ、書状だけで終わらず本人が会う意思を示した以上、こちらにも可能性はある。
俺は韓との境に近い城で、張良を迎えることにした。
◆
張良は、想像していたより静かな女だった。
華美な装いもせず、護衛も必要最低限しか連れていない。細身の身体に落ち着いた衣を纏い、部屋へ入ってきた時にも、目の前にいる俺へ過剰に頭を下げようとはしなかった。
「お久しぶりです、関中王」
「来てくれてありがとう、張良」
張良の視線が俺をまっすぐ捉える。
「秦の公子から招かれる日が来るとは思いませんでした」
「今は関中王だけどね」
「都合のよい話です」
いきなり来た。
護衛として同席している蒙恬が僅かに表情を変えたが、俺は手で制した。
「何が?」
「滅ぼした側は、国が滅びれば過去を置いていけます。しかし滅ぼされた側は、そう簡単にはいきません」
張良の声は穏やかだった。
それがかえって重い。
「韓を滅ぼしたのは秦です。私の故国を奪ったのも秦。あなたが秦ではなく関中を治める王になったからといって、私にとって過去まで消えるわけではありません」
「分かってる」
「分かっている、と?」
「だから、忘れてくれとは書かなかった」
張良の目が僅かに細くなった。
「俺は母上がしたことを全部正しかったとは思ってない。秦が六国を滅ぼしたことを今さら無かったことにもできない。でも、それを理由にお前の力を借りないのも違うと思ってる」
「随分と勝手ですね」
「うん。勝手だと思う」
否定しなかったことで、張良の方が一瞬黙った。
「それで、私に何を求めているのですか」
「軍師になってほしい」
回りくどく言わなかった。
「関中には将がいる。強い将も、経験のある将も揃ってる。でも、全体を見て策を立てる人間がいない。俺だけじゃ足りない」
「関中王ご自身が足りないと?」
「足りない」
張良が少し意外そうな顔をした。
「陳倉では勝った。でも韓信の軍をほとんど逃がした。北じゃ五万を動かしたのに、冒頓に好きなだけ荒らされて帰られた。目の前の戦に勝つだけじゃ足りないって、やっと分かった」
張良は返事をせず、机上の地図へ視線を移した。
しばらく眺めてから、問いかけてくる。
「では、一つ伺います」
「何?」
「今、関中王にとって最大の敵は誰ですか」
すぐに劉邦と答えかけた。
だが、止まった。
南西には劉邦がいる。
その背後には韓信と蕭何がいる。
北には冒頓。
東には項羽。
ただし項羽とは今のところ敵ではなく、むしろ俺を気に入っている。
さらに東では反乱が続いている。
「……分からない」
正直に答えた。
張良は、そこで初めて僅かに笑った。
「それなら、まだ私を招いた意味はあります」
「どういう意味?」
「自分ですでに答えを決めている王には、軍師など必要ありません。賛成してくれる者を置けばよいだけですから」
なるほど。
確かにそうかもしれない。
「じゃあ、来てくれる?」
「まだです」
甘くなかった。
張良は席へ座ると、今度はこちらを値踏みするように見た。
「条件があります」
「聞くよ」
「私は韓の臣です。それを捨てるつもりはありません」
「構わない」
「関中王の臣下として仕えるつもりもありません。当面は客卿という形であれば、お力を貸しましょう」
「それでいい」
「まだあります」
「まだあるの?」
「嫌なら帰ります」
「聞きます」
張良の口元がほんの少し緩んだ。
「私が韓に不利益と判断した策には従いません。また、あなたが聞きたくない話であっても、必要なら申し上げます。それを不敬として罰するのであれば、最初からお断りします」
「むしろ、それをしてほしい」
即答すると、張良がこちらを見た。
「俺の周りには強い人間が多い。でも俺が決めたこと自体を疑ってくれる人間は少ない。だから、お前にはそこをやってほしい」
「私に嫌われ役をしろと?」
