↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

112/182

第111話 燃える斉、育つ巴蜀

 北辺が匈奴に荒らされている。


 その報告が漢中(かんちゅう)へ届いた時、劉邦(りゅうほう)は腹を抱えて笑った。机上の地図には、匈奴騎兵が荒らした北地(ほくち)や上郡(じょうぐん)方面の情報が次々と書き込まれており、扶蘇(ふそ)自身も五万を率いて北へ向かったという。


「はははっ! 効いてるじゃないか! 韓信(かんしん)、お前の言ったとおりだな。こっちが関中(かんちゅう)へ出られなくても、北から扶蘇(ふそ)を走り回らせりゃいい!」


 上機嫌な劉邦(りゅうほう)とは対照的に、韓信(かんしん)は笑わなかった。匈奴は漢の軍ではなく、こちらの指示に従って動く存在でもない以上、今は利害が一致しているだけだと考えるべきだった。


「匈奴は我々の兵ではありません。こちらの望みどおりに動くとは限りません」


「分かってるって。でも結果は同じだろ? 扶蘇(ふそ)は北へ兵を持っていかれた。俺たちにとってはありがたい話だ」


 そう言って杯を持ち上げた劉邦(りゅうほう)だったが、その手は途中で止まった。さっきまで浮かんでいた笑みも消え、視線は地図の陳倉(ちんそう)へ落ちる。


「……でも、あいつなんだよな。樊噲(はんかい)を死なせた奴だ」


 韓信(かんしん)は何も答えなかった。樊噲(はんかい)はあの戦で殿を務め、自分たちを逃がすために死んだのであり、直接その命を奪ったのが誰であろうと、劉邦(りゅうほう)にとっては扶蘇(ふそ)との戦いで失ったことに変わりはない。


「扶蘇(ふそ)が困ってるって聞けば、そりゃ嬉しいさ。でも笑ってると、あいつの顔が浮かぶんだよ」


 劉邦(りゅうほう)は杯を置き、それ以上は続けなかった。韓信(かんしん)も触れず、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。


◆


 その頃、巴蜀(はしょく)では別の戦いが始まっていた。敵は城でも軍でもなく、山と川と、まだ十分に耕されていない土地そのものだった。


 蕭何(しょうか)の提案によって、盧綰(ろわん)の率いる軍はそのまま屯田兵として使われることになった。兵をただ駐屯させて兵糧を消費させるのではなく、平時には自ら土地を耕し、必要になれば武器を取らせるのである。


「兵に畑を耕させるのか?」


 最初に聞いた劉邦(りゅうほう)は露骨に嫌そうな顔をしたが、蕭何(しょうか)は平然としていた。


「道路を作り、耕地を広げ、現地で食糧を得ます。毎年漢中(かんちゅう)から大量の兵糧を運ぶより、その方が長く持ちます」


「でも兵って戦うためにいるんじゃないのか?」


「食べなければ戦えません」


 横から韓信(かんしん)が口を挟むと、劉邦(りゅうほう)は肩を落とした。


「お前、本当にそういうところ容赦ないよな」


「兵糧に情けはありませんので」


 結局、盧綰(ろわん)の軍は各地へ分かれ、道を整えながら荒れた土地を耕し、現地の民とともに水を引いていった。すぐに豊かになるわけではないが、最初の耕地が形になれば翌年には兵へ食わせる穀物の一部を自前で賄えるようになり、漢中(かんちゅう)から運び込む物資も減らせる。


 夏侯嬰(かこうえい)は道と輸送を整え、盧綰(ろわん)は屯田兵をまとめ、その背後では蕭何(しょうか)が戸籍と倉を整えていく。戦場では目立たない仕事ばかりだったが、巴蜀(はしょく)には少しずつ漢の根が張り始めていた。


「本当に国を作るつもりなんだな」


 報告を聞いた劉邦(りゅうほう)が呟くと、蕭何(しょうか)は呆れたように彼を見た。


「今まで何をしていると思っていたのですか」


「いや、俺としてはもっとこう、城を取って、敵を倒して、それで天下に近づくもんだと思ってた」


「その兵へ食べさせるものを作るのも天下です」


 そう言われると、劉邦(りゅうほう)は頭を掻きながら「分かったよ」と答えるしかなかった。関中(かんちゅう)への道を塞がれているからこそ、漢は外へ急ぐのではなく、内側から力を蓄え始めていた。


◆


 一方、東では項羽(こうう)の天下が休む暇もなく揺れていた。斉、趙、魏、燕で相次いで反乱が起こり、一つを鎮めようとすれば別の土地で兵が集まり、軍を向ければ反乱軍はまともに戦わず退いていく。


 楚軍は強かった。それでも、広がった戦場のすべてに項羽(こうう)本人がいることはできない。


 そして斉では、龍且(りゅうしょ)が苦戦していた。相手は旧斉の田氏を支える田横(でんおう)であり、項羽(こうう)が作った新たな秩序を認めず、各地の兵を集めて抵抗を続けている。


