第111話 燃える斉、育つ巴蜀
北辺が匈奴に荒らされている。
その報告が漢中へ届いた時、劉邦は腹を抱えて笑った。机上の地図には、匈奴騎兵が荒らした北地や上郡方面の情報が次々と書き込まれており、扶蘇自身も五万を率いて北へ向かったという。
「はははっ! 効いてるじゃないか! 韓信、お前の言ったとおりだな。こっちが関中へ出られなくても、北から扶蘇を走り回らせりゃいい!」
上機嫌な劉邦とは対照的に、韓信は笑わなかった。匈奴は漢の軍ではなく、こちらの指示に従って動く存在でもない以上、今は利害が一致しているだけだと考えるべきだった。
「匈奴は我々の兵ではありません。こちらの望みどおりに動くとは限りません」
「分かってるって。でも結果は同じだろ? 扶蘇は北へ兵を持っていかれた。俺たちにとってはありがたい話だ」
そう言って杯を持ち上げた劉邦だったが、その手は途中で止まった。さっきまで浮かんでいた笑みも消え、視線は地図の陳倉へ落ちる。
「……でも、あいつなんだよな。樊噲を死なせた奴だ」
韓信は何も答えなかった。樊噲はあの戦で殿を務め、自分たちを逃がすために死んだのであり、直接その命を奪ったのが誰であろうと、劉邦にとっては扶蘇との戦いで失ったことに変わりはない。
「扶蘇が困ってるって聞けば、そりゃ嬉しいさ。でも笑ってると、あいつの顔が浮かぶんだよ」
劉邦は杯を置き、それ以上は続けなかった。韓信も触れず、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。
◆
その頃、巴蜀では別の戦いが始まっていた。敵は城でも軍でもなく、山と川と、まだ十分に耕されていない土地そのものだった。
蕭何の提案によって、盧綰の率いる軍はそのまま屯田兵として使われることになった。兵をただ駐屯させて兵糧を消費させるのではなく、平時には自ら土地を耕し、必要になれば武器を取らせるのである。
「兵に畑を耕させるのか?」
最初に聞いた劉邦は露骨に嫌そうな顔をしたが、蕭何は平然としていた。
「道路を作り、耕地を広げ、現地で食糧を得ます。毎年漢中から大量の兵糧を運ぶより、その方が長く持ちます」
「でも兵って戦うためにいるんじゃないのか?」
「食べなければ戦えません」
横から韓信が口を挟むと、劉邦は肩を落とした。
「お前、本当にそういうところ容赦ないよな」
「兵糧に情けはありませんので」
結局、盧綰の軍は各地へ分かれ、道を整えながら荒れた土地を耕し、現地の民とともに水を引いていった。すぐに豊かになるわけではないが、最初の耕地が形になれば翌年には兵へ食わせる穀物の一部を自前で賄えるようになり、漢中から運び込む物資も減らせる。
夏侯嬰は道と輸送を整え、盧綰は屯田兵をまとめ、その背後では蕭何が戸籍と倉を整えていく。戦場では目立たない仕事ばかりだったが、巴蜀には少しずつ漢の根が張り始めていた。
「本当に国を作るつもりなんだな」
報告を聞いた劉邦が呟くと、蕭何は呆れたように彼を見た。
「今まで何をしていると思っていたのですか」
「いや、俺としてはもっとこう、城を取って、敵を倒して、それで天下に近づくもんだと思ってた」
「その兵へ食べさせるものを作るのも天下です」
そう言われると、劉邦は頭を掻きながら「分かったよ」と答えるしかなかった。関中への道を塞がれているからこそ、漢は外へ急ぐのではなく、内側から力を蓄え始めていた。
◆
一方、東では項羽の天下が休む暇もなく揺れていた。斉、趙、魏、燕で相次いで反乱が起こり、一つを鎮めようとすれば別の土地で兵が集まり、軍を向ければ反乱軍はまともに戦わず退いていく。
楚軍は強かった。それでも、広がった戦場のすべてに項羽本人がいることはできない。
そして斉では、龍且が苦戦していた。相手は旧斉の田氏を支える田横であり、項羽が作った新たな秩序を認めず、各地の兵を集めて抵抗を続けている。
