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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第5章 秦楚漢

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第110話 戦わぬ単于

 羌瘣(きょうかい)の二万が距離を取った後も、俺は追撃を命じなかった。


 あれだけこちらを挑発しながら、深入りする気配はない。楊端和(ようたんわ)との一騎打ちもそうだったが、羌瘣(きょうかい)は五万の軍を自分へ向けさせることに徹しているように見えた。


「今日はここで陣を固める。北だけじゃなく、東西にも斥候を出してくれ。敵を見つけても追わなくていい。兵数と向かった方角だけ確認して戻れ」


 蒙恬(もうてん)が頷き、伝令を各隊へ走らせる。


 日が沈む頃には、左翼を率いていた楊端和(ようたんわ)も本陣へ戻ってきた。鎧には羌瘣(きょうかい)の剣が掠めた跡が残っているものの、大きな怪我はない。


「扶蘇様。先ほどは申し訳ございませんでした」


「蒙凛(もうりん)から聞いた。追わずに戻れたなら、それでいいよ」


「いえ。私は明らかに冷静さを欠いておりました」


 楊端和(ようたんわ)は素直に認めた。


「羌瘣(きょうかい)は?」


「強くなっております。以前より馬上での戦いに慣れ、こちらの間合いへ付き合おうといたしません。それと……随分よく喋る女になっておりました」


「そこも気になったのか」


「かなり」


 妙に真顔だった。


「何を話した?」


「戦には関係ございません」


 返答だけがやけに早い。


 隣にいた蒙凛(もうりん)が楊端和(ようたんわ)を見ると、楊端和(ようたんわ)は静かに視線を逸らした。何を言われたのかは気になったが、今ここで聞き出す話でもないだろう。


 それより、まだ姿を見せていない男の方が問題だった。


 冒頓(ぼくとつ)。


 先鋒二万は目の前にいる。


 それなのに、新たな単于の所在だけが分からない。


◆


 答えの一端が見えたのは、その夜だった。


 東へ出していた斥候が本陣へ駆け戻ってきた。


「関中王! 北東方面で匈奴騎兵を確認いたしました。数千ずつに分かれ、南と東へ散っております!」


「羌瘣(きょうかい)の軍とは別か?」


「はい。距離が離れております」


 報告を聞いた蒙恬(もうてん)が地図へ近づいた。


「一軍ではないのですね」


「ああ。もっと広く動いてる」


 そこへ西からの伝令も入った。


「北地(ほくち)方面で牧地が襲撃されました。馬と家畜を奪われ、倉にも火を放たれております!」


 さらに深夜には、上郡(じょうぐん)方面からも急報が届いた。大きな城へ攻め寄せるのではなく、城邑の外にある集落や牧地を襲い、守兵が出てくる前に退いているという。


 地図の上へ印を置いていくと、匈奴の動きが一か所へ集中していないことがよく分かった。


「……羌瘣(きょうかい)は囮か」


 俺が口にすると、蒙恬(もうてん)も同じ結論に達していた。


「我々五万をこちらへ留め、その間に他の騎兵で北辺を荒らしているのでしょう」


「たぶん、それだけじゃない」


 俺はさらに南へ目を移した。


 今確認されているのは、北地(ほくち)や上郡(じょうぐん)の各所へ散った騎兵だ。その一部が南へ深く入り込めば、関中へ続く街道に達する。


 その先には咸陽(かんよう)がある。


◆


 翌朝になると、状況はさらに悪くなった。


 北地(ほくち)では複数の牧地が襲われ、上郡(じょうぐん)でも小さな砦や烽火台が放棄されている。守備兵が城へ籠もれば匈奴は攻めず、外にある家畜や食糧だけを奪って次の土地へ移っていた。