 龍且(りゅうしょ)は正面からの決戦を望んだが、田横(でんおう)は応じなかった。楚軍が進めば退き、補給路が伸びれば後方を襲い、龍且(りゅうしょ)が引き返せば別の場所へ現れて食糧を集める。


 追っても捕まらず、放っておけば戻ってくる。


 やがて龍且(りゅうしょ)は補給の薄い地域へ誘い込まれ、兵を疲弊させたところを田横(でんおう)に叩かれた。楚軍は敗れ、その報せはほどなく彭城(ほうじょう)へ届いた。


◆


「龍且(りゅうしょ)が負けただと!」


 項羽(こうう)の拳が机へ落ちると、木が裂け、卓上の器が跳ねた。周囲にいた者たちは誰も口を開かず、その怒りが自分へ向かないことだけを願っているようだった。


「斉へ行く」


「ですが、彭城(ほうじょう)を空けることになります」


「だから何だ」


「他の諸侯も動いております」


「斉を先に潰す」


 それ以上、誰も止められなかった。


 項羽(こうう)が自ら斉へ入ると、それまで強気だった斉軍の動きは変わった。田横(でんおう)は正面から戦おうとせず、楚軍の主力が進めば下がり、項羽(こうう)が追えばさらに退いて補給線を伸ばさせる。


「また逃げるのか!」


 怒声が平野へ響いても、田横(でんおう)は姿を見せなかった。勝てない相手と戦う必要はなく、項羽(こうう)が斉にいる限り正面から当たれば潰されるのだから、逃げ続けて東へ縛りつければいい。


 だが、その戦い方は項羽(こうう)の怒りを募らせた。


 ようやく斉軍が立ち寄ったという都市へ到着した時には、田横(でんおう)の主力はすでに去っていた。現地の役人は震えながら、斉軍に命じられて城門を開き、食糧を渡しただけだと訴えた。


「拒めば殺されておりました。どうか、お慈悲を」


「なら、お前たちは奴らを助けた」


「お待ちください!」


 項羽(こうう)はその声を無視し、街へ目を向けた。城壁も家々も市場も倉も残っているのに、怒りをぶつけたい田横(でんおう)だけはいない。


「壊せ。全部だ」


 命令が下ると、城門だけでなく倉や市場、屋敷や民家まで次々と破壊され、火が放たれた。城壁の一部も崩され、井戸は埋められ、逃げ遅れた者も容赦されず、半日もするとそこにあった都市は都市としての姿を失った。


 瓦礫と煙だけが残った。


 それでも田横(でんおう)は戻ってこない。


 項羽(こうう)が次の城へ進めば、田横(でんおう)は別の土地へ移り、楚軍が離れれば再び斉の兵が動き出す。勝てるのに捕まらず、壊しても終わらない戦いに、項羽(こうう)は斉の各地を奔走し続けた。


◆


 久しぶりに彭城(ほうじょう)へ戻った時、項羽(こうう)は明らかに疲れていた。馬を降りる足取りこそ普段と変わらなかったものの、鎧を脱いで椅子へ腰を下ろすと、しばらく動こうとしなかった。


「酒を。それと、虞(ぐ)を呼べ」


 侍女はすぐに頭を下げ、ほどなくして虞(ぐ)が部屋へ入ってきた。かつて子嬰(しえい)と呼ばれた秦最後の王であり、今は項羽(こうう)から与えられた名を使って、その傍らにいる女だった。


 虞(ぐ)は椅子に座ったままの項羽(こうう)を見ると、すぐに様子がおかしいことへ気づいた。


「随分とお疲れですね」


「疲れてない」


「そうですか。疲れている方ほど、そう仰るものなのですね」


 項羽(こうう)は睨んだが、いつもの迫力が少し足りない。やがて「こっちへ来い」と言って虞(ぐ)の腰を掴み、自分の方へ引き寄せた。


「きゃっ。呼ばれてすぐ来ましたよ」


「遅い。もっと早く来い」


「無茶を仰いますね」


 虞(ぐ)は笑った。


 以前の自分なら、こんな返しはできなかった。項羽(こうう)を怒らせれば殺されるのではないか、役に立たなくなれば捨てられるのではないかと、その機嫌ばかり窺っていたからだ。


 今は違う。


 虞(ぐ)は項羽(こうう)の頬へ手を添え、そのまま髪を撫でた。


「田横(でんおう)を捕まえられなかったのですね」


「……何で分かる」


「捕まえていたら、もっと機嫌よく帰ってくるでしょう」


 項羽(こうう)は答えず、代わりに虞(ぐ)の肩へ額を預けた。いつもの彼女なら他人に見せない姿だった。


「逃げてばかりだ。私が行けば逃げるし、別の場所へ行けばまた出てくる。だったら全部潰せばいいと思ったのに、それでも終わらない」


「天下は広いですから」


「私より強い奴はいない」


「そうでしょうね。でも、強いだけでは捕まらない相手もいるのでしょう」


 周囲の者なら決して言わない言葉だったが、項羽(こうう)は怒らなかった。何も言わずに虞(ぐ)へ身体を預け、ただ髪を撫でられている。


 天下に恐れられる項羽(こうう)へ、こうして近づこうとする者はほとんどいない。戦場では人を一撃で薙ぎ払い、怒れば楚の将兵すら息を潜めるほどの女であり、あまりにも強く近寄りがたいからこそ、誰もその姿を一人の女として眺めようとはしなかった。