龍且は正面からの決戦を望んだが、田横は応じなかった。楚軍が進めば退き、補給路が伸びれば後方を襲い、龍且が引き返せば別の場所へ現れて食糧を集める。
追っても捕まらず、放っておけば戻ってくる。
やがて龍且は補給の薄い地域へ誘い込まれ、兵を疲弊させたところを田横に叩かれた。楚軍は敗れ、その報せはほどなく彭城へ届いた。
◆
「龍且が負けただと!」
項羽の拳が机へ落ちると、木が裂け、卓上の器が跳ねた。周囲にいた者たちは誰も口を開かず、その怒りが自分へ向かないことだけを願っているようだった。
「斉へ行く」
「ですが、彭城を空けることになります」
「だから何だ」
「他の諸侯も動いております」
「斉を先に潰す」
それ以上、誰も止められなかった。
項羽が自ら斉へ入ると、それまで強気だった斉軍の動きは変わった。田横は正面から戦おうとせず、楚軍の主力が進めば下がり、項羽が追えばさらに退いて補給線を伸ばさせる。
「また逃げるのか!」
怒声が平野へ響いても、田横は姿を見せなかった。勝てない相手と戦う必要はなく、項羽が斉にいる限り正面から当たれば潰されるのだから、逃げ続けて東へ縛りつければいい。
だが、その戦い方は項羽の怒りを募らせた。
ようやく斉軍が立ち寄ったという都市へ到着した時には、田横の主力はすでに去っていた。現地の役人は震えながら、斉軍に命じられて城門を開き、食糧を渡しただけだと訴えた。
「拒めば殺されておりました。どうか、お慈悲を」
「なら、お前たちは奴らを助けた」
「お待ちください!」
項羽はその声を無視し、街へ目を向けた。城壁も家々も市場も倉も残っているのに、怒りをぶつけたい田横だけはいない。
「壊せ。全部だ」
命令が下ると、城門だけでなく倉や市場、屋敷や民家まで次々と破壊され、火が放たれた。城壁の一部も崩され、井戸は埋められ、逃げ遅れた者も容赦されず、半日もするとそこにあった都市は都市としての姿を失った。
瓦礫と煙だけが残った。
それでも田横は戻ってこない。
項羽が次の城へ進めば、田横は別の土地へ移り、楚軍が離れれば再び斉の兵が動き出す。勝てるのに捕まらず、壊しても終わらない戦いに、項羽は斉の各地を奔走し続けた。
◆
久しぶりに彭城へ戻った時、項羽は明らかに疲れていた。馬を降りる足取りこそ普段と変わらなかったものの、鎧を脱いで椅子へ腰を下ろすと、しばらく動こうとしなかった。
「酒を。それと、虞を呼べ」
侍女はすぐに頭を下げ、ほどなくして虞が部屋へ入ってきた。かつて子嬰と呼ばれた秦最後の王であり、今は項羽から与えられた名を使って、その傍らにいる女だった。
虞は椅子に座ったままの項羽を見ると、すぐに様子がおかしいことへ気づいた。
「随分とお疲れですね」
「疲れてない」
「そうですか。疲れている方ほど、そう仰るものなのですね」
項羽は睨んだが、いつもの迫力が少し足りない。やがて「こっちへ来い」と言って虞の腰を掴み、自分の方へ引き寄せた。
「きゃっ。呼ばれてすぐ来ましたよ」
「遅い。もっと早く来い」
「無茶を仰いますね」
虞は笑った。
以前の自分なら、こんな返しはできなかった。項羽を怒らせれば殺されるのではないか、役に立たなくなれば捨てられるのではないかと、その機嫌ばかり窺っていたからだ。
今は違う。
虞は項羽の頬へ手を添え、そのまま髪を撫でた。
「田横を捕まえられなかったのですね」
「……何で分かる」
「捕まえていたら、もっと機嫌よく帰ってくるでしょう」
項羽は答えず、代わりに虞の肩へ額を預けた。いつもの彼女なら他人に見せない姿だった。
「逃げてばかりだ。私が行けば逃げるし、別の場所へ行けばまた出てくる。だったら全部潰せばいいと思ったのに、それでも終わらない」
「天下は広いですから」
「私より強い奴はいない」
「そうでしょうね。でも、強いだけでは捕まらない相手もいるのでしょう」
周囲の者なら決して言わない言葉だったが、項羽は怒らなかった。何も言わずに虞へ身体を預け、ただ髪を撫でられている。
