第110話 戦わぬ単于
羌瘣の二万が距離を取った後も、俺は追撃を命じなかった。
あれだけこちらを挑発しながら、深入りする気配はない。楊端和との一騎打ちもそうだったが、羌瘣は五万の軍を自分へ向けさせることに徹しているように見えた。
「今日はここで陣を固める。北だけじゃなく、東西にも斥候を出してくれ。敵を見つけても追わなくていい。兵数と向かった方角だけ確認して戻れ」
蒙恬が頷き、伝令を各隊へ走らせる。
日が沈む頃には、左翼を率いていた楊端和も本陣へ戻ってきた。鎧には羌瘣の剣が掠めた跡が残っているものの、大きな怪我はない。
「扶蘇様。先ほどは申し訳ございませんでした」
「蒙凛から聞いた。追わずに戻れたなら、それでいいよ」
「いえ。私は明らかに冷静さを欠いておりました」
楊端和は素直に認めた。
「羌瘣は?」
「強くなっております。以前より馬上での戦いに慣れ、こちらの間合いへ付き合おうといたしません。それと……随分よく喋る女になっておりました」
「そこも気になったのか」
「かなり」
妙に真顔だった。
「何を話した?」
「戦には関係ございません」
返答だけがやけに早い。
隣にいた蒙凛が楊端和を見ると、楊端和は静かに視線を逸らした。何を言われたのかは気になったが、今ここで聞き出す話でもないだろう。
それより、まだ姿を見せていない男の方が問題だった。
冒頓。
先鋒二万は目の前にいる。
それなのに、新たな単于の所在だけが分からない。
◆
答えの一端が見えたのは、その夜だった。
東へ出していた斥候が本陣へ駆け戻ってきた。
「関中王! 北東方面で匈奴騎兵を確認いたしました。数千ずつに分かれ、南と東へ散っております!」
「羌瘣の軍とは別か?」
「はい。距離が離れております」
報告を聞いた蒙恬が地図へ近づいた。
「一軍ではないのですね」
「ああ。もっと広く動いてる」
そこへ西からの伝令も入った。
「北地方面で牧地が襲撃されました。馬と家畜を奪われ、倉にも火を放たれております!」
さらに深夜には、上郡方面からも急報が届いた。大きな城へ攻め寄せるのではなく、城邑の外にある集落や牧地を襲い、守兵が出てくる前に退いているという。
地図の上へ印を置いていくと、匈奴の動きが一か所へ集中していないことがよく分かった。
「……羌瘣は囮か」
俺が口にすると、蒙恬も同じ結論に達していた。
「我々五万をこちらへ留め、その間に他の騎兵で北辺を荒らしているのでしょう」
「たぶん、それだけじゃない」
俺はさらに南へ目を移した。
今確認されているのは、北地や上郡の各所へ散った騎兵だ。その一部が南へ深く入り込めば、関中へ続く街道に達する。
その先には咸陽がある。
◆
翌朝になると、状況はさらに悪くなった。
北地では複数の牧地が襲われ、上郡でも小さな砦や烽火台が放棄されている。守備兵が城へ籠もれば匈奴は攻めず、外にある家畜や食糧だけを奪って次の土地へ移っていた。
「南へ向かう騎兵も確認されました」
報告を受け、蒙凛が地図を覗き込む。
「咸陽まで来るでしょうか?」
「城を落とすつもりはないと思う」
俺は首を振った。
「騎兵で咸陽を攻めても割に合わない。奥まで入りすぎれば、帰る時にこっちから追われる」
「では、なぜ南へ?」
「来ると思わせるだけでいいんだ」
俺がそう答えると、蒙恬が静かに息を吐いた。
「我々に関中を守らせるためですか」
「ああ。匈奴騎兵が咸陽へ続く道の近くまで来たってだけで、無視はできない」
王都を実際に攻める必要はない。
商人が道を使わなくなり、民が逃げ始め、こちらが守備兵を南へ戻せば、それだけで十分に効果がある。
冒頓はこちらの城を奪おうとしているのではない。
守る場所を増やしていた。
「軍を分けるしかないな」
俺が言うと、楊端和が地図を見た。