「秦を嫌ってるなら、ちょうどいいだろ」
今度こそ張良が笑った。
ほんの僅かだったが、初めて見た笑顔だった。
「なるほど。確かに遠慮は要りませんね」
◆
関中へ戻ると、早速張良を軍議へ招いた。
王賁は最初から露骨に警戒している。
「本当に連れてきたのか、扶蘇」
「連れてきたって言い方やめてくれない?」
「自分で来ました」
張良が淡々と訂正する。
王賁はその顔を見た。
「秦は今でも嫌いか?」
「はい」
「即答か」
「嘘をつく必要がありますか?」
「ないな」
二人の間に妙な緊張が走った。
俺は嫌な予感がしたので、すぐ本題に入った。
「とりあえず現状を見てもらった。張良、何か思うところは?」
「あります」
張良は地図へ近づいた。
そして最初に指したのは北でも東でもなかった。
陳倉だった。
「まず、黥布殿をここから外します」
部屋が静かになった。
「いきなり?」
「はい」
張良は平然としている。
「陳倉はすでに要塞化されています。守備に必要なのは、命令を守って籠もれる将と、秦以来の防衛技術を知る者です。敵を正面から破ることに長けた黥布殿を城へ縛る必要はありません」
王賁が少しだけ面白そうな顔になった。
「それは私も思ってた」
「先に言ってよ」
「聞かれなかったからな」
ひどい。
張良はそのまま北へ指を移した。
「匈奴についても同じです。冒頓を追ってはいけません」
今度は蒙恬が反応した。
「では、略奪を許すのですか?」
「いいえ。追わなくても済むようにします」
張良は北辺の複数の地点を指した。
「烽火を再建し、城邑ごとに家畜や穀物を退避させる場所を決めます。騎兵の少数部隊を常置し、敵を倒すためではなく、その位置を伝えるために使う。匈奴が来た時に人も物も残さなければ、彼らが侵入する利益そのものを減らせます」
楊端和が静かに地図を見た。
「襲撃を防ぐのではなく、襲撃しても得るものをなくすのですね」
「はい。草原の騎兵と速度を競う必要はありません」
蒙恬も考え込んでいる。
前回の俺たちは、匈奴が入ってきたから五万を動かした。
そして冒頓の思うままに振り回された。
張良は、そもそもその戦い方に付き合うなと言っている。
「もう一つ」
張良が言った。
「北だけを見てはいけません」
指が地図を南へ滑る。
「次に匈奴が侵入した時、見るべきなのは冒頓だけではありません。その時に劉邦がどう動くかです」
俺は思わず顔を上げた。
「北へ兵を回せば南が薄くなる。南を守れば北が荒れる。その二つを別々の問題として考える限り、関中王は常に後手に回ります」
何でもないことのように言われた。
だが、胸の奥に引っかかった。
俺はずっと、北では匈奴をどう止めるか考え、南では劉邦をどう防ぐか考えていた。
張良は、最初からその二つを一つの盤面として見ている。
「……これが軍師か」
思わず漏らすと、張良が俺を見た。
「まだ何もしておりませんが」
「いや、もう十分分かった気がする」
王賁が呆れたように俺を見る。
「扶蘇、浮かれるな。役に立つかどうかはこれからだ」
「分かってる」
「本当に分かってる顔じゃないぞ」
そこへ奥から、表には出られない王離が顔だけを覗かせた。
「扶蘇様。その方はそんなにすごい方なのですか?」
「すごいよ」
「どうして分かるのです?」
「それは……」
答えに詰まった。
説明できない。
張良本人までこちらを見ている。
「何となく」
「何となくで軍師を決めたのですか?」
王離が呆れた。
違う。
違うんだけど言えない。
俺は咳払いして地図へ目を戻した。
強い将なら、すでにいる。
兵を率いて敵を破る者も、城を守る者も、騎兵を操る者も揃っている。
だが、今まで俺たちには盤面そのものを見る人間がいなかった。
その席に、ようやく一人が座った。
しかも、おそらくこの時代で最も恐ろしい一人が。