「南へ向かう騎兵も確認されました」


 報告を受け、蒙凛(もうりん)が地図を覗き込む。


「咸陽(かんよう)まで来るでしょうか?」


「城を落とすつもりはないと思う」


 俺は首を振った。


「騎兵で咸陽(かんよう)を攻めても割に合わない。奥まで入りすぎれば、帰る時にこっちから追われる」


「では、なぜ南へ?」


「来ると思わせるだけでいいんだ」


 俺がそう答えると、蒙恬(もうてん)が静かに息を吐いた。


「我々に関中を守らせるためですか」


「ああ。匈奴騎兵が咸陽(かんよう)へ続く道の近くまで来たってだけで、無視はできない」


 王都を実際に攻める必要はない。


 商人が道を使わなくなり、民が逃げ始め、こちらが守備兵を南へ戻せば、それだけで十分に効果がある。


 冒頓(ぼくとつ)はこちらの城を奪おうとしているのではない。


 守る場所を増やしていた。


「軍を分けるしかないな」


 俺が言うと、楊端和(ようたんわ)が地図を見た。


「細かく分けるのは危険です。匈奴は我々より速い。小さな軍に分かれれば、逆に囲まれます」


「俺もそう思う。二つまでにする」


 俺は関中へ続く道を指した。


「蒙恬(もうてん)に二万を預ける。南へ下がって、関中北部の街道を守ってくれ。敵を追う必要はない。咸陽(かんよう)へ抜けさせなければいい」


「承知いたしました」


「俺は残り三万でここに残る。羌瘣(きょうかい)を見ながら、周辺の城邑を守る」


 蒙凛(もうりん)と王離(おうり)は俺の側へ残し、楊端和(ようたんわ)にも三万の方へ入ってもらうことにした。


「楊端和(ようたんわ)には匈奴の動きを見てほしい」


「羌瘣(きょうかい)ではなく?」


「軍をだよ」


 俺が答えると、楊端和(ようたんわ)は少しだけ気まずそうな顔をした。


「……承知しました」


 五万は二つに分かれた。


 おそらく、それ自体が冒頓(ぼくとつ)の望んだ形だった。


 それでも、関中への道を空けたままにはできなかった。


◆


 ところが、こちらが軍を分けた翌日から、羌瘣(きょうかい)の動きが変わった。


「敵が下がっています!」


 斥候の報告を受け、俺は馬上で北を見た。


 遠くにいる二万の騎兵は、昨日までのようにこちらの周囲へ近づいてこない。いくつかの隊に分かれ、ゆっくりと北へ距離を取っている。


「追撃しますか?」


 蒙凛(もうりん)が尋ねた。


「しない」


 即答した。


 これまで散々、追わせるような動きを見せてきた相手だ。ここへ来て急に背を向けたからといって、そのまま追えるはずがない。


 楊端和(ようたんわ)も今回は異論を挟まなかった。


「私も追うべきではないと思います。あまりにも素直に下がっております」


 俺たちは陣を動かさず、斥候だけを前へ出した。


 翌日。


 羌瘣(きょうかい)軍は、さらに北へ離れた。


 その翌日には、姿そのものが見えなくなった。


「……本当に退いたのか?」


 俺は何度も斥候を出したが、羌瘣(きょうかい)の二万は戻ってこなかった。


 それどころか、北地(ほくち)や上郡(じょうぐん)を荒らしていた騎兵隊まで、次第に北へ姿を消し始めた。


 蒙恬(もうてん)からも連絡が届く。


 南へ下っていた匈奴騎兵は、関中へ深く入り込むことなく反転したという。


 咸陽(かんよう)を脅かすところまで進む気すらなかったらしい。


 数日後。


 北辺から、大きな匈奴軍の姿は消えていた。


◆


 俺たちは慎重に北へ進んだ。


 最初に見つけたのは、焼け落ちた集落だった。


 家々は黒く焦げ、倉は壊され、家畜を囲っていた柵だけが空になっている。井戸まで壊されているわけではなく、畑もすべて焼かれてはいなかった。匈奴は土地そのものを使えなくすることには興味がなく、持ち去れるものだけを奪っていた。


 さらに進めば、同じような光景が続いた。


 馬のいない牧地。


 空になった倉。


 放棄された烽火台。


 逃げていた民が戻り、焼け跡の前で呆然としている村もあった。


「敵影は?」


「ございません」


 斥候が答えた。


「さらに北へ進ませた者からも、大軍を確認したとの報告はありません」


 俺は馬上で黙った。


 五万を率いて北へ来た。


 羌瘣(きょうかい)とは戦った。


 だが、あれも小さな接触に過ぎない。


 肝心の冒頓(ぼくとつ)とは、一度も剣を交えていなかった。


 姿さえ見ていない。


「……最初から、戦うつもりなんかなかったのか」


 蒙恬(もうてん)は答えず、焼けた集落を見つめていた。


 羌瘣(きょうかい)の二万で俺たちを引きつけ、その間に騎兵を散らして北地(ほくち)や上郡(じょうぐん)を荒らす。南へも騎兵を向け、咸陽(かんよう)を脅かすと思わせてこちらの兵を分けさせたところで、必要な家畜や物資を奪って北へ帰る。


 城を一つも奪う必要がない。


 こちらの軍を破る必要もない。


 欲しいものを持って帰れば、それで十分だったのだ。


「扶蘇様」


 楊端和(ようたんわ)が静かに声をかけてきた。


「これが、草原の戦です」


 俺はその言葉に返事をしなかった。


 領土は失っていない。


 城も落ちていない。


 五万の軍も健在だ。


 それでも北辺には略奪の跡が残り、俺たちは大量の兵糧を使って軍を動かした。その間、冒頓(ぼくとつ)にはほとんど損害を与えられていない。


 勝ったとは、とても言えなかった。


 俺は北の地平を見た。


 そこにはもう、敵の影すら残っていなかった。

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