天下に恐れられる項羽へ、こうして近づこうとする者はほとんどいない。戦場では人を一撃で薙ぎ払い、怒れば楚の将兵すら息を潜めるほどの女であり、あまりにも強く近寄りがたいからこそ、誰もその姿を一人の女として眺めようとはしなかった。
けれど、鎧を脱がせて間近で見れば印象は違う。
顔立ちは整っており、眉も鼻筋も美しく、戦場を駆け回っているとは思えないほど肌は滑らかだった。背は高く、肩から腰へ続く身体も無駄なく引き締まっているが、筋肉が異様に膨れ上がっているわけではなく、この身体のどこからあれほどの無双の力が湧き出してくるのか、虞には今でも不思議だった。
「何を見ている」
項羽が目を細める。
「綺麗だと思っていました」
「私が?」
「はい。皆が怖がって、ちゃんと見ようとしないだけでしょう」
項羽は鼻を鳴らし、「お前も最初は怖がっていただろう」と返した。
虞は少し考えてから頷いた。
「今でも怖いですよ。でも、それだけではなくなりました」
今の虞は知っている。項羽が怒る時も、悔しがる時も、誰にも弱音を吐けず一人で抱え込む時も、勝ち続けなければならない孤独も。
そして、どこへ触れれば強がれなくなるのかも知っていた。
「今日は何もしなくてよろしいですよ。私に任せてください」
虞は項羽の髪を解き、頬へ手を添えると、額から目元、頬へとゆっくり唇を移していった。最初は怪訝そうにしていた項羽も、やがて身体の力を抜き、されるがままになる。
「……慣れてきたな」
「誰のおかげでしょう」
「私か」
「ほかに誰がいるのです」
虞は笑い、そのまま首筋へ唇を寄せた。僅かに項羽の肩が動いたのを見逃さず、さらにゆっくり触れていく。
「ここですね」
「何がだ」
「何でもありません」
「今、笑っただろう」
「気のせいです」
身体を起こそうとした項羽の肩へ、虞はそっと手を置いた。
「駄目です。今夜は私に任せてください」
「そんなことを決めた覚えはない」
「では、今決めてください」
しばらく睨み合った後、項羽は諦めたように寝台へ身体を預けた。
「……好きにしろ」
「はい」
その返事には、虞自身にも分かるほど喜びが混じった。
以前は求められれば従った。項羽の機嫌を損ねず、生き延びるために喜ばせようとしていた。
だが今夜は、自分からこの女を癒やしたかった。
虞は指先で首筋を辿り、その後を追うように舌を這わせた。すぐに項羽の息が僅かに変わり、低い声で名前を呼ばれる。
「……虞」
「何でしょう」
「分かってやっているだろう」
「何のことでしょうか」
「お前な」
怒っているのではなく、困っている。
それがおかしくて、虞は小さく笑った。
どこなら平然としていられるのか、どこへ触れれば息が変わるのか、どうすればあれほど強い項羽から力が抜けていくのか。今では虞だけが知っている。
「今夜くらい、覇王でなくてもよろしいでしょう」
項羽は答えなかったが、代わりに虞の背へ腕を回して静かに引き寄せた。その力は戦場で振るわれるものとは比べものにならないほど弱く、だからこそ虞には愛おしく感じられた。
虞はその腕に身を預け、もう一度唇を重ねた。今度は長く、項羽も拒まず、途中からは腰を抱いて自分から離さなくなる。
「今日は私がして差し上げます」
「何をだ」
「何も考えなくてよいように」
虞が囁くと、項羽はしばらく黙った後、静かに目を閉じた。
それが答えだった。
灯火が落とされた後も、二人はすぐには眠らなかった。虞は何度も頬へ触れ、髪を撫で、首筋へ唇を寄せ、そのたびに項羽は少しずつ身体の力を抜いていく。
誰もが恐れ、誰も近づこうとしない女だった。
けれど、その強さの陰にある疲れも、弱さも、孤独も、今では虞だけが知っている。ならば自分が受け止めればいいと、虞は自然に思えるようになっていた。
「……虞」
「はい」
「離れるな」
「離れません」
翌朝になれば、項羽はまた戦場へ向かう。
それを知っているからこそ、虞は眠りに落ちるまでその身体を抱いたまま、腕を解かなかった。