「細かく分けるのは危険です。匈奴は我々より速い。小さな軍に分かれれば、逆に囲まれます」
「俺もそう思う。二つまでにする」
俺は関中へ続く道を指した。
「蒙恬に二万を預ける。南へ下がって、関中北部の街道を守ってくれ。敵を追う必要はない。咸陽へ抜けさせなければいい」
「承知いたしました」
「俺は残り三万でここに残る。羌瘣を見ながら、周辺の城邑を守る」
蒙凛と王離は俺の側へ残し、楊端和にも三万の方へ入ってもらうことにした。
「楊端和には匈奴の動きを見てほしい」
「羌瘣ではなく?」
「軍をだよ」
俺が答えると、楊端和は少しだけ気まずそうな顔をした。
「……承知しました」
五万は二つに分かれた。
おそらく、それ自体が冒頓の望んだ形だった。
それでも、関中への道を空けたままにはできなかった。
◆
ところが、こちらが軍を分けた翌日から、羌瘣の動きが変わった。
「敵が下がっています!」
斥候の報告を受け、俺は馬上で北を見た。
遠くにいる二万の騎兵は、昨日までのようにこちらの周囲へ近づいてこない。いくつかの隊に分かれ、ゆっくりと北へ距離を取っている。
「追撃しますか?」
蒙凛が尋ねた。
「しない」
即答した。
これまで散々、追わせるような動きを見せてきた相手だ。ここへ来て急に背を向けたからといって、そのまま追えるはずがない。
楊端和も今回は異論を挟まなかった。
「私も追うべきではないと思います。あまりにも素直に下がっております」
俺たちは陣を動かさず、斥候だけを前へ出した。
翌日。
羌瘣軍は、さらに北へ離れた。
その翌日には、姿そのものが見えなくなった。
「……本当に退いたのか?」
俺は何度も斥候を出したが、羌瘣の二万は戻ってこなかった。
それどころか、北地や上郡を荒らしていた騎兵隊まで、次第に北へ姿を消し始めた。
蒙恬からも連絡が届く。
南へ下っていた匈奴騎兵は、関中へ深く入り込むことなく反転したという。
咸陽を脅かすところまで進む気すらなかったらしい。
数日後。
北辺から、大きな匈奴軍の姿は消えていた。
◆
俺たちは慎重に北へ進んだ。
最初に見つけたのは、焼け落ちた集落だった。
家々は黒く焦げ、倉は壊され、家畜を囲っていた柵だけが空になっている。井戸まで壊されているわけではなく、畑もすべて焼かれてはいなかった。匈奴は土地そのものを使えなくすることには興味がなく、持ち去れるものだけを奪っていた。
さらに進めば、同じような光景が続いた。
馬のいない牧地。
空になった倉。
放棄された烽火台。
逃げていた民が戻り、焼け跡の前で呆然としている村もあった。
「敵影は?」
「ございません」
斥候が答えた。
「さらに北へ進ませた者からも、大軍を確認したとの報告はありません」
俺は馬上で黙った。
五万を率いて北へ来た。
羌瘣とは戦った。
だが、あれも小さな接触に過ぎない。
肝心の冒頓とは、一度も剣を交えていなかった。
姿さえ見ていない。
「……最初から、戦うつもりなんかなかったのか」
蒙恬は答えず、焼けた集落を見つめていた。
羌瘣の二万で俺たちを引きつけ、その間に騎兵を散らして北地や上郡を荒らす。南へも騎兵を向け、咸陽を脅かすと思わせてこちらの兵を分けさせたところで、必要な家畜や物資を奪って北へ帰る。
城を一つも奪う必要がない。
こちらの軍を破る必要もない。
欲しいものを持って帰れば、それで十分だったのだ。
「扶蘇様」
楊端和が静かに声をかけてきた。
「これが、草原の戦です」
俺はその言葉に返事をしなかった。
領土は失っていない。
城も落ちていない。
五万の軍も健在だ。
それでも北辺には略奪の跡が残り、俺たちは大量の兵糧を使って軍を動かした。その間、冒頓にはほとんど損害を与えられていない。
勝ったとは、とても言えなかった。
俺は北の地平を見た。
そこにはもう、敵の影すら残っていなかった。