 けれど、鎧を脱がせて間近で見れば印象は違う。


 顔立ちは整っており、眉も鼻筋も美しく、戦場を駆け回っているとは思えないほど肌は滑らかだった。背は高く、肩から腰へ続く身体も無駄なく引き締まっているが、筋肉が異様に膨れ上がっているわけではなく、この身体のどこからあれほどの無双の力が湧き出してくるのか、虞(ぐ)には今でも不思議だった。


「何を見ている」


 項羽(こうう)が目を細める。


「綺麗だと思っていました」


「私が?」


「はい。皆が怖がって、ちゃんと見ようとしないだけでしょう」


 項羽(こうう)は鼻を鳴らし、「お前も最初は怖がっていただろう」と返した。


 虞(ぐ)は少し考えてから頷いた。


「今でも怖いですよ。でも、それだけではなくなりました」


 今の虞(ぐ)は知っている。項羽(こうう)が怒る時も、悔しがる時も、誰にも弱音を吐けず一人で抱え込む時も、勝ち続けなければならない孤独も。


 そして、どこへ触れれば強がれなくなるのかも知っていた。


「今日は何もしなくてよろしいですよ。私に任せてください」


 虞(ぐ)は項羽(こうう)の髪を解き、頬へ手を添えると、額から目元、頬へとゆっくり唇を移していった。最初は怪訝そうにしていた項羽(こうう)も、やがて身体の力を抜き、されるがままになる。


「……慣れてきたな」


「誰のおかげでしょう」


「私か」


「ほかに誰がいるのです」


 虞(ぐ)は笑い、そのまま首筋へ唇を寄せた。僅かに項羽(こうう)の肩が動いたのを見逃さず、さらにゆっくり触れていく。


「ここですね」


「何がだ」


「何でもありません」


「今、笑っただろう」


「気のせいです」


 身体を起こそうとした項羽(こうう)の肩へ、虞(ぐ)はそっと手を置いた。


「駄目です。今夜は私に任せてください」


「そんなことを決めた覚えはない」


「では、今決めてください」


 しばらく睨み合った後、項羽(こうう)は諦めたように寝台へ身体を預けた。


「……好きにしろ」


「はい」


 その返事には、虞(ぐ)自身にも分かるほど喜びが混じった。


 以前は求められれば従った。項羽(こうう)の機嫌を損ねず、生き延びるために喜ばせようとしていた。


 だが今夜は、自分からこの女を癒やしたかった。


 虞(ぐ)は指先で首筋を辿り、その後を追うように舌を這わせた。すぐに項羽(こうう)の息が僅かに変わり、低い声で名前を呼ばれる。


「……虞(ぐ)」


「何でしょう」


「分かってやっているだろう」


「何のことでしょうか」


「お前な」


 怒っているのではなく、困っている。


 それがおかしくて、虞(ぐ)は小さく笑った。


 どこなら平然としていられるのか、どこへ触れれば息が変わるのか、どうすればあれほど強い項羽(こうう)から力が抜けていくのか。今では虞(ぐ)だけが知っている。


「今夜くらい、覇王でなくてもよろしいでしょう」


 項羽(こうう)は答えなかったが、代わりに虞(ぐ)の背へ腕を回して静かに引き寄せた。その力は戦場で振るわれるものとは比べものにならないほど弱く、だからこそ虞(ぐ)には愛おしく感じられた。


 虞(ぐ)はその腕に身を預け、もう一度唇を重ねた。今度は長く、項羽(こうう)も拒まず、途中からは腰を抱いて自分から離さなくなる。


「今日は私がして差し上げます」


「何をだ」


「何も考えなくてよいように」


 虞(ぐ)が囁くと、項羽(こうう)はしばらく黙った後、静かに目を閉じた。


 それが答えだった。


 灯火が落とされた後も、二人はすぐには眠らなかった。虞(ぐ)は何度も頬へ触れ、髪を撫で、首筋へ唇を寄せ、そのたびに項羽(こうう)は少しずつ身体の力を抜いていく。


 誰もが恐れ、誰も近づこうとしない女だった。


 けれど、その強さの陰にある疲れも、弱さも、孤独も、今では虞(ぐ)だけが知っている。ならば自分が受け止めればいいと、虞(ぐ)は自然に思えるようになっていた。


「……虞(ぐ)」


「はい」


「離れるな」


「離れません」


 翌朝になれば、項羽(こうう)はまた戦場へ向かう。


 それを知っているからこそ、虞(ぐ)は眠りに落ちるまでその身体を抱いたまま、腕を解かなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